一 古典文学の世界


底本の書名   香川の文学散歩 (63p~73p)
 底本の著作名  「香川の文学散歩」編集委員会
 底本の発行者  香川県高等学校国語教育研究会
 底本の発行日  平成四年二月一日 
入力者名    渡辺浩三 
校正者名    合葉やよひ
入力に関する注記
       文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
       文字番号を付した。

登録日   2005年6月24日
      


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高松を歩く

一 古典文学の世界

 1 説話文学

 讃岐における説話文学は、『今昔物語集』(一〇七七年)に多くその出典を見ることが
できる。この他『日本国現報善悪霊異記』(八二二年)、『古本説話集』(一一三〇年)、『宝
物集』(一一七九年)などに見られる。
 ここでは『今昔物語集』の中のものの要約をあげて簡単に解説を加えたい。
 讃岐の国の満濃の池をくずす国司のこと 第二二(三一巻)
  仲多度郡満濃町真野の山中に弘法大師は民のために大池を築造した。そこには多くの
 魚が生息していたが、国司はそれを一度に独占しようとして池の堤に穴をあけてしまっ
 た。ところがその穴が次第に大きくなり、魚はもちろん田畑まで流失して池は壊滅して
 しまったという話である。
 民衆を苦しめる強欲非道の国司を取り扱っているが、この類の話は『今昔物語集』には
比較的多いのである。
この話は満濃池の由来譚の性格も見られる。なお池築造の事由については『日本紀略』(弘
化一二年五月の条)、『大師行状集記』(万濃他の条第六八)、『弘法大師行化記』(弘化一
二年の条)などに見られる。本話と交渉あったものと考えられる。
 讃岐の国多度の郡五位法を聞きてすなわち出づること
 第一四(第一九巻)
 この話は悪人往生譚の典型として名高い一話である。
  今は昔、多度の郡つまり仲多度郡某地に源大夫という極悪非道な男がいた。その男は
 鳥獣魚貝はもとより人をも殺す悪人であった。ある時、鹿狩りの帰り道立ち寄った法会
 の講師から阿弥陀の本願を説き聞かされ

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 る。「年来罪を造り積みたる人なれども、思ひ返して一度『阿弥陀仏』と申しつれば、
 必ずその人を迎へて・・・・仏となむ成る」と言われ一念発起して自から髻(ルビ 
 もとどり)を切って頭を剃った。そうして念仏を唱えて金鼓(ルビ こんぐ)を叩いて
 西方に浄土を求めて邁進した。そしてついに西海を望む高い峰の樹上に登り往生を遂げ
 た。そして口から生じた蓮華はこの男の往生の保証となった。一念の発心に憑かれたよ
 うに西方を求めた源大夫の信心と行動は法臈(ルビ ほうろう)のみを積む求道にくら
 べてまさに壮烈であった。
 これは他に類を見ない弥陀の悲願にかなう話であった。
『宝物集』(九)、『発心集』(三の三)、『私聚百因縁集』(九の二〇)、さらには羽黒山伏
の唱導書にまで見られる話である。芥川竜之介の『往生絵巻』も本話から取材したもので
ある。
 竜王天狗のためにとらるること第一一(第二〇巻)
  讃岐万能の池(満濃池)の竜が小蛇になって堤の上で日に当たっていると、比良山の
 天狗にさらわれて洞窟に幽閉された。ところがたまたま水瓶を持ったまま拉致されてき
 た比叡山の僧にその水を乞うて一滴の水から神通力を得て僧を背中に負って脱出した。
 僧を比叡山におろして後日竜はその天狗を殺してしまった。
 このようにして竜は僧の徳によって自分の命を救い、僧も竜の力によって山に帰ること
ができた。幽閉されていた竜が機を得て力をつけ、脱出するという話は謡曲「一角仙人」
や歌舞伎「鳴神」などにも見られる。
 讃岐の国人冥途に行きてかえり来たること 第一七(第二〇巻)
 この話は『日本霊異記』中の巻の「布施せざると放生するとに依りて、現に善悪の報を
得る縁第一六」からとったものである。
  今は昔、讃岐の国香川の郡坂田の里(鷺田村坂田で現、高松市)に一人の金持ちがい
 た。姓を綾氏といった。その隣に嫗が二人いて寡婦であった。貧しく衣食に事欠いてい
 たので隣の綾氏で食物の施しを受けて生活していた。綾氏の家中の者はそのことをいや
 がっていた。ところが綾氏の妻はこの二人の老人を心から哀れに思っていた。主人は家
 中の者に自分の食物の一部を分け与えるように告げた。主婦だけが飯を分け与えていた。
 家の者たちはその主婦を憎んだが彼女は飯を老婆に与え養い続けた。またある時、その
 主人は蜿という貝を釣人から買いとり、すべて海に放してやったこともあった。

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  その後、その主人は従者とともに山に行き薪を伐っていたが枯木から落ちて死んだ。
 七日目に蘇生して妻子に語った。こうして彼は善悪二報を冥途で体験し、放生した貝の
 助けで蘇生したということであった。
 この説話は人に食を施す功徳とそうでない罪、さらには放生の功徳の貴さを語ったもの
 である。
 讃岐の国の女冥土に行きその魂かえりてほかの身につくこと 第一八(第二〇巻)
  これも讃岐国の話である。山田郡(現、木田郡)に一人の女があった。姓を布敷氏と
 いい、この女が急に病に倒れ冥鬼を饗応した。その計らいで同性同名の女を自分の身代
 わりに立てた。その人は鵜足郡(綾歌郡)の人であった。そのことが閻魔王に露顕して
 冥途へ召された。一方身代わりになった女の魂は現世に帰されたが、すでに遺骸が焼失
 していた。そこで先の布敷の女の遺体に宿ることとなった。この女のもとの両親は心は
 変わっているが、その姿は自分の娘と全く異ならない。一方、鵜足の親にとっては姿は
 変わっているが心は我が娘と同じである。こうしてこの女は両方の両親に可愛がられて
 両家の財産を継いだという話である。
 この説話は『日本霊異記』がその出典であるが、人間の肉体と魂とが遊離するという信
 仰をうかがう資料としておもしろいものである。           (谷原博信)

 2 軍記物語

  「十河物語」と十河城跡
 「十河物語」は、高松市十川東町にある十河城を中心として栄えた十河存保(ルビ ぞ
んぽ)が、長曽我部元親と合戦をし、また一五八四年(天正一四年)に九州で戦死するま
でを描いた存保の一代記である。この物語の著者及び成立年については不明である。
松平公益会に写本一冊が残っている。今は『香川叢書』第二巻に収められているので読む
ことができる。内容は次のようなものである。阿波の三好実休の末子存保は、讃岐十河の
城主になり十河殿と呼ばれた。天正一〇年に長曽我部元親が阿波、讃岐を攻めた時に彼と
戦っている。その部分を本文では次のように書いてある。
 其時節、土佐国長曽我部宮内少輔元親、阿州へ乱入ス。讃州ノ十河隼人佐(ルビ はや
 とのすけ)存保阿州へ出張シ中富卜云所ニテ、十河卜元親卜合戦アリ、元親勢ハ一万五
 六千也。十河僅(ルビ わずかに)三千ナレバ、十河一戦ニ負、又、讃州十河ノ居城へ
 楯籠ル。サテ長曽我部ハ阿州ヲ討シタカヘ、讃州ヲ

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 モ三分二手ニ入レシカドモ十河・虎丸両城ハ、堅固ニシテ落ズ。十河ハ隼人佐存保、虎
 丸ハ安富玄蕃允(ルビ げんばのじょう)持タリ。
 この様にして戦ったけれども、遂に存保は長曽我部に敗れてしまった。その後上洛して
豊臣秀吉に仕えた。秀吉が四国を平定したので再び十河城に帰ってきた。一五八四年(天
正一四年)、豊後の大友氏と薩摩の島津氏との合戦に秀吉の命を受けて讃岐の国主仙石権
兵衛秀久らと共に出陣した。そこで、大友勢として戦ったのであるが敢えなく敗れ、虎丸
城主安富玄蕃等と共に討ち死にする。その部分を本文では、次の様に書いてある。
 薩摩勢ハ待請、官軍ノ人数ヲ立、シハラクアイシラヒ一文字ニ飛テカカリ、仙石カ聟ノ
 田宮先陣タリシカ、撞立(ルビ つきたて)ラレ敗軍シ、田宮モ討死ス。偖(ルビ さ
 て)、弥三郎信親、十河隼人佐存保、安富玄蕃モ、ノキ侍ラハ退ヘキヲ、馬ヨリヲリ立、
 薩摩勢卜無数ニ戦ヒ、一足モ引ス討死ス。
以上が「十河物語」の内容である。では、次に現在残っている十河城趾について説明する
ことにする。
 十河城は、堅固な城であつた。南に大手門を設け、他の三方は、湿田に囲まれ、土居を
五重に築き堀を深く切り立てていたので攻め入る隙がなかったと言われている。
称念寺のあるところが本丸跡である。

   (♯写真が入る)称念寺(十河城址)

吉田橋から南ヘ一・五キロメートル、コトデンバスの城バス停の西の小高い丘がそれであ
る。西側には鷺池と呼ばれる池があり、北側には、一存・存保の墓がある。ここは、長尾
街道や高松平野への見通しがよい上、丘や谷間や湿田は城の防備に好都合であったのであ
ろう。存保の子供の千松丸が死んで後、この城も廃城となった。

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  「由佐・長曽我部合戦記」と由佐城跡
 由佐氏と長曽我部氏との合戦の顛末を書いたものに「由佐長曽我部合戦記」なるものが
ある。江戸時代中頃に由佐氏の後裔、久右衛門宗参が書いたものであり、その写本は、現
在は、由佐三郎氏が蔵している。今は、「香川叢書」巻二に翻刻されているので読むこと
が出来る。七つの章段に分かれているので、その見出しをあけて、内容を次に記すことに
する。
一、由佐之城手分ケ。付、押(左下隅にニ)―寄(右下隅にセ)元親(右下隅にノ)兵(左
  下隅に一)賦(右下隅にル、ルビ とりたつ)之(左上隅にレ、右下隅にヲ)事
  天正十三年長曽我部元親は由佐城をせめた。由佐城では、左京進秀盛及び子供の平右
  衛門長盛・五郎右衛門久盛らが中心となり策を協議した。
二、天福寺炎上之事
  長曽我部方は由佐城を遠巻きにして陣をとる。その中で久武右近は、天福寺に陣をと
  ろうとするが、寺の衆徒ともみあううちに合戦になり天福寺は炎上する。
三、由佐之城軍 付、香曽我部・桑名打死之事
  由佐氏、長曽我部氏との合戦で長曽我部方の武将である香曽我部某、及び桑名八郎左
  衛門が打死にする。
四、請(右下隅にフ)桑(左上隅にニ)名弥次郎兵衛和(右下隅にヲ)事(左上隅に一)
  長曽我部の臣、桑名弥次郎兵衛の判断によって、長曽我部方は、由佐方に和睦を乞う
  た。由佐方は十河方に援軍をもとめてあくまで戦おうとするが十河方は援軍をことわ
  る。
五、由佐左京進和睦之事
  仕方なく由佐方は、和睦を承知する。由佐方の道案内で元親は、三谷の王佐城をせめ
  る。王佐城は堅固でなかなか落ちないが、由佐・長曽我部連合軍の前に苦戦する。
六、三谷弥七郎香西(右下隅にヘ)落(右下隅にツ)事
  三谷方は落城して、三谷氏は、香西方へ落ちのぴていった。
七、香西伊賀守(右下隅にノ)城(右下隅にヘ)寄(右下隅にス)事
  香西氏と三谷氏は、一体となって、長曽我都方と対戦した。戦いは、一進一退をくり
  かえした。
以上が概略である。その後、由佐氏は、一時領地を失ったが、讃岐の国守である仙石秀久
・生駒親正につかえ再び領地を回復した。
 今、由佐城跡なるものが、県道三木・綾南線の香東川西岸(城渡橋西側)にあり、旧家
が現在も残っており、そのおもかげを伝えている。由佐家に蔵されている「城

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絵図」によると、香東川西岸に下之城と上之城とがあり、両方ともに内堀と外堀とがあっ
た。
 さらに、由佐城と香東川との間には柳並木が書き込まれている。当時はかなり大きな城
であったことがうかがえる。今も、石垣等からそのおもかげをしのぶことができる。
                                  (井川昌文)

       (♯写真が入る)由佐城址

 3 固浄の西行研究
 河野固浄は、一七四四年(延享元年)、来光寺(高松市三名町)第一一世住職釈了寂の
長子として生まれた。
 友松軒と号し、仏典、和歌、俳諧、狂歌にも通じていた。青年の頃、西行を慕い、その
行跡を辿って全国各地を行脚した。三〇歳のころ、伊予国道後温泉に滞在した紀行文「秋
たつ日記」を、また、京都、北陸、奥州まで旅した紀行文「固浄道之記」を残している。
 一七七五年(安永四年)、三二歳で父の跡を継いで、来光寺一二世住職となった。
 固浄の和歌学上の最大の足跡は、『山家集』の最初の註釈書である『増補山家集抄』を
著したことにある。これは、一九一一年(明治四四年)に梅沢和軒氏により、『山家集詳
解』として刊行された。首巻(西行伝)と四季(春、夏、秋、冬)の部の五巻よりなって
いる。高松市三名町の固浄研究家日下氏は、その著書の中で次のように解説している。
 「山家集」中に和歌の分類を誤っているものを訂正したり、山家集の勅撰集や、御裳濯
 (ルビ みもすそ)川歌合や、宮川歌合やなどの書より、補足して来たりなどしてゐる
 から、

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 増補の二字を加へたのである。故に″増補山家集抄″には、普通流布の山家集よりは、
 其の歌数が増加してゐるのである。(『さぬきの西行固浄伝』)
 一七八七年(天明七年)、京都の書林へ渡して版に彫っているうちに、一七八八年(天
明八年)正月二九日、京都の大火のために原稿、版木共に焼失した。翌一七八九年(寛政
元年)、再び筆を執り、京都から出版した。
 同年六月、西行六〇〇年忌追善のため、社中一八人で和歌三〇〇〇首を作り、固浄自ら
点じ、西行庵(善通寺市吉原町)の社前に供えた。

        (♯写真が入る)来光寺(高松市三名町)

 同年一二月二六日、固浄は異安心(ルビ いあんじん)とされて、来光寺住職を退院仰
せつけられている。この「三業惑乱(ルビ さんごうわくらん)」の事件について、日下
氏は次のように解説している。
 仏教で業というのは、行為としての善悪のもとをなすもので、三業というと、身・口・
 意である。当時の本山の学僧が、「浄土にうまれたいと思えば、三業に祈願と請求をこ
 めて、阿弥陀如来に頼まねばならない」といいはじめ、本山がほぼこの学説でかたまっ
 た。本来親鸞の思想には祈顧という考えも、請求という考えもなく、そういうことをし
 なくても如来が救ってくださるというのが、他力というものであるという。祈願や請求
 は自力であり、この学説はあきらかに異端の説(異安心)であった。この本山の学説(能
 化知洞(ルビ のうけちどう)など学林派)を、異安心として戦ったのが安芸(現広島
 県)の学匠大瀛(ルビ だいえい)たちだった。やがて全国の地方学僧のほとんどが、
 安芸学を支持したが、さわぎが大きくなり、ついに文化元年(一八〇四年)(固浄入寂
 後二年)江

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 戸幕府がのりださざるをえなくなり、江戸に両派をまねいて法論をさせた。(固浄の義
 弟妙覚寺第八世恵存法師も、安心問答のため、東本願に招かれた。)幕府は安芸派を親
 鸞の教説であると裁定し、本山の学僧だけでなく、本願寺門主をも処罪した。(『さぬ
 きの西行固浄伝』)
 この騒ぎで讃岐でも一二ケ寺が追院となり、三業安心派とみられた固浄も来光寺を追放
され(固浄四六歳)、母と妻を伴い、固浄の妹の嫁ぎ先である妙覚寺(高松市高松町)に
身を寄せ、一八〇二年(享和三年)一二月二七日、妙覚寺前の庵にて入寂した。来光寺に
は二一年後、固浄の子孫が復院している。固浄の著作は、増補山家集抄、西聖人追福集、
慈鎮和尚其の他追善和歌集、古今狂歌享和集、伊予紀行「秋たつ日記」、御障子絵和歌集、
固浄道之記、固浄詠草、他。                     (森 孝宏)

 4 松平家と和歌
 高松藩祖松平頼重は、一六四二年(寛永一九年)、高松一二万石の藩主に封ぜられた。
 頼重二一歳であった。文人としての頼重の解説が『香川県史』に次のようにある。
 高松藩祖松平頼重は、政治・経済のみならず、社寺の再興と援助、学問・教育の振興な
 ど、文治面をも重視して数々の事跡を残した好学好文の英邁な主君であったが、とりわ
 け和歌和文に対する傾倒はなみなみでなく、和文集『源頼重家集』と歌集『麓塵集』と
 を残した。いつ、誰について学んだかは不明だが、(中略)後水尾院の堂上歌風を体得
 した。(『香川県史3』)
 後水尾上皇との交わりは以下のとおりである。
 一六五六年(明暦二年)正月、後西天皇即位式に頼重(三五歳)は、将軍家綱の名代と
して参列し、この功により、従四位上、左近衛権少将に叙せられた。この折、頼重のいと
こにあたる東福門院(二代将軍秀忠の娘で、後水尾上皇の中宮)を通じて、後水尾上皇に
自作の和歌を献じて添削を請うた。
 頼重は、帰国後、これまでに作っていた歌を整理、選択して、二〇〇首を一六五八年(万
治元年)三月、上皇に送った。このうち二首が上皇御合点歌となり、三七首を添削の上、
上皇自ら加筆された。
 一六五九年(万治二年)一一月にも頼重は二〇〇首を整理して上皇に送り、八首が上皇
御合点歌になった。更に、同年一二月にも「四季二十首和歌」を上皇に送って

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いる。
 上皇の御添削歌について『麓塵集』には、初稿(本)と添削、改稿歌(御添削)の両方
を並記して収めているので、その一例をあげてみる。
 御添削 春ことに二葉の小松ひきそへてかはらぬ御代のためしとそみる
   本 「春ことに二葉の小松ひきそめてかはらぬ御代のためしとそ思ふ」
 御合点 もてはやす人もなきまてあれゆけと花はむかしの春のふるさと
『麓塵集』  これら上皇の添削を受けた歌を含む千数百首の歌を、自らの手で編集した
ものが『麓塵集』である。その序に言う。
 はたせはき心のうちにまことゝおもひて、けしきおかしく、花紅葉の詠らるゝをりふし
 は、人きゝわらはんはゝかりもわすれ、よみいつることのはとも、我身ひとつのたのし
 みはかりに、筆をそめはへりぬ。麓塵集と名つくることは、高き山もふもとのちりひち
 よりおこるとふるきことはをよそへ、すこしき大和うたなから、年月をかさねは、筆の
 あとも多かめれは、かくいへるなり。歌の風体いやしく、文つらまてもよろしからねは、
 後の世まても人めみそかなれとこひねかふものならし。(『麓塵集』序)
 内容は、前記「(万治元年)二百首和歌」、(万治二年)二百首和歌」、「(万治二年)四
季二十首和歌」、に続いて、「四季八十首和歌」、「五百首和歌」、「百五十首和歌」、「百首
和歌」他若干である。『香川県史』には、次のように評してある。
 ほとんどが題詠による四季歌で、雑歌によってもその生活を反映したものは少ないが、
 決して凡でない歌才を示している。
 自序にいうとおり、「我身ひとつのたのしみ」として長い時間にわたって詠みためてき
 た歌を、後水尾院への奉献を契機に集成したものと思われる。(『香川県史3』)
 原本は今は失われて伝わっていない。綾野義賢の写本が財団法人松平公益会(高松市玉
藻町)に蔵されている。
『源頼重家集』 頼重にはもう一つの著作『源頼重家集』が残っている。「源光圀のかた
へ園の梅を贈時の消息」他二一の紀行文、随筆文よりなる和文集である。『香川県史』に
次のように解説している。
 和文集の方は、序も跋ももたないが、全体的に整理さ

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 れ統一のとれた体裁からみて、慶安五年(一六四八年)十月中旬(巻末年記)頼重三一
 歳の時、それまでに折にふれて書き留めた和文を、自ら整理し、統一的に加筆すとなど
 の手を加えて成ったとみられる集で、収められる二二篇の文章からは、文飾はもちろん
 多いにしても、側近く召使う者への人間的な哀惜の気持ちなど、和歌作品からは伺えな
 い生まなましい感情をくみとることができ、英君のいま一つの像を描くことができる。
 (『香川県史3』)
正本は失われたものらしく、綾野義賢の写本が松平公益会(高松市玉藻町)に蔵されてい
る。
松平家の歌人  この外、松平家の歌人について、『詠十三首和歌』『松山和歌集』を残
した松平可正(頼重の家臣)、『松山奉納百首』を残した成田高玄、『残月集』を残した松
平頼章(頼重の第五子)の紹介が『香川県史3』にある。         (森 孝宏)

 5 木村黙老と『聞くままの記』
 木村黙老は、一七七四年(安永三年)に木村明辰の長子として生まれた。父親は、彼が
二歳の時に死亡したが祖父季明が高松藩の家老であった家柄であり、彼自身も高松藩の七
代頼起・八代頼儀(ルビ よりのり)・九代頼恕(ルビ よりひら)十代頼胤(ルビ よ
りたね)と四代の藩主に仕えている。
 特に頼恕のもとでは、財政担当の家老として、折からの藩財政逼迫の窮状を改革した。
いわゆる高松藩における天保の改革がそれである。讃岐の砂糖産業の振興や、久米栄左衛
門通賢に命じて行わせた坂出塩田の造成などがそれである。この様に官吏としてもすぐれ
た業績を残している。
 しかし、彼が残したおびただしい著作も又有名である。その中で、文学に関係があるも
のを二、三紹介しておく。
読本として「京摂戯作者考」「戯作者考補遺」「戯場思出草」などがある。
 また、滝沢馬琴とは親交が深く彼の著作に対する批評がある。「金瓶梅批評」「八犬伝
黙老評」などがそれである。
 それらの中で、とりわけ彼が五四歳頃からおよそ二〇余年間にわたり書き続けてきた『聞
くままの記』(正編二六冊)及び『続開くままの記』(五七冊)は、郷土史及び世相史を
知る上で大変貴重なものである。伊勢神宮文庫には、写本が全部残っている。全体は大部
のものであるが、内容見出しの目録があるので、今、簡単に全体

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を知ることが出来る。
 内容は、多岐にわたっている。「高松藩で起きた事件」「全国の主な事件」「仇討ち」「世
間の伝承」「噂・流行」「病気の治療法」「めずらしいものの絵」「食べ物の製造法」「有名
人のこと」などにおおよそ分類することが出来る。巻一の目録の一部を次に示すのでおお
よその感じをつかみ取って欲しい。

一、水戸威公御家中への僉辞(ルビ せんじ)
一、小石川総社牛天神略縁起
一、讃州高松孝女御褒美
一、常州石津浜イギリス船漂着(右下隅に小さな井)図
一、讃州香西浦にて漁異魚図説
一、舟霊奇瑞之話
一、同大内郡虎丸城墟所産煙管貝図
一、金毘羅霊験之話
一、遠州伊達方村奇童石川為蔵之話
一、佐賀候家臣仕置一件
 このように『聞くままの記』は当時の世相を知る上で大いに参考になる。木村黙老は一
八五六年(安政三年)に没した。                   (井川昌文)