五 善通寺を行く


 底本の書名  香川の文学散歩
    底本の著作名 「香川の文学散歩」編集委員会
    底本の発行者 香川県高等学校国語教育研究会
    底本の発行日 平成四年二月一日 
    入力者名   渡辺浩三
    校正者名   平松伝造
    入力に関する注記
       文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
       文字番号を付した。
              JISコード第1・第2水準にない旧字は新字におきかえて(#「□」は
              旧字)と表記した。
  登録日 2005年9月13日
      


  五 善通寺を行く(「五 善通寺を行く」は太字)

  1 空海の里(「1 空海の里」は太字)

  緑豊かな五岳の山々を背景に、ひときわそびえる五重塔に代表される善通寺市は空海
 (弘法大師)など高僧の

     (♯境内図が入る)真言宗総本山善通寺境内図

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 生誕地である。
  空海は七七四年(宝亀五年)、多度郡(善通寺市)の佐伯邸で生まれた。父の田公は
 多度郡司を勤めた。母は阿刀氏の出身で、母の弟の阿刀大足に空海は儒教を学んだ。さ
 らに山岳修行者として各地の山岳聖地を巡った。二四歳のとき『三教指帰』を書き著し
 た。三一歳の八〇四年(延暦二三年)八月、三八歳の最澄(伝教大師)と一緒に入唐し
 た。そして青竜寺東塔院の恵果よりインド伝来の密教の大法を直伝される。八〇六年(
  大同元年)帰国。八一六年(弘化七年)空海は紀州高野山を密教の修養道場として賜わ
  るよう朝廷に上表して勅許され、高野山の・中心を結界とし、堂塔伽藍(金剛峰寺)の
  建立に着手した。
  一方、空海は長安の青竜寺に模して、八〇七年(大同二年)から、自らの生誕地に善
 通寺の建立を始め、八一三年(弘化四年)七堂伽藍が完成したと寺伝に書かれている。
 また、空海が満濃池修築の別当になったのは八二一年(弘化一二年)、在唐時代に学ん
 だ築堤技術を生かして約三か月で完工したという。八二八年(天長五年)には誰でも入
 学できるわが国最初の庶民のための学校ともいえる綜芸種智院を開設。空海は三筆の一
 人に数えられるなど書道に熟達していたし、詩文や仏像仏画の制作にも非凡な才能を発
  揮した。
  八三五年(承和二年)多くの弟子たちが見守るなか、六二歳で入滅。
   空海の多数の著作の中でも『三教指帰』と『性霊集』は文学的作品の中でも双璧をな
  すものである。『三教指

     (♯写真が入る)空海立像(善通寺)

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 帰』は空海が出家を志した理由と、親族たちの反対などを序とし、三教(儒教、道教、
 仏教)を比較して仏教の優位を説いている。この著作が単なる宗教書でない特徴は思想
 的な対話劇、すなわち戯曲形式をとっていることである。登場人物にはモデルがあり、
 空海自身は仮名乞児に擬している。最後は「十韻の詩」で結ぶなど四六〔ベン〕麗体と
 ともに構成も、みごとであるというほかはない。
  晩年の『性霊集』は、空海の詩文を高弟の真済が編集したもので個人の文集としては
 日本で最も古い。空海は八二七年(天長四年)の『経国集』の撰者でもある。
  空海の甥にあたる智証大師円珍も、八五三年(仁寿三年)唐へ渡り、天台山国清寺で
 天台教の秘要を受け、帰朝して延暦寺の座主にも任じられた。生まれた館跡に堂塔を建
 立し、その後、金倉寺と改称した。
  道範阿闍梨は、その著『南海流浪記』によれば、一二四三年(仁治四年)九月一五日、
 空海を慕って善通寺を訪れている。そして善通寺境内の御影堂の近くに庵を作って住み、
 その二年後には、金堂の西、一三〇メートルの所に誕生院を建立し、空海の遺跡を顕彰
 している。
  一二七〇年(文永七年)那珂郡櫛梨荘に生まれた宥範僧正も善通寺を中興した名僧で
 ある。                              (松川 進)

   2 西行と善通寺(「2 西行と善通寺」は太字)

  西行が讃岐を訪れた目的の一つは、空海生誕の地、善通寺に詣でることであった。『
  山家集』には、かなり詳しい詞書の後「めぐり逢はんことの契りぞありがたき厳しき山
  の誓ひ見るにも」「筆の山にかき登りても見つるかな苔の下なる岩の気色を」等の歌が
  ある。我拝師山捨身ケ獄で大師を偲んで詠んだものと思われる。
  山腹に「水茎の岡」と称する所があり、西行庵「山里庵」が伝えられている。平成二
 年に西行八〇〇年忌を記念して再建された。作家中河与一の「西行がいほりせし跡希典
 がうえしホルトの繁り居り今」の歌碑も建てられた。西行がここでどのくらいの間過ご
 したか定かではないが、雪の連作七首はここでの作と見られる。
  善通寺の末寺玉泉院には大師ゆかりの玉の井という古井戸がある。ここでの作かどう
 か疑わしいが「岩に堰く閼伽井の水のわりなきに心すめとも宿る月かな」を伝える。『
  山家集』に「庵の前に松の立てりけるを見て、久に経てわが後の世をとへよ松跡したふ
  べき人もなき身ぞ」とあるのに事寄せて「久の松」が境内に近年まで伝えられていたが、
 松食い虫で枯れた。八〇〇年忌にちなんで

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 ここにも西行庵が建てられている。
  なお、曼陀羅寺には笠掛桜、昼寝石があり、同行西住との惜別歌「帰り行く人の心を
 思ふにもはなれがたきは都なりけり」を刻んでいる。
  西行伝説地点は香川県下だけでも十数ケ所ある。          (野口雅澄)

     (♯写真が入る)水茎の岡・西行庵(平成元年 再建)


  3 多い周安の校歌(「3 多い周安の校歌」は太字)

  善通寺市街の中心にありながら世の中の喧騒から遮断され、全く忘れ去られたかのよ
 うな静寂につつまれた乃木神社、訪れる人とていないと思われるうらぶれた境内の南隅
 に高さ三メートル余りの「明治節の歌」の歌碑がある。
  亜細亜の東 日出津る処 聖濃君の現礼満し転 布来雨地刀邪世る霧を・・・・・
  これは一九二八年(昭和三年)、明治天皇の偉業を賛美するために「明治節」が制定
 された時、明治節式歌に

     (♯写真が入る)堀澤周安

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 当選した堀澤周安の「明治節の歌」の歌詞の一節である。
  堀澤周安は一八六九年(明治二年)、愛知県犬山市で出生。一二歳のころから向学心
 旺盛で碩学の士について国語、漢文、歴史を学んだ。地元の尋常小学校で教鞭をとった
 後、上京して、さらに勉学し中学校、師範学校などの国語の教員免許(検定合格)取得、
 丸亀中学校(現丸亀高校)、香川県師範学校、愛媛県立大洲中学校、札幌中学校などを
 転任、香川県立三豊中学校、私立善通寺高等女学校、官立高松高等商業学校、私立尽誠
 中学校、私立善通寺高等女学校の教諭、校長などを歴任、善通寺高女(現善通寺第一高
 校)在職中の一九四一年(昭和一六年)永眠、盛大な学校葬が営まれた。
  堀澤周安は、勤務した各校の校歌の作詞はいうに及ばず全国的な規模で市町村歌や小
 学校などの校歌を数多く作詞された。そのうち現在も歌われている県下の高校の校歌は、
 志度商業高校、坂出商業高校、丸亀商業高校、高松第一高校などである。これらの歌詞
 の特色は、語彙の豊富さ、対句的表現の巧みさにみられる。
  なお、生前の一九三八年(昭和一三年)に森兵林館から上梓された歌集『旅硯』(A
 六判、一一二頁)が残っている。

  4 『異母兄弟』の背景(「4 『異母兄弟』の背景」は太字)

  鬼瓦こと、鬼頭範太郎は朝鮮(当時)龍山の聯隊の大尉であった。つた(「つた」に
 傍点)という先妻が病死した後には、一〇歳にも満たない一郎司、剛次郎という二人の
 遺児が残った。
  範太郎は雇い女の利江に身ごもらせ、良利が生まれると同時に、母親の利江と範太郎
 の籍に入った。しかし、さらに智秀が生まれても範太郎は無意味に利江やその子供たち
 を殴ったり、口汚く罵倒したりした。
  頑固で横暴な父親とその異母兄弟たちの生々しい確執が続いてゆくのだが、作者の田
 宮虎彦は、他の作品と同じように、なぜこれほどまでに残忍な父親を描き出さねばなら
 なかったのだろう。
  かつての第一一師団のあと、現在の自衛隊善通寺駐屯隊の東南にあたる丸山町一帯は、
 師団の官舎であったようだが、昨今は全くその面影をとどめてはいない。『異母兄弟」
 の父親範太郎は、山形の連隊から善通寺へ転任となり、丸山町のあたりに家族と住み、
 朝な夕な妻子をせっかんする。普通であれば逃げ出すのが当然だろうが、利江には逃げ
 て帰る身寄りさえなかった。
  マスという婆やの「あれは亡くなった前の奥様のお子

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  さんということじゃ」 間のびした善通寺なまりがふつふつと呟くようにきこえてく
  る。とか、範太郎は中佐になり三重の留守聯隊長になって行くと、スエは婆やのマス
  が年老いて暇をとる時、善通寺からかわりによびよせた女中であった。・・・・・作
 品中に「善通寺」は出てくるが、この作品が書かれた一九四九年(昭和二四年)以前に
 作者の田宮虎彦がこの地を訪れた形跡はない。また、マスの家へ寄寓した智秀は善通寺
 の中学校へ入学した。当時善通寺には私立尽誠中学校しかなかった。マスが死ぬひと月
 ほど前、何時ものような思い出話をしている時、
  「スエさんが帰って来てなあ、丸亀の本町の讃岐屋にいるそうなか―」
  と聞いて智秀は、こっそり丸亀へ行く。
  丸亀の駅をおりて、本町に行くと讃岐屋という小問物屋(#「問」は底本のママ)は
 すぐわかった。(以下略)これも、それまで丸亀を訪れたことのない作者のフィクショ
 ンだろうが、当地の高橋弦太郎氏に伺うと、明治から昭和の初期まで、本町に大きな小
 問物屋(#「問」は底本のママ)があり、屋号は「やまか」通称「かみや」と呼ばれて
 いたとか。この異常なまでの苛酷な父親との関係を描いた作者も一九八八年、この世を
 去った。

  5 湯浅克衛の心のふるさと(「5 湯浅克衛の心のふるさと」は太字)
  湯浅克衛の父は徳島県の出身で、兵士として善通寺の第一一師団へ入隊したので、一
 家は市内丸山町の官舎に住み、そこで克衛は出生したらしい。その後、朝鮮に転任した
 父親は、固城で守備隊に入っていたが、退役して薬種商に転向し、終戦まで水原に住ん
 でいた。小学校は朝鮮の、さらに京城中学校で学んだ克衛は第一早稲田高等学院へ進ん
 だが、中途退学した。
  湯浅克衛は一九三五年(昭和一〇年)の四月に「文学評論」に発表した『カンナニ』
 で好評を得た。後年『対馬』という随想集の中で次のように述べている。
  私は瞼をとじる。私の処女作『カンナニ』の舞台が、様々な色彩で私に迫る。一五歳
  の少女カンナニは、大正八年三・一暴動の炎の中を朝鮮独立万歳を叫んで、日本軍に
  殺されるのだが、今、カンナニがそのままで現われたとしたら、あの野山を何と叫ん
  で、走り回っているだろう。ウイルソン(米大統領)が飛行機に乗って助けに来ると
  信じて彼女は死んだのだけれど。
 続いて同年同月の「改造」に改造懸賞創作「焔の記録」が発表されて作家活動に入った。
 一九三六年(昭和一一

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 年)、本庄陸男、伊藤整らとと第二次「現実」を発足させ、同年三月、高見順らの「人
 民文庫」が創刊されると「現実」同人の旧プロレタリア作家、本庄陸男らと参加し『莨』
 、『城門の街』を発表。さらに『移民』『先駆移民』や戦後は『対馬』『アマゾンの国
 ブラジル』や『ラテン・アメリカヘの招待』を上梓している。

     (♯写真が入る)湯浅克衛の著書


  6 月照・信海兄弟(「6 月照・信海兄弟」は太字)

  鳥坂の途中、鳥坂ゴルフセンターのある大池の東岸に七仏薬師の小堂がある。その入
 口に小さな歌碑があり
  月見よといもの子どものね入りしをおこしに来しが何がくるしき
  とかすかに読める。大池と上池との間を通り、四国横断自動車の下をくぐって天霧山
 の方へ少し登ると牛額寺の横に出る。さらに三百メートル登ると月照上人と弟の信海上
 人の等身大の白い石像があり、苔むした台座の上に立っている。この石像は一九七八年
 (昭和五三年)、速水史朗氏制作のもので、かつてはブロンズ像であったが、太平洋戦
 争中の金属応召で供出したため台座だけでは昔のまま残っているとのことである。
  月照は、一八一三年(文化一〇年)善通寺市吉原町下所に生まれた。現地には「贈正
 四位月照、贈従四位信海両上人誕生之地」の碑が立っている。(一説には大阪で出生)
 幼名は宗久、弟の綱五郎と同市碑殿町遍照院牛額寺に預けられ、三年目に得度して、忍
 鎧(ルビ にんがい)(月照)と信海に改名した二人は、叔父と京都清水寺成就院へ行
 った。叔父の蔵海が他界すると月照は二三歳で、その跡を継ぎ

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 二四世住職になった。国家安穏、外敵退散の祈祷を余儀なくされた月照は勤皇運動を助
 ける。一八五四年(安政元年)成就院住職を弟信海に譲った月照は「安政の大獄」での
 幕府の追求をうけることになった。月照は西郷隆盛と六〇日余の逃避行のすえ、一八五
 八年(安政五年)一一月一六日、錦江湾に西郷と入水、西郷は救助された。月照には歌
 集『落葉塵芬(ルビ じんぶん)集』や『詠草』がある。     (以上・松川 進)

     (♯写真が入る)月照・信海石像