やまもと風土記(77K)



入力に使用した資料
底本の書名     やまもと風土記
底本の発行者   山本町
底本の発行日   昭和五十九年十一月
入力者名     藤原萌美
校正者名     藤原直次
入力に関する注記
・文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の文字
番号を付した。
・JISコード第1・2水準にない旧字は新字におきかえて(#「□」)は旧
字と表記した。

登録日   2008年6月26日


      


                               やまもと風土記
 発刊のことば
                               山本町長  原  正 司
 このたび「やまもと風土記」の小冊子を発刊することになりました。この小冊子は、町広報「や
まもと」に大法寺住職淡河禎蓮氏が執筆してくださった「山本町の民話」「やまもと風土記」、そ
れに「町誌」に掲載した伝説と昔話を加えて編集したものです。
  七年間にわたってご執筆いただいた淡河氏のご苦労に、心からの敬意と感謝を述べたいと思いま
す。
 私たちの山本町は、美しく豊かな風土と温かい人情にはぐくまれ、古い歴史と伝統を受け継いで
います。祖先たちがこの土地と暮らしの中から作り、育て、伝えてきたかけがえのない遺産。それ
はふるさとの心と呼んでもよいものでしょう。何気なく見過ごした一つ一つに祖先の心と暮らしが
込められています。
  ともすれば、忘れ去られ失われていこうとする文化遺産を、次代へ語り伝えることは、現代を生
きる私たちの役目ではないかと思われます。
 そうすることによって、ふるさとへの理解と愛情なお一層深めることができれば幸いと思います。

 発刊に寄せて
                                                     淡 河 禎 蓮
 山本町誌が刊行されたのが昭和四十二年。いつのまにか、十七年の年月が過ぎようとしています。
 当時、関係諸先生の全力を傾けられ、衆智を集めて編さんされた山本町誌も、あとからみると、
誤りや書きもらしたことが、次々と指摘されています。これは山本町民をはじめとする多数の職者
の深い関心あらわれと、ありがたく傾聴しております。
 「やまもと風土記」は、町誌の落穂ひろいの気持ちで、かりそめに筆をとったものですが、いつ
のまにか六十話をこえました。
発表したのが、町広報誌であり、地域のかたよりをさけ、分かりやすく、面白く、意外性もねっら
たためか、全体としてのまとまりがなく、また字数にも制限があるため、舌足らずのものとなった
ことなどが反省されます。
 決して、これがすべてではありません。
 例えば、民俗信仰の利生霊験のたぐいは、他者にゆずりました。拙いさしえも、しろうとの手す
さびで汗顔のいたりです。
 おわりに、発表の場を与えてくださった町当局と、快く資料を提供していただいた協力者の皆様、
心よりお礼申し上げます。
                
 目次                                                                       
発刊のことば
発刊に寄せて

   山本町の民話
ひとりかご力持ちの下男・・・・・・・・・・・・1
米俵を五俵力持ちの下男・・・・・・・・・・・・3
信行院のたぬき・・・・・・・・・・・・・・・・4
山伏と猟師・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
ごっきょうさんと狸・・・・・・・・・・・・・・6
わたぬすと・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
めんこが牛を使う・・・・・・・・・・・・・・・10
あずき洗い・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
いりこ商人・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
下男ののぞみ・・・・・・・・・・・・・・・・・14
たくらみ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16
たけだはん・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
眼病・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
長い谷・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21
のろし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23
古宮さん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25
くわずの柿・・・・・・・・・・・・・・・・・・27
泣き坂・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28
なべやの鐘・・・・・・・・・・・・・・・・・・30
金のにわとり・・・・・・・・・・・・・・・・・31
怪盗なんりん・・・・・・・・・・・・・・・・・32

      やまもと風土記
たけのこ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33
おもて献上・・・・・・・・・・・・・・・・・・34
芸者たみえ・・・・・・・・・・・・・・・・・・35
かじ道具・・・・・・・・・・・・・・・・・・・36
黒鍬・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・37
馬車が行く・・・・・・・・・・・・・・・・・・38
虫ごきとう・・・・・・・・・・・・・・・・・・39
石器工場・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40
意思の地蔵さん・・・・・・・・・・・・・・・・41
ごんしろ橋・・・・・・・・・・・・・・・・・・42
お茶の接待・・・・・・・・・・・・・・・・・・43
六人の足軽・・・・・・・・・・・・・・・・・・44
殿さまお乗り廻し・・・・・・・・・・・・・・・45
御巡見様・・・・・・・・・・・・・・・・・・・46
おわび・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・47
米一升・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・48
寅の洪水・・・・・・・・・・・・・・・・・・・49
天神さんの競馬・・・・・・・・・・・・・・・・50
首塚異聞・・・・・・・・・・・・・・・・・・・51
伊勢代参・・・・・・・・・・・・・・・・・・・52
千田堤(ルビ せんだつつみ)・・・・・・・・・53
水争い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・54
三下り半・・・・・・・・・・・・・・・・・・・55
おどし鉄砲・・・・・・・・・・・・・・・・・・56
矢の根・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・57
松かわもち・・・・・・・・・・・・・・・・・・58
こんぴら騒動・・・・・・・・・・・・・・・・・59
竹槍(ルビ やり)騒動・・・・・・・・・・・・60
かすみの法塔・・・・・・・・・・・・・・・・・61
行政改革・・・・・・・・・・・・・・・・・・・62
続・行政改革・・・・・・・・・・・・・・・・・63
へいどいか・・・・・・・・・・・・・・・・・・64
かつぎ石・・・・・・・・・・・・・・・・・・・65
演歌の元祖・・・・・・・・・・・・・・・・・・66
浄るり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・67
でこまわし・・・・・・・・・・・・・・・・・・68
朝日浪・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・69
寺社めぐり・・・・・・・・・・・・・・・・・・70
朝角・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・71
スギヤマ象・・・・・・・・・・・・・・・・・・72

        山本町誌から
金の鶏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・73
馬蹄の跡(ルビ ばてい)・・・・・・・・・・・73
ひだらい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・74
長者と乞食(ルビ こじき)・・・・・・・・・・74
万八狸(ルビ たぬき)・・・・・・・・・・・・75
阿波狸と千手院・・・・・・・・・・・・・・・・76
茶っ栗柿麩(ルビ ふ)・・・・・・・・・・・・77
あわて者の金毘羅参り・・・・・・・・・・・・・78
茶売りと中風病・・・・・・・・・・・・・・・・79
折間(ルビ おりま)にゃふん・・・・・・・・・80

        山本町の民話
  広報やまもと 昭和五十一年八月号(№36)から、五十五年二月(№56号)
まで二十一回にわたって連載

ひとりかご力持ちの下男
 昔、神田の大庄屋の家に「八」という下男がいました。
  大庄屋というのは庄屋の上の役で、普通五カ村を取り仕切り、今の地方事務所長補佐役の
ような役をしていました。神田では、天保七年(一八三六)に近藤権九郎が大庄屋になって
います。
 さて、下男の「八」は大変な力持ちでよく働き、主人からかわいがられていました。
 奥様が遠出をするときは、いつも奥様をかごに乗せそれを一人でかいて行きました。普通、
かごは二人の男が、かき棒の前後をかくものですが、「八」にかなう相棒がいなくて、一人
でかく方が歩きよかったのでしょう。
 いつも、多度津へ行くときは、琴平の鞘橋で休憩をしました。
 かごをかいたままで橋の手すり腰を掛け、「八」はたばこを吸いました。
 その間、かごは川の真上宙ぶらりん。かごの中の奥様は、下を流れる金倉川の急流に肝を
つぶしてひやひや。
  「八」はうまそうにきせるですぱすぱ。
  やがて、どっこいしょ、また、一人かごをかいて歩き出し、多度津へ着くまで地面に
降さなかったそうです。
 日本各地から参詣者が集まる琴平で「八」は、自分の力を誇る見せ場を作った作ったので
しょう。
 また、ある日、大庄屋が「八」に多度津と観音寺へ用事を一度に言いつけました。
 「八」は家を出ると、近所の若衆が二人で草刈りしているのを見つけ、その二人に多度津
と観音寺の用事を別々に頼み、代わりに草刈りを引き受けました。
 二人の若衆がそれぞれ用事を済ませて、帰ったときには「八」は二人分の草刈りをとっく
に済ませ、草策にもたれて昼寝をしていました。
 力があり、働き者の「八」は、頭の回転も良かったようです。
(観音寺第一高校地歴部発行、地歴の窓第3号から)

米俵を五俵、力持ちの下男
  山本町辻の山本東から河内へ行く道は「山辺」と言う高台を通りますが、昔、この山辺の
大農家に治朗平と言う下男が働いていました。治郎平は隣村の豊田新田から働きに来ていた
のですが、力が強く、二人前以上の仕事をしていました。その代わり食べ物などもいつも二
人前でした。
 主人から「お前の力は何人力か」と問われても治朗平は「そのうちにご覧に入れます」と
笑って答えませんでした。
 やがて、年の暮れがやってきて、お給料をもらうことにまりましたが、治朗平は主人に
「お金の代わりに、米俵を持てるだけください」とお願いをしました。
 一つの米俵は六〇キロぐらいで、一人が一俵をかくぐのが普通ですが、治朗平はてんびん
棒で前と後ろに二俵ずつ、合わせて四俵の米俵を肩に荷にいました。主人は驚いて声もでま
せん。
 さらにもう一俵を軽々と前掛けでかかえました。とうとう主人は腰が抜けてしまいました。
合わせて三〇〇キロの米俵を持って治朗平は新田村へ帰って行きました。山辺から新田村ま
で二キロメートルで、道は現在のように平坦でなく、曲がりくっねていました。途中で治朗
平は小便がしたくまりました。しかし、米俵を地面に降ろさないで、すねの上に前掛けの一
俵を乗せて用を足したといいます。主人の前で見せた五人力の力を持ち通したところに昔の
男の意地がありました。

信行院のたぬき
 ずっと昔のことじゃけんどなあ。大野の信行院の林に、狸がおってな、よう娘に化けて通
る人をしたんじゃって。
 大辻の威勢のええ若い衆がな「よおし、わっしゃが生け捕りしてやらんか」と三人でいた
んじゃて。さびしい墓場のある信行院の林の近くに行くと案の定、暗がりの中に娘がたてと
って三人の方を見てニコッと笑うんじゃて。
 その晩は月も出とらん暗い晩じゃのに、娘の着りもんの柄がはっきり分かるんで「こらあ
狸に決まとっるのう」と若い衆の一人が、じわじわっと近寄って、さっと娘の手をつかんで
肩についだんじゃて。
 「さあ、お前ら、さき帰って出刃といどけ。湯も沸かしとけよ。ほんで狸汁にせんかい。
おらあ、こいつかついで後ろからいぬけん」
 ちっとない行くと狸の娘が、かつがれもって言うたんじゃて。「お若い衆さん。そなんが
いにつかむけん、うっちゃ手が痛いがな。こっちの手と持ちかえてつか」
 「よしよし、こっちか」手をもちかえて家までもんてくると、急にかついどった娘が軽う
なったんじゃて。
 狸の手と思うて握っとったのは大根じゃったんじゃて。

山伏と猟師
 昔、ある夏、日照りが続いたときのことでした。
 西光寺の千手院の山伏が、ぼだい山の二本松で、雨乞いの修行をしていました。そこへ一
人の猟師がやって来て、山伏の祈とうを木陰から見ていました。
 「そこへ来たのは何者ぞ」と山伏が大声で尋ねました。
 「そういうお前さまこそ何者だ」と猟師が歩み出て問い返しました。「わしは、山伏の千
手院じゃ」と答えました。
 粟井のよし尾に住んでいた“万やん”というこの猟師は本名を万蔵といいましたが、おど
けて名乗りました。
 「わたしは山歩きの“まんじゅいん”だ」それを聞いた山伏は大声で笑い出しました。
「千手と万手なら法力も千倍じゃ。わしといっしょに雨乞いの手伝いをせい」ということで、
猟師も折とうを手伝いました。
 やがて、そのご利益があったのでしょう、たらいをひっくり返したやうな大雨が、どおっ
と降ってきました。
 待ちに待った雨が降り、村人たちは大喜びでした。二人は雨乞いが終わったので“どうや
ぶり”をすることになりました。ちょうど、山伏の千手院が折とうために火断ちをしていた
ので、ごちそうに火を使うことができません。二人は火を使わずに、冷えそうめん、冷豆腐
をさかなに冷酒を酌み交わしてよろこびあったと言うことです。 
(瀬尾彦輔さんの説話から)

ごっきょうさんと狸
昔、大野に「ごっきょうさん」と言うだんなし(旦那衆)がいました。
 ある晩遅く、外出先から馬に乗って帰っていましたが、村の近くまで来ると、急に馬が動
かなくなりました。
 どんな手綱を引いても、尻をたたいても動きません。
 四ッ足のけものが動かないのは、魔物がいるからだ――と思って、旦那さんは馬の下で腹
ばいになり、前をすかして見ますと、いるいる――狸が若い女に化け、木の葉を取って髪に
さしたり、道に落ちている馬の糞を拾って箱に詰めていましたが、やがていそいそと村の方
へと歩き出しました。
 旦那さんが後ろから付いて行きますと、若い女は、ある家の中に入っていきました。
「今晩は。私はここの娘さんの友達です。娘さんの病気のお見舞いに、おまんじゅうを作っ
て来ました。どうぞ差し上げてください」
 旦那さんは、これは大変だと思って、急いで家の裏口に回り、戸をたたいて家の人を呼び
ました。「今、表へ来ている女は狸だぞ。だまされるな。あのまんじゅうは馬の糞だ。汚い
ぞ。娘に食べさせたらいかんぞ」
 親切心から、一生懸命に教えてやったのに、眠そうに裏口を開けて家の人は言いました。
「だれかと思ったら、ごっきょうの旦那さんじゃありませんか。こんな夜更けにどうしたん
です。若い女――今表へはだれも来ていませんよ。旦那さん。狸につままれとるんは、そり
ゃ――あんたの方ですよ」
 ごっきょうさんは、狸に二重にだまされているのに気がついて、大変くやしがりました。
(薄井治子さんの伝説から)

わたぬすと
   「讃岐三白」と言って、むかしは塩・砂糖・棉(ルビ わた)がたくさん作られていま
した。辻の棉畑に、真っ白に雪が降ったように見える、ある秋の夜のことでした。
 二人の棉ぬすと(盗っ人)が、せっせと畑の棉をちぎっては大きな袋につめていました。
中辻のある人が、これを見つけて声をかけました。
 「おう、お前ら、今夜もやっとるんか、よう精が出るのう」棉ぬすとは、現場を見られた
ので人にしゃべられたら大変だと思ってその人を殺して逃げてしまいました。
 この人殺しは、分からずじまいで七年がたちました。 
 ある冬の晩、山本に「八嶋屋」と言う宿屋がありましたが、その宿屋で二人の男が酒を飲
んでいました。
 酔いがまわるにつれ、二人の声がだんだん高くなってきました。
 「七年たったのう」
 「世の中、分からん時は分からんもんじゃのう」「うまいこといたのう」そんなとぎれと
ぎれの会話を、ちょうど宿屋の二階にいた目明しが聞いていました。
 「今、なんの話をしていた。もう一度言ってみろ」と、目明しは、二人の男を番所に引っ
立てて行き、厳しい取り調べをしました。
 二人の男は、七年前の棉ぬすとでした。二人はよその畑の棉を盗んで高く売っていたこと、
見つけられた中辻の人を殺して井手(溝)の底へ埋めたことなど、悪事を全部白状しました。
 二人はやがて死罪となり、その首は、一の谷池の浮手(ルビ うて)(余水吐け)に、長
い間さらされていました。                                       
( 薄井治子さんの説話から)

めんこが牛を使う
 力持ちの下男の治郎平は、仕事を何人分もしたかわりに、飯はいつも二人前をペロリと食
べていました。田植えが近づいて、治郎平は、毎日牛ぐわで田を耕していました。力のいる
苦しい仕事なので、治郎平の旦那(ルビ だんな)さんは、昼くると田んぼで、弁当を持っ
て行ってやりました。もちろん、弁当は、特別に大きく、おかずも他の下男のおかずよりう
まいものが入っていました。
 旦那さんは、治郎平が腹をすかせて、弁当を楽しみにしているだろうと思って言ました。
「治郎平。弁当を持って来てやったぞ。何しろ、めんこが牛を使うのだからな」めんこと言
うのは、檜のうす板を曲げて作った弁当入れのことでした。夕方、旦那さんが田んぼへ行っ
てみますと、牛ぐわは昼のままで止まっていて、めんこがくくりつけられていました。治郎
平は、あぜで寝ころんで、この牛ぐわを見ていました。
 あまりのことに、旦那さんが、カンカンになって治郎平をなじりますと、ケロリとした顔
で治郎平は答えました。 
「旦那さんが“めんこが牛を使う”と言うもんじゃけん、牛ぐわにめんこをくくりつけて、
昼からずうっとこうやって見とるけんど、牛は、ちっとも動きやせえへんがな。めんこは、
ほっせとも、ぼうとも言わへんぞな」下男の努力を素直に評価しなかった主人への精いっぱ
いの抗議でした。
(藤田昇さんの説話から)

あずき洗い
 娯楽の少なかった昔、若者の楽しみは夜遊びでした。夜がくると遠くまで歩いて娘さんの
いる家へ遊びに行っていました。入樋(ルビ いるひ)の若者が、豊田の方へ夜遊びに行く
途中、池の向の池の浮手を通るたびに、シャリシャリと言う小豆を洗うような音を聞きまし
た。
 「狸(ルビ たぬき)が小豆を洗とるんじゃな。脅してやれ」ある晩、若者が音のする方
へ石を投げますと、とたんに音はしなくなりました。ところが、あくる日から若者は高い熱
が出て、どっと病の床についていました。「狸がとりついた」と言うので、若者を池の向の
行者のところへ連れてきて祈とうをしました。
 行者は、病人の若者のまわりで松葉をたいて煙でいぶしたり、真っ赤に焼いた鍬を振りか
ざして、追いかけまわしたりしました。
 若者は、やがてバッタリ倒れて気を失ってしまいました。そして、次に気がついたときは、
熱も下がり、頭も確かになっていました。
 「狸が落ちた」と人々は喜びました。若者は小豆洗いの狸がいる池の道を避け、「道ばさ
み」(地名)の方を通って入樋へ帰って行きました。再び狸に取りつかれないように、額に
御幣(ルビ ごへい)をくくりつけて歩く若者の姿を見送りながら、人々は、「世の中には
狸がいて、人をだましたりするというのは、うそでない」と口々に話しあいました。(薄井
治子さんの説話から)

  いりこ商人
 昔、池の向に巳之助という、いりこ商人がいました。
 多度津でいりこを仕入れ、天秤(ルビ てんびん)でかついで帰っては、村で売っていま
した。
 ある晩、西光寺の川原まで帰ってくると、例によって若い女が橋の向こうに立っていまし
た。
 藍むらさきの手ぬぐいをかぶり、着物の柄も暗いのに、はっきり分かります。 
 狸(ルビ たぬき)です。巳之助は、折角、多度津からここまで運んできた、たくさんの
いりこを、狸にむざむざと取られては大変だと思って、橋の真ん中に腰をおろし、煙草を吸
い始めました。
 すぱすぱすぱ……。つぎつぎとあるだけの煙草に火をつけて、いりこの荷のまわりに煙が
たつように、吸いがらをならべました。
 煙草の匂いで、いりこの匂いを消そうと思ったからです。
 やがて一時間もたったのでしょうか、巳之助にとっては長い時刻が過ぎました。狸もあき
らめたのか、若い女は、いつか遠ざかって行きました。
 「今だ」と巳之助は一目散にいりこを荷なって走り出しました。やっと家にたどりついた
身之助は、真っ青な顔をしてもどかしそうに「おひかりを上げてくれ」と家の人に言いまし
た。 
 神棚や仏壇に、あかあかとお灯明をあげた前で巳之助は長い間お祈りをして無事に災難か
らのがれたことを感謝していました。
(薄井治子さんの説話から)

下男ののぞみ
 「河内の大喜多」(大地主)で、三人の下男が、自分の望みを話しあっていました。
「千両箱の小判に、思う存分さわってみたいのう」
「わしは、旦那さんのように、一日中なんちゃせんと座敷でじっと坐っときたいのう」
「わしは、びんさんのような、けっこい人とつき合ってみたいのう」
 旦那さんがこの話を聞いていました。さっそく、下男たちののぞみを叶えてやろうと言い
出しました。
 最初の下男は、土蔵の中で一日中、小判を数えましたが自分の物ではないはだんだん、つ
まらなくなりました。
 次の下男は、座敷で厚い座布団に座らされましたが、たいくつで足が痛くなり、半日もた
たない内に、やめさせてもらいました。 
 最後の下男は、お嬢さんの立てたお茶を飲んだり、お琴を聞いたりして、楽しかったので
すが、やがて短冊と筆をもたされました。
 短冊には「山藤に想いをかけし川もくず」と書いてあり読んでくれましたが、その続きを
作って書け、書かなければ、下男をやめさせると、きびしく言いつけられました。
 女中は、下男が無学であるのを知ってのこらしめでした。
 長い間かかって、汗をふきふき、下男が書いて差し出した短冊には、彼の知っているただ
一つの漢字、大喜多の「大」の字がいくつも書かれていました。
 その晩、三人の下男は「やっぱり下男がのんきでええのう」と話しあいました。
                                              (藤田清彦さん説話から)
たくらみ
 辻の若者「万やん」と「幸やん」が、同時に「新田の藤田」(観音寺市新田町の大地主)
の女中を好きになりました。
 二人は、競争のように、藤田へ遊びにいきました。
 万やんは、おっとりしたのんびりやで、幸やんは、目から鼻へぬけるようなすばしこい性
質でした。
 女中は、だんだん、万やんの方へ好意を見せるようになりました。
 幸やんは、いまいましくてたまりません。
 そこで、あるたくらみを思いつきました。
 ある晩、万やんが女中のところへ遊びに来ているのを知った幸やんは、裏門のところへ仕
掛けをして、表門へまわりました。
 「辻からの使いです。万やんは来とらんですか。万やんのお母が死にそうです。すぐ帰る
ように言うてつかさい」
 わざと女中部屋の万やんに聞こえるような大声で表門をたたきながら、何度も叫びました。
「お母、こらえてくれ」
 可愛いそうに、万やんはうそとは知らず、あわてて裏門から飛び出しました。
 そこには、汚い水が入った桶が置いてあったからたまりません。桶につまずいた万やんは、
ビショビショに汚れてしまいました。
 それでも万やんは、半泣きになりながら、家まで走って帰りました。
 元気な母の顔を見て、はじめて幸やんのたくらんだ「悪さ」だと気がつきました。
 それ以来、万やんと女中はますます仲良しになりました。
(原 数市さんの説話から)

たけだはん
 昔、戦国時代のころ、辻に高井下総守という豪族がいて、辻を中心とした、原・親田・河
内・中田井・古川・池の尻の七つの村をおさめていました。
 大辻の土居というところへ城を築き、菅生八幡をまつったり、小立岡に大通寺をたてるな
ど平和な生活を送っていましたが、土佐から攻めこんできた長宗我部元親の大軍に敗け、亀
原の「たけだはん」という岡の上で戦死したと伝えられています。
 何年かたったころ、誰いうことなく、亡霊が出るといううわさが立ちました。
 毎年、梅雨のころ、夜中に雨の音にまじる、大ぜいの軍勢の足音、ひずめの音、よろいの
の草ずりの音で目をさました村人が、そっと戸のすき間から外をのぞきますと、、傷つき疲
れた軍兵たちが次々と通り過ぎていきます。
 そして、地の底から聞こえるような声で、
「土居へいぬ。土居へいぬ……」とつぶやくのが、合唱のように聞こえました。
「わしも見た」
「おらも聞いた」という村人が、次々と毎年出てきたので、村の人たちは相談して、高井の
軍兵の供養をして、石塔をたけだはんへ建てました。
  この功徳があったためか、それから亡霊は出なくなったそうです。
(原右馬太さんの説話から)

眼病
 よく働く、力持ちの下男の治郎平が、珍しく「おひさまをくれ」と言って家へ帰ってしま
いました。
 主人が訳を聞くと、言って「眼が悪いから養生をする」と言うのです。
 夏が過ぎ、秋も深まり、だんだん実(み)の時が近づいてきたので、主人が様子を見に行
きますと、治郎平は実家で仕事をしていました。
 その様子を見ると、大変元気で、とても眼が悪いものの動作ではありません。
 主人が、「もう眼病も直ったのなら、そろそろ奉公に来てくれ」と頼みますと、治郎平は、
「もう九分通りなおったのだけど、あと一分がなかなか治らないので・・・・・」としぶり
ます。
 主人が、更に詳しく様子を聞きますと、治郎平は、「たいていのものは、よく見えます。
だが、茶わんに盛った飯の米粒と麦粒の見分けがつかないので、まだ十分治っていないので
す」と言いました。
 主人は、「ははーん」と思い当たりました。
 この春、主人が、奉公人の食事を切り詰め、麦飯に混ぜる米の量をうんと減らしたことへ
の抗議だっだのです。
 早速、主人は、米の量を増やすことを約束して治郎平に働いてもらいました。
                                                        (藤田昇さんの伝説から)
長い谷
伊子の若者が、母親を連れて金毘羅参りにやって来ました。
 長瀬の川を渡った辺りで「ここはどこか」と聞くと、「神田村だ」と教えられました。
 それから長い間歩いて、もう佐文村かなと思って聞くと、「この辺はまだ神田村で砂川と
いう在所だ」と言います。
 老いた母親と一緒の旅は、足取りが遅く、あまけに春のぽかぽかの天気なので、若者は退
屈で歩きながら眠くなるほどでした。
 それから、また、長い間歩いて山に近付き、坂道にかかりました。
 道ばたで若い娘が、麦畑の草引きをしていました。若者は、「もう金比羅は近いか」と尋
ねますと、「ここはまだ神田分で金比羅は峠を二つも三つも越えたあっちだ」と教えられま
した。
 若者は、やけになって大きな声で歌い出しました。
 ?長い谷だよ 神田の谷は ばあさん先にすりゃ なお長い
 娘が、手をたたいて褒めました。
 若者はうれしくなって、「あんまり仕事ばかりしないで、なまには骨休みにお寺やお宮へ
参りにいこうよ」と誘いました。
 今度は娘が歌でこたえました。
 ?腰の痛さよ せまちの長さ 寺も無いかよ 地獄谷
 若者は神田の娘は働き者で、気転がきくんだなと感心しながら、やっと伊予見峠を越え、
牛屋口から金比羅さんへ着きました。
 金比羅大門より何里という道しるべが立てらてたのは、ずっと後のことでした。
                   (門協マサノさんの説話から)の ろ し
 昔、神田の砂川に小さな城がありました。城といってもとりでのようなものでしたが、
ちゃんと敵を防ぐ馬返しの堀や、弓のけいこをする弓場もありました。
 東は立石山、西は智行寺山、北は麻城、南は元篠城と連絡をとる、扇のかなめのように大
切な城でした。
 ある年、見晴らしをよくするために、城の南の松林を切っていますと、見知らぬ修験者が
傍へきて、聞こえよがしに独言を云いました。
「今年は、南の方角が悪い。もう一年辛抱して、来年切ればよいのに――」  
 家来がこのことを大将に言いますと、迷信深い大将はすぐさま、伐採をやめさせました。
 あくる年、土佐の長宗我部の大軍が、阿波から攻め込んできて、元篠城を何重にも囲んで
しまいました。元篠城は、堅い城でしたが、隣の少し高い「とうじゅう山」から、鉄砲ら火
矢を射かけるので苦戦をしました。助けを求めていくらのろしを上げても松林にさえぎられ
て神田城へは届きません。とうとう元篠城は落城してしまいました。
 松林の伐採をとめた修験者は、土佐の回し者だったそうです。
(森初治さんの伝説から)
古 宮 さ ん
 高井下総守は、大辻の土居に築いた居城の一角に、八幡さまをお祭りして守護神としてい
ました。
 太閤さんの命令で、下総守と息子は、朝鮮征伐のため朝鮮へ渡りました。
 ところが、その戦場で息子が「ホウソウ」にかかりました。体中に出来物が広がって、高
い熱を出して大変苦しがりました。
 下総守は、異国で十分な手当てができないので、はるか故郷の八幡さまに、一心に病気が
治るようにお祈りをしました。
 しかし、そのかいもなく、息子はとうとう死んでしまいました。
 息子の骨を持って故郷に帰った下総守は、屋敷にまつってあった八幡さまを、たつみ(南
東)の方角にあたる谷ひとつこえた深い森の中へ、捨てるように移してしまいました。
 神をうらんだ罰(ばち)があたったのでしょうか、高井下総守は間もなく、戦いに敗けて
亡んだそうです。
 八幡さまを祭ってあった元の所は、「古宮さん」と呼ばれ、今も「ごくさん」となまって村
人からあがめられています。
(原五百里さんの説話から)

くわずの柿
 河内の柿は、味がよいので昔から有名でした。たいていの家には、二・三本の柿の大木が
ありました。
 これは昔、この村の大地主だった人が、やしき年貢のたしにするため、勧めて植えさせた
名残りだと言われています。 
 この大地主の先祖の墓所にも、柿とまきの木が一本ずつ植えられていました。
 この柿は甘柿で、おいしいものですから、子どもたちがよくちぎって食べました。すると、
きまって腹が痛くなりました。
 ところが、大地主のぼんさんやびんさんと遊んでいて、一緒に食べたときは、不思議に痛
みませんでした。
 これは先祖の子孫への思いやりが、柿にこもっているのだろうということで、誰いうとな
く、くわずの柿として盗んで食べなくなりました。
 この柿の木は、今も青々と茂って実をつけています。腹が痛くなる話はまだ生きているそ
うです。
 ご用心。ご用心。
(山本泰明さんの説話から)

泣き坂
 辻の白谷に、おじいさんとおばあさんが住んでいました。
 おじいさんは山の番をしながら畑を作り、おばあさんは綿をつむいで布を織り、山本の里
へ売りにいっていました。
 ある日、おばあさんは小さな蛇が、青さぎにいじめられているのを見て、かわいそうにな
り、青さぎを追い払って蛇を助けてやりました。
 小蛇は、泉のそばの松の木の方へ逃げて行きました。
 すると、松の根がぞろりと動き出しました。根と思ったのは、大きな蛇でした。
 びっくりしたおばあさんは、急いでおじいさんを呼び「きっと、この山の主にちがいない」
と話しながら、山へ隠れる蛇を見送りました。
 幾日かが過ぎて、布を売ったお金で、おじいさんの好きな酒を買ったおばあさんは、高額
から白坂へ下りるだらだら坂まで帰った所で、ころんで酒徳利を割ってしまいました。何日
もかけた苦労が無駄になり、おばあさんは子供のようにあわあわ泣きました。
 静かな白谷の山あいにこだまして、山や木までが一緒に泣いてくれるような気がしました。
 その晩、何か物音を聞いて、おばあさんが戸を開けると、そこには大きな酒徳利が置いて
ありました。 
 「誰が置いてくれたのだろう」と二人は、不思議がりました。
 やがてのこと、おばさんは「いつかの大蛇が、子供を助けてくれたお礼にくれたのかも知
れない」と思い当たりました。
                                          (辻好太郎さんの説話から)

なべやの鐘
 昔、辻に「なべや」という鋳物屋がって、大変繁盛していました。
 とくに、なべやが吹いた本山寺の鐘は、よく鳴ることで有名でした。
 朝夕、本山寺でつく鐘の音が、有明浜まで聞こえたほどでした。
 ある年の冬、本山寺の近くの「南」という所で火事があり、みるみる燃え広がって十三軒も
丸焼けになりました。この大火事の最中に、ちょうど近くの近江屋という宿屋に明烏(あけ
からす)とうい相撲とりが泊まっていましたが、すぐ本山寺の鐘をつきはじめました。力自
慢の力士が、長い間火事を知らせるための早鐘をついたからたまりません。とうとう鐘にひ
びが入ってしまいました。しかし、かすがになべやの鐘。割れていても他の鐘よりは音色が
よかったということです。
                                                  (原 政一さんの説話から)

金のにわとり
 昔、大野の智行寺山に金のにわとりのつがいがおったんじゃと。
 しかし、今はおんどりが一羽だけおるんじゃて。
 おんどりは一羽だけで、淋しいけんな、白い実の南天の木の根もとにな、深い穴を掘って
隠れとるんじゃて。
 ほんじゃけんどな、一年にいっぺんだけ、それも元日の朝早うに、地面に出てきて、うた
うんじゃて。
 コケ コッコー   コケ コッコー
 そのときの声をきいたもんは、百万長者になれるんじゃちゅうけんど。聞いたもんはあん
まりおらんようじゃわな。
 ずっと後になってじゃけど、綿あきんどがな、伊予の川之江の方へ商売に行きょってした
ら、妻鳥(めんどり)ちゅう村へいったんじゃて。
 「ああ、智行寺のめんどりは、ここへ飛んで来とったんかい。ほんで、おんどりが恋して、
西へ向いてときをつくるんかもわからんのう」
 いつのまんか、このあきんどの話もくっつけて、皆が話すようになったんじゃて。
 話っちゃ、かわるもんじゃなあ。

怪盗なんりん
 昔、大野の西光寺あたりに、「なんりん」という泥棒がいました。
 どんなに厳重な戸締りをした土蔵でも、「なんりん」がその前でボンと手をたたくと、わ
けもなく戸が開きました。
 また屋根から屋根へ、平地を走るような身軽さで伝い歩きました。                 
 盗んだお金は、みんな貧しい人たちに分けてあげていました。それで、人たちから「義賊
なんりん」と慕われていました。
 しかし、いくら義賊でも人のものを盗むことは、悪いことです。
 とうとう大泥棒の「なんりん」も役人に捕まって、打ち首になってしまいました。
 首を切られるまぎわのことです。役人が「何か言い残すことはないか」と尋ねますと、
「なんりん」は辞世のうたを大きな声でよみあげました。
 なんりんが 盗ったるかねは 幾万両
   身につくかねは 今日のひと太刀
 そして、「なんりん」は落ち着きはらって静かに最期をとげました。 
(薄井治子さんの説話から)

やまもと風土記
 広報やまもと 昭和五十五年四月号(№58)から五十八年九月号(№97)
まで四十回にわたって連載

たけのこ
 春は、たけのこの季節です。神田のたけのこは柔らかく、あくがないので高級品といわれて
います。文政十三年(一八三〇)と言いますから、いまから、ちょうど百五十年前、立石の大
西慶吉という人が、初めて庭先に孟宗竹(もうそうちく)を植えとのが広がったのだそうです。
 江戸時代、竹は大切な建築材料であり、時には竹槍という武器になるので、勝手に造林する
ことは、お上ににらまれるもとでした。慶吉が、財田村宝光寺の庭にはえていた孟宗竹を一株
もらって帰って植えたのも、ほんの庭木として眺めるためでした。
 たけのこをとるために、竹を山に植えたのは、慶吉の孫の庄吉で、時代も明治に変わってい
ました。
 雑木山を開いて竹を植え毎年たけのこでお金をもうけたので、みんながならって、竹林をつ
くり、今の百十ヘクタールの神田竹林に広がりました。
 大正元年四月、ときの三豊郡乾貢(いぬいみちぐ)が神田村役場へ巡視にきたとき、昼食の
おかずにたけのこを出して、大変に褒められ、急に神田のたけのこは、有名になりました。
 大西庄吉は、昭和二十八年百四歳の長寿で亡くなりました。
 たけのこは、長生きのホルモンがあるのかもわかりません。

おもて献上
 昔、河内の大喜多家へ丸亀の殿様や家族の方たちがお乗り廻(ルビ まわ)しといって、た
びたび巡行して来ました。殿様一人に、百四十二人という大勢の家来が、ついてくるのですか
らたまりません。
 河内はもちろん、近くの村の人々も、大さわぎをしました。
 殿様には、まず表献上として、土地の名産品を白木の台に載せて差し上げました。
 文政十二年(一八二九)三月二十七日の御巡行のときは、次のようなものを献上しました。
 鯛(たい)……二尾       松露(しょうろ)……一かご
 ふき……二わ          ざぼん……三つ
 栗……二十            生ぜんまい……二わ
 うど……三わ          竹の子……二本
 松露とは、春に生える丸いきのこだそうです。栗は綿を敷いた箱に詰めて、保存しておいて
ありました。
 このほかに、内献上というのがあって、高価な書画や道具などの中から、殿様が気に入った
ものを献上しました。
(大喜多家文書から)

芸者たみえ
 大辻は昔から鋳物業で栄えてきたので、江戸時代の末期には、農村には珍しい風呂屋、質屋
などがあり、義太夫やしろうと芝居が盛んでした。
 面白いことには、芸者さんもいて、方々のお座敷へ呼ばれていたことです。
 天保九年(一八三八)四月、河内の大喜多本家の当主大喜多東六の四十二の厄おとしの祝宴
に集った芸者の中に、名前が残っています。
 上高野・・・みすいつ      中の村・・・おぐらいつ   和田浜・・・わしち 同
三味線・・・おときち     観音寺・・・まんじ     同・・・むらさき
 大辻・・・たみえ        観音寺・・・おひな     同・・・おくま
 どうも色気のない名前ばかりです。
 この祝宴には、丸亀の家老の弟、多賀弾正(五百石)も出席しましたが、酒盛りの間、次の
部屋で、この芸者の中の琴の名手が、妙なる調べを流し続けたと言います。
 頭から田舎芸者と見くびるのは、当たらなかったようです。
 なお、この時芸者たちがもらったご祝義は、全額で銀百目でした。
(大喜多家文書から)

かじ道具
 山本町にも全国的に有名なものが、いくつかありますがそのひとつに、財田西向井川の古墳
から出土した鉄製のかなずち、かなとこ、かなはしのかじ道具があります。
 鉄はさびつくため、壊れやすく、埋蔵文化財としては銅製品に比べると、その数はぐっと少
ないのですが、その鉄製品で、原形かわり、三つもそろって一ヶ所から出土したのは、日本で
は他に例がなく、まさに日本一で、いま東京の国立博物館におさまっています。
 しかし、残念ながら明治四十三年(一九一〇)四月十九日向井川裏山で出土したのは分かっ
ていますが、その詳しい地点や、出土の状況が分かっていないのです。もしその時、専門家の
指導のもとに学術的な発掘がされていたら、おそらく重要な文化財に指定されていたでしょう。
 正確な位置を捜すため土地台帳や図面で調べますと、どうやらその古墳は、いま樋だらい橋
の北側の、山肌を鋭く削り取った部分にあったようです。
 昭和四十六年ごろ、歴史学者、和歌森太郎氏の「日本史の虚像と実像」の中に、このかじ道
具の出土地が、財田西でなく財田村になっているのにびっくりしました。
 日本で一例しかない、かじ道具の出土が山本町にあったことを、私たちは忘れないで正しく
語り伝えて、風化させたくないものです。

                                黒鍬(ルビ くろくわ)
 黒鍬(くろくわ)というのは、「江戸時代、池や道路などの土木工事に従事していた、土工
人夫のこと」と字典に載っています。
 天保十年(一八三九)八月、浦谷小谷池の堤を直すために、河内村忠兵衛がやとった徳治も、
黒鍬の一人でした。
 彼は紀伊国の生まれでしたが、鍬一本を肩に諸国をあるき、西谷の農家の納屋をかりてねぐ
らしとして、河内付近で多くの掘り田(開墾)の仕事をしました。
 忠兵衛は、この堤の工事を銀百十匁で、徳治におろしました。
 徳治は、彼と同じような諸国からの奇り集まりもの四、五人を呼び集め、十日ぐらいで完成
させました。樋管や水門の忠兵衛が手細工で作り、万事めでたくでき上がりました。
 請負金百十匁は、現代のおかねに直して、どのくらいになるでしょう。
 忠兵衛は、工事の最初に飯料として、米一斗(一八リットル)を徳治にわたし、そのかわり
銀九匁を請負金から差し引きました。
 だから、百十匁は米一石一斗二升(二二〇リットル)の代価に当たり、現在の七万円余にあ
たります。大分、安いようですが、これも時代の違いでしょう。
 さて、この小谷池を土地改良課で調べてもよかったのですが、山本町内には、小谷池が十個
もあって、どの池の話か、急にはわからないそうです。
                                                      (大喜多家文書から)
馬車が行く
 長瀬橋が、初めて財田川かかったのは、七十年前の明治の終わりごろです。それまでは、浅
瀬を歩いて渡っていました。
 寒い冬は、水が冷たく、夏の大水のときは通行止めになりました。神田の旧道は、狭いとこ
ろで二メートル、広いところで四メートルで坂や峠が多く、人々は早く県道にしてもらって、
広いまっすぐな道がつくように請願し続けて、やっと明治四十五年(一九一二)に完成しまし
た。
 神田をはじめ付近の村の人たちは大喜びでその年の春、神田小学校で開通を祝いました。明
治四十三年、部分完成の長瀬と琴平の間を乗り合い馬車が走り始めました。
 こんぴらまいりの旅人を運んで、大もうけをしようと思いましたが、あまりお客が乗らない
ため、やがて走らなくなりました。昔の人は歩くことが好きで、馬車に乗ってこんぴらまいり
をしてはご利益がなくなると思い、なるべくお金を倹約したためです。
 大正十五年、讃予(さんよ)バスが、豊浜と琴平の間を走りはじめ、今の山本町のバス交通
の皮切りとなりました。
   
虫ごきとう
 天保二年(一八四一)河内村の忠兵衛は、小谷池の池尻に新田を開きました。
 水もちが悪かったので、忠兵衛は子供を大勢連れてきて、水田の中で遊ばせ、底土を練らせ
たためか、水が漏らなくなりました。
 苗は「とらごぜん」を植えました。初年のためか、よく出来ていたのですが、この年は、方
々の稲に蠅(ルビ はえ)がつき、この田の稲も蠅だらけんなりなした。
 そこで、村人は「はえのけご祈祷」を伊舎那院に頼みました。六月二十八日、三百人の村人
が集まり、太鼓・かね・ほら貝を鳴らし、旗をたてて村中すみずみまでの田んぼを回りました。
 庄屋役人も一日中回りました。この虫ごきとうのおかげか、さしものの蠅も退散して、秋と
ともに見事に稲穂が実りました。長い間、苦労してきた忠兵衛は、自分の運が開けるしるしだ
と、大喜びしました。
 そして、子供のために役立つよう生活や農業技術の知恵を、こまめに覚え書に書き残しまし
た。
                            (大喜多家文書から)

石器工場
 国道377号線にそった、南岡の圃(ルビ ほ)場整備事業は、現代の山本町のショーウィ
ンドーのひとつです。
 その南岡の西端から、高額にかけては、昭和初期まで、たくさん石器が出土しました。雨の
降った後など、畑の作物のよこにやじりや石おのなどが顔を出しているのを、まるで宝石でも
捜すように採集することができました。   
 これは千五百年前、弥生時代にこの辺に家があり、人々が狩りをしたり、木の実を採って生
活していた名残だといわれます。
 ただ、石器に多く使われている石(サヌカイト)は、この辺にはなく、豊中町の志保山がい
ちばん近い産地でした。
 鳥やけものと交換に石をもらってきて、生活の道具を作った石器工場のあとかもわかりませ
ん。
 それにしても、ドリルもラインダーもない大昔に、貫頭衣をきた古代人の、細かい石器や首
飾りを作り細い穴をあけた技術にはまったく驚くばがりです。                          
石の地蔵さん
 今から二百四十六前、享保二十年(一七三五)三月二十八日、大辻に地蔵党が再建されて、に
ぎやかに落成法要がいとなまれました。
 和田や池ノ尻の村旦那や、庄屋、山本の秋山坊などからたくさん祝いものや供えものが、行
器(ほかい)に入れて持ちこまれ、三日三晩お説教が続いたそうです。
 しかし、建てられたお堂はは小さかったらしく、再建前の最初の地蔵堂は、一間半に二間、
畳六枚の広さでした。
 明治初年、建物台帳をつくった時の野帳の平面図も同じようなものですから、 享保の地蔵堂
も六畳敷ぐらいで、人々は堂の前の広庭にむしろをしいて説教を聞いたこと塚でしょう。
 地蔵堂が建つ前は、石塚に石の地蔵さんが立っていました。地蔵さんは、この近くで長宗我
部な敗れた高井下総守の軍を供養したのかも知れません。
 原氏の祖、勘太夫がなくなって、八十年ほどたったころの大辻の一面です。
                         (辻村地蔵堂草創諸用記録から)     
ごんしろ橋
 山本町の中央商店街と大野を結ぶ祗園橋。今のモダンな橋は、昭和四十三年繩にできたもの
です。その前は、いくつもの棧橋をつなぎ合わせ、浅瀬から浅瀬へ渡した仮橋でした。
 もっとも古い時代は、長い杉材を二・三本繩で結んだ丸木橋で、渡るときには足下を川水が
流れ、鮎が泳ぎ、ゆさゆさと上下に揺れました。
 祇園橋の名は終戦後につけられたもので、昔は「ごんしろ橋」と呼ばれていました。ごんし
ろとは、権四郎のことで、初めてここへ橋を架けた人の名かと思ったら、そうではなさそうで
す。
 橋を渡った北岸のあたりを権四郎と呼んでいて、その地名から橋の名がつけられたようです。
 権四郎がこの辺を開墾した人の名か、年貢を納めていた人の名か、村を治めていた人の村役
だったのか、今は知るべくもありません。
 時代とともに、人の名も交通の不便も過去に押し流され、橋の上を今日も人や車が忙しく通
りを過ぎています。
                                                          (降雄省三氏の話から)お茶
の接待
 春になると神田街道は、こんぴらまいりの旅人でにぎわいました。
 昔の旅は、おおかた歩いて行きましたので、方々に茶店がありました。
 神田砂古の庵では、お接待といって、村の人がお茶をたいて、旅人にただで上げました。
 このお茶をたく釜(かま)は、殿様からいただいたもので、四つ目の紋がピカピカ光ってい
ました。
 「殿はん釜のお茶はうまい」と、旅人は喜んでお茶をすすりました。
 接待をする村の人たちも、旅人から知らない土地の話や出来事を聞くのを、楽しみにしてい
ました。
 残念なことにこの殿様からもらった釜は、太平洋戦争のとき、武器や弾丸をつくるため、供
出して無くなってしまいました。
           
六人の足軽
 文政十二年(一八二九)三月二十七日、殿様が家来をつれて、河内村へお越しになったとき、
百四十二人の大勢でしたので、方々の家へ別れて泊まりました。
 殿様が泊まった本陣の大喜多家では、夜になって表がやかましいので、出て行ってみると足
軽が六人口をそろえて文句を言っていました。
 「われわれは、殿様のお役に立つために丸亀からお供しているのに、あんなに遠い見張番所
へ泊められては、とっさのお役に立たない。ぜひこの庭先でよいから番をさせてくれ」と言っ
て動きません。
 しかたがないので急いで床几(しょうぎ)を出し、酒さかなをふるまってもてなしました。
 足軽たちはうまそうに酒を飲み料理を平らげると、空き間へ上がり込んで寝てしまいました。
 どうやら、彼らはどこの酒と料理がうまいか、ちゃんと心得ていたようです。
                               (大喜多家文書から)            
殿さまお乗り廻し
 文政十二年(一八二九)三月二十五日、殿様は丸亀城を出発され、勝間六ッ松でお休みのあ
と、本山持宝院(本山寺)でお昼を召し上がり、植田天神松、観音寺像が鼻を経てその夜は和
田藤村家でお泊まりにまりました。
 二十六日は雨のため、午後二時ごろまでお酒を召され、そのあとすぐ大野原平田家へ行かれ
てお泊りになりました。二十七日は朝早く関屋、鳥越へ行かれ、十三塚を経て大野原庄司家で
おひる、地蔵院でお休みののち、夜五ツ半(九時)河内へお越しになりました。
 大喜多家の当主、東六は、正月井手(河内川)の橋を渡った所の横井の下で控えておりまし
た。
 やがて行列が近づき、対提灯(ルビ ちょうちん)の次に御徒士衆(おかちしゅう)が東六
の前に立ちました。 「東六でございます。」と申し上げると「大喜多東六どの」と大声でご
披露になりました。
 殿さまは、西側の御成(ルビ おなり)門からお入りになりました。奥座敷にお着きになっ
たあと、改めてお目見えに参上しました。御用人さま監視のもとに次の間の二つ折り屏風のと
ころでお目見えしました。
 このときは、長い物は厳禁でわき差しはもちろん、白扇も持たせてくれません。
 二十八日殿様はご出立になり、中の村伊舎那院、大野祗園宮へ立ち寄り、勝間威徳院でお昼
休みののち、鳥坂、長井、金倉を通ってお城へお帰りになりました。
                                                    (大喜多家文書から)

御巡見様
 江戸時代、殿様の巡視の大変でしたが、それ以上に気を使ったのは、幕府の御巡見様でした。
 将軍の代替りのたびに、巡見使は諸国の行政の善しあしを視察して、公儀に報告しましたが、
その報告の仕方では、藩の成績にもかかわるので上を下への大騒ぎでした。
 寛政元年(一七八九)四月十六日、巡見使田中角左衛門、山岡安兵衛、後藤重治朗は、箕浦
から讃岐入りをして、和田、大野原中姫から辻、財田西、神田、佐文、櫛梨と上道(かみみち)
を通って、四月十八日丸亀へ着きました。
 その間の宿所や昼休み所をはじめ、大庄屋、庄屋などの準備は大変で、村の隅隅まで気を使
い、しかも、何も飾らない、ありのままを見てもらおうという風を装うのに苦心しました。
 一行に雇われる人足たちには、巡見使から質問されたときの答え方を教え込み、道ばたの家
々には、わらじやぞうりを出させて、いつでもはきかえられるようにしてありました。
 無事通り過ぎた村では、組頭がそっと後をつけ、次の次の村境まで見送るという、気の使い
ようでした。
                                                      (藤村家古文書から)

おおび
 いまでこそ香川は、太陽熱利用の先進地になっていますが、つい三十年前まで、日照量が多
く雨が少ない香川の農業は、夏がくるとたびたびひでりに見舞われました。
 やけつくような太陽の下で、火風(ひかぜ)が吹き、水田は白くかわき、よれよれにしおれ
た稲は、火をつけると燃えそうになりました。
 川にも池にも水はなく、白く亀の甲のようにひあがっていました。こんなとき、人々の最後
の頼みは雨乞いでした。神仏の祈って、雨がふるように頼むことは、菅原道真の昔も近代も変
わらない人々の願いでした。
 その行事の一つに大火がよくたかれました。農家から集まった麦わらや、薪など山のように
盛って火をつけ、夜空をこがすように燃やしました。
 火のまわりに集まった、大勢の人々が、切ない祈りをこめて仰ぐ夜空には、明日も晴れと告
げる夏の星空が無情に光っていました。
 辻では菩提山、河内では長野、財田西の天神山、神田の立石山などで大火がたかれました。
 中部用水や香川用水が開通して、山本町の水利は急によくなりましたが、昔のひでりの味を
覚えている人には、夏の大火が物悲しい風物詩のように思い出されます。
								    
米一升
寛政元年(一七八九)の 西讃の駄賃のきまりがあります。
       駄賃の定め
   本駄賃一匹 一里 二十五文 から尻一匹 一里 十三文
   人足一人 一里 十二文 かご一挺 一里 二十四文 
となっています。
 このときの白米の値段が、一升七十二文ですから、これを六百円として、現代風に直してみ
ると、次のようになります。 
   荷馬 一匹 四キロメートル 二百八円
      乗馬 同じく 百八円
      人足 一台 四キロメートル  百円
      かご 一台 四キロメートル  二百円
  この数定めをみて感じることは、白米の値段が、運賃に比べて大変高いことです。歩いて物
や人を運ぶ人足やかごかきが、白米一升を買うためには、二十四キロの道をあるかねばなりま
せん。これは、山本町役場から、牛屋口を通って、こんぴら大門までを往復することになりま
す。現代人は、おそらく誰しもしりごみすることでしょう。
 昔は、米が貴重品で、麦やあわを主食としたことや、かごかきがよく酒代を客にねだったわ
けも、わかるような気がします。
(大喜多家文書から)

寅の洪水
 慶応二年(一八六六)八月一日から八日まで降り続いた大雨のため、財田川・河内川は大水
となり、田畑をはじめ人畜家屋を押し流しました。
 そのときの水位の高さは、西上の宗運寺の石段で手が洗えた、といいますから想像以上です。
 一面の泥水が引いたあとには、砂や石が二十センチも積もっていました。
 庄の側では、この砂を一カ所へ集めた砂山が、ついさきごろまで、田の中に残っていました。
 下流の観音寺村では、漁師たちが大被害を受けました。
 当時、魚役所の役をしていた河内の大喜多家では、助成銀四貫目を網元網子百軒に分けて、
急場を助けました。
 この大水は、慶応二年の干支(えと)が丙寅(ひおえとら)ですので、寅の洪水(とらのこ
うずい)といって、今に語り伝えています。
(大喜多家文書から)

天神さんの競馬
 財田西の天神さんでは、秋祭りに競馬の余興がありました。
 競馬に出る馬は、近くの村からその日に集まってきましたが、明治時代には徳島の井内谷や
山城谷から、はるばる参加した馬もありました。
 馬にはいろいろな飾りの馬具をつけ、乗り手に派手な服装に風折鳥帽子(かざおれえぼうし)
のようなものかぶり、まんぶし(竹の根)のむちを持って出場しました。
 馬は一度に五頭ずつ出て競走しました。一等から三等までの入賞馬には、天神さんのおふだ
やのぼりが賞品としてだされました。
 馬に元気をつけるため、走る前になま米を食べさせたり酒を飲ます人もありました。遠方か
ら来て勝った馬や乗り手には、付近の人が一夜の宿を貸し、喜びを分け合いました。
 昔は、馬がたくさん飼われていて、江戸時代には西の村だけで三十頭もおり、長瀬には借し
馬の屯所もありました。
 天神さんの競馬も終戦後、しだいにすたれ、馬場だけ残っています。

首塚意聞
 寛延三年(一七五○)西讃岐で起こった百姓一揆は、数万の百姓が力を合わせ、領主に強訴
した大暴動でした。この首謀者のなかに大野の高橋兵治郎も加わっていました。
 兵治郎たちは捕らえられ、同年七月二十八日、金倉川のほとりで打ち首獄門になり、切られ
た首は三日間、刑場にさらされました。兵治郎に親しいものが、その首をこっそりもって帰り、
大上南川原の墓地に埋葬しました。
 この首塚はその後、大野軍人墓地の南のすみ、むくの木の下に移され、供養塔とと共にまつ
られています。
 ところが、兵治郎の墓といわれるものが、豊中町本山にもありました。兵治郎の親せきにあ
たる本山の高橋竹之進の先祖は、大野にまつられた首塚の墓石をこっそり掘りおこし、背負っ
て帰り先祖の墓地に埋めなおしたというものです。
 しかし、大野の首塚によく似た自然石のその墓には、他人の法名が刻まれていて、義民兵治
郎と結びつくものは何もありませんでした。むほんの人の墓を隠すため、わざと他の法名を書
いたものか、または、暗がりで墓をまちがえて持って帰ったものか、二百三十年たった現在、
真実は墓石だけが知っているようです。

伊勢代参
 天保九年(一八三八)、大喜多東六は四十二歳、妹のおかじは三十三歳に当たりますので、
伊勢神宮でおかぐらをしてもらうことになりました。
 これは前年の暮れに、御師白米太夫のかわりに檀まわりに来た奥田城助様に、御初穂料をこ
とづけてお願いしました。
 伊勢への代参を引き受けた下河内の伊兵衛は、正月二十六日に出発して備前へ渡り、陸路を
大阪に行き、奈良へ回って多武峰談山神社や、初瀬の長谷寺へまいり、二月六日伊勢へたどり
つきました。
 かぐらは、太太かぐらと太かぐら、そのほかに二見浦での水垢離(みずごり)もたのみまし
た。
 翌日から二日間、ゆっくりと内宮外宮を参拝しました。
 九日朝、奥田様に見送られ、一万度おはらいや御神酒、供物、たばねのしななどをもらって
伊勢を出立、二月十九日午後三時ごろ二十四日ぶりに河内へ帰ってきました。
 東六は伊兵衛に日当、宿賃、舟賃、よろず小遣いとして、百二十匁五分三厘をわたしました。
 なお、伊勢へ御初穂料は東六分二十両、おかじ分として七両をおさめ、白米太夫と奥田様に
銭五百文ずつをあげました。
                                                      (大喜多家文書から)

千田堤(ルビ せんだつつみ)
 千田数馬与義(せんだ かずまともよし)は、高井半十郎の長男として、寛永三年(一六二
六)、大野で生まれました。
 はじめ生駒高俊に仕えましたが、生駒騒動の後は京極高知や高豊に仕え、政治手腕を認めら
れて重臣となりました。
 その人柄は人並み優れ、貞享五年(一六八八)金比羅まいりに来た松平源英公の話し相手を
して、政治を語りあいましたが、松平公も後でその識見をほめる程でした。
 元禄十年(一六九七)七十二歳で亡くなるまで、千田数馬与義の一生は郷土愛で貫かれてし
まいました。
 財田川右岸に造られた千田堤(せんだつつみ)もそのひとつの現れです。この堤は土を使わ
ず、栗石と砂で作られ、財田川に大水が出ると、やわらかに水の勢いをゆるめ、大野の田畑の
流失を防ぎました。
 このほか、大谷池と宮池をあわせてひとつの池とし、下大野の用水路を造り、祇園八幡の両
社の本殿や拝殿、釣り殿を建て、馬場を整備し、神田三十石を寄付しました。
 豊中町地大の熊岡神社に、なぜか、千田数馬与義の祇園八幡別当寺にあてた寄進状が保存さ
れています。
(大野両社記などから)

水争い
 河内川下流にある毘沙門井という出水は、西の村の農業用水だと言いだしたため、辻村の百
姓と論争になり、天明八年(一七八八)五月、西の村側から連名で訴状が出されました。 
 お上で明細帳や本帳などを調べたところ、間違いなく、辻村本田や田井へ掛かる用水である
との記録があり、西の村側も納得して治まりました。
 しかし、論争のときに、辻村側の説明が不足で、十分西の村側と話し合わなかったため、お
上の手をわずらわかしたこと、寛政元年(一七八九)のひでりのときに、西の村の田植えがで
きないため、用水を分けるようにとのお達しを聞き入れず、役人が出て調停しても反対したこ
と、庄屋幸治が、自分の持ち田の用水だけでも分けると言い出して、やっと一同も分水に同意
したことなどから、辻村の百姓は、きついおとがめを受けました。
 寛政三年六月七日から九日まで、「追い込み」を寺社奉行佐久間次左衛門などから言い渡さ
れました。
 追い込みは押し込めとも言い、表戸を締め、外出を禁じられる罰でした。
 けんか両成敗と言いますから、西の村側もなんらかの罰があったはずですが、今のところ記
録が見当たりません。
(正田精一家古文書から)

三下り半
「離別申す一礼のこと。
そこもと義、此度我ら勝手につき、離縁いたし候。
 向後何方へ縁付き候とも我ら一切さしかまえござなく候後日のため離別申す一礼よってくだ
んの如し」
 これを現代風に直しますと、次のようになります。
「離別する書きつけです。あなたは、今度私たちの都合で離縁します。この後だれと結婚して
も、私たちはかまいません。あとのしるしのための離縁状として、以上の通りです」
 この離縁状には、別に決まった書式はなかったのですが、必要な文句を、簡単に昔風に書く
と三行と半分に収まったので、「みくだりはん」とか「去り状」と言われてきました。 この
短い一枚の書き付けで、夫の都合で一方的に家を追い出された妻。しかも、この書き付けがな
いと、他へ緑付くことがでできなかった、弱い立場の昔の女の涙がしみこんでいるようです。
 離緑のとき、手切れ金をもらった妻もありました。雀の涙から、ひと財産まで、その金額は
いろいろでした。文政十年(一八二七)二月、辻村藤兵衛が、別れた妻おしげに与えた手切れ
金は金五十両でした。これは当時としては、夢のような大金でした。

おどし鉄砲
 奥山とよばれる讃岐山脈には、むかし野生動物がたくさん住んでいました。大きな動物では、
猪(いのしし)が多くいました。
 奥山につづく山村では、芋や大根などの農作物を猪に食べられて、たいへん困りました。
 百姓たちは何百メートルもある石垣や棚(さく)を作って、猪が農作物を荒らすのを防ぎま
した。
 それでも効果がないので、特にお願いして、おどし鉄砲を使うことを許されました。
 おどしといっても、ちゃんと弾丸がこめられますので、猪は撃ち取られ、ぼたん鍋などで、
山村の貴重なたんぱく源となったことでしょう。
 しかし、鉄砲は強力な武器ですので、その管理はたいへん厳しく、毎年、鉄砲あらため帳を
大庄屋へ出して、鉄砲の寸法、数、弾丸の重さ、火薬などを調べられました。神田、河内の山
村では、鉄砲の数が多く、近藤家や大喜多家の文書を見ると、どちらも数十ちょうも使われて
いたことが、うかがわれます。
 このほかに、時間を知らせる刻(こく)鉄砲もありました。

矢の根
 大西という姓は香川県では三番目に多く、山本町でも百戸に近い世帯が大西を名乗っていま
す。
 その源(ルビ みなもと)は、徳島県池田町の大西(白地)から出ているといわれています。
 天正五年(一五七七)春、土佐の豪雄・長宗我部元親は大西城を攻め落とし、城主大西備中
守覚用は一族や家来といっしょに讃岐へ逃げて来ました。 
 そのとき、大西城内に祭っていた鎮守の十二社権現を背負って神田立石の山中に祭りました。
これが立石大明神とも十二社神社とも言われるお宮でした。
 大西覚用は立石からさらに麻城へ逃れたとも言います。
 徳島・香川・愛媛の各地に散り住んだ一族や家来は大西城再興を目標にしていましたが、逐
に目的を果たせませんでした。
 立石に住んでいた大西武八の家には矢の根(やじり)ら刀が数十腰、かぶとの鉢などがたい
せつに保存されていました。
(讃岐名勝図絵から)

松かわもち
 天保七年(一八三六)、全国的に大ききんになりました。河内村でも、夏から秋にかけて長
雨が降り続き、稲も綿も大変な不作となりました。
 忠兵衛の耳にも諸国のききんの様子が伝わってきて、あまりの恐ろしさに震え上がるほどで
した。
 北陸や奥羽地方では餓死(ルビ がし)するもの数知れず、将棋倒しのように死んでいった
そうです。
 四国でも、山国阿波では食べ物がなく、どんぐりやしいの実、すずばなの根、松の皮、むく
の木の皮を始め、野草の中でも、よもぎやたんぽぽは取りつくしたといいます。
 不作といっても、河内村では飢えることはなかったのですが、いざというときの用意に、忠
兵衛は米や麦などの代わりにになる食べ物の作り方や味のよしあしなどを、詳しく書き留めま
した。
 「どんぐりは臼でついて皮を取り、小さく刻んで水にさらしてあくを抜き、水で炊いて、日
に干し、臼(ルビ うす)でひいて、おちらしのようにする。麦ぬかを交ぜると、味は良くな
る。すずばな餅も松皮餅もかなり食べかれる。砂糖を入れると風味がよい」といった具合です。
 そして、全国的な大ききんでも河内村で暮らせることを繰り返し感謝していました。
(大喜多家文書 忠兵衛覚書から)

こんぴら騒動
天保五年(一八三四)正月から、だんだん米や麦の値段が上がりだし、人々は大変困りました。
 特に琴平では、米屋、酒屋が米をたくさん買い込みそれを高く売りだしたので、米価がどん
どん跳ね上がりました。
 たまりかねた人々五百人は二月十六日、琴平の五さんまいに集まり、ほら貝をふきならし、
阿波町・内町・高やぶ・小坂・谷側などへ押し寄せ、米屋など七・八軒を打ち壊し、新町から
榎井へと進みました。驚いた町役人や山役人が飛び出しておしとどめる一方、高松藩へ早飛脚
を出して、助勢を頼みました。
 二月二十日、高松から三百人の役人・浪人隊が重装備で来たときは、こんぴら騒動はとっく
に治まっていました。
 しかし、このような不穏な風潮はしだいに広がり、観音寺や和田浜でも騒ぎが起こり、本山
寺には「三月五日大寄合」の張り紙が、人知れず張られていました。そのため、河内村へも丸
亀藩の足軽や小もの十人あまりが入り込み、六日間警戒にあたっていましたが、幸い騒動は起
らず、平穏無事でした。
 こうした騒動やききんは、年々深刻さを加えていき、社会不安は次第につのる一方でした。
(大喜多家文書から)

竹槍騒動
 明治六年(一八七三)六月二十七日から七月六日にかけて、西讃におこった竹槍騒動は、明
治維新の新しい政治に対する人民の不安と抵抗の爆発だと言われます。
 学校・役場・役人の居宅などを焼き打ちにして、しだいに東へと攻めて行きましたが、琴平
東の羽間(はざま)付近で軍隊の一斉射撃を受け、あっけなく制圧されました。参加した暴徒
二万人、主だった者は処刑されましたが、なんとなくついていうた者も自訴届を出して自首さ
せられました。
 河内村で この届を出した者百二十五戸。二百戸あまりの総戸数のうち六割の家が騒動に参
加したことになります。参加した各戸に、一円五十銭ずつの罰金が言い渡されました。当時の
一円五十銭は相当の大金でしたので、急には工面がつかない家が大部分でした。しかたなく、
次の組長に頼んで地主から借金をして、罰金を払いました。
 長野 利右衛門 百治

 上 馬治 喜代八
 中 吉治 源介
 下 馬治 形治 
 理念のない無責任な指導者、群集心理にかられた民衆は、何を夢みて暴走したのでしょう。
 このとき焼き払った建物五百九十九戸。亡失した多数の文化財を思うとき、一円五十銭」の
罰金は決して高いとは言えません。
(大喜多家文書から)

かすみの法塔
 村はずれの道ばたに立つ石の塔が、農村の風景によく見られます。
 だれが供えるのか、四季折々の花が手向けられ、赤いよだれかけをかけたお地蔵さんもあり
ます。
 古い時代の村境に立つ石塔は、かすみの法塔と呼ばれています。
 かすみとは、法力の縄張の意味で、昔先達(せんだち)三伏が初穂米を集めたり、お礼配り
をする権利のある地域のことを言いました。
 また、お宮の氏子や、お寺の檀家(ルビ だん)の範囲の目印でもあり虫ごきとうや夏越の
お礼が立てられ、流行病などの災いが村へ入るのをさえぎる塞の神の役目も受け持っていまし
た。 年号を見ると、江戸時代の末期に建てられたものが多く、疫病が流行した年と符合する
石塔が多いので、その時代の人々の願いが込められているのが分かります。
 時代の変遷で、かすみの法塔も位置が変わり、中には姿を消したものもあります。
 高松のデパートの屋上で、値札をつけて売られている法塔もありました。
 先人が残した貴重な文化財を、現代の価値観で文字どおりかすませ、失いたくはありません。
行政改革
 行政改革は、昔から何度も繰り返し実施されています。天明八年(一七八八)から天保八年
までの五十年の間に、出されたお触れは六千六百余り。そこ大半は行政改革にかかわるもので
した。
 明治の改革で、地方へ出された倹約令は、徹底して生活の簡素化をねらったものでした。 
一、女の着物は木綿に限る
 一、髪飾りは、しんちゅう製一本まで。娘が紙で作った花かんざしを挿すのは一本だけなら
かまわない
 一、女髪結は禁止
 一、わけもないのに、ごちそうを作って人を招いてはいけない。婚礼や祝い事のときは一汁
一菜。それも蓮根、芋、こんにゃく、にんじん、昆布など、五種の煮しめに限る
 一、仏事のときも一汁一菜。しかも平皿は「ひろず」など一種に限る
 一、家を新築してはいけない
 一、旅行をしてはいけない
 一、夏の船遊びなど、もってのほか
 一、縁組のとき、嫁や養子が分限にふさわしくないこしらえをして、後で知れたらきつい罰
を受ける
 一、吉凶のやりとりは、五十文以下に限る
などなど、生活のすみずみまで規則でしばられていました。しかし、せっかくの倹約令も、い
つしか元どおり、ぜいたくになり、またお触れが出るという、繰り返しが続きました。(大喜
多家文書から)

続・行政改革
 現代の行政改革は「増税なき財政再建」がテーマですが、江戸時代のは「増税による財政再
建」とそのものずばりです。増税には年貢や運上の収入をできるだけ増やし、そのため国民の
生活費を極端に切りつめさせようと、たびたび倹約令が出されたわけです。
 一、ばくちなどかけ事をしてはいけない。
 一、表つきの塗り下駄(ルビ げた)や絹の緒のはきものはいけない
 一、破魔弓、羽子板は安いものに限る
 一、五月ののぼりは二反以下。それも色をつけたり、模様を入れてはいけない
 一、八朔(はっさく)の飾り馬は一匹だけ。それも米粉一升以下で作った小さいもの。  
 その他の人形や舟飾りはだめ
 一、夏羽織を着てはいけない。しかし、庄屋など村役人が公用のときは、時と場合によりか
まわない。
 一、三味線を昼間弾くのはかまわないが、夜、弾くのはいけない
 一、よそから来た旅芸人などを、一晩泊めるのはよいが三晩以上はいけない
 一、日傘、雨傘などすべて白張りに限る。男は日傘を差してはいけない
ずいぶん細かい倹約令ですが、かえってピントのぼけた、悠長な世相が想像できます。
運上=江戸時代・各種の税金
                                             (原薫二郎家文章から)

へいどんか
 昔の子どもにとって、お正月は楽しい夢の塊のようなものだったのでしょう。
お正月の遊びの中で、たこあげはいちばん人気があったようです。
現在のように、高圧線も自動車もなく、自由に大空を舞うたこに、子どもたちは鳥になったよう
な空想を描きました。しかし、たこは全部手製でした。
 いちばん簡単なたこは、三本の竹ひごと糸と紙で作りました。十文字に組み合わせたひごは、
横の分より縦の分がすこし長い方が安定します。横のひごの約一・三倍の長さのひごを弓のよう
に曲げ両端を横ひごの両端に弓のまん中を縦ひごの上部で固定します。糸でひし形の回りを固定
して薄手の紙を全体に張り付けます。
 たこを引っ張る支え糸は縦ひごの一倍半の糸を縦の五分の三の二カ所で留めます。たこの角度
が四〇度ぐらいになるように引き糸をつなぎます。
 このたこは「へいどいか」とたいへん軽べつした名前でしたが、子どもでも作ることができ、
よく上がりました。自分が作り、自分で画を書いたたこが、大空高く舞い上がったとき、寒い冬
の風も昔の子どもには春風のように感じられました。



かつぎ石
 大辻の大法寺の境内に、ラグビーボールのような卵形の石が転がっています。
 直径三〇センチ、長さ四〇センチ、まるでのみで削ったように整っています。昔から一尺立方
の石が二十貫といいますから、この石も六〇キロぐらいあるでしょう。
 この石は、昔の若い衆が力だめしに使った「かつぎ石」だと伝えられています。
 娯楽の少ない昔、毎月一日と十五日の二回しか休日がなかったころ、若い衆たちはく集って力
だめしをして楽しんだといいますから、現代の感覚では想像もできません。
 かつぎ石は、米俵のかわりに肩にかつぎ上げられたり、差し上げたりして力を競い合いました。
 もちろん、その場の見物人は若い衆だけではありません。
 若い衆のねらいは、見物人に交わる若い娘に、自分の男性美を見てもらうことにあったのでし
ょう。
 村の集会所になる広所に、なにげなく転がっている石にも、昔の若者の青春が秘められていま
す。
 
演歌の元祖
 昔チョンガレ、今カラオケと言われてますが、歌曲はいつもの時代でも遊びの中心でした。
 明治初期の辻村長だった藤田平造が、菅生神社へ奉納した隆達節の本は、慶長二年(一五九七)
八月一日に書かれた当時の流行歌百六首の歌詞集です。
 演歌の元祖といわれる高三隆達(たかさぶりゅうたつ)は中国系の渡来人の子孫で、泉州会堺
で薬屋をしていた家の二男坊でしたが、顕本寺の自在庵の坊さんとなりました。
 ちょうど秀吉が天下を取り、やがて徳川の世となるころの堺でした。
 隆達は六十四歳で坊さんをやめ、薬屋を継ぎ、一方では、ますます歌曲に打ち込みました。彼
は作詞作曲そして優れた歌手でもありました。つまり、当時のシンガーソングライターだったわ
けです。
 秀吉や諸公方、千利休、細川幽斉らとも親交があり、隆達節は有名人の遊びから始まって家町
庶民へと広まっていきました。
 扇拍子や尺八の伴奏だけで歌うその節回しが、どんなものであったかは知りませんが、飾らな
い人間の愛情を大胆に歌った歌詞にも魅力があったのでしょう。
 アメリカのボストン美術館にも、隆達節四十五首が、いちばん目立つ所に展示してあるそうで
す。
 藤田平造がこの古本を、どのような経路で手に入れたのかわかりません。

浄るり
 江戸末期から明治にかけてはやったものに浄るりがあります。
 浄るりは、芝居とくに人形芝居では筋運びやせりふに大きな役割を持ち、太閤(ルビ たいこ
う)記七段目とか傾城阿波の鳴門など名場面、名文句つまり触りのところはよく知られて愛唱さ
れていました。
 ところが、浄るりには太ざおという三味線がつきもので、これを弾く人と語り手の呼吸がぴっ
たり合わせなければなりません。カラオケテープで歌うようには簡単でなく、お金もたくさんか
かったようです。
 だから、浄るりはお金持ちの遊芸となりました。
 辻の「崎の市」はこのころの有名な三味線の弾き手で、あちらこちらの旦那衆から引っぱりだ
こで迎えられ、また多くの弟子を養成したと伝えられています。
 一説には、崎の市の先生は財田中之村の小倉市だと言われます。
 それぞれの地域では、浄るりの自称名人がいて、時々発表会を開きました。
 百目ろうそくを立て、かみしもをつけての熱演でしたが、観客を終わりまで引き止めるため、
ごちそうやお土産を用意するなど苦労する人もありました。
 この浄るりも、大正時代に寂れ、かわって浮かれ節、ちょんがりと言われた浪花節が盛んにな
りました。
でこまわし
 暖かい春になると、どこからともなく「でこ回し」のおじいさんが村へやって来て家々を回り
ます。
 てんびん棒で担った大きな箱には、古ぼけた人形がたくさん入っていて、好奇心でいっぱいの
子どもたちがぞろぞろと後ろに続きました。
 家の門口で荷を下ろすとおじいさんがしゃがれた声で浄るりを語りながら木箱から人形をとり
出して、しばらく演技をさせては止まり木にかけていきます。
 うなだれて、じっと動かない人形がおじいさんの手に掛かると、たちまち生命を吹き込まれた
ように表情を表し、手足を動かすのが魔術師のような魅力でした。
 ひととおり人形遣いがすむと、家の人が小さな盆に白米が小銭をのせておじいさんに出します。
 米を入れる袋も木箱の中にありました。子供がそれをのぞき込もうすると、にこにこしたおい
べっさん(えべすさん)の顔がパクリと大口の恐ろしい表情に変わって、追っ払って来ます。
 人形はまたボロ布のように折り込んで箱に入れられ次の家に向います。
 「どこから来てどこへ行くのだろう」子供たちはでこ回しのおじいさんが山向こうの阿波の山
村から来るのだと教えられて、さらに空想を広げました。

朝日浪
 丸亀藩の六代藩主、京極高朗は、大変な相撲好きでした。
 お抱え力士や、お出入り力士が二十人も江戸上屋敷に集まり、とくに観音寺村出身で、大関に
なった平石七太夫は大のお気に入りでした。
 あるとき、平石が江戸回向院(ルビ えこういん)で強敵に勝ったとき、見物していた高朗は
大名の身分を忘れ、跳び上がり手をたたいて喜びました。 
 このことが大目付の間で問題となり、それからは大名が回向院へ相撲見物に行くことが禁止さ
れました。
 高朗は今度は「おすもう方」という役人を十数人作り、回向院から上屋敷まで早馬で相撲のニ
ュース速報をさせて楽しみました。
 殿様がこんな風でしたので、丸亀領内でも相撲は盛んで、力士が多く出ました。
 財田西の村の高木武八もその一人で、少年時代から体が大きく力持ちでした。
 大阪の力士、朝日山西朗右衛門に弟子入りして関取となり、しこ名を朝日浪と言いました。 
 しかし、実は朝日浪は財田の生まれで、上之村江熊蔵の子でした。訳があって高木家の養子と
なったのでしょう。明治十一年四十七歳で亡くなった朝日浪のため、渡辺与市、須藤源五郎(俺
下の須藤敏治さんの祖父)が世話人となって、庵下の墓地に大きな墓を建て、郷土の力士の栄誉
をたたえました。

寺社めぐり
  伊勢講で太神宮に一寸まいり
  物見遊山が現代のようにたやすくできない時代では、庶民の楽しみのひとつに、寺社めぐりの
名目で他国を旅行することがありました。四国巡礼や西国めぐり、とくに伊勢のおかげまいりは、
江戸時代末期に大繁盛しました。
 このような参拝地には、たいてい花街がつきもので、参拝客に魅力であったことは、川柳がう
まくえぐっています。しかし、中には、純粋な信仰ひとすじで、巡拝を目指した人もありました。
 辻の原造酒(ルビ みきぞう)蔵郷英は、農業と紺屋をしていましたが、心願をたて、全国の
お寺「千が寺」を巡拝することを思い立ちました。
 不幸にも、武蔵の国までたどりついた所で病気になり、嘉永二年(一八四九)四月とうとうそ
こで亡くなりました。「私が、もし旅先で死んでも、故郷へ知らせなくても結構です。所の作法
で葬ってください」
 彼の往来手形には、型どおりにこう書いてありましたが、武蔵の人たちは、丁重に葬式をした
うえで、遺骨遺品をはるばる辻村まで届けて来ました。造酒蔵の着物の襟に、いざというときの
用意に小判が縫い込められていたためでした。
 昔の巡礼者には、いつも死と対決した悲壮感が漂います。

朝角
「朝日浪」のことを書きますと、河内の朝角から物言いがつきました。
「おれのことも書いてくれ」
  朝角。あさかど、あさすみ、あさかくなど、いろいろ読めますが、口調は“あさかど”がよい
ようです。
 本名山本亀之助、河内の人四郎太夫の子ですが、少年時代から腕力が強くて有名でした。
 丸亀の力士朝日川角平がうわさを聞いて、ぜひ自分の弟子にしたいと思って、使いの人をよこ
しました。河内に来た使いの者は道に迷って、田んぼで中耕をしている大きな若者に上河内へ行
く道を尋ねました。すると、若者は使っていた牛鍬(うしぐわ)を棒切れのように握って、親切
に教えてくれました。あまりにも強い腕力に、丸亀の使者はびっくりして目を見張りました。結
局その若者こそ目指す亀之助とわかり、丸亀へ連れて帰って朝日川に入門させました。しこ名を
朝角と名乗り、関西では有名な力士となりました。
 しかし、惜しくも文久元年(一八六一)九月、三十七歳の若さで亡くなりました。朝角の墓は
上河内山本昇さん宅の北側の墓地にあります。
 墓誌銘の「勇力を以ってきこゆ」の四文字に朝角の多彩なエピソードが秘められているようで
す。庵下に朝日浪の墓の文字とよく似ていますから、多分同じ時代に同じ人が書いたものでしょ
う。
 ここまで書くと、ごこからか朝角の声が聞こえてきました。
「ごっつあんです」

スギヤマ象
 河内小学校、校長室のロッカーの上に置かれた長い重い箱。これは昭和五十一年、原秋好校長
時代に作られたもので、中には石鎚山南麓から出土した古代象の牙の化石が入っています。
 石鎚山といっても、西日本最高の愛媛県の高山ではなくこの校長室の東窓から見える小山のこ
とです。
 この象牙の化石は、通称スギヤマ象と呼ばれていますがこれはこの化石を生物学会に紹介した
杉山鶴吉の姓をとったものです。
 杉山鶴吉。徳島の人で、若いころ東京高等師範学校の生物教室の助手をしていましたが、文部
検定試験に合格して香川師範学校の先生になった努力家です。大正十年明善高等女学校にかわり、
昭和十八年ごろ亡くなりました。
 発掘された石槌山南麓も養鶏場として広々と整理され、化石が出たナベロという青粘土層が方
々に露出しています。出土地点を示す標柱のすぐ下を自動車進入路が走り、夏草が一面に生い茂
っています。
 白い小石が散らばる中に、古代象の化石が交じっているような気がします。
 二百万年と現在の接点も、絶えず変化を続けています。それを報告する学者にも、ときにはミ
スがあります。
 郷土の文化財を正しく認識し、永く語り伝えることは、結局郷土に住む人々の一人一人の心が
けだと思います。



山本町誌から


                            金の鶏 (ルビ とり)
 大野知行寺に金の鶏が住んでいる。もと雌(ルビ めす)雄(ルビ おす)二羽であったが、雌鶏
は伊予へ飛んでいってしまった。(それが妻鳥(ルビ めんどり)だという)雄鶏はさびしくてなら
ず、白南天の木の根元に穴を掘って地下深くかくれ、人の目にかからなくなった。せめて一度だけで
も雌鶏に逢いたいものと、正月元旦の朝早く地上に出て、伊予の方に向かって、ときをつくって呼ん
でみたが、雌鶏は出て来なかった。
その後、毎年の元旦に決まったように鶏鳴暁を報ずることになったそうである。その金の鶏の声を聞
く人は千万長者になるとのことである。

                            馬蹄(ルビ ばてい)の跡
 財田西天神山の麓に大きな花崗岩がある。表面は平らで、その中程に馬蹄の形をした凹みがある。
これは昔、讃岐の国司であった。天神様が国内巡視の時、地上を歩かないで乗馬のまま天がけり財田
西の上空にきた時に降り立った蹄(ルビ ひずめ)の跡だといって、その地を天神山と名づけて天満
宮を創設したそうである。現にこの石を岩神さんと称し、天神山の東北の麓に祀ってある。

                                    ひだらい
 昔、戦国時代の末、土佐の梟雄(ルビ きょうゆう)長宗我部元親が四国統一の野望を抱いて、阿
波・伊予の諸豪族を打ち破り破竹の勢いで讃岐へ侵入した。讃岐は、西に大平氏、多度郡に香川氏、
中讃以東には長尾・奈良・羽床・由佐・香西・三谷・神内・安富・寒川の諸族が十河氏を盟主として
長宗我部に抗した際、何氏の配下だったか不詳であるが、知行寺山に城砦を設けて土佐勢の進路を阻
もうとした。土佐勢は川の南、天神山に陣取って知行寺山勢と戦って大いにこれを破った。その時戦
死者の血が川水を赤く彩ったので、その地を「血だらい」後に「ひらだい」と訛(ルビ なま)った
とのことである。そこは、岩石が流れをせき止めて大だらいの趣があり、そこから稲作用水の取り入
れ口(樋)が昔から造られている。
長者と乞食(こじき)
  昔、ある大晦日(ルビ みそか)の暮れに、みる影もなく病みほうけた乞食が下大野の四郎左衛門
という農家に立ち寄って「廻国(かいこく)の路に行きくれて困った老人です。こちら様がお慈悲深
いと聞いて参りました。軒下でもええから一夜の宿を貸してつかされや」と懇願した。四郎左衛門は
人情厚い人で、泊めてやろうかと思ったが、明日は元旦の神祭り、人の家で年越しをせず、他人も家
にとめないのが昔気質の真言宗徒。「とめてやりたいのは山々じゃが、家には家風の神祭りがあるの
でとめられないが、しかし、ここから一里ばかり山の方へ行くと五朗兵衛といって光明皇后様のよう
に慈悲深いお方がある。その人ならきっととめてくれるからそこえ行け」といった。老乞食はもう暗
くなってから五朗兵衛を訪ね、訳を話して頼むと「ああ、よしよし。四朗左もええ男じゃが思うだけ
では善根にならん。家には軒下ではなく上納屋に寝さしてやろう」と蒲団(ルビ ふとん)までかけ
てやった。習元旦になって、五郎兵衛一家が年始のお祝いに楽しい集いをしてるのに、昨夜の乞食は
起きてもこない「はてなあ、病人の事じゃ、死なれても困るのう」と見に行くと、蒲団をかぶって身
動きもしない。おずおずと蒲団をめくってみると、こはいかに、老乞食ではなく、ぴかぴか光る黄金
の山だった。
万八狸(たぬき)
 鋳物師辻は狸伝説の多い地である。その一つ、万八狸は劫(ルビ こう)を経(ルビ
へ)た古狸であるが、化けてばかりいるには窮屈なので、狸の姿に帰って藪の中で昼寝をしていた。
すると悪い犬にみつめられて頭を噛み切られてしまったが、さすがに神通力を持った古狸だから、胴
体だけで徘徊(ルビ はいかい)して時々人間に取りつく。万八はひまな時は寺の床下に隠れて、お
上人神様からありがたい法華経を聞いて覚えているので万八狸につかまれた人は平素不信心でお経を
知らない愚者でも、万八狸につかれている間は、不思議とじょうずに長い経文を誦(しょう)したそ
うである。

阿波狸と千手院
 大辻部落の人は冬の農閑期になると、野呂内谷で山受けして一年中の薪とりをする習慣があった。
ある年、山受け仲間の一人が、帰り道で急に便意を催したので、路傍の石塚を阿波狸の先祖の墓とも
知らず、その傍で用足しをしてしまった。すると、子孫の大狸が怒って先祖の霊を汚した不届け者と
いって、その男に乗り移った。男は帰ると、狸つきとして発狂した。家族が心配して、寺やお宮へ病
気平癒(ルビ ゆ)を祈願したが効がない。大辻の端、西光寺の池に千手院という修験僧の道場があ
る。当主は加持祈祷の法力すぐれた大西法印である。この人に狸をはらい落としてもらおうというの
で、二夜三日祈祷したが、いっかな験(ルビ しるし)がない。病人もつかれたが法印もへとへとに
なった。法印は最後の力をふり絞って「のうまくさんまんだ」と不動明王の真言を高らかに唱える声
で、病人はぱっと眼を開いて「千手院が万手院でも落ちる俺じゃないが、西光寺の森の豆狸の女房に
俺の娘がきとるが、それうを可愛がってくれるなら落ちてやろう」「今後、人にのり移ったり、いた
ずらしないならいじめはせん」といって狸つきの男は正気に返ったそうだ。

茶っ栗柿麩
 かご振り商売の爺(ルビ じじい)が、年をとって遠方へ売り歩くのだが億劫(ルビ くう)にな
ったので、息子をやることにした。日用品の茶と麩、間食用に栗と柿をかごに並べて入れ、町へ売り
にやった。「黙っていては分からないから品物の名を大声で叫んで人に知らせるんだぞ。相場は袋に
書いてあるから、品物を渡したらまちがわずに貰(ルビ もろ)うて来いよ」「うん分かった」と、
威勢よく出かけた。町へ入ると、大声で茶っ栗柿麩~と絶え間もなく叫び続けたが、早口で何のこと
か分からないので、帰って爺に話したら「そんなに早口でいうからいかん。茶は茶で別々、胸の内に
おいてから栗も柿も麩もみな別々にはっきりいうのじゃ。ええか」「うん分かった」と、出かけた。
「茶は茶で別々、胸の内においてと、栗は栗で別々、胸の内においてから、柿は柿で別々、こいつも
胸においてから、麩は麩で別々」と、終日売り歩いてもちっとも売れなかったとさ。

あわて者の金比羅参り
 明日はおとうか(一〇日)というので金比羅へ参詣したいが、真夏の日盛りは暑いからと、暗いう
ちに起きて-身支度。涼み台に腰かけて脚絆(ルビ きゃはん)をはいたのはよいが、片方は脚につ
け、片方は涼み台の足にくくりつけた。弁当はどこだと聞くと中包みして台所の隅においてあるとい
うから、大急ぎで傍の風呂敷(ルビ ふろしき)に包んで首に結びつけて出かけた。いつも大食いの
男が朝飯も十分に食わずに、三里の山路を歩いたから、金比羅へついた時にはもう腹ぺこだ。まず、
弁当を食ってから参拝しようと、茶堂の休憩所に腰かけて首から包みを取ってあけると、これはした
り。弁当と思ったのは木の箱枕だった。おまけに、風呂敷には左右の隅に紐(ルビ ひも)がついて
いる女房の腰巻だった。とにかく参詣をすまし、うどん屋で腹ごしらえをして、ぷんぷん怒って帰る
と、さいわい風呂をたいてくれてあった。やれやれしやと、とび込んで、やれゆれこれで疲れが直っ
たが、どうしたことか両脚とも皺(ルビ しわ)だらけになっている。それもそのはず、股(ルビ 
もも)引きをぬがずに入っていたのだ。

茶売りと中風病
 働いても働いても、手足にあか切れの数が増すばかり。野良仕事の暇々に日用品のかごふり商売も
儲けが少なくて、今夜は大晦日というのに年越しそばにもありつけず、若い二人は思案投げ首。ああ
銭が欲しいと夫がいえば、ふと六(粗末な衣類)でもええから正月着が欲しいと女房がいう。貧乏で
も元旦には早起きして祝おうぜ。寝床に入る前、女房が立って便所へ行く。聞くともなく聞いている
と、小便の落ちる音。ちゃぶりちゃぶりと壺(ルビ つぼ)の中からきこえてくる。はてな、ちゃう
りちゃうりと聞こえる。これはかごふり商売物に茶を加えて売れとのことじゃろう。茶は軽いから荷
にならぬ。来年から茶売りは女房にさしてみようと、次の一年はせっせと茶の商売をしたのが運よく
当たって、大もうけした。それを聞いた隣の貧乏人夫婦が、うちでもそれにあやかりたいと、大晦日
の晩に女房が小便するのをきいていると、あんこうにさした杉の葉に小便のかかる音がちゅっちゅと
きこえる。はてな、雀のことかな。それとも鼠(ルビ ねずみ)か。何の意味だろうと考えていると、
最後に一発ぶうと大きな放屁(ルビ ひ)の音、人真似(ルビ まね)して金儲(ルビ もう)けよ
うとして中風で倒れたそうだ。

折間(ルビ おりま)にゃふん
  大層(ルビ たいそう)話し好きな長者の嬪(ルビ びん)さんがあった。人に話をさせて、一日
中聞いていたというのである。話のすじが分かるかどうか、ただ、ぼんやりと聞いているだけ。お伽
(ルビ とぎ)話だろうか、芝居の話だろうが、ぽかんと口をあけたまま、うんだとも潰(ルビ つ
ぶ)れたともいわない。母親も、これにはこりて話し手を下女し任せることにした。下女が話すよう
になってからも、嬪(ルビ びん)さんの態度は相変わらずで張り合いのないことおびただしい。
「嬪さん余り黙ってとっては勢が抜けて話が出来まへん、折間にゃふとんとなというてつかさいな」
「折間にゃふんというときに話しておくれよ」下女が話し出すと、嬪さんはおりまにゃふんおりにゃ
まふんと絶え間もなくいい続けるので、さすがの下女も呆れはてて愛想をつかした。