一 東部三町を行く


 底本の書名  香川の文学散歩
    底本の著作名 「香川の文学散歩」編集委員会
    底本の発行者 香川県高等学校国語教育研究会
    底本の発行日 平成四年二月一日 
  入力者名   多氣千恵子
  校正者名   平松伝造
  入力に関する注記
     ・ 文字コードにない文字は『 大漢和辞典 』( 諸橋轍次著 大修館書店刊 )
      の文字番号を付した。
      ・ JIS コード第1・2水準にない旧字は新字におきかえて( #「 □ 」
       旧字 )と表記した。
  登録日 2005年9月27日
      


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東讃を歩く(#「東讃を歩く」は太字)

 一 東部三町を行く(#「一 東部三町を行く」は太字)

  南原繁を軸として

  幼くてわれの越え丹し大阪峠に
      立ちて見さくるふる佐との町   繁
 香川県の東の端、引田町。JR高徳線相生駅から六キロ、まさに山肌を縫ったように、
曲がりに曲がった大阪峠を歩いて一時間半。県境の大阪園地に南原繁(ルビ なんばら 
しげる)自筆の歌碑が建っている。播磨灘からの上昇気流を利用して、すぐ横にパラグラ
イダーの飛行台ができ、緑に傘の花が開くようになった。松の間から箱庭のように見下ろ
せる古里、その南野(ルビ みなみの)というところに南原少年は生まれた。一八八九年
(明治二二年)九月五日のことである。
 少年の生家跡から近くの母校相生尋常小学校(現、相生小学校)の「希望の庭」に、一
九七九年(昭和五四年)高さ約七〇センチの胸像が完成。その台座横に、歌会始めの召人
に選ばれた際、勅題「海」に因んで詠んだ歌が刻まれている。筆は旧相生村長坂東恒市氏
である。「歌

       (#写真が入る)南原 繁胸像

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は色紙に書かれていたんですけどな、石碑に書いて美しいように、少しだけ字体は変えた
んです」九〇歳になある名誉町民の翁は先生との親交を思い出しながら、目を細めて語っ
てくれた。
  ふるさとの讃岐のうみのいわかげに
        魚つり呆けし少年の日よ
       我ガ望
 私ハ今ヨリ進ミテ高等小学校卒業シ身体ヲ強壮ニシ他国ニ渡リ学ヲ修メ教育ノ法ヲ進歩
 セシメ以テ国益ヲ広メン事ヲ望ム      南原 繁
 この一文は、昭和二二年、大内町の表具師、鈴木敏正氏が枕屏風の下張りから、偶然発
見した。何とわずか九歳、少年が高等小学校に進むときの決意である。もちろん、旧字体
であるが、筆の跡は力強い。栴檀は双葉よりである。この大志のとおり、県立大川中学校
(現、三本松高等学校)から東京帝国大学へ進み、イギリス、ドイツ、フランスに学んだ。
帰国後、東大の政治学教授となり、昭和二〇年、戦後初の東大総長。政治学者、哲学者、
さらに、教育者として焦土と化した日本を支えた。その心は『南原繁著作集』全一〇巻に
生きている。
 また、学者としてだけでなく、アララギ派の歌人としても知られ、昭和一一年から二〇
年までの一〇年間の歌の中から、八一九首を自選して、歌集『形相』として編んでいる。
そのまえがきに「この時代をひとりの学徒として、またひとりの人間として生きた偽りな
き記録と告白である。」そのあとがきに、「またこの一〇年間、世界人類の--そしてわ
が民族も、識らずして同じく辿り来った運命でもあるのである。それは実在の単なる仮象
ではなく、アリストテレス謂うところの、永遠的なるものの『形相』(エイドス)として
の生の現実態に外ならぬ。」日誌代わりに書きつけたという一首一首に「生の現実態」と
しての、生きる姿勢に感動せずにはいられない。南原少年は大きな風呂敷を肩に、腰には
弁当を巻き、県立大川中学校まで歩いて通った。約一一キロの道のりである。「どんなに
急いでも片道二時間一〇分。」今、その道をたどりながら、散策してみたい。
 まず、「海上の絶景、一眸百里」の引田の町へ出る。梶原景紹編著『讃岐国名勝図会』
巻の一には、松平頼章公の作になる「引田浦記」が載っている。
 秋の末つかた、讃岐国引田といふ処へ行きぬ。所は浦ちかうして四方(ルビ よも)に
 山多し。蜑(ルビ あま)が舎居(ルビ いほり)かずかずあれば、うちよろぼひて棟
 もさだかならず。磯の浪は枕の下に

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 よせかへり、汐かぜは閨の扉におとたかう吹きあひて寝ざめがちなる。
   あはれなり綱引くなはのながき夜も
               おともくるしき蜑人がすまひは
 都鳥を見ては、「東路のすみだ川原の名ばかりをここにうつしてみやこ鳥かな」と詠む。
棚なし小船をしつらい、三、四人の友と海に乗り出し、沖の島めぐりに行くあたりは、船
も人も快調そのものである。
 潮の香を味わいながら隣の町、白鳥町に着く。面積一〇万平方メートルの松原を背に、
楠の大木に囲まれた白鳥神社が、厳かなたたずまいを見せている。日本武尊を主神とする、
この社は一六六四年(寛文四年)に、初代の高松藩士松平頼重公(徳川光圀兄)によって
再興され、そのとき、神官として京都から招かれたのが猪熊兼古(号千倉(ルビ ちくら)
。一六〇〇~一六七八)である。国学、神道に通じた学者でもあり、その子兼魚(ルビ 
かねうお)とともに、徳川光圀が『大日本史』を編纂した折、いろいろと資料を提供した。
 この千倉が、神官の住居として頂いたものが、県有形文化財に指定されている「猪熊邸」
である。
 受付で、現当主、猪熊全壽(ルビ よしなが)氏の手になる「讃岐白鳥と猪熊邸」とい
う資料を求める。それによると敷地約一町(約九千平方メートル)、室数七〇余(現在三
〇余)、朱印地の役所も兼ねており、陣屋造りという門構え。大名駕籠、伝狩野永納筆杉
戸絵、徳川光圀の手紙など、秘蔵品、約三〇〇点。「民間の正倉院・法隆寺」と呼ばれて
いる。説明のテープを聞きながら、約五〇〇坪の枯山水の庭園に対座していると、自と心
も洗われてくる。
  文の中に生れいでけむさつきよの
       虫ながらなる此身をしおもふ(信男)
 その展示の中には、昭和三〇年、新国宝に指定された『肥前国風土記』がある。昭和初
年、先代の猪熊信男氏(一八八三~一九六三)が京都の古書店で発見したものである。「
この肥前国風土記の中で、最も知られた個所は、ロマンスと伝説を秘めた、大伴狭手彦(
ルビ  おおともの さでひこ)と弟日姫子(ルビ おとひひめご)の話であるという。東
讃に国宝はこれ一つしかない。
 宮内省図書寮御用掛であった氏は、その図書(通称百万冊)の目録方案を作成した。古
文書研究に輝かしい業績を残し「〔シン〕筆(#「シン」は文字番号なし ルビ しんぴ
つ)(天皇の御筆跡)博士」と称された。歌人としても多くの秀歌を詠んでいるが、茶人
としても知られ、「青蓮院の好文亭、寂光院の孤雲亭、高山寺の遺香庵を撰銘」した風流
の人であった。
 『白鳥町誌』によると、俳人、後藤田水(一路庵)は

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明治二年に『白鳥紀行』を著している。俳諧紀行らしく景情一致、音読するとリズム感も
快い。三河の人で、讃岐の勤王家日柳燕石の住居地であった、仲多度郡榎井に住んだ。
 霜月朔日雲天、爰もと出立して、三本まつなる藻翁子を訪ふに留守なり。湊むら里水子
をとぶろふに、翌日なむ正府へ参るとて、何角事しげきよし聞えければ、そこそこにして
みなと川をわたる。折ふし西山に時雨のかかりければ
          ぬるるほど来よや時雨にみそぎせん 
 漸、白鳥の神前にぬかづく。
  早春の風物詩、シロウオ漁が今も残されている、この湊川を渡り、大内町の三本松へと
進む。町並のほぼ中央に勝覚寺がある。南原少年が学んだ県立大川中学校は、県立高松中
学校(現、高松高等学校)大川分校として、明治三三年に産声を上げたが、その仮校舎が、
この勝覚寺に置かれたのである。
 本堂の傍らの庭に、庄松(ルビ しょうま)同行が合掌した銅像がある。本名、谷口庄
松(一七九九~一八九一)は大内町小砂(ルビ こざれ)に生れた。無学文盲であったが、
勝覚寺の寺男として出入りしながら、役僧周天や赤沢融海和尚の教化を受けた。
 JR丹生(ルビ にぶ)駅から西南へ徒歩一五分、「わしは石の下におらぬ」といった
そうだが、小砂の丘の上に立派な墓が建てられた。そのすぐ傍に顕彰碑も建立されている。
 「主に縄ないや草履作りをしながらも、こと念仏信心に関しては一言居士の直言、禅者
の一喝にも似たものであった」一生涯独身、数々の奇行で仏の道を説き、本山門跡からは
「一生兄貴」と呼ぶことを許され、「正真(ルビ しょうま)」の釈名もいただいた。そ
のユニークな言行は林性常の『庄松ありのままの記』、郷土史家、荒井とみ三の『おおち
夜話』に温かく、生き生きと語られている。(中原 肇)