資料名 彫金家北原千鹿 ―人と芸術― 作成者 廣瀬和孝 作成日 平成七年十一月 入力者 廣瀬和孝 校正者 同上 登録日 2002年4月1日
彫金家北原千鹿―人と芸術― 廣 瀬 和 孝 修業時代 北原千鹿は、北原百太郎・モト夫妻の三男として、明治二十年(一八八七)五月十六日、愛媛 県香川郡高松旅篭町(のちの香川県高松市旅篭町、現在の中央町)で生まれた。本名は千禄(せ んろく)であるが、のちに千鹿と号したので、ここでは、千鹿で通すこととする。 北原家は、讃岐高松藩松平家に仕えた武家である。百太郎は旧名を孝知といい、一番丁から旅 篭町に移って提灯屋を営んだ。のちに釣具店を始めたのは百太郎とその長男孝治である。千鹿は 、少年時代、提灯に絵を描く仕事をよく手伝ったという。 北原千鹿は、尋常高等小学校卒業後、明治三十五年(一九○二)四月、香川県立工芸学校(黒 木安雄校長)に入学した。明治三十五年三月の「生徒募集広告」によると、当時の工芸学校には 、木材彫刻、用器木工、金属彫刻、用器金工、用器漆工、描金の六科があり、生徒の定員は各科 とも一学年につき十名であった。北原千鹿は、金属彫刻科に籍を置き、田雑五郎などの指導を受 けながら初めて彫金を学んでいる。母校の『七十のあゆみ』(昭和四十三年刊)によると、一年 先輩の三好眞長(一八八六~一九六六)は、当時を回想して、「そのころは生徒も少なく、実習 が主で、学科は英語、漢文、国語、理科ぐらいでした」と語っている。 工芸学校は、香川県知事徳久恒徳などの尽力によって、明治三十一年(一八九八)二月、高松 市八番丁(現在の番町五丁目)に設置され、明治三十四年(一九○一)五月に香川県立工芸学校 と改称するまで香川県工芸学校と称した。修業年限は四か年であった。初代校長には、当時、中 等工芸教育の第一人者といわれた納富介次郎(一八四四~一九一八)が就任し、彼のもとで学校 の基礎づくりが行われ、東京、石川、富山などの工芸学校とともに、わが国中等工芸教育の一翼 を担うこととなつた。 当時は各地の工芸学校から東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部の前身校)に進学する 者がかなりいたようで、北原千鹿も明治三十九年(一九○六)四月、松尾廣吉などとともに金工 科に進んだ。同級生には海野清(一八八四~一九五六)や小絲源太郎などがいた。親友の三好眞 長は、当時の学校生活を回想して、「私の彫金科という科は、実習と講義で、北原氏とともに特 待生に選ばれて授業料もいらなかつた。毎日学校では植物、昆虫の写生や帝室博物館へかよって 伝統工芸の作品の模写をした」(前掲『七十年のあゆみ』)と語っている。帝室博物館の後身が 東京国立博物館である。 北原千鹿は、この時代に海野勝(一八四四~一九五六)、海野美盛(一八六四~一九一九) などに伝統的な彫金技法を学んで彫金家としての資質を磨いた。北原の弟子大須賀喬が「仕事に かけては…当時の教授達を凌いだ」(大須賀喬「工人社の初期について」―昭和三十七年『デザ イン』三)といっているのは多少ほめすぎであるにしても、技術面では相当に成長を遂げたよう である。このことは、四年生のときの習作「彫崩象眼高肉彫仁王鍔」(明治四十三年)や卒業制 作「多宝塔出現」(明治四十四年)が実証している。後者は、四分一地に打出、毛彫などの技法 で釈迦三尊などの仏像や多宝塔を表現し、額装した作品である。 東京府立工芸学校へ 三好眞長によると、明治四十四年(一九一一)三月、東京美術学校を卒業すると、北原、松尾 とともに「研究所を持って、互いに作品制作に専念し、作家への道に精進するため、各種の展覧 会に出品した」(前掲『七十年のあゆみ』)という。しかし、三好眞長が農商務省主催の工芸展 覧会(農展)に初めて入選したのは帰郷後の大正七年(一九一八)の第五回展であり、北原は同 十一年(一九二二)の第九回展に「普賢真鍮銅羅」、「印度模様銀鐘」、「扁瓶飛魚模様銀一輪 生」が、同十二年の第十回展に「四天王紋様真鍮製台」(三等賞)及び「真鍮香炉」が入選した くらいである。三好のいう「各種の展覧会」は、その他の展覧会を指しているのであろう。また 、研究所というのは北原、三好及び松尾の三人がつくった「たがね会」のことである。 北原は、二十七歳で北条カズヱ(~一九六○)と結婚し、大正四年(一九一五)には長男士( つかさ)が生まれた。 三好眞長によると、この年、「香川県立工芸学校長の田雑五郎氏から母校の教諭として三好か 北原のうち一人を…迎えたいとの熱望がありました。私も困って、二人で相談の結果、一年交替 で母校に勤める返事をした。北原氏のすすめで、私が赴任することになり、その交替制は実際に はおこなわれず、そのまま高松で暮らすことになった」(前掲『七十年のあゆみ』)。この経緯 については、のちに新田藤太郎や後藤學一が述べていることと食い違うところもあるが、三好は 、母校の教諭として勤務ののち、昭和六年(一九三一)十二月から同十八年(一九四三)三月ま で、校長として学校経営に専念することとなる。 東京に残ることとなった北原は、高松市岡本町出身で東京美術学校の先輩にあたる山本正三郎 (一八七二~一九六二)のすすめで、大正五年(一九一六)から東京府立工芸学校で教鞭をとり 、同十年(一九二一)まで勤務する。その間の教え子の中に信田洋、田村泰二、深瀬嘉臣、村越 道守、内藤四郎などがいる。彼らの多くはのちに工人社で活躍する。 府立工芸学校時代の北原家では、長女幸子、次男央(ひさし)が生れて家族が五人となった。 内弟子もかかえるようになって生活も大変だったようである。当時世間は第一次世界大戦の影響 もあって景気が好く、装身具などの需要が増し、金工家の中にはかなりの副収入を得る者があっ たらしい。大正十四年(一九二五)に上京して北原の内弟子となった後藤學一の話によると、北 原家に装身具の下絵がたくさん残っていたというから、北原もこのような仕事にかかわる機会が あったのであろう。 古代金工の再認識 北原は、大正十年、府立工芸学校を退職して作品の制作に専念することとなった。当時北原に は八巻於菟三(明治四十四年東京美術学校卒業)などの有力な後援者がいて仕事の注文がくると いう見通しが立っていたこと、新しい工芸としての彫金を生み出したいという願望とそれを自分 がやらなければならないという使命感に満ちていたこと、また、それを成し遂げるだけの自信が 持てるようになったことなどが、彼に自由な作家活動を選ばせることになったものと考えられる 。 ちょうどこの年は聖徳太子御遠忌千三百年にあたり、法隆寺の宝物が特別に展観されることと なった。北原は、弟子の信田洋を伴って宝物を拝観するため奈良に旅行する。信田は、後年、こ の旅行で「金工芸のすばらしさが半分ぐらい呑み込めた」(『彫金金工・信田洋作品集』昭和四 十七年)と記している。北原にとっても古代の金工を再認識するいい機会となった。 彼は、この旅行ののち、「散華衝立」を制作し、翌年三月の平和記念東京博覧会に出品して銀 賞を獲得した。この衝立は、背景の花模様の透し彫りの上に打ち出しでつくった鹿を中央に、塔 、香炉を左右に配したもので、この大作の下絵は高松市美術館に保存されている。 これからのち、北原の活動でまず注目されるのは、光爐会の結成と作品展の開催である。 光爐会は、鋳金の岩田藤七、香取正彦、北原三佳、杉田禾堂、豊田勝秋、山本安曇や彫金の北 原千鹿などが工芸技術の研鑽をめざして結成したものと考えられるが、結成の時期ははっきりし ない。大正十二年(一九二三)十二月に日本橋丸善において開催された「第一回作品展覧会」に は、北原の教え子にあたる大須賀喬や信田洋、村越道守も出品している。「出品目録」によると 、会員の出品点数は四十三点で、北原の作品としては「蓮弁」(香炉)、「芽生」(花瓶)、「 落葉」(花瓶)と名づけたものや紙切が見える。当時の作品の所在がわからないので、「出品目 録」で判断するしかないが、豊田勝秋による表紙のデザインや東京美術学校在学中の信田洋の作 品名などからみて、かなり新しい傾向がうかがえるように思われる。 ところで、わが国でも明治末年頃から大正年間にかけて、工芸も絵画や彫刻などに刺激されて 、新しい工芸をめざす動きがだんだん活発になってきた。つまり、単なる工芸から美術工芸を創 造するための動きである。一方で「日本や中国の古典金工を現代化する」ための努力が、他方で 「欧州の新傾向をとりいれた、新味ある工芸を生む」ための努力がなされていく(『日本美術全 史』美術出版社、昭和四十七年)。特に後者の場合、大正十年頃から構成主義の影響がみられる ようになったとされているが、光爐会の活動はこうした動きの一つとして捉えてもいいのではな いかと考えられる。 光爐会の作品展覧会は大正十三年、十四年と開催されたが、やがて起こる新工芸運動の中に吸 収されていく。 その間、北原家では次女秀子、三男貢が生れて家族は七人となり、住所も小石川区原町から田 端に移っている。 研究会と工芸済々会 大正十四年(一九二五)は、北原千鹿の生涯において画期的な年となった。 この年の初めにフランスから帰朝した津田信夫(一八七五~一九四六)は、ヨーロッパにおけ る新しい工芸の動きを仲間に伝え、彼らに大きな刺激を与えた。このころ津田教授の家によく集 まったのが北原千鹿、佐々木象堂(一八八四~一九六一)、杉田禾堂(一八八六~一九五五)、 高村豊周(一八九○~一九七二)及び山本安曇(一八八五~一九四五)の五人であった。「その うちに、今までの工芸の考え方をまったく離れ、新しく考え直して鋳金や彫金の制作をやってみ よう。やってみなければわからないから、毎月一点ずつ持ち寄ってお互いに批評し合うことにし ようということになった」(高村豊周『自画像』中央公論美術出版、昭和四十三年)。このよう にして研究会が生れ、それがのちに无型(むけい)へと発展するのである。 他方、北原千鹿は同じ年の五月に結成された工芸済々会に同人としてその名を連ねている。こ の会は、「赤塚自得氏やその外の有志で相当真剣に組織したもので、矢張り帝展に第四部を実現 せしめるための心組みが多分にあったもの」とされている。結成時の同人は、板谷波山(陶芸) 、石田英一(鍛金)、六角紫水(漆芸)、沼田一雅(陶芸)、香取秀眞(鋳金)、桂光春(彫金 )、堆朱楊成(漆芸)、植松包美(漆芸)、海野清(彫金)、山本安曇(鋳金)、赤塚自得(漆 芸)、佐々木象堂(鋳金)、北原千鹿(彫金)、峰岸寶光(介甲)、清水亀藏(彫金)、杉田禾 堂(鋳金)の十六名で、中心となったのは当時の工芸界の重鎮といわれる人々であった。北原千 鹿は工芸済々会の活動を通じて板谷波山(一八七二~一九六三)、香取秀眞(一八七四~一九五 四)、堆朱楊成(一八八○~一九五二)などとのつながりも持つことができたように思われる。 大正十四年の秋、日本橋高島屋で第一回展覧会が開催された。北原は「水瓶(霜)」を出品し たものと考えられる。 この年の七月、北原家では長女幸子が他界した。 工芸済々会のその後の活動は資料が乏しいので全貌を把握することは困難であるが、帝国美術 院美術展覧会(帝展)に第四部が設置されてからも続けられている。ちなみに、結成から十二年 を経た昭和十二年(一九三七)六月現在の同人は二十名、その氏名は次のとおりである。 板谷波山、石田英一、六角紫水、香取秀眞、桂光春、堆朱楊成、海野清、山本安曇、佐々木象 堂、 北原千鹿、清水亀藏、飯塚琅斎(竹工)、保阪光山(鋳金)、仰木政斎(木工)、鹿島 英二(染 色)、河面冬山(漆芸)、都築幸哉(漆芸)、梅澤隆眞(漆芸)、松田權六(漆芸) 、森川紫山 (漆芸) 北原は、同十一年(一九三六)の新作展に「鹿文金彩銀香爐」や「五山文金彩銀香爐」を出品 している。(工芸済々会については、主に同十二年六月発行『汎工芸』第十五年第四号所載の柴 崎風岬「工芸団体の既往と現在(二)」によった。) 研究会から无型へ 北原央によると、大正十五年(一九二六)に入って、北原家は田端から巣鴨町上駒込に転居し ている。そこでは、杉田禾堂や山本安曇が近くに住んでいて、三人が制作を競い合った。 北原は、この年の六月、在京の中堅、新進の工芸家とともに工芸界の刷新と新しい工芸の樹立 をめざして、研究会を母胎とする无型(むけい)の結成に尽力した。創立時の同人は二十一名。 金工ばかりでなく、漆芸、染、評論などの各分野に及んでいる。同人の氏名は次のとおりである 。 藤井達吉、廣川松五郎(染色)、澁江終吉(染色)、渡邊素舟(評論・図案)、村越道守、杉 田禾 堂、北原千鹿、山本安曇、豊田勝秋、鈴木素興(漆芸)、吉田源十郎(漆芸)、加藤居山 (漆芸)、 太田自適(漆芸)、山崎覺太郎(漆芸)、佐藤陽雲(漆芸)、田口啓次郎(漆芸) 、西村敏彦(鋳 金)、佐々木象堂、内藤春治(鋳金)、松田權六(漆芸)、高村豊周 また、高村豊周、豊田勝秋、山崎覺太郎などが中心となって発行したパンフレット『无型』の 創刊号(昭和二年一月)には、「无型の誕生」と題する次のような文章が載っている。 无型は無型、型ナシだ。型を持たぬ。すべて自由に、各人各様の姿態を持つ。それならば何 でもよいかといふに、必ずしもさうではない。各人各様の姿態を通じて眼に見えぬ線の連鎖があ るのでなければならぬ。 燃え上がる熱情と生一本のムキな意気込みと牛のやうな根気と、そして美しい未来へのあこ がれ と、―これだけは是非ともなくてはかなはぬ。 懐古趣味、退嬰、萎縮、安息、死滅、空虚、沈黙、現状維持、事勿れ、―これらは无型の最 も排 斥するところだ。 新鮮、ヴヰヴヰッド、溌溂、前進、躍動、充実、現状破壊、未来、歓声、―すべて光りある 彼方 へ向って无型は旗を振りかざす。 今は即ち今だ。飛び去る瞬間だ。この瞬間を愛せよ。この瞬間に息づく工芸美術を作れ。守 れ。 大宮人が桜をかざして歩いた時代を憧憬する者よ、まず死ね。 この文章からは、彼らの主張と意気込みがひしひしと伝わってくる。 无型の同人は、昭和二年(一九二七)から同七年(一九三二)まで毎年、日本橋三越で工芸展 覧会を開催し、工芸界をリードしながら新しい美術工芸を開拓していく。 同人の信田洋は、昭和五年発行の『美之国』第六巻第八号の中で无型の活動とその成果につい て次のように評価している。 无型は新興工芸の先輩であり、兎にも角にも今日一般の現代芸術としての彼を認識させる為 に必 要な存在だ。无型の新しい時代の型の創造は、近代性感覚を把握した点でどの会にも一歩 先んじて ゐやう。其の透徹した理智のひらめきある形態は動もすると其の作品を冷たくするけ れども、現代 生活と有機的なはっきりした工芸普遍性は意識的に処理されて、最も現代の彼ら しい工芸品は作ら れた。そして无型は今日、近代芸術としての範疇に於ける一段階としての新 しい型の意識的創造を 完成したかの感ある第四回展を持ったであらう。 北原が无型の工芸展覧会に出品した作品のうちでその存在が知られているのは、第二回展の「 洋酒杯」、「一輪生」、第三回展の「葉巻入」、「花瓶」ぐらいのものである。「洋酒杯」につ いては東京日日新聞に「まず態度がいい。図への着想と材料の扱ひ方が悧発だ。特に現実を詩化 しやうといふような効果の美しさを見せるところに近頃の進境が見える。今度の杯は銀に漆で装 飾文を帯風に描いたのだが、使ひ慣れるに従って非常に快い落ちつきを示すことだらう」という 批評が載っている。「一輪生」の簡素な器形、「葉巻入」と「花瓶」の西欧的な装飾模様などに は、工人社前期の作品と共通な傾向がみられる。そこには、新しい造形や彫金の美を創造しよう とする意欲と使命感からくる気迫が感じられよう。京都国立近代美術館に所蔵されている「漆彩 色卍文酒瓶」はこの時期の作品に共通する特色を備えている。 大正から昭和にかけてのわが国の工芸界では、新しい工芸運動の高まりの中でいわゆる伝統派 と革新派との対立抗争があったといわれている。そうした中で新進・中堅の工芸家の中には、師 弟関係などのこともあって去就に迷った者もあったと思われる。佐々木象堂や山本安曇は、昭和 五年(一九三○)六月、无型を退会することとなった(『无型』第二十四号、昭和五年十一月) 。北原の去就についてははっきりとはわからないが、パンフレット『无型』で見るかぎり同人と して活躍したのは佐々木、山本とほぼ同じ第四回展頃までであろうと考えられ、同七年には退会 したものと推察される。 そして、同人は、昭和八年(一九三三)四月、「頭初我等が意図せるもの、今や漸く工芸の全 部に遍からんとする」として无型を解散することとなった(高村豊周『前掲書』、豊田勝秋「无 型発足の頃の思い出」―昭和三十七年『デザイン』三所収)。同人の高村豊周、豊田勝秋、内藤 春治、吉田源十郎、山崎覺太郎、廣川松五郎などは、昭和十年に実在工芸美術会を結成する。 日本工芸美術会 明治四十年(一九○七)に創設された文部省美術展覧会(文展)には工芸部が設置されていな かった。このことは、少なくとも主催者が工芸を芸術として認知していなかったことを物語るも のであろう。そのため、心ある工芸家は工芸を芸術のレベルに高めようと精進に努めるとともに 、文展に工芸部を設置するための運動を展開してきたのである。文展に代って大正八年(一九一 九)から始まる帝国美術院美術展覧会(帝展)でも工芸部は設置されなかった。ところが、同十 五年(一九二六)になって工芸部の設置がにわかに具体化し、その受皿として日本工芸美術会が 結成されることとなった。无型が発足したのと同じ六月のことである。北原は在京作家の一人と してこの会に参加し、赤塚自得、津田信夫、板谷波山、香取秀眞などに協力して第一回展覧会を 成功に導いたのである。このときに出品したのが「燕麦花瓶」で、斬新なデザインと伝統的な技 法がほどよく調和した極めて優れた作品であるといわれている。 北原は、昭和二年、帝展に第四部(美術工芸)が設置されると、帝展作家として華々しくデビ ューすることになるが、このことについて述べる前に、彼が主宰した工人社についてまず触れて おきたい。 工人社 工人社は、昭和二年(一九二七)十一月、北原千鹿を主宰者として新進の金工家たちによって 組織された美術工芸団体である。 (一) 同人がめざしたもの 工人社を結成するに当って中心的な役割を果たしたのは、大須賀喬(一九○一~一九八七)と 信田洋(一九○二~一九九○)である。大須賀は、香川県立工芸学校を卒業後上京して北原に師 事し、東京美術学校彫金科を出て間もない新進の彫金家であり、信田は、東京府立工芸学校で北 原に学び、卒業後北原に師事、その後東京美術学校に入学する。当時はまだ学生であった。 多くの同人は、北原の教え子や北原の人柄を慕って集まってきた若い工芸家や学生であった。 特に東京府立工芸学校や香川県立工芸学校を卒業して東京美術学校や東京高等工芸学校に学んだ 者や在学中の者が多かった。従って、工人社の同人は、ほとんど二十歳代の若者であり、それだ けに純粋で、行動力もあり、自由に活動することができる人々であった。 信田洋は、工人社の性格について次のように述べている(工人社『回顧録』昭和十一年)。 工人社の集りは人の集りではない。仕事の集りであった。即ち制作への集りであった。そし て研 究への集ひであった。新しき時代への制作の為、其の研磨の為正しき認識を以って裸にな った人、 またなれ得る人々が一つの道によって集められた。恰もこの時代の趨勢が醸し出した 所の旋風が、 あるものを一ヶ処に吹き集めたやうな形でたまたま集結したのである。集ったも のは仕事であり、 其の工人社に拠って只一筋に制作に研鑽に歩み出したのである。だから人は 全く自由である。自由 に考へてよい、自由に行動していゝ、自由に歩む、それぞれの研究は制 作は全然自由そのものであ る。決して一つのカテゴリーの中に縛りつけるものではない。然し ながら仕事に於ける統一的意識 はー工人社に於ける統一的意識は現代生活に其の基調を置くー 自分たちが常に現代を如実に生活す る生活者であり、同時に工芸制作人であって、それに向っ て全的に、動的に、積極的に進出する気 もちによって一致してゐる。現在も其の気もちに変り はない。恐らく将来もさうであらう。 仕事の集まりであり、研究への集いであるとする工人社の同人たちは、この時代の工芸界をど のように見ていたのだろうか。このことについて大須賀喬は次のように回顧している。 私共工芸界では展覧会といえば博覧会の美術部門、輸出工芸振興による商工展、帝展、美術 協会 展位のもので、近頃のような大小様々の団体展やグループ展等はほとんどなく個展など思 いもおよ ばぬ時代でありました。いきおい私達もこれらの展覧会に出品する事が唯一の勉強の 道であった訳 であります。しかし、北原先生を始め私共の金工関係の方面は、いわゆる作家と 称する人々の出品 作品もほとんどが永年教えられ、やり尽くして技術を同巧異曲の表現と惰性 で終始していたという、 まことに情ない状態でありました。(大須賀喬「前掲論文」) このような認識については異論もあろうかと思われるが、「情ない状態」を打ち破り、彫鍛金 を中心とした金工界、ひいては工芸界に新風を吹き込むため、工人社の同人は活動を開始したの である。このことについて信田洋も、「所謂技術の技術は暫しここでは問題にしない。彼の技術 は既に前人によって発達するだけして来てゐるのである。技術は已に頂上まで行きついてそして 耽溺してしまってゐるのである。若き後人は其の沈滞し切った空気の中にもがきながら、其の耽 溺から解放されなければならないと思った。それらの技術を如何に生かすかといふ事が正しく此 の時代の金工の芸術であり、そして工芸の本質性に合致させねばならないといふ事を深く意識」 したといい、具体的には「彫金、鍛金、鎚起、板金等の技術を細かく分析しないで大きく一纏め にして工芸の視野から追求」していった、と回顧している。(工人社『前掲書』) その成果は、工人社の展覧会ばかりでなく、无型の展覧会、とりわけ帝展、新文展における同 人たちの活躍となってあらわれる。 (二) 同人の異動 工人社のメンバーにも年月の経過とともに多少の異動があった。その異動は次のとおりである 。 昭和二年(一九二七)十一月 同人十二名 富田 稔、大須賀喬、川本吉藏、鴨 政雄、田村泰二、村越道守、信田 洋、柳川槐人、 山脇洋二、古橋 茂、深瀬嘉臣、北原千鹿 昭和五年(一九三○)六月 同人十四名 津田粂二、後藤學一が同人となる。 昭和六年(一九三一)四月 同人十一名 柳川槐人、深瀬嘉臣、津田粂二が退社する。 昭和九年(一九三四)五月 同人十八名 岡部達男、各務鑛三、鴨幸太郎、安井喜一、松原南海、福田三郎、佐藤潤四郎が同人とな る。 昭和十年(一九三五)五月 同人十五名、社友三名 富田 稔、古橋 茂、後藤學一が社友となる。 最初は金工家だけの団体であったが、昭和九年からはガラス工芸などの作家も加わり、同人の 活動もだんだん幅が広くなってきた(工人社『前掲書』)。 なお、昭和三年八月現在の事務所は、府下本田村四ツ木一七一の村越方にあった。 (三) 同人の工芸品展覧会 工人社の同人は、一人ひとりの研鑽の所産である作品を発表するために、昭和三年(一九二八 )から同十四年(一九三九)まで東京で十一回、地方で七回、計十八回の展覧会を開催した(工 人社『前掲書』、『第十一回工人社工芸品展覧会出品目録』昭和十四年)。 東京では、第一回展(昭和三年五月)、第二回展(同四年四月)、第三回展(同五年六月)を 東京朝日新聞社ギャラリで、第五回展(同八年)から第十一回展(同十四年)までを毎年五月、 日本橋高島屋サロンで開催している。第四回展(同六年四月)は東京府美術館の「全国工芸リー グ展覧会」に合流し、同人合作による「流れのある水盤」を出品した。昭和七年(一九三二)に は展覧会を休止している。 工人社の展覧会で注目されるのは、東京だけでなく地方でも開催していることである。すなわ ち、「地方進出」の第一回展(昭和三年六月)及び第二回展(同四年五月)を大阪丸善画廊で、 第三回展(同五年六月)を仙台商品陳列所で、第四回展(同六年五月)及び第五回展(同九年七 月)を大阪大丸で、第六回展(同十年十月)を大阪「そごう」で、第七回展(同十三年五月)を 長岡市商工会議所でそれぞれ開催した。昭和十四年(一九三九)に地方で開催したかどうかは明 らかでないが、七回のうち五回を大阪市で開催している。 地方開催第一回展覧会について信田洋は、少しまわりくどい言い方ではあるが、「東京と大阪 とで同じ時期に同じ作品を以て開いた展覧会が、観衆に対して映じた受け方は自ら異るものがあ ったけれども、主として売却の意味から見ると東京では直接受けられなかったものが、大阪では 却って其の意味で好評を以てかうした清新な傾向的作品が大半求め去られたと言う事は、単に経 済的好況を意味する以外に他に重要な意義がある事を否めないと思った」(工人社『前掲書』) と、地方開催の主な目的が作品の売却にあることを述べるとともに、東京と大阪とでの顧客の意 識の違いを指摘している。 また、工人社は昭和七年(一九三二)を境に会場をデパートに移している。このことは過去四 回の展覧会が鑑賞本位の作品発表であったのに比べて、「作る以上は実際に使って貰ひたい、使 用する事によって作品の芸術味を直接感味して貰ひたい」(工人社『前掲書』)という願望をか なえるために少しでも多くの人々に対する宣伝と啓蒙をねらった、と考えることができるように 思われる。 ところで、北原千鹿は工人社の展覧会においてどのような作品を発表したのか。現在、その全 貌を把握することは難しいが、『回顧録』、『汎工芸』第十五年第四号(汎工芸社、昭和十二年 )及び『第十一回工人社工芸品展覧会出品目録』によって知ることができるのは次のとおりであ る。 第一回展 「喫煙具」、「燭台」、「一輪生」 第二回展 「皿」 第四回展 「流れのある水盤」(同人合作) 地方第四回展 「壁面花」 第九回展 「額面」 第十一回展 「花と木の置物」、「銅花瓶」 これらの作品のうち、現在、実際にみることができるのは「額面」ぐらいのものである。写真 で知ることができる「喫煙具」(莨函)、「皿」、「流れのある水盤」、「壁面花」、「花瓶」 も含めて、西欧的で、モダンで、メカニックな感じのする作品のように思われる。特に、「壁面 花」は第八回帝展で特選となった「置物(花)」の延長ともいえる板金の作品で、鋭く美しい構 成美を感じさせる。 同人が工人社の展覧会で発表した作品のうち、村越道守の「喫煙具」、鴨政雄の「花瓶」、大 須賀喬の「置物」など三十点は図録で見ることができるので、おおよその傾向は把握することが できる。特に、前期の作品については、全般に「メカニズム」に見えたり、構成主義的な傾向が 見受けられるといわれている。これは北原とて例外ではない。このことについて信田洋は次のよ うに論じている。 決して其等のやうな画一したイズムの下に仕事をするものではない………、作品が概して機 械的 な要素を取り入れてあったり、また構成的になされたのは、同人達が明らかにメカニック な美、構 成的な美を意識する事によって成されたのであって新しい概念によって作品を生み出 さうとした共 通した努力の現れで、工芸を一つの形式主義の中に縛りつけて仕事をするもので はなく、少くとも 単に工芸品の形態を変化させるといふ事よりも他になさねばならぬ仕事とし て、工芸本来の使命を 確明すべき事を第一と認めて来たのであった。形態に於て新しい形式を 追った作品のあったのは、 新時代に生き行くものの美の欲求に随ひ、時代生活に必然的に合致 したに過ぎなかったので、結局 はただ工芸は時代によりよき工芸である事を切に望んでゐるも のであった。(工人社『前掲書』) 昭和六年(一九三一)三月から四月にかけて日本工芸美術会が中心となって三越で開催された 「全国工芸リーグ展覧会」には、石川県工芸団、蒼玄社、近畿漆工家協会、日本漆芸協会、綵工 会、无型、富山県工芸協会、無絃社、漆芸会などとともに工人社も第四回展として参加し、同人 合作による「流れのある水盤」を出品している。これについて『工芸時評』一九三一第三号・第 四号(工芸時評社)に次のような記事が出ている。 第五室、工人社、……北原千禄氏等十三氏の協同製作になる「流れのある水盤」が広い会場 の中 央に唯一基設置されて、これまた今回の異彩とするものである。この優れた製作には作家 の個人性 は毛頭顔を出してゐない(又さうあるべきが正当である)。工人社の十三氏の団結力 が或る統制の 下に組織化し構築されたのがこの巨大な水盤である。個人でなければ芸術は創れ ないやうに云ふ封 建的個人主義作家に見せてやるべき作品である。(桂田榮明「全国工芸リー グ展批判」) 工人社は、「流れのある水盤」に依ってこの社のリーダーを中心として結ばれた同人達の美 しい 友情が泉の如く渾々と湧き出ずる心良さをはっきりと私に感じさして呉れる。よき合作へ の理解深 きワンステップとして特記すべきものである。(豊田勝秋「全国工芸リーグ展より」 ) 以上の記事で見る限り「流れのある水盤」は概して好評であったことがわかる。しかし、同人 の共同制作はこれが最初にして最後のものとなった。 工人社の展覧会は、常に「最も新感覚」の展覧会として評価されていたようである。このこと が主宰者である北原千鹿の名声を高め、それが工人社の存在を大きくクローズアップさせること となった。専門誌は、昭和十二年(一九三七)五月の第九回展に関連して、「ねばり強い底力を 持つ工人社の態度は、作品にその全姿をうつしてゐるところに好感が持たれる。これは北原氏そ の人の反映のやうに考えられるが、同人が一致してその気持ちで押し進んでゆくところ、まさに 中心人物の北原氏の存在とも云えるであらう。今夏の新作展を見てもその足跡がよく想像出来る 、同人は頑張ってゐる、一個の力は一個の力としてはづみ切ってゐる、それが一団となつて統一 され技巧と精神力の活動がよく時代を示さうと努めてゐる所に、吾等は此の社の展覧会を賞した い」(『汎工芸』第十五年第四号、汎工芸社、昭和十二年六月)と記している。 工人社は第九回展から同人の紹介による作品を併せて展観している。「決して無理にすすめて 人を集める様な事は勿論しないが、基調を同じくする製作者ならば敢へて之を拒むものではない と云ふ気持ちを更に押拡げて、同人以外の作家にも其の出品を開放することにした」のである。 そのねらいは、結成以来十年を経た工人社が「若さと元気と熱を更に注入し新鮮な空気を得る」 こと、「金工のみに偏らず一般工芸の工芸性から言っても仕事の上に、この区画を解く」ことに よって一層の発展を図り、工芸界に寄与するところにあった(「工人社展覧会出品開放の弁」― 『汎工芸』前掲号)。それとともに、「紹介出品」を認めるようになった背景として、成長した 同人たちの周辺に新人がだんだん育ってきた、という事情があったことも見逃すことができない であろう。 工人社の展覧会は、第十回展(昭和十三年五月)、第十一回展(同十四年五月)と開かれるが 、国家総動員法の公布、重要産業統制法の施行など、戦時色が強まる中で自粛を余儀なくされ、 第十回展などは、「時恰も非常時下の世情を以て敢えて小品展とせ」ざるを得ないというような 状態となった(『第十一回工人社工芸品展出品目録』)。信田洋は、当時をふりかえって「作品 を作ってもさっぱり売れなかった」と私に語ったことがある。 そして、昭和十五年(一九四○)二月二十日、工人社はとうとう解散声明を出すに至った。だ から、工人社の展覧会は前年の第十一回展が最後のものとなった。 この年には、紀元二千六百年奉祝美術展覧会の開催、工芸美術作家協会の結成、七・七禁令( 奢侈品等製造販売制限規則)の公布など美術工芸団体の活動や奢侈品の製造・販売に関する統制 が行われて、展覧会の開催など独自の活動を行うことはむずかしくなっていく。また、この頃の 世間の自粛ムードが作家たちの作風に影響を及ぼしたことも否めないであろう。 (四) 北原の役割 「何の野心もなく見栄もなければけれんもなく、まことに素朴なしかも真摯な仕事の上での集 りでしかなかった」(大須賀喬『前掲論文』)工人社の同人もだんだん成長を遂げて、作家とし ての役割をそれぞれ果たしていくことになる。 工人社はもともと若い作家たちが集まった小さな美術工芸団体で、存在した期間も十三年程度 のものであった。だから、その役割を過大に評価することは避けなければならないが、自由に研 究し、制作し、主として金工を中心とする工芸においてその時代をよりよく表現しようとする努 力が日本の新しい工芸運動の中で他を刺激し、近代工芸の確立のためにかなり重要な役割をはた したことは否めない事実であろう。 北原千鹿が工人社においてどのような役割を果たしたのか。この点について大須賀喬は、「先 生が工人社を主宰されて十余年間決して手を取って教えたり、理論や言葉でわれわれを指導され たということはありませんでした。しかし展覧会での一作一作毎に無言の中にご自分の仕事によ って、かくあるべきだという事を示されたような気がします。われわれも各人それぞれの解釈と 理解、深い感動と共に教えを受けていったと思っております」(大須賀喬「前掲論文」)と述べ ている。いうまでもなく、同人たちが工人社の展覧会を中心に作家として成長していくことを、 あるときは自分の作品でリードし、またあるときは陰に陽に援助していった。その結果は同人の 帝展、新文展、日展などにおける活躍となって現れたのである。 帝展から新文展へ 昭和二年(一九二七)は北原千鹿にとって悲喜こもごも来るという年となった。一月に母モト 、九月に次女秀子が亡くなった。しかし、彼は、无型第一回展(三月)、日本工芸美術会第二回 展(七月)に出品し、十一月には工人社を組織した。 この年、北原にとっての最大の喜びは、帝国美術院第八回展覧会(第八回帝展)に第四部(美 術工芸)が設置され、自分の作品が初の特選に選ばれたことであろう。当時は一人二点までの出 品が認められていて、彼はこの展覧会に「花盛器」及び「置物(花)」を出品している。そのう ち、「置物(花)」が特選に選ばれたのである。この作品は、「鉄や銀の板金」で作られ、「素 朴で新鮮な作風が大きな反響を呼んだ」といわれている(前田泰次「北原千鹿」ー芸艸堂『工芸 とデザイン』昭和五十三年)。信田洋は「北原先生の花(置物)は果然工芸界の風雲を巻き起し たが、その作品こそ正しく近代彫金金工の夜明けであり、発火であり、感激であった」と語って いる。私もこの調査のために訪れた日本芸術院で図録を見たときの驚きを忘れることができない 。 この作品はそれまでの彫金の枠を打ち破ったもので、彫金だけでなく鋳金も板金も漆を使うこ とまでも行ったという北原の幅の広さを物語るものであろう。もちろん、抜群のデザイン力とそ れを磨くための日毎の精進とがこのことを可能にしたのである。 第九回帝展(昭和三年)では、出品した「羊」と「燭台」のうち「羊」が特選となった。これ は前年の「置物(花)」と同様に「切金の面白味をリベットで表そう」と試みた作品で、自己の 造形感覚を余すところなく表現している。北原が連続して特選となったことについて、大須賀喬 は、「私達にとっては晴天の霹靂と申しますか、……その道の先輩はもちろん、全く方面違いの 人々の間でさえ、大きな話題となったものであります」と述懐している。 第十回帝展(昭和四年)では推薦となり、「漆彩色銀花瓶」及び「朧銀製置物(兜)」を出品 している。特に後者について、高村豊周は、「この作品は珍しい。物の実相を象らない、いはば 象徴的なもので、或る金属材料の硬さ、色、肌、光沢等の特殊性を自由に駆使する事によって自 分の感覚をそれによってのみ表現しようと試みたものであるらしい。・・とにかく今日の工芸美 術にはユニークなもの特筆すべき作品だ」(社団法人日展『日展史』昭和五十七年~)と評して いる。 北原千鹿に対する彫金家としての評価は、帝展の第八回展から第十回展にかけての出品作品に よってほぼ定まったように見受けられる。彼は、美術工芸家としての地位をほぼ確立したばかり でなく、美術工芸界のリーダーの一人として活躍することとなるのである。 ところで、帝展第四部も第十一回展(昭和五年)頃になると、会場芸術としての限界を見せ始 めるとともに、作品の傾向が「新しいと観られたものが漸く類型化して興味を失ひ、稍もすると 構成の過剰に悩まされ」るような状態になってきた、といわれている。このことは北原も例外で はなかった。彼の出品作である「ブラッケット」について、「どこかに中世的の趣味を新しく意 図したところに、この作者独自の持ち味が活らいて一つの雰囲気を醸してはゐるが、稍装飾意識 が勝ち過ぎた感がある」(渡邊素舟「帝展工芸評」ー『美之国』第六巻第十一号、昭和五年)と いう批判があった。これに対して、高村豊周は、『美之国』の「第四部景観」と題する記事の中 で、「今年の帝展は金工が断然抑へてゐる。その中から僕は豊田勝秋氏の鋳銅花挿、内藤春治氏 の照明装置、信田洋氏の彫金透彫筥、杉田禾堂氏の『用途を予期せぬ美の創案』、北原千禄氏の ブラッケット等を優秀作として数へる事が出来る」と述べている。无型の同人でも評価が分かれ たのである。 彼はこの年に開催された第二回奉賛展に「香爐(鉄)」を出品している。 北原千鹿は、昭和六年(一九三一)の第十二回帝展で初めて審査員に任命された。出品作品は 「銀の皿」である。彼はこのころから全盛期を迎えるとともに、帝展や新文展に出品する作品の 形や図柄に変化が認められる。皿、壁掛、壷、花瓶などに山、草木、鳥獣、蛙などを好んであし らうようになっていく。従来のややヨーロッパ風の表現から日本的な暖かさとゆとりのあるもの へと変化したかに見える。また、難しい技法を巧みに使いながら、決してひけらかすことなく、 常に工夫を重ねてバラエティに富んだ仕事をさりげなく行っている。このことは、第十二回帝展 の「十二支文象嵌皿」から第五回新文展の「銅押出し鳩置物」までの各作品をみれば明かであろ う。 なお、北原が公的に「千鹿」と号するようになるのは昭和七年(一九三二)頃からと考えられ る。(文部省『第十二回帝国美術院美術展覧会図録』第四部美術工芸、昭和七年) 昭和六年(一九三一)から同十九年(一九四四)までの官展に関する事項をまとめると次のと おりである。これを見ると、北原の全盛期ともいえる華々しい活躍がある程度理解できよう。 │ 展覧会名 │年 代 │役職等 │ 出品作品 │ 備 考 │ │第十二回帝展 │昭和 六年│審査員 │銀の皿 │満州事変が起こる。 │ │第十三回帝展 │昭和 七年│審査員 │十二支文象嵌皿 │五・一五事件が起こる。 │ │第十四回帝展 │昭和 八年│無鑑査 │双魚置物 │日本が国際連盟を脱退。 │ │第十五回帝展 │昭和 九年│審査員 │蛙壁掛 │室戸台風 │ │改組第一回帝展│昭和十一年│指 定 │銀製鶴文金彩花瓶│二・二六事件が起こる。 │ │昭和十一年文展│昭和十一年│委 員 │銀金彩鹿文花瓶 │日独防共協定が結ばれる。│ │第一回新文展 │昭和十二年│無鑑査 │夏の山草金彩壷 │日華事変が起こる。 │ │第二回新文展 │昭和十三年│審査員 │鶉文銀彩壷 │国家総動員法公布。 │ │第三回新文展 │昭和十四年│無鑑査 │銀及び青銅置物鳩│米穀配給統制法公布。 │ │奉祝美術展 │昭和十五年│ │山壁掛 │大政翼賛会発足。 │ │第四回新文展 │昭和十六年│審査主任│黄銅壷 │太平洋戦争が始まる。 │ │第五回新文展 │昭和十七年│無鑑査 │銅押出し鳩置物 │ミッドウエイ海戦 │ │第六回新文展 │昭和十八年│審査員 │ │第一回学徒出陣 │ │戦時特別美術展│昭和十九年│ │金地毛彫皇土讃仰文(手函)│ │ この表の中で、第六回新文展の出品作品が空欄になっているが、その理由は定かでない。 「銀の皿」は銀材に幾何学的な文様をあしらっている。この作品について、海野清は、「所謂 北原式の軽微さを以て新鮮なる感覚を与へる。ー銀そのものゝ美しさ、味を出すことに苦心して ゐる。鳥渡見には何でもない技巧とも見えるが、深い経験から出発しなくては出来る仕事ではな い」と評している。 「十二支文象嵌皿」は、全体に毛彫りした文様のうち、十二支や五山などに象眼を施したもの で、古典的な美しさがまことに巧妙に表現されている。 「双魚置物」は、「魚の様式化、単純化が実にあか抜けしたもので、かつ、二枚の金属板を綴 じた鋲の頭をそのまゝ見せたのが、かえって全体に現実感を与える」と評された作品である。 「蛙壁掛」は、蓮華に座して座禅を組む蛙を多彩な技法を使って表したもので、「本年度工芸 作品中の逸品である」といわれた。現在、香川県漆芸研究所に所蔵されている。 「銀製鶴文金彩花瓶」は、銀製の角長の花瓶に草花と鶴を絵画風に配し、陶器のように仕上げ た作品である。 「銀金彩鹿文花瓶」は、銀の花瓶に草花や鹿を打出し、金彩を施したものであるが、渡邊素舟 は、「あの金彩の施し方は、却って、作品の調子を低めた」と評している。 「夏の山草金彩壷」は、肩と胴が張り、頚が詰まった、球形をした銀壷に夏の山草を一面に打 出し、金彩を施した作品で、デザインといい、技法といい、その充実ぶりがうかがわれる。 「鶉文金彩壷」については、大島隆一が「北原千鹿氏の打出の銀壷は秋草に鶉を飾ってゐるが 、写生的にもなみなみでない努力が見へる。単に艶消しの程度に仕上げて色を付けなかったのが いゝ」と評している。 「山壁掛」は、谷川の流れに洗われる岩石や岸辺の草花、鹿などを透彫や打出、毛彫などの技 法を用いて軸物風に仕上げたものである。この作品については、「絶賛してもよいものであらう 。元より上代の幡から思いついたものであらうが、この透彫の流れるような手ぎはといひ、鹿の 打出しの繊細なよさや、草花の生新な図案に加へて、バックとの朱色の美しい諧調などまことに 好ましい高古の格調と雅趣とを見せたものとして、推賞するに足るものといへる」と渡邊素舟が ほめている。(以上の「銀の皿」から「山壁掛」までは『日展史』所載の作品評を参照した。) 「黄銅壷」は、真鍮の素地に様式化した草花文に牛や山羊と思われる動物を、蹴彫、毛彫など の技法を駆使して表現した壷で、現在、東京芸術大学に所蔵されている。 「銅押出し鳩置物」は、銅材をいわゆる押出という金属加工の技法などを用いて一羽の鳩をシ ンプルな形に仕上げた作品である。 「金地毛彫皇土讃仰文(手函)」は、手函に山水と松竹梅を毛彫りしたもので、木の内箱には 金銀彩の五山や鶴、柳桜が描かれている。 ところで、北原家ではこの時期に二回転居している。昭和九年(一九三四)、長男士(つかさ )が東京美術学校彫金科に入学した。この頃に世田谷区深沢町四ー五○八へ、次いで彼が同校を 卒業して研究科に進んだ同十四年(一九三九)に同区上馬へ移った。次男央(ひさし)によると 、上馬の家は板谷波山や堆朱楊成などの後援団体でもある風羅会の後援によって新築したもので あったという。 蘆溝橋事件が起こった昭和十二年(一九三七)には高松の実家で父百太郎と長兄孝治が相次い で亡くなったが、東京の北原家では央が東京美術学校彫刻科に入学している。同十六年(一九四 一)十二月には太平洋戦争が勃発したため、五年生であった央は、その直後に美校を繰り上げ卒 業し、翌年の一月に出征することとなった。 この頃が北原千鹿の生涯のうちで最盛期といってもよい時期であり、それは丁度日華事変や太 平洋戦争と重なっている。昭和十六年(一九四一)には第四回新文展の第四部審査主任をつとめ た。 しかし、戦争は北原家に癒しがたい爪痕を残している。同十九年(一九四四)八月三十日、長男 士が鯨部隊に所属して中支方面を転戦中に戦病死したのである。 晩 年 戦後の北原千鹿は、日展の重鎮であり、代表的な彫金作家であった。 第一回展は、戦後の混乱の中で開催が危ぶまれたが、昭和二十一年(一九四六)三月に至って ようやく開催の運びとなった。彼はこの展覧会に「毛彫山水図流金金銅花瓶」を出品している。 同年秋の第二回展では無鑑査の廃止や審査員の公選などの改革が行われた。北原は最高点で第 四部の審査員に当選している。出品作品は、ややインド風でロマンの香り豊かな「楽の音水瓶」 であった。 彼は、翌年の第三回展でも審査員に選ばれ、全面にとぼけた表情の蛙をあしらった、透彫の「 蛙群聴教金銅華鬘」を出品した。この頃まで北原千鹿の活動は順風万帆であるかにみえた。 昭和二十三年(一九四八)になって日展は文部省に代わって日本芸術院が主催することとなっ た。それに伴って審査員公選制の廃止などが行われると、関係者の間で日展の在り方が問題とな り、議論が沸き起こった。そうこうするうちに美術工芸の作家たちの間で日展不出品の運動が起 こってきた。いわゆる「不出品問題」である。このような動きの中で、北原が何を主張し、どの ような動きをしたのかということについては、必ずしも明らかでない。彼はこの年の第四回展に 出品しなかった。しかし、このことが今後の彼の活動に微妙な陰を落とすことになったと思われ る。 その日展も同二十四年(一九四九)の第五回展から日本芸術院と日展運営会が主催することに なった。このときは、「依嘱」として全体が透彫の「金工宝冠(聖観世音菩薩)」を出品した。 同二十五年(一九五○)には日展参事となり、その年の第六回展では透彫を主とした「彫金印箪 子」を世に問うたのである。 しかし、北原千鹿は、いよいよこれからが仕上げというときに不運にも病に倒れ、昭和二十六 年(一九五一)十二月二十九日、肋骨カリエスに脳症を併発して、高松市旅篭町(現在の高松市 中央町)の実家(北原孝義方)で永眠した。享年六十四歳。 亡くなる前に病床を見舞ったという後藤學一は、当時のことを次のように語っている(「北原 千鹿と金工」―香川県美術工芸研究所『北原千鹿―人と芸術―』所収)。 戦後、小倉右一郎校長が、漆で磯井如眞、日本画で松本、彫金で北原、この三人を高松工芸 高校 の講師として招聘した。北原先生は昭和二十四年度から年三回来ていた。たまたま高松で 先生が病 気になり、高松の地で亡くなったんです。内科は猪木病院でね。カリエスだったが、 猪木さんの紹 介で三宅病院に入院し、手術をした。一時小康を得て、そのときに沢山絵を描か れた。十月、石清 尾八幡宮の秋祭がすんでから生家へ帰って養生していたのですが、だんだん (病状が)悪くなった。 僕が見舞って間もなく亡くなった。見舞ったとき髭をいっぱいはやし て寝ていたが、画用紙と鉛筆 を持ってこい、とおっしゃる。そして絵を描くんですが、朦朧と して何を描いたやらわからない。 もともと丈夫なときからぶずぶずいって語呂がはっきりしな い人だったのですが、それが意識朦朧 としてなおわからない。そのときに「どうしたんな」と いうと、「男には男の意地がある。私はも う一度東京にかえりたい」(とおっしゃる。)それ が僕と先生の会話の最後です。 晩年の北原千鹿が日展に出品した作品をみると、一見、日本の古典的な形のものが多いような 印象をうけるが、一作ごとに新しい工夫がなされていること、透彫の効果をねらった作品が多い ことなどに気づく。また、この頃の日常的な作品には蛙を題材としたものが目立つようである。 蛙のとぼけたような表情に彼の人柄が滲み出ているようで、なんとなく心の安らぎをおぼえる。 この頃の北原は、仕事の面でも生活の面でも物資の乏しい時期でありながら全盛期と同じよう に厳しい制作活動を続け、日展などで華々しく活躍したにもかかわらず、地位とか名誉とかには 必ずしも恵まれなかったといわれている。特に、弟子たちにはその思いが強いようである。 弟子の信田洋は「昭和二十四年に日展工芸部で不出品問題をやったんですよ。…それが都合が わるいという。人の運勢はわかりませんね。」といい、後藤學一は「作家の立場をはっきりしす ぎたんでしょうかね」と語っている。また、父親が北原と親しかったという前田泰次は、「北原 さんと肩を並べていた海野清さんは、…東京美術学校の教授になり、芸術院会員や無形文化財保 持者に選ばれるなど、華々しい公的地位を占めていたが、北原さんは帝展や日展の役員以外には 、いかめしい肩書を持たずに、…郷里の高松で死んで行った。郷里に戦後を移したのは、母校の 工芸学校の復興と後進の指導のためであったと聞いている」(前田泰次『前掲書』)と記してい る。 北原千鹿と香川の美術工芸 北原千鹿を取り巻く人々の中には、故郷の香川県、とりわけ母校の香川県立工芸学校(現在の 香川県立高松工芸高等学校)の出身者が多い。 内弟子であった富田稔、大須賀喬、後藤學一は、鴨幸太郎・政雄兄弟、松原南海などとともに 工人社を中心に活躍した。丸尾綱義、松原春男なども北原千鹿の作品に深いかかわりを持った金 工家である。ちなみに彼らの略歴を記してみよう。 富田稔(一八九九~一九四六)は、工芸学校を大正七年に卒業、北原の内弟子第一号となった 。昭和二年に東京美術学校選科を卒業後仙台市の工芸指導所に赴任、昭和九年まで指導に当たっ た。工人社同人、のち社友となる。昭和十年から同十三年まで吉林大学教授、昭和十八年から同 二十年まで明善高等女学校教諭をつとめた。 大須賀喬(一九○一~一九八七)は、大正八年に工芸学校を卒業、上京して彫金家山本正三郎 に師事、のち北原に預けられて内弟子となった。大正九年から同十四年まで東京美術学校におい て清水亀藏や海野清に彫金を学んだ。美校在学中に光爐会展に参加、大正十四年には第十二回農 展に「銅製灰洛」(盆マッチ入)を出品している。 昭和二年の工人社結成に際しては信田洋とともに中心的役割を果たし、北原と終始行動をとも にすることとなった。 帝展には昭和四年の第十回展に「壁面用花挿」を出品して初入選を果たし、同八年の第十四回 展では「彫金花瓶」が特選となった。以後、帝展、新文展の常連として活躍し、同十七年の第五 回新文展では審査員をつとめている。 戦後は昭和二十一年秋、同二十二年、同二十八年、同三十二年の日展などで審査員となり、同 二十七年に参事、同三十三年に評議員、同四十四年に理事、同五十二年に参与、同五十五年に参 事にそれぞれ就任し、日展の重鎮として活躍した。その間、昭和三十三年には日本金工作家協会 の会長に推され、日展に出品した「金彩透彫飾皿」がこの年度の日本芸術院賞に輝いた。 後藤學一(一九○七~一九八三)は、大正十四年に工芸学校を卒業し、三好 眞長や加藤幸三の世話で北原の内弟子となる。その後、東京美術学校で清水亀藏と海野清に彫金 を学び、昭和六年に卒業、翌年から母校に奉職して彫金の指導に当たった。昭和三十二年四月に 校長事務取扱となり、同三十三年四月から同四十二年十一月まで校長の職に在り、漆芸研究所長 を兼務した。 作家としては、昭和五年に工人社の同人、同十年に社友となる。帝展には昭和六年の第十二回 展に「銀花瓶」を出品して初入選した。それを含めて昭和三十年まで帝展、新文展、日展などに 十八回入選している。 戦後、日本伝統工芸展の開催、重要無形文化財保持者の認定、日本工芸会の結成などに伴って 、従来の日展工芸部門への出品者は、日展に出品する者、日本伝統工芸展に出品する者、日展と 日本伝統工芸展の双方に出品する者などに分かれていくことになる。後藤學一は昭和三十二年に 日本工芸会正会員となり、それ以後専ら日本伝統工芸展に出品することとなった。死去する同五 十八年まで二十七回連続出品している。特に、同三十九年には日本工芸会奨励賞を受賞した。 また、昭和三十五年には磯井如眞の後をうけて社団法人日本工芸会理事に就任した。同四十八 年には香川県文化功労者として表彰され、同五十二年には勳四等瑞宝章を受章している。 鴨幸太郎(一九○一~一九五七)は、大正九年の工芸学校卒業生で、同十四年に東京美術学校 金工科を卒業、さらに昭和三年には同校研究科を修了している。同七年に无型の、同九年五月に 工人社のそれぞれ同人となった。 昭和五年の第十一回帝展に「電気スタンド」を出品して初入選を果たしてからめきめきと頭角 をあらわし、同十六年の第四回新文展では「壷」が特選に輝いた。戦後の日展では昭和二十七年 の第八回展で審査員をつとめ、その後の活躍が期待されたが、同三十二年、五十六歳の若さで世 を去った。 彼は、昭和二十二年に海野建夫、岡部達男、鹿島一谷、福田三郎及び松原南海とともに「玄々 社」を創立した。この頃、明石朴景が中心となって結成した「うるみ会」会員の指導に乗り出し ている。 鴨政雄(一九○六~)は、工芸学校が後藤學一と同級で、卒業後東京美術学校に入学し、清水 亀藏や海野清に彫金を学んだ。昭和五年に研究科に進み、同八年に修了。その間、昭和二年に工 人社の同人となり、同五年の第十一回帝展には「彫金小筥」を出品して早々と初入選を果たして いる。それ以後、帝展、新文展、日展などの常連となり、同二十七年の第八回日展では「トカゲ と蝶紋花瓶」が特選・朝倉賞に輝いた。同六十年の第二十四回現代工芸美術展では文部大臣賞を 受賞している。 昭和三十四年に日展会員となり、同三十五年及び同四十三年には審査員の重責を担い、同四十 八年には香川県文化功労者として表彰された。 松原南海(一八九五~一九五○)は、本名を繁信といい、大正二年に工芸学校を卒業してから 初めに正阿弥中川義実、次いで土田勝業に師事して彫金を学んだ。一時、丸尾綱義について鎚金 を研究したのち、清水亀藏(南山)に師事。同十一年に東京美術学校を卒業してからも清水に師 事して南海と号することとなった。 帝展には昭和五年の第十一回展に「鉄製香爐」が初入選、同六年、七年、八年と入選が続き、 同九年には工人社の同人となった。その後、新文展、日展などで活躍し、昭和二十三年の第三回 日展では「観音出現壁飾」が特選となった。同二十五年、五十四歳の若さで亡くなったのが惜し まれる。 丸尾綱義(専太郎)は、松原南海の兄であり、松原春男の叔父にあたる。明治三十九年に工芸 学校を卒業して平田重光に師事、その後東京で活躍した。大須賀喬は「丸尾さんは東京でも有名 な鍛金家でした。自分で作品をつくって(帝展、新文展や)日展に出品しようということはなく 、仕事一筋で、私も随分世話になったんですが、北原先生の作品の素地は…丸尾さんがずっとや っていました」(「北原千鹿―その作品について―」―香川県美術工芸研究所『前掲書』所収) と語っている。 松原春男(一九○七~一九八二)は、昭和九年に東京美術学校を卒業した鍛金家で、同校在学 中に第十二回帝展に出品した「黒味銅打出花瓶」が初入選、第十四回帝展でも「黄銅四方花瓶」 が入選している。昭和九年に美校を卒業してからは作家活動に入り、新文展、日展、現代工芸美 術展などで活躍した。特に、同二十八年の第八回日展では「鍛金銅花器」が特選となり、朝倉賞 を受賞した。北原千鹿の最晩年には彼の作品の素地も制作している。 北原千鹿と香川県在住の工芸家などとの交流は、北原が初めて帝展の審査員となった昭和六年 (一九三一)からにわかに活発になった。特に、三好眞長をはじめとする金工家や磯井如眞を中 心とする漆芸家との交流は戦中から戦後にかけても続けられ、戦後、北原がしばしば帰郷するよ うになるとますます活発になった。東京でも北原の周辺には工芸家ばかりでなく、本県に関係の ある画家や彫刻家なども集まり、指導を受けることが随分あったらしい。このような交流は、北 原とだけでなく多くの在京の作家たちとの間にも広がっていった。このことは、県内で「工会( たくみかい)」や「苦味会」を主宰していた磯井如眞と北原、小倉右一郎、國方林三、小林萬吾 、新田藤太郎、野生司香雪、廣島晃甫、藤川勇造、山本正三郎などの本県出身者や、赤塚自得、 板谷波山、香取秀眞、堆朱楊成、六角紫水などの中央の大物工芸家との交信の内容によってもそ の一部をうかがい知ることができよう。 また、香川県立工芸学校勤務を経て、のちに東京美術学校で教鞭をとることとなった清水亀藏 (南山)、杉田精二(禾堂)、丸山義男(不忘)などとの関係も見逃すことはできないであろう 。 いずれにしても、県内の作家と在京の作家との交流は、中央とのパイプを少しずつ太くしただ けでなく、その交流による刺激は香川の工芸を飛躍的に発展させる一因となったものと考えられ る。 北原千鹿と香川県美術展覧会(県展)との関係も見逃すことができない。北原は、在京作家の 一人として、日本画の廣島晃甫、洋画の小林萬吾、彫塑の國方林三、小倉右一郎、池田勇八、新 田藤太郎、藤川勇造などとともに委員として昭和九年(一九三四)の県展創設にかかわっている 。 第一回展は高松三越を会場として開催された。そして、北原は、昭和十二年(一九三七)から 同十八年(一九四三)までと昭和二十三年(一九四八)から同二十六年(一九五一)まで、審査 員として指導に当たった。ただ、最後の年には病気のこともあり審査に当たったかどうかは明ら かでない。 昭和二十四年の第十四回展は、栗林公園内にできあがった高松美術館の開館記念行事として開 催された。北原は、翌年三月、同美術館で昭和天皇から拝謁を賜った。現在、高松市美術館に北 原の作品である「風炉ー竹に波」や「釜―白鷺に月」、「金工宝冠」、下絵五十五点などが所蔵 されているのも何かの因縁であろう。 ちなみに、現在の高松市美術館が日本銀行高松支店跡地にオープンするまでは、栗林公園内の 美術館は、博物館登録で高松美術館となっていた。かつては県内で唯一の公立美術館として芸術 文化の発展に大きな役割をはたしてきた。そのこともあり、県出身又は県内在住の美術家やその 遺族がしばしば作品や資料を寄せたことがあると聞いている。 時代を越えて新鮮な作品 北原千鹿は、仕事を離れて人に接するとき、「人格円満衆望集まる」といわれた(『无型』第 二十一号)。趣味も将棋、麻雀、釣り、囲碁など多彩であった。戦後、生家に帰ると甥の孝義と 碁盤をよく囲んだという。また、酒をよく嗜んだともいわれている。ただ、彼の場合はこうした ことを仕事の合間の気分転換にうまく利用している。しかし、一旦仕事のこととなると、極めて 厳格で、毎日、昼は仕事、夜は創案という生活ぶりであった、と内弟子たちは口を揃える。性格 は几帳面で、仕事に対する姿勢は謙虚であり、新しい金工を生み育てるという使命感にあふれて いた。また、彼は絵が達者で、晩年には乞われるままに時間をかけて丁寧に多くの色紙に絵を描 いているが、嫌な顔を見せたことがなかったいう。数多く残された下絵からも性格の一端をしの ぶことができよう。 このような北原にも欠点はあった。寡黙で、口下手で、他人にぶっきらぼうと思わせる一面が あったといわれている。「作品で勝負する」ことを信念とした優れた芸術家ではあったが、人間 関係の面でうまく立ち回るという芸当は思いもよらなかったし、自分の芸術論をペンで表現する こともしなかったようである。晩年に「院賞、院賞」といわれながら遂にこれを手にすることは できなかった。それはなぜかということを考えるとき、ふと頭をよぎるのは寡黙で口下手な人柄 と不出品問題である。 それはともかく、北原千鹿の金工が、後世、どのように評価されているのだろうか。 ある工芸家は筆者への手紙の中で「北原千鹿先生は、丁度時代の切替え時の方で、多くの工人 が写実的描法に走るところをロマンチシズムを守りとおし、独自の技法を堅持された」と書いて いる。 また、前田泰次は、『工芸とデザイン』(芸艸堂、昭和五十三年)の中で、 北原さんの仕事は、伝統的な技術の裏付けを持ちながら、それを表にひけらかすことなく、 また 当時流行の構成主義や西洋模様の影響を受けながらも、それに押しつぶされることなく、 新様式の 日本調を生み出して行った所に特色が認められよう。初期帝展で示した板金細工風の 仕事、それに 続く所の、写生風な草花や動物鳥類をやや模様化した図柄を、裏からの打出しや 表からの蹴彫毛彫 で彫出した花瓶・その形も芒洋たる面白さがある・の類は、北原さんのお手 のものであると共に、 昭和の金工界に強い影響を与えた様式でもあった。 と記している。 さらに、有名な彫金家鹿島一谷は、日本経済新聞所載の『私の履歴書』で次のように述べてい る。 北原先生は、百年に一人出るか出ないかの人であった、と私は今でも思っている。昭和の初 めま で、彫金界が「技術オンリー」で技術のみを競いあっていた時代に、いち早く、彫金本来 の造形美 を世に示してみせた先覚者でもあった。(中略) 北原千鹿先生は、才能のおもむくままに、実にさまざまな金属工芸の作品を創作された。絵 も描 かれたし、文字通りの多才な人だったのである。伝統的な技術を生かした彫金もされたし 、抽象的、 現代的イメージの兜(かぶと)の置物などもあるといった具合である。 若いころは、いかにも現代感覚にあふれた作品が多かったが、晩年は日本風に変わってきた 。 画家でも同じことがいえるだろうが、だれしも年をとると日本に回帰する傾向が強い。だ が北原先 生の場合、晩年の作品が古風な形をとっているといっても、先生にしかできない新し さは、作品一 つひとつの隅々にまで行き渡っていた。盆一つにしても、丸い周辺の形が普通の 金工家には思いも つかぬような形状をとっている。(中略) 要は、先生の作品が、総体として、時代を越えて今もって新鮮であるという点に尽きる。な ぜ新 鮮で美しいのか。それは、先生が、金属そのものの性質を、そのまま自然に生かしきって 創作され たからなのだと私は思う。金属を無理なく、あるがままの形でまとめていく。そこに 自然に従った 美しさが、明確な形で表現され、見る者の心を打つのであろう。自然であるから こそ、作品の隅々 にまで、常人にはなしえない気配りが働くのである。(中略) 北原先生の作品は、今もって新しく、本物の作品とはいかに生命力が永いかを証明してくれ てい る。(以下略) 以上のように三人三様の表現ではあるが、北原の金工についてその芸術性と役割が高く評価さ れていることに変わりはない。 作品からは豊かな芸術性と何ともいえない詩情や気品を感ずることができる。 その作品は、磨きに磨いたデザイン力と技法によって支えられている。そのデザイン力は工芸 におけるあるべき造形美の追求に向けられ、また、その技法は単に彫金の分野だけでなく、鍛金 、鋳金やその他の技法にも通じ、極めて多彩であるが、いぶし銀のような味があった。そのよう なデザイン力と技法を駆使して制作された作品は、形や模様が味わい深く、「北原調」ともいえ る独自の新様式を生み出し、昭和の金工界に強い影響を与えたことは多くの人が認めるところで あろう。 北原千鹿は、わが国における近代金工の先駆者、近代金工の基礎を確立した一人として大きな 足跡を残している。芸術院賞を受賞することもなく、ましてや芸術院会員に推されることもなく 病に倒れ「男には男の意地がある。もう一度東京に帰りたい」という言葉を遺して世を去ったが 、その作品は「時代を越えて新鮮」で、心ある人々からその芸術性がますます高く評価されよう としている。 (二○○一年十二月一日加筆 ) 北原千鹿年譜 │和 暦│西 暦│年齢│ 事 項 │ │明治二○│一八八七│ │五月十六日 北原百太郎・モト夫妻の三男として現在の高松市│ │ │ │ │中央町に生まれる。 │ │ 二七│一八九四│ 七│四月 尋常小学校に入学する。 │ │ 三一│一八九八│一一│四月 高等小学校に入学する。 │ │ 三五│一九○二│一五│四月 香川県立工芸学校金属彫刻科に入学する。 │ │ 三九│一九○六│一九│四月 東京美術学校金工科に入学する。 │ │ 四四│一九一一│二四│三月 東京美術学校金工科を卒業。卒業制作は「多宝塔出現」│ │ │ │ │三好眞長・松尾廣吉と「たがね会」をつくり、制作に専念する│ │大正 三│一九一四│二七│この年、北条カズヱと結婚する。 │ │ 四│一九一五│二八│この年、長男士(つかさ)が生まれる。 │ │ 五│一九一六│二九│四月 東京府立工芸学校教諭に任ぜられる。 │ │ 六│一九一七│三○│十一月 長女幸子が生まれる。 │ │ 九│一九二○│三三│一月 次男央(ひさし)が小石川区原町十三番地で生まれる。│ │ 一○│一九二一│三四│三月 東京府立工芸学校教諭を辞任し、制作に専念する。 │ │和 暦│西 暦│年齢│ 事 項 │ │大正一一│一九二二│三五│一月 次女秀子が生まれる。 │ │ │ │ │三月 平和記念東京博覧会に「散華衝立」を出品する(銀賞)│ │ │ │ │第九回農展に「普賢真鍮銅羅」を出品する。 │ │ 一二│一九二三│三六│第十回農展に「四天王紋様真鍮製台」及び「真鍮香炉」を出品│ │ │ │ │する(三等賞)。 │ │ │ │ │十二月 日本橋丸善で開催された光爐会第一回展に香炉(蓮弁│ │ │ │ │)、花瓶(芽生、落葉)及び紙切を出品する。 │ │ 一三│一九二四│三七│この年、三男貢が生まれる。田端に転居する。 │ │ │ │ │光爐会第二回展が開催される。 │ │ 一四│一九二五│三八│津田信夫の指導をうけ、佐々木象堂、杉田禾堂、高村豊周、山│ │ │ │ │本安曇とともに研究会をつくる。 │ │ │ │ │五月 板谷波山らと工芸済々会を結成し、同人となる。 │ │ │ │ │七月 長女幸子が死去する。 │ │ │ │ │十一月 工芸済々会第一回展が日本橋高島屋で開催される。 │ │和 暦│西 暦│年齢│ 事 項 │ │ │ │ │光爐会第三回展が開催される。 │ │大正一五│一九二六│三九│この年、巣鴨上駒込三九○番地に転居する。 │ │ │ │ │五月 第一回奉賛展が東京府美術館で開催される。 │ │ │ │ │六月 高村豊周らと无型を結成し、同人となる。 │ │ │ │ │六月 日本工芸美術会の結成に参加し、帝展に第四部(美術工│ │ │ │ │芸)を設置する運動を積極的に進める。 │ │ │ │ │十月 日本工芸美術会の第一回展(東京府美術館)に「燕麦花│ │ │ │ │瓶」を出品する。 │ │ │ │ │この年、東京府商工奨励館工芸展審査員をつとめる。 │ │昭和 二│一九二七│四○│一月 母モトが死去する。 │ │ │ │ │三月 无型第一回展が日本橋三越で開催される。 │ │ │ │ │七月 日本工芸美術会第二回展が東京府美術館で開催される。│ │ │ │ │九月 次女秀子が死去する。 │ │ │ │ │十月 第八回帝展(東京府美術館)に「花盛器」及び「置物」│ │和 暦│西 暦│年齢│ 事 項 │ │ │ │ │が入選し、「置物(花)」が特選となる。 │ │ │ │ │十一月 工人社を組織する。同人十二名。 │ │ │ │ │この年、日本美術協会展の審査員をつとめる。 │ │昭和 三│一九二八│四一│五月 工人社第一回展(東京朝日新聞社)に「喫煙具」、「燭│ │ │ │ │台」及び「一輪生」を出品する。 │ │ │ │ │五月 无型第二回展(日本橋三越)に「洋酒杯」、「一輪生」│ │ │ │ │を出品する。 │ │ │ │ │六月 工人社地方第一回展を大阪丸善で開催する。 │ │ │ │ │七月 日本工芸美術会第三回展が日本橋三越で開催される。 │ │ │ │ │十月 第九回帝展に「羊」及び「燭台」が入選し、「羊」が特│ │ │ │ │選となる。 │ │ 四│一九二九│四二│この年、献上品の「羊置物」が完成する。 │ │ │ │ │四月 工人社第二回展(東京朝日新聞社)に「皿」を出品。 │ │ │ │ │五月 工人社地方第二回展を大阪丸善で開催する。 │ │和 暦│西 暦│年齢│ 事 項 │ │ │ │ │五月 无型第三回展(日本橋三越)に「一輪生」、「葉巻入」│ │ │ │ │を出品する。 │ │ │ │ │七月 帝展推薦となる。 │ │ │ │ │十月 第十回帝展に「漆彩色銀花瓶」及び「置物(兜)」を出│ │ │ │ │品する。 │ │ │ │ │このころ、アトリエを新築する。 │ │昭和 五│一九三○│四三│六月 工人社第三回展を東京朝日新聞社で、地方第三回展を仙│ │ │ │ │台市商品陳列所でそれぞれ開催する。 │ │ │ │ │六月 无型第四回展(日本橋三越)に「花瓶」などを出品。 │ │ │ │ │七月 日本工芸美術会展が日本橋三越で開催される。 │ │ │ │ │十月 第十一回帝展に「ブラッケット」を出品する。 │ │ │ │ │第二回奉賛展に「香炉(鉄)」を出品する。 │ │ │ │ │この年、国際美術協会展審査員をつとめる。 │ │ 六│一九三一│四四│四月、工人社第四回展として全工芸リーグ展に参加し、同人合│ │和 暦│西 暦│年齢│ 事 項 │ │ │ │ │作による「流れのある水盤」を出品する。 │ │ │ │ │五月 工人社地方第四回展を大阪大丸で開催し、「壁面花」を│ │ │ │ │出品する。 │ │ │ │ │十月 第十二回帝展に「銀の皿」を出品する。審査員。 │ │昭和 七│一九三二│四五│この年、无型を退会する。 │ │ │ │ │十月 第十三回帝展に「十二支文象嵌皿」を出品。審査員。 │ │ 八│一九三三│四六│五月 工人社第五回展を東京高島屋で開催する。 │ │ │ │ │十月 第十四回帝展に「双魚置物」を出品する。 │ │ 九│一九三四│四七│四月 長男士が東京美術学校彫金科に入学する。 │ │ │ │ │五月 工人社第六回展を東京高島屋で開催する。 │ │ │ │ │この頃までに世田谷区深沢町四―五○八に転居する。 │ │ │ │ │七月 工人社地方第五回展を大阪大丸で開催する。 │ │ │ │ │十月 第十五回帝展に「壁掛(蛙)」を出品する。審査員。 │ │ │ │ │この年、香川県展の創設に委員として尽力する。 │ │和 暦│西 暦│年齢│ 事 項 │ │昭和一○│一九三五│四八│三月 東京府美術館開館十周年記念現代綜合美術展に「銀の皿│ │ │ │ │」を出品する。 │ │ │ │ │五月 工人社第七回展を東京高島屋で、地方第六回展を大阪そ│ │ │ │ │ごうで開催する。 │ │ │ │ │彫塑家藤川勇造の墓誌(有島生馬撰、津田青楓書)を銅版に刻│ │ │ │ │む。 │ │ 一一│一九三六│四九│二月 改組第一回帝展で指定となる。「銀製鶴文金彩花瓶」を│ │ │ │ │出品する。 │ │ │ │ │五月 工人社創立十周年記念第八回展を東京高島屋で開催。 │ │ │ │ │十一月 昭和十一年文展(東京府美術館)に「銀金彩鹿文花瓶│ │ │ │ │」を出品する。委員をつとめる。 │ │ │ │ │十二月 工芸済々会新作展(高島屋)に「鹿文金彩銀香炉」及│ │ │ │ │び「五山文金彩銀香合」を出品する。 │ │ 一二│一九三七│五○│一月 父百太郎が死去する。 │ │和 暦│西 暦│年齢│ 事 項 │ │ │ │ │二月 兄孝治が死去する。 │ │ │ │ │四月 次男央が東京美術学校彫刻科に入学する。 │ │ │ │ │五月 工人社第九回展を東京高島屋で開催し、「額面」を出品│ │ │ │ │する。 │ │ │ │ │五月 香川県展審査員となる。以後、十八年まで、二十三年か│ │ │ │ │ら二十六年まで審査員をつとめる。 │ │ │ │ │十月 第一回新文展に「夏の山草金彩壺」を出品する。審査員│ │ │ │ │をつとめる。 │ │昭和一三│一九三八│五一│五月 工人社第十回展を工芸小品展として東京高島屋で、地方│ │ │ │ │第七回展を長岡市商工会議所でそれぞれ開催する。 │ │ │ │ │十月 第二回新文展に「鶉文銀彩壺」を出品する。審査員。 │ │ 一四│一九三九│五二│四月 長男士が東京美術学校研究科に進む。 │ │ │ │ │五月 工人社第十一回展を東京高島屋で開催し、「花と木の │ │ │ │ │置物」、「花瓶(銅)」、「花瓶(真鍮)」、「花瓶(銀)」│ │和 暦│西 暦│年齢│ 事 項 │ │ │ │ │及び「香炉」を出品する。 │ │ │ │ │十月 第三回新文展に「銀及び青銅置物鳩」を出品する。 │ │ │ │ │風羅会の後援により、世田谷区上馬二―一三二八に家屋を新築│ │ │ │ │し、秋頃ここに移る。 │ │昭和一五│一九四○│五三│二月 工人社を解散する。 │ │ │ │ │十一月 紀元二千六百年奉祝美術展(東京府美術館)に「山壁│ │ │ │ │掛」を出品する。 │ │ 一六│一九四一│五四│四月 長男士が仙台の工芸指導所に赴任する。 │ │ │ │ │十月 第四回新文展に「黄銅壺」を出品する。第四部の審査主│ │ │ │ │任をつとめる。 │ │ │ │ │十二月 次男央が東京美術学校彫刻科を繰り上げ卒業する。 │ │ │ │ │この年、商工省輸出工芸品展の審査員をつとめる。 │ │ 一七│一九四二│五五│一月 次男央が第十一師団野砲部隊(善通寺)に入隊する。 │ │ │ │ │十月 第五回新文展に「銅押出し鳩置物」を出品する。 │ │和 暦│西 暦│年齢│ 事 項 │ │昭和一八│一九四三│五六│十月 第六回新文展で審査員をつとめる。 │ │ 一九│一九四四│五七│七月 長男士が歩兵第十二連隊(丸亀)に入隊する。 │ │ │ │ │八月 長男士が鯨部隊に所属して、中支方面を転戦中に戦病死│ │ │ │ │する。 │ │ │ │ │十一月 文部省戦時特別美術展(東京都美術館)に「金地毛彫│ │ │ │ │皇土讃仰文(手函)」を出品する。 │ │ 二○│一九四五│五八│四月 三男貢が東京大学経済学部に入学する。 │ │ 二一│一九四六│五九│二月 次男央が戦地から復員する。 │ │ │ │ │三月 第一回日展(東京都美術館)に「毛彫山水図流金金銅花│ │ │ │ │瓶」を出品する。 │ │ │ │ │十月 第二回日展に「楽の音水瓶」を出品する。審査員をつと│ │ │ │ │める。 │ │ 二二│一九四七│六○│十月 第三回日展に「蛙群聴教金銅華鬘」を出品する。審査員│ │ │ │ │をつとめる。 │ │和 暦│西 暦│年齢│ 事 項 │ │昭和二三│一九四八│六一│三月 三男貢が東京大学経済学部を卒業する。 │ │ │ │ │九月 美術工芸家の間で日展不出品の動きが起こる。 │ │ │ │ │十月 高村豊周などとともに第四回日展に出品せず。 │ │ 二四│一九四九│六二│四月 香川県立高松工芸高等学校の非常勤講師を委嘱され、年│ │ │ │ │三回程度生徒の指導にあたることとなる。 │ │ │ │ │十月 第五回日展で依嘱となり、「金工法冠」を出品する。 │ │ 二五│一九五○│六三│三月 高松美術館において昭和天皇に拝謁を賜る。 │ │ │ │ │十月 第六回日展に「彫金印箪笥」を出品する。 │ │ │ │ │この年から日展参事となる。 │ │ 二六│一九五一│六四│三月 香川県立高松工芸高等学校非常勤講師を辞する。 │ │ │ │ │十二月 肋骨カリエスに脳症を併発し、高松市の生家で死去す│ │ │ │ │る。 │ (平成七年十一月・廣瀬和孝作成)