四 文学作品にあらわれた高松


 底本の書名  香川の文学散歩
    底本の著作名 「香川の文学散歩」編集委員会
    底本の発行者 香川県高等学校国語教育研究会
    底本の発行日 平成四年二月一日 
    入力者名   渡辺浩三
    校正者名   合葉やよひ
    入力に関する注記
       文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
       文字番号を付した。
  登録日 2005年9月27日
      


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 四 文学作品にあらわれた高松(「四 文学作品にあらわれた高松」は太字)

  1 瀬戸内リアリズム(「1 瀬戸内リアリズム」は太字)

  私にはちょうどノスタルジアという言葉にふさわしいほどの戦災前の高松の街や、小
 さな連絡船のかすかな記憶がある。それは戦災でけむる醍醐寺の大きな楠の木や松の木
 の記憶で終っている。しかし、それはかならずしもロマンチックな記憶ではなく、おぼ
 ろななりにどちらかというとリアルなものである。
  高松という土地柄には昔からどこか独特なリアリズムがあるのではないか。浪速のリ
 アリズムともすこしちがう。瀬戸内リアリズムとか高松リアリズムとでも言うべきかも
 しれない。やや実利的な傾向のリアリズムである。菊池寛にしてもだが、ちょうど今度
 私がご案内することになった評論家や随筆家、あるいは浮雲のようにいつの間にかこの
 まちを通り過ぎていた女流作家たちにさえもその気分は共通していたような気がする。
  そして、こういう気風は彼ら自身が具体化したものでもあるが、同時にそれはまた、
 こういうリアリズムが彼らをまねき、生んだかも知れないと言う思いにもさせる性質の
 ものである。(それは瀬戸内海にも似ておだやかで微温的、かすかにモヤやキリがかか
 った松島や盆栽のようなリアリズムで、一種の文体になっているといってもいいかも知
 れない。)
  阿波や土佐や松山のマドンナほどの奔放さや、あかぬけたロマンス性はない。古来吉
 原や島原ではないが、遊女がいたような**津―といったような空気にも似ていたのか
 もしれない。
  対岸の岡山には正宗白鳥を生んだような自然主義の気風があり、その白い叙情やリア
 リズムの霧は更に瀬戸内海に沿って西へとたなびいている。そしてその霧の中からやが
 て林芙美子の「放浪記」が現れる。                 (冨川光雄)

   2 林芙美子・向田邦子(「2 林芙美子・向田邦子」は太字)
  その「浮雲」のごとき「放浪」の軌跡は下関に発し、九州を転々としてやがて再び山
 陽道の港々に現れる。そして漁港に現れた子連れの猫にも似た母親の影は、やがて幾た
 びか入れ替わる愛人の姿に変わっていた。
  一九二七年(昭和二年)七月、二四歳の芙美子は、最後の結婚相手となった画学生、
 手塚緑敏と共に尾道経由で高松に来て、その頃まだ行商人だった両親が住んでい

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 た東瓦町の長屋に一ケ月滞在したことがある。(その数年前には東京で壷井繁治・栄夫
 妻の隣に、あるいは黒島伝治の近所に住んでいたという縁もあった。)
  「放浪」だから所定めぬわけだが、「放浪記」にはやはり山陽や四国の雰囲気があり、
 まるで第二のふるさとでもあるかのようにたびたび高松のことが出て来る。
   「私の思ひ出に何の汚れもない四国の古里よ、やっぱり帰りたいと思ふ。ああご飯
  炊きになっていたところで仕様もないではありませんか。私は、古ぼけた兵庫の船宿
  で高松行きの切符を買った。」(『放浪記』)
  林芙美子の親子が大正時代の母娘なら、これと対照的なのがその昭和版とも言うべき
 向田邦子の父娘である。向田邦子は父の事をよく作品に書いているが、この転校ぶりは
 父の仕事にもよったのであろう。
   「父の仕事の関係で、転勤と転校の繰り返しで大きくなった。小学校だけで、宇都
  宮、東京、鹿児島、四国の高松と四回変わっている。」(「隣の匂い」)
  今日ではめずらしくもないが、当時としてはおびただしい転勤ぶりで、それも一種の
 「放浪記」かもしれない。その転居の構造は東京+中都市×Xと言った組合せで、高松
 の場合は昭和一六年四月、一二歳、父の前任地である鹿児島から高松市寿町一番地へ転
 居。四番丁小学校に転入。六年生の一学期であった。ちょうど戦争が始まる年で、その
 時代の窓から眺めた風景は、例えば次のようなものであった。
   「高松の社宅には、隣がなかった。父の会社が玉藻城のお壕に隣り合って建ってお
  り、そのうしろに社宅があって、片隣は海軍人事部であった。前には大きな

       (♯写真が入る)高松市立四番丁小学校正門

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  改正道路。まわりは裁判所や空地で隣近所は無いも同然であった。
   私の勉強部屋は二階にあり、窓から海軍人事部の中庭が見えた。時々、七、八人の
  若い海軍士官が銃剣術の稽古をしていた。稽古といっても半分遊びのようで、のぞい
  ている私に気づくと、おどけて挙手の礼をする士官もいた。私も敬礼をした。」(「
    隣の匂い」)
  そして昭和一七年三月、高松市立四番丁小学校卒業。四月、香川県立高松高等女学校
 入学、但し、一年の一学期のみで一家はまた東京へ転居し、邦子は高松で下宿生活をし
 たが、九月には東京へ帰り、目黒高等女学校に編入した。
  二人ともなんとなくものうそうでやや斜めに構えたような姿勢ながら、今と比べると
 やはり「高女」、「県女」の女学生という矜持のようなものがあるのもおもしろい。
                                 (冨川光雄)

  3 吉田弦次郎(「3 吉田弦次郎」は太字)

  瀬戸大橋や新空港ができるまでの高松は、文化的には人々が連絡船で出て行くか、外
 からやって来てもしばらく逗留(放浪?)してはやがてまた通り過ぎてゆく―というよ
  うな所だったような気がする。
  高松人は自ら高松を描こうとすることはあまりないが、高松がどう見られているかと
 いうことには秘かに大きな関心を持っていたように思う。(それは日本の縮図といって
 もいい)
  「貴種流離譚」―というはどでもないが、この地には昔から「へんろ宿」のように旅
 人を一時かくまい、接待するような気風がある。そして、彼らもまた何がしかの念仏や
 情報を残して去って行くのである。
  資料不足でまだよくわからないが、仏生山の法念寺(♯「法念寺」は底本のママ)の
 あたりに「青鵜」その他幾つかの作品を残して行った吉田弦次郎もそういう「お遍路さ
 ん」の一人であったろうか。感傷的なリリシズムを特色とする作風で、「森にはいって
 いった男が森の美しさに見とれて、やがては森のなかに道を失ってしまったやうに、私
 は人生そのもののなかに感ずる限りもない魅惑にひきつけられながら、人生の魔宮深く
 彷徨ひ込まうとしている。」と書いている。ある時期までの四国とは、そして讃岐の国
 とは、やはりそのように見える辺土であったのだろうか。あの山頭火は山口の人であっ
 たが、弦次郎は佐賀の人だという。                 (冨川光雄)

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  4 野口雨情(「4 野口雨情」は太字)
  高松は平成二年で市制一〇〇周年をむかえ、現代的建築の新市庁舎前、市営高松中央
 球場は姿を消し、その跡地は中央公園となり、昼休み時には近隣のサラリーマンの姿が
 みられ、地下の市営駐車場は地下道を経て「光の広場」を通じ改装された商店街に人々
 を誘おうとする。
   [ ](#唄い始めの記号)一度どころか 二度三度花咲かすヨ
      アリャヨイヨイヨイ
     四国高松 アサイノサイノサイノ ユートピア
       ハついて来いとならついてゆく
        サテ一度が二度でもヨイヨイヨイ(以下略)
                (『高松小唄』四国大百科)
  これは高松市制四〇周年を記念して高松市観光課によって一九三〇年(昭和五年)に
 制作。作詩は童謡「からすなぜ鳴くの」の歌い出しで知られる『七つの子』の作詩家野
 口雨情。その名よりも広く知られ、親から子へと歌い継がれている懐かしい歌心は、意
 外にも高松にやって来ていた。小唄誕生には、少々人為的で詩を読む前から行政サイド
 の香りを予期させられることが残念ではあるが、この唄をたどっていくうちに今に通じ
 る香川のこころが胸にしみることに驚いた。
  「作詩の野口雨情と作曲の中山晋平を招いて内町聚楽座で発表会が行われた。同会に
 は高松検番芸妓、高松中央幼稚園内研交会の人達が出演。ビクター専属の二三吉、四家
 文子の両歌手が吹き込んだレコードも同時に発売された。当時、新民謡が盛んであった
 が、その中でも県民に一番親しまれた。」(同右)現代のようにマスメディアの発達し
 ていなかった当時としては当然の発表方法ではあったのであろうが、振興に期待する香
 川の「観光」宣伝への並々ならぬ素人の努力を感じる。
  発表会三カ月前の五月に雨情、晋平両氏は高松入りをしている。当然のことながらそ
 の足は高松に限らず讃岐路の旅を味わっている。『高松小唄』に詠まれる霧に隠れる小
 豆島を残念に思い、石段に並ぶ金毘羅の無数の石灯籠に誰が火をつけるという心配や、
 桜千本を誰が植えたか等の不思議には、雨情の素直な旅の発見がある。談笑しつつ酌み
 交わす酒の香りがある。讃岐のどこにでもころがっている素顔である。さびの「ハつい
 て来いとならついてゆく サテ一度が二度でもヨイヨイヨイ」は、作詩のために何度か
 招かれた雨情の本音ではないか。目を見張る名勝は唄えない。しかし、こんぴらに向か
 った

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 何百年の旅人の旅愁が染み着いた讃岐路。「ついて来いとならついてゆく」。雨情の讃
 岐路はまんざらでもなかったようだ。
  馴染まれた高松の風景もこの一〇年で姿を変え、あるいは消していった。海静かな瀬
 戸に時代の波は厳しくうちつける。「四国の玄関高松」も瀬戸大橋開通後、その名称を
 返上してしまった。「瀬戸の都 高松」の新キャッチフレーズも悲しく白々しい。四国
 の玄関というセールスポイントを失った高松は、しかし『高松小唄』に示す今にも通じ
 る魅力がある(ことに気づかされた)。市民の焦りのどこかで今、新しい『小唄』が唄
 われているようにも思えてくるのだ。                (伊達一成)

  5 吉井 勇(「5 吉井勇」は太字)
  歌人・吉井勇は一九三四年(昭和九年)一一月から、一九三七年(昭和一二年)一〇
 月、高知市の鏡川のほとりの僑居に移るまで高知県香美郡在所村(現、香北町)猪野々
 の渓鬼荘に隠棲したが、一九三六年(昭和一一年)四月、歌行脚を志し、四国・中国・
 九州・瀬戸内海などを遍歴している。その時の「歌行脚短信」に高松のことが書かれて
 いる。
    (四月)十一日、琴平より高松へ。栗林公圏を徘徊するうちに象嶽公の銅像に逢着。
   これは藤川勇造氏最後の作品にして、中々よき出来なり。この庭園は岡山の後楽園よ
    りも遥かに幽邃、環境も背後に山を負ひてよし。
    十二日、屋島に遊ぶ。濃霧四辺を閉して、殆んど咫尺を弁ぜず、徒らに霧のあなた
    なる壮大なる景観を想像しつつ山を下る。
      なつかしき象嶽公の銅像に春日あたりてほのかなるかも
  勇の歌碑は、丸亀と琴平にあるが、高松市仏生山町の法然寺には勇の歌を鋳込んだ梵
 鐘がある。勇は一九四八(昭和二三年)、京都知恩院の史実を調べるために法然寺を訪
 れたが、その時法然寺の細井照道より鐘に鋳込む短歌を依頼されたのである。『私の履
 歴書』(日本経済新聞社刊)に「昭和二十三年には新年の歌会始の選者になったり、同
 年八月には日本芸術院会員になったりして私の起伏の多かった人生行路にも、ようやく
 明るい光明が射しはじめてきた」とある年のことである。
  この鐘のひひかふところ大いなるやはらぎの世の礎となれ          勇

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  この歌を鋳込んだ梵鐘は翌二四年の秋にできあがった。
  その後、勇は一九五七年(昭和三二年)にも高松を訪れている。全集(番町書房版)
 の年譜に「五月三日、秋篠寺の川田順の歌碑除幕式に出席。二十五日より四国方面へ旅
 行。高知・竜河洞・桂浜・松山・高松を巡って六月一日帰洛」とある。
  吉井勇は一八八六年(明治一九年)一〇月八日、東京市芝区高輪南町五九番地に、父
 幸蔵の次男として生まれた。早稲田大学中退。一九〇五年(明治三八年)新詩社に入る。
 一九〇九年(同四二年)石川啄木らと「スバル」を創刊。歌集に『洒ほがひ』『人間経』
 『天彦』など。戯曲・小説・歌謡・随筆と幅広い創作活動をした。一九六〇年(昭和三
 五年)一一月九日、京都で没した。                 (神原俊雄)