底本の書名 香川の文学散歩 底本の著作名 「香川の文学散歩」編集委員会 底本の発行者 香川県高等学校国語教育研究会 底本の発行日 平成四年二月一日 入力者名 森川嘉晃 校正者名 平松伝造 入力に関する注記 ・JISコード第1・2水準にない旧字は新字におきかえて(#「□」は旧字) と表記した。 登録日 2005年11月11日
-126- 二 坂出・丸亀周辺を行く(「二 坂出・丸亀周辺を行く」は太字) 1 佐々木孝丸と真教寺(「1 佐々木孝丸と真教寺」は太字) 国分寺中学校前の道を北へ向かって行くと真教寺の前に出る。境内の鐘楼の前にたた ずんでいると五年も前になくなった佐々木孝丸が「やあやあ」といいながら現われそう な気がする。佐々木孝丸は作家であり、翻訳も手がけ、俳優そして演出家として活躍し た人である。 教誨師の父が赴任していた北海道上川郡標茶(しべちゃ)町で一八九八年(明治三一 年)に生まれた。出世後、父に従い、その郷里、綾歌郡端岡村(現国分寺町)の真教寺 に移住、高等小学校卒業後、神戸通信生養成所に入所、その後、通信事務員として神戸 郵便局電信課に採用され、勤務のかたわら「神戸文学会」に参加。 一九一七年(大正六年)には東京に転住、秋田雨雀に師事するとともに、戯曲を書き まくったらしい。また、水谷八重子と劇詩朗読で共演したり、一九二一年(大正一〇年) には、ミュッセ「二人の愛人」を翻訳、処女出版したりした。 その後、「種蒔く人」創刊に参画、一九二四年(大正一三年)には、先駆座第二回公 演で、アナトール・フランス「運まかせ」を翻訳、演出、出演と活躍した。 『風雪新劇志』──わが半生の記──(一九五九年・現代社刊)によれば、「私はど うしても、田舎寺のおとき坊主で一生を終る気になれず、何とかして、抹香臭い雰囲気 から逃げ出したくて仕方がなかった」と少年時代を回想している。そして同書のあとが きには「私はただ、青年時代の大部分を、社会主義芸術運動のめまぐるしい渦巻の中で、 もみくちゃにされながら、右往左往していた甚だ取り柄のないぼんくらな人間にすぎな い」と。 戦中、戦後を通して東京の主な劇場で常に演出を担当した後、舞台演出だけではなく、 戦後の映画産業全盛時代には、佐々木孝丸が何かの作品に出演していない時はなかった、 という。最後の舞台出演は一九六八年(昭和四三年)の『若者のイメージ』、最後の映 画出演は一九八三年(昭和五八年)の『吉田学校』だった。 佐々木孝丸には多くの著作もあるが、異色なのは、世界童話大系の中に『ラフォンテ ーヌ寓話集』、『ペロー童話集』、オウルノワ夫人の『黄色い小人』がある。また、日 本プロレタリア文学集の中に戯曲『筑波秘録』や評論なども収録されている。 2 菅原道真と讃岐(「2 菅原道真と讃岐」は太字) 歴代の讃岐の国司の中でも道真ほど庶民を思い、庶民に慕われた讃岐守も他にはある まい。それは没後四五年の九四八年(天暦二年)に、その御霊を慰めるために創建され た滝宮天満宮をはじめ二三五社もある天神信仰とも結びついて親しまれていることから でもわかる。 道真は八八六年(仁和二年)正月一六日、四二歳で讃岐守に任ぜられてから四年間、 国府(坂出市府中町)で執務し、その官舎は綾歌郡綾南町滝宮にあった。在任中のよう すは醍醐天皇に献上した家集『菅家文草』全一二巻のうち、第三巻と第四巻の一五七〇 の詩によってうかがい知ることができる。また、「読書」という一編でもわかるように 勤務のかたわら「春秋」「老子」「白氏文集」などを丹念に読み、常に自己の研鑚を怠 らなかったことも驚嘆に価する。道真の詩(「客舎冬夜」)等には 客舎 秋徂(ルビ ゆ)きて此の冬に到る 空床 夜夜顔容を損したり 押衙(ルビ おうか)門の下 寒くして角(ルビ つのぶえ)を吹く 開法寺の中 暁にして鐘に驚く 行楽の去留は 月砌に遵ふ 詠陵の綾急は 風松に播さる 世事を思量(ルビ おもいはか)りて 長に眼を開けば 知音に夢の裏にだにも逢ふことを得ず と官舎で眠れぬ夜々を嘆いている様や、八八八年(仁和四年)旱魃で住民が困却し、 道真が近くの城山で神に祈願したところ、大雨が降り続いたことや「寒早十首」では貧 困の庶民を思いやった心情がうかがえる。その道真も都恋しさから八九〇年(寛平二年) 春、恒例の「交替式」もせず、解由状も持たずに帰京した。 (#写真が入る)讃岐国司庁跡 -128- 3 道範阿闍梨と宇多津(「3 道範阿闍梨の宇多津」は太字) 道範阿闍梨は、一二四三年(仁和四年)正月三〇日、都を立ち、淀川を下り、海路阿 波を経て、二月一二日に国府(坂出市府中町)に着いた。和泉国船尾に生まれ、一四歳 で剃髪した道範は、読経のために寝食をも忘れるほど精進したという。 高野山正智院の高僧で、伝法院の事(本寺と末寺との確執紛争等)に坐して、讃岐に 配流されたのである。 二月一四日には、鵜足津(ルビ うたづ)(宇多津)の橘藤左衛門高能宅に預けられ、 翌日からは郷照寺に住み、一二四五年(寛元三年)ころには別記のように善通寺に仮遇 した。 一二四九年(建長元年)に許されて帰山するまでの六か年間、たびたび講筵会を開き、 大いに人心を教化し、讃岐人を感化したようである。 鵜足津にて 淋しさをいかでたへまし松風の波も音せぬすみかなりせば 近くの山に登って うたづがた此松かげに風立てば島のあなたもひとつ白波 と詠み残している。 だが、その宇多津には、九月中旬までの約七ヶ月滞在しただけである。 それにしても、『南海流浪記』によれば、後述のように善通寺に(空海の)誕生院を 建立し、弘法大師の遺跡を顕彰したり、観音寺の琴弾八幡宮や豊浜の姫八幡、仲南の尾 野瀬寺(廃寺)など、西讃の神社仏閣の多くに参詣したりもしている。 道範阿闍梨の著書である『南海流浪記』は、日記体の紀行文の体裁をとっていて、簡 潔な漢文により叙述と仮名交りの和文、三三首の和歌、さらに書状など多彩な内容であ る。 この書は道範阿闍梨の没後、何びとかが抄出編集したため、本文末の記事によれば、 一二五八年(定嘉二年)に成立したということがわかる。現在は『群書類従・紀行』翻 刻されている。 旅の途中の詠歌として ながれゆく身にしあらずは須磨の浦とまりて夜はの月は見てまし 都をは霞のよそにかへり見ていつち行らん淀の川なみ などがある。 4 徳永真一郎の歴史小説(「4 徳永真一郎の歴史小説」は太字) 徳永真一郎の「私本・研辰の討たれ」(「讃岐文学」第四〇号・創刊三〇周年記念号 ・一九八七年(昭和六二年))の終章に近い一節に次のような部分がある。 堤間(ルビ つつま)山の頂上は、涼風が吹き通り、蝉がせわしげに鳴きつづけて いた。 松の木かげに陽を避けて、お遍路姿の三人の男が、休んでいた。いうまでもなく平 井兄弟と才治郎である。高松領は、虚無僧の入国禁止ときいて、服装を変えたのであ る。 「高いところに登ると、やはり涼しいな。わしは、この山に登るのも三度目じゃ。金 毘羅さまの鎮座まします象頭山が、眼の前に拝める。きょうの日を迎えることが出来 たのも、みんな金毘羅さまのおかげじゃ」 この歴史小説は仇敵の辰蔵を追いかけて三人の男たちが、辰蔵の出身地である讃岐国 阿野郡羽床下村までやってきている場面を描いている。 徳永真一郎が、ふるさと香川に舞台に描いている作品は、『幕末列藩流血録』(昭和 五四年・毎日新聞社刊、平成二年・光文社文庫)、さらに歴史読み物として故十河信善 氏と共著の『讃岐歴史散歩』(昭和五一年・創元社)なとがある。一九六四年(昭和三 九年)より主に歴史小説を書いている徳永真一郎には、すでに六〇冊を越す著書がある。 徳永真一郎は、一九一三年(大正三年)、前述の作品の舞台よりほど遠くない綾歌郡 飯山町下真時の「油屋」に生まれた。その生家が没落したため工兵中尉だった善通寺の 従兄の家から旧制丸亀中学校へ通い、三年生の途中から旧制池田中学校(徳島県)へ転 校、さらに五年生からは旧制高松中学校へ移り、同校を卒業。三越高松支店勤務などの 後、毎日新聞高松支局を振り出しに新聞記者として、神戸、広島、鳥取、大津(支局長) を転々、大阪本社学生新聞部長を最後に、びわ湖放送常務取締役に転身。ジャーナリス ト一筋だったが、一九七四年(昭和四九年)退職後は作家生活に専念、現在に至ってい る。 坂本尋常小学校(現飯山北小学校)時代から「兎吉物語」を書くなど綴り方は得意だ ったようだ。さらに丸亀中学校時代に校友会雑誌に掲載された「我国民達送らんかな太 平洋横断飛行」、三越高松支店時代に店内文芸誌に発表された「或る日の啄木」に文才 のひらめきがある。一九六四年に吉川英治賞を受賞。 (以上・松川 進)