入力に使用した資料 底本の書名 全国昔話資料集成 32 東讃岐昔話集 香川 底本の編集者名 武田 明 谷原博信 責任編集 臼田甚五郎 関 敬吾 野村純一 三谷栄一 装幀 安野光雅 底本の発行者 岩崎徹太 底本の発行日 1979年10月5日 入力者名 松本濱一 校正者名 平松伝造 入力に関する注記 文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の文字番号を付した。 登録日 2003年3月20日
―260― 東讃岐昔話集 話型対照表 (# 表の線は底本では「実線」) ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 話 名 | 日本昔話集成 | 番 号 | ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 一 七夕さんの話 | 天人女房 | 一一八 | | 二 半殺しにするか | 本殺半殺 | 四一五 | | 三 狼さんの返し | 狼報恩 | 二二八 | | 四 猿聟入り | 猿聟入 | 一六二 | | 五 蛇聟入り | 蛇聟入 | 一〇一A | | 六 飯食わぬ女房 | 食わず女房 | 二四四 | | 七 粟の飯 | 猿の助言 | 一二八 | | 八 話の好きな長者 | 果なし話 | 六四一 | | 九 安珍と清姫 | | | | 一〇 関札の話 | | | | 一一 竹のはじける音 | 山姥と桶屋 | 二六五 | | 一二 女中と棺桶 | 大年の火 | 二〇二 | | 一三 大窪寺さんの石の香炉 | 猫檀家 | 二三〇 | | 一四 切幡寺の話 | 宝手拭 | 一九八 | | 一五 化物屋敷 | 宝化物 | 二五九 | | 一六 うば棄て山 | 親棄山 | 五二三 | | 一七 運定め話 | 産神問答 | 一五一C | | 一八 左甚五郎の話 | | | | 一九 茶栗柿麩 | 茶栗柿 | 三三一 | | 二〇 お遍路さんと化物 | | | | 二一 鶴の恩返し | 鶴女房 | 一一五 | | 二二 あわて者の金毘羅参り | 粗忽相兵衛 | 四〇五A | | 二三 二人の金毘羅参り | | | | 二四 柳のおりゅう | | | | 二五 大滝寺の猫又 | 猫檀家 | 二三〇 | | 二六 手を切られた娘 | 手無し娘 | 二二八 | | 二七 俊徳丸 | | | | 二八 継子の栗拾い | 栗拾い | 二一二 | ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ―261― ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 話 名 | 日本昔話集成 | 番 号 | ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 二九 継子と本子 | 米埋糠埋 | 二〇五B | | 三〇 八栗山参り | 首掛け素めん | 三五一 | | 三一 盲と大工 | | | | 三二 樟の木の下の小判 | 味噌買橋 | 一六五 | | 三三 蛇と酒屋 | | | | 三四 海の水はなぜからい | | | | 三五 お釈迦さんの臨終 | | | | 三六 軽業師と手品師と歯医者 | 閻魔の失敗 | 四四二 | | 三七 継子と味噌豆 | 継子の釜うで | 二一九 | | 三八 姑とぼた餅 | 牡丹餅は蛙 | 一六三B | | 三九 姑と嫁 | | | | 四〇 一寸法師 | 一寸法師 | 一三六 | | 四一 天道さん金の鎖 | 天道さん金の鎖 | 二四五 | | 四二 大年の火 | 大年の火 | 二〇二 | | 四三 難題聟 | 謎解聟 | 一三〇 | | 四四 蛙の報恩 | 蛙の報恩 | 一〇四 | | 四五 西行ばなし | | | | 四六 皿々山 | 皿々山 | 二〇六 | | 四七 女房の福分 | 産神問答 | 一五一 | | 四八 蛇と手斧 | 産神問答 | 一五一 | | 四九 炭焼長者 | 炭焼長者 | 一四九 | | 五〇 桂洞法印さん | 化物問答 | 二六〇 | | 五一 舌切り雀 | 舌切雀 | 一九一 | | 五二 取りつくひっつく | 取付く引付く | 一六三 | | 五三 旅に行く人の話 | 話千両 | 五一五 | | 五四 おとどい星 | 天道さん金の鎖 | 二四五 | | 五五 飯食わぬ女房 | 食わず女房 | 二四四 | | 五六 子づれ幽霊 | 子育て幽霊 | 一四七A | | 五七 狐女房 | 狐女房 | 一一六 | | 五八 笠地蔵 | 笠地蔵 | 二〇三 | | 五九 水のものに命を取られる話 | 産神問答 | 一五一 | ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ―262― ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 話 名 | 日本昔話集成 | 番 号 | ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 六〇 よしとくの話 | よしとく鳥 | 五九 | | 六一 見とおしのそろばん | 嘘八卦 | 六三〇 | | 六二 童子丸の話 | 狐女房 | 一一六 | | 六三 蛇骨の話 | | | | 六四 蛇聟入り | 蛇聟入 | 一〇一 | | 六五 チュウハンザはんの話 | | | | 六六 山姥の乳 | | | | 六七 継子のコクバかき | 栗拾い | 二一二 | | 六八 狐の嫁 | 狐女房 | 一一六 | | 六九 継子と自身子 | 米埋糠埋 | 二〇五 | | 七〇 節供の酒 | 蛇聟入 | 一〇一 | | 七一 食わず女房 | 食わず女房 | 二四四 | | 七二 果てを見る話 | 大鳥と蝦と亀 | 四八二 | | 七三 はなしの話 | 法螺比べ | 四八〇 | | 七四 むかでの話 | | | | 七五 蛇聟入り | 蛇聟入 | 一〇一 | | 七六 猿蟹合戦 | 猿蟹合戦 | 二五 | | 七七 宝手拭 | 宝手拭 | 一九八 | | 七八 花咲爺 | 花咲爺 | 一八九 | | 七九 舌切り雀 | 舌切雀 | 一九一 | | 八〇 あずかり子 | 産神問答 | 一五一 | | 八一 虻にかんな | 産神問答 | 一五一 | | 八二 大年の客 | 大年の客 | 一九九 | | 八三 二人扶持の男 | | | | 八四 白蛇と人間の知恵 | 田之久 | 四七三 | | 八五 一寸法師 | 一寸法師 | 一三六 | | 八六 桃太郎 | 桃の子太郎 | 一四三 | | 八七 乙姫さんの恩返し | 米倉小倉 | 四一二 | | 八八 安珍乙姫 | | | | 八九 子育て幽霊 | 子育て幽霊 | 一四七A | | 九〇 天道さん金の鎖 | 天道さん金の鎖 | 二四五 | ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ―263― ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 話 名 | 日本昔話集成 | 番 号 | ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 九一 姥捨て山 | 親棄て畚 | 五二三C | | 九二 おはぎは蛙 | 牡丹餅は蛙 | 一六二B | | 九三 かい餅が地を引く | 仕事は弁当 | 五九〇 | | 九四 麦刈り | | | | 九五 石塔の話 | | | | 九六 きんみね大五郎 | | | | 九七 息子と下女 | | | | 九八 狸の話 | | | | 九九 味噌豆を盗んだ小僧 | 和尚お代り | 五三一 | | 一〇〇 そうまはんの話 | | | | 一〇一 狸の大学校 | | | | 一〇二 泥鰌を買いに行った小僧 | | | | 一〇三 継子と笛 | 継子と笛 | 二一七 | | 一〇四 千円の仏壇 | | | | 一〇五 孝行な子息 | | | | 一〇六 虎の恩返し | | | | 一〇七 蛇の化け物 | | | | 一〇八 水が酒になった話 | 酒泉 | 一五四 | | 一〇九 お四国さんの訪問 | 猿長者 | 一九七 | | 一一〇 風呂焚きそうま | 法事の使 | 三三三 | | 一一一 鳩の恩返し | | | | 一一二 蟻の目にどんぐり | 短い話 | 六四〇 | | 一一三 猫又の話 | 猫の踊 | 二五五 | | 一一四 猫又 | 猫の踊 | 二五五 | | 一一五 灯台もと暗し | | | | 一一六 石堂丸の話 | | | | 一一七 長い話 | 長い話 | 六三二 | | 一一八 信田の森の狐 | 狐女房 | 一一六 | | 一一九 白峰さんとおととぎす | 片足脚絆 | 一五八 | | 一二〇 狐と人間 | 人忘恩 | 二三四B | ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ―264― ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 話 名 | 日本昔話集成 | 番 号 | ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 一二一 十二支の由来 | 十二支の由来 | 一二 | | 一二二 花の会 | | | | 一二三 塩売りの嬶 | 水乞鳥 | 五〇B | | 一二四 兎と亀 | 亀にまけた兎 | 三九 | | 一二五 鳶と盗人 | | | | 一二六 鼠の嫁入り | 土竜の嫁入り | 三八〇 | | 一二七 てっちょかっちょ | よしとく鳥 | 五九 | | 一二八 貧乏神と福の神 | 貧乏神 | 二〇一 | | 一二九 ひばり | | | | 一三〇 火打石と下女 | 大歳の火 | 二〇二 | | 一三一 天人女房 | 天人女房 | 一一八 | | 一三二 犬の聟と七つの宝 | | | | 一三三 二人の兄弟 | | | | 一三四 笠地蔵 | 笠地蔵 | 二〇三 | | 一三五 胴面さん | | | | 一三六 狼報恩 | 狼報恩 | 二二八 | | 一三七 瘤取り爺さん | 瘤取爺 | 一九四 | | 一三八 肉付面 | 肉付面 | 三九八 | | 一三九 へやの起こり | 屁ひり嫁 | 三七七 | | 一四〇 お伊勢参り | 首掛け素めん | 五五四 | | 一四一 てえらんの話 | | | | 一四二 短い話 | 短い話 | 六四〇 | | 一四三 長い話 | 長い話 | 六三二 | | 一四四 猫又退治 | | | | 一四五 日本一の屁ふり爺 | 竹伐爺 | 一八九 | | 一四六 人買い舟 | | | | 一四七 桃の子太郎 | 桃の子太郎 | 一四三 | | 一四八 おば捨て山の話 | 親棄山 | 五二三 | | 一四九 雲根鈍の話 | | | | 一五〇 継子いじめ | 継子と釜茹 | 二一九 | | 一五一 かっちょ | よしとく鳥 | 五九 | | 一五二 おおつごもりの餅 | | | ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ―265― ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 話 名 | 日本昔話集成 | 番 号 | ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 一五三 浦島太郎 | 浦島太郎 | 二二四 | | 一五四 子育て幽霊 | 子育て幽霊 | 一四七A | | 一五五 猫又の話 | 鍛冶屋の婆 | 二五二 | | 一五六 藁しべ長者 | 藁しべ長者 | 一五五 | | 一五七 信心なお婆さん | | | | 一五八 子供の運命 | 産神問答 | 一五一 | | 一五九 小人島 | | | | 一六〇 子育て幽霊 | 子育て幽霊 | 一四七A | | 一六一 トクよカツよ | よしとく鳥 | 五九 | | 一六二 蛇聟 | 蛇聟入 | 一〇一 | | 一六三 塩売りと雷 | | | | 一六四 長い話 | 長い話 | 六三二 | | 一六五 子供に意見 | | | | 一六六 蛇聟入り | 蛇聟入 | 一〇一 | | 一六七 天道さん金の鎖 | 天道さん金の鎖 | 二四五 | | 一六八 竹姫 | 竹姫 | 一四六 | | 一六九 石堂丸の話 | | | ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 関 敬吾著「日本昔話集成」(角川書店)による ― ― ― ― 編者ノート 武田 明 ―268― 一、地理と環境 この昔話集は主として東讃岐地方の昔話を採集し記録したものである。 東讃岐地方というのは、香川県の東半分、即ち高松市・香川郡・木田郡・大川郡・小豆郡の地方 とされている。しかしこの本の中には、これらの地方に隣接する地域の昔話も若干含んでいる。そ れらの地域は歴史的に言えば東讃岐に属すると考えられるからである。 小豆島を除いては旧高松松平藩の治下に属している。東讃岐の中心は何と言っても高松市である が、今では高松市は県庁所在地として東讃岐の中心地のみでなく讃岐の国全体の中心となっている。 人口約三十万で四国地方の表玄関として中央からの出先機関も多く、屋島栗林公園などの観光地も あって街全体が明るい雰囲気をただよわせている。 東讃岐地方も高松市を除いては西讃岐と同じように農村地帯が多く、阿波との国境には山村もあ れば、島嶼部や沿海地方には漁村も見られる。 狭い讃岐のことであるから東讃岐、西讃岐といって格別の相違はない。気候は温和で天災は少な い。しかし、干魃の害が多かったことも共通している。ただ民俗の上ではかなりはっきりした相違 点が見られていた。しかしそれもほぼ共通のものとなろうとしているようである。 南方に阿波との国境山脈をめぐらし、なだらかに下って瀬戸内海に向うといった地勢は、その温 暖な気候とあいまって柔和な讃岐人気質を生んだ。そして阪神地方と近いためにその地方への出稼 ―269― ぎや移住も多く、上方文化の移入も多い。こういったところが讃岐の文化の一つの特色ででもあろ うか。ただ戦後はどこの県でも同じであろうが阪神を通りこして直接に東京の文化が入って来てい るようである。要するに昔話の行われていた環境は次第に変化しつつあるのである。 二、今までの採集および発端と末尾の句 この地方の今までの採集量は西讃岐地方に比べて少ない。それが今度この集を編むことにした一 つの動機である。 川野正雄氏の小豆島坂手(現、内海町)における採集が十話ばかりで、これが雑誌「旅と伝説」の 昔話特集号に載ったのが初めで、ついで東讃岐昔話十話というのが「讃岐民俗」の第四号に載って いるが、これは私の採集である。その次は谷原博信君の高松地方の昔話で話数においては一番多い が、近年の採集であるために破片が多いのが悔やまれる。その他にも民話集、昔話集と名づけた二、 三の本が出ているが、その大半は伝説であったり創作であったりするので、これは信用できないも のが多い。 今までの採集によって明かになったことは発端の語り口はもう忘れている土地も多いが、やはり とんと昔 とんと昔もあったそうな ―270― で、末尾の句は仲多度郡琴南町美合の横畑というところで、 昔まっこう はなまっこう というのが採集された。この横畑という部落は仲多度郡とはいうものの山一つ越えれば香川郡の塩 江町で本来ならば東讃岐に入る土地である。ただ横畑は阿波からの嫁入りが多いので、この結句は 阿波の山間部から伝来したもののようである。 三、話者 この昔話集を編むにあたっては何人かの話者の協力を得た。その人達について述べて見ることに する。まず第一にあげなければならないのは大川郡長尾町多和槙川(ルビ まきがわ)の木村ハルエ さん(六十一歳)である。 木村ハルエさん 本集には四十一話をおさめた。槙川に生まれて同じ村内に嫁入りした。何でも よく知っている。十年ほど前に多和の小学校の藤井洋一先生に紹介されてから何度も訪れて多和の 民俗について色々と話を聞いた。今度、昔話を採集することになって、昭和五十二年の春から夏に かけて何回も訪れて話を聞かせてもらった。その語り口は古風ではないが、早口に話の筋を語って ゆく。昔話は子供の時にお母さんから聞いたという。家では農業の他に炭焼の仕事もしていたので、 炭ごもを編むのが母親の役目であった。ハルエさんはその傍で炭ごもの縄を編んでいてお母さ ―271― んから聞いたのだという。おじいさんがすぐれた話者であったようである。 多和は阿波との国境のさびしい山の村であるが、ここには四国霊場第八十八番の大窪寺がある。 大窪寺は最後の打ちどめの寺であるから遍路にとっては満願の寺である。しかし口べらしのために 遠い郷里を出された遍路や業病のために帰るあての無い遍路にとっては悲しい旅の終りの寺であっ た。再び四国を巡ろうとする気力の無い遍路が、この寺の付近で落命した話はあまりにも多い。 木村ハルエさんは昔話だけでなくそうした話もいくつか聞かしてくれた。それは印象の深い話ば かりであった。ご主人はこの戦争で戦死されたが、今はご子息やお孫さんに囲まれて幸福な日々を 送っていられる。今度の集のために一月おくれの盆の十四日にもお伺いした。丁度、槙川のささや かな共同墓地でムカエ火を焚く日であった。部落の人々が百八束のコエマツを墓の前で焚いた。墓 の入口とおぼしき所には細い青竹を立てそれにコエマツをくくりつけて焚いた。 その横には尖端に葉のついた笹竹を二本たててその葉先をまるく結んだ。そしてその上に大きい 蓮の葉をおき、中にミズノトという茄子を賽の目に切ったものと洗い米を入れた。これはおそらく 招かれざる霊のための食物であり、青竹のさきあたりを結んでコエマツを焚くのも招かれざる霊を 招くためのものである。ご先祖様はめいめいの家に招かれて帰って来るのだが、四国遍路の行き倒 れなどの多い多和であって見れば、こうした人々への思いをこめて行なうこの行事は特に心に残る ものがあった。 ―272― 木村ハルエさんからはまだいくつかの話が聞き出せそうである。 香西(ルビ こうざい)コスエさん(八十六歳) 今は高松市になっているが、上笠居の下山地に生 れた。生家はおばあさんの子供の時は請負いもしたり素〔メン〕(#「メン」は文字番号47827)も作っ ていた。子供の時は真田(ルビ さなだ)紐を編んだが、そんな折に眠くてたまらぬので昔話をよく 聞かされた。兄さんがなかなか器用な人で植木も接(ルビ つ)ぎ木もしていた。その兄さんからも 昔話をよく聞かされたという。十歳ぐらいの時から家の仕事が忙しいので妹の子守をした。村には 子守仲間が多勢いるので子をオイノコバンテンで負うたまま一緒によく遊んだ。雨が降って外で遊 べない時はどこかの家に上りこんで「とんと昔もあったそうな」と昔話を語りあった。その頃のお ばあさんの楽しみは嫁入りがあった家に出かけてデコサンと花かんざしをもらって来ることであっ た。高松やその近在では、嫁がくると、犬や鯛持ち夷のデコと花かんざしを披露のためにとなり近 所の子供に与えることになっていた。子守達は子を背中に負うたまま四㌔㍍ぐらい離れているのは 物ともせずに貰いに行った。もしもくれない家があると子守達は、 嫁が来たとてデコサンくれん筈じゃ。 〔タン〕(#「タン」は文字番号26509)笥や櫃はカラダンス と言って悪口を言った。おばあさんは花かんざしが欲しくてそれをいくつも箱に入れて集めていた という。 おばあさんが子守りの時に汽車がはじめて高松まで開通した。珍しいので大人達と一緒に見てい ―273― るとはじめにトロッコが走った。みんなはあんなに小さいものに人がそんなに乗れるものかといぶ かった。ところが夜の十時ごろになって初めて汽車が走った。みんなは喚声をあげた。おそらくこ れは試運転なのであろうが、おばあさんにはこんな思い出もあるのである。 今は生家の近くでひっそりと一人で住んでいる。七十四話ばかりの話が採集されたがなかなかに 記憶力は衰えを見せない。 宮本キヨミさん(八十歳) 仲多度郡琴南町美合横畑というのがおばあさんの村である。おばあさ んからは昔話はまだ二つ三つしか聞いていないが、語り口が古めかしいのと、結句の「昔まっこう はなまっこう」というのが讃岐では珍しいのでここに載せることにした。おばあさんは阿波の郡里(ルビ こうさと) から嫁に来た人である。この結句はひょっとしたら郡里のものでおばあさんによって讃岐にもたら されたとも考えられるが、どうも横畑の他の家の人々も知っているようなので、横畑付近では昔か ら行なわれていたのかも知れない。 横畑は平家の落人の子孫が開いたという小さい部落である。しかしおばあさんの家はなかなか宏 大で昔は高松の殿様の家老が避暑に来たこともあったという。 おばあさんは嫁に来る時は讃岐との国境の寒風(ルビ さむかぜ)峠を越えて来た。荷物の受け渡 しは峠の上でした。郡里の人夫はそこで横畑の人夫に〔タン〕(#「タン」は文字番号26509)笥や櫃を 渡した。こうしておばあさんは阿波の山の村から讃岐の横畑へ阿波の昔話を運んで来たのである。 寒風峠はこの山を越えていると不意に寒い風にあ ―274― てられるところから出た名であるという。 このおばあさん達の他にすぐれた話者として香川町東谷に村瀬ナミさん(明治三十六年生)がいる。 香川郡塩江町の内場から嫁に来た人である。にこやかな人で多くの昔話を知っていた。 ひょうげまつりで名高い香川町浅野にも何人かの話者がいて、これらの話者からは谷原博信君が 採集している。 四、風土と民俗 さて、これらの土地の風土なり民俗について述べて見たい。 このあたりは昔から干害の多い土地である。しかし、それは讃岐一円がそうであって、 讃岐日照りに米買うな という諺があるくらいである。それは讃岐の国が日照りの年は、よその土地は雨が適当に降ってい てお米がよく穫(ルビ と)れているから、讃岐が日照りであるからといってよそが凶年であると思っ てはいけないということである。そこで大小の溜池が無数に出来ている。どこを歩いても農村地帯 ならば溜池に出あわぬことはない。讃岐全土で二万の溜池があるというから、この昔話の行なわれ ている地方でも一万近くの溜池があるのでないかと思う。藩制時代には歴代の藩主たちは溜池の築 造と新田の開発に意をそそいだと言い、初代の高松藩主松平頼重などは四百の溜池を築いたという。 雨が降 ―275― らぬ風土だというのも一つの理由だが、やはり何としても大きい河の流れが無いというのも一つの 理由で、讃岐ではどんなに大きい河でも阿波と讃岐との国境にそびえる山並みの分水嶺から流れ出 て、瀬戸内海までは僅かに六十㌔㍍ぐらいだから大方は河原ばかりで常には水はほとんど流れてい ないと言っても過言ではない。それだから河から水を引いて田にそそぐということは殆んど無い。 溜池に頼るかユという湧き水に頼るより他は無かったのである。そこで水利慣行がよく発達し、一 方においては雨乞いが盛んに行なわれていた。 村には水利総代というのがいて何人かの役員とともに水利の慣行を昔ながらに守っている。 まず、苗代時が来るとイデザラエという行事がある。これは田植の水を池から流す時までにイヂ (田のほとりの溝)をさらっておくのである。イデザラエの日はその池がかり(配水)の農家では一軒 に一人ずつがジョウレングワという鍬を持って一定の場所に集まる。そして溝ざらえをしてゆくの である。それまでに農家ではイデの両側に生えている雑草を刈り取っておかねばならない。イデザ ラエもすみ苗代ごしらえもすむといよいよ田植えの日が近くなってくる。水利総代は降雨の状況と にらみあわせて池のユルヌキをいつするかをきめることになる。これは大体が六月の中旬頃である。 ユルヌキとは池の水を放出することで、ユルヌキが始まるといっせいに田植えにとりかかるのであ る。雨が少なくて池の水が少ない年は水の配分がなかなかにやかましい。池守(ルビ いけも)りと いうのがいて次から次へと田に水を入れてゆく。また土地によってはセンコウミズ(線香水)と言っ て香時計(ルビ こうどけい)の ―276― 中で香をくゆらせ、香の長さによって時間をはかって配水してゆくところもある。こうして田植え がはじまるのである。 今でこそ機械植えになってしまったが、早乙女が田を植えていた頃は紺絣(ルビ こんがすり)の 着物にたすきをかけた早乙女が賑やかに田植えをしていたものである。讃岐では農家から農家へと 嫁に行く時は嫁の里からは何本ものたすきを持って嫁入る風がある。これは嫁に行くと隣近所の農 家に持って行き、いずれ田植えの折は手伝いを頼むから挨拶にまわるのだという。田植えがすむと 暑い中を三度か四度ぐらい草取りをするのが今から五年ばかり前までの風習であった。土用の焼け つくような暑い日に田に入ると、田の水はわきたっている湯のようであるという。昔は田の中をは いずりまわって草取りをしていたが、やがて下に金具をつけた木製の車を押して草をとるようにな り、今では農薬の散布という簡便な方法に変ってしまった。田に入れる水の方も阿波の吉野川から トンネルを抜いて水が来るようになったので、もはや干魃の害も少なくなってしまった。ところが 山の方の水田や島々などではそうはいかない。未だに雨乞いの行事がぼつぼつと行なわれている。 どの村にも竜王さんという小祠があって、それは山の頂上にある場合が多い。雨が降らぬ日がつ づくと竜王祠に祈るのである。この昔話集に出ている美合の横畑などは、雨が降らぬと大川山(ルビ だいせんざん) や竜王嶽に上って雨を祈った。大川山へは同じ美合の中通(ルビ なかとお)という村から雨乞踊り の人々が登って行った。そして、ここで念仏踊りを踊るのであった。 ―277― なっぱいどうや なっぱいどうや と大勢がまわりで囃しなが踊った。雨の少ない年は、山麓のどの村からもこの踊りを見に行き大声 で囃し立てたものだという。昔は踊っているうちに雨が俄かに降って来ることもあった。そんな時 はこれは踊りの御利生だと言ってお礼の踊りをした。雨乞いの方法はいくつかあって横畑の近くの 前の川というところでは竜王淵の中へ雨が降らぬ時は汚物を投げこんで竜神を怒らせた。こうする と降雨があると信じていたのである。 同じ村の御角(ルビ みかど)というところにはオンブチとメンブチの二つの淵があるが、ここで は神主が淵の傍に仮の祭壇を設けた。そして村の人と一緒に淵に向って七日七夜のご祈〔トウ〕(#「トウ」は文字番号24852) をしたものだという。 雨が少ない土地柄なのでこうした雨乞いの風習は捜せばいくらでもあるが、讃岐の農村の人々に とってはこうした労苦は昔からのことで普通のことと思っているのかあまり話そうとはしない。 稲の収穫もすんで晩秋の頃になると農民達には池普請の仕事が待ちかまえている。池普請という のは池の底をさらえ、堤には土を盛って池の堤を強化し補修することである。稲の収穫がすむと翌 年の苗代時まではあまり水はいらない。そこで池の水を落してしまってからするのである。 池普請には各戸からかならず一人ずつは出ることになっていた。 山から山土を運んで来て引鍬(ルビ ひきぐわ)で水平にならす。そこで大勢の足でまんべんなく 踏みかためる。それまでは大体が男の仕事である。そこへ櫓(ルビ やぐら)を立て太い木の丸棒を 吊ってからドスンドスンと落と ―278― す。この時に女の人が縄をつけて丸棒を吊り上げ落とすのである。何人もの女の人が縄のはしを持っ てする作業だから、それはそれは賑やかであるが、その時に作業を統一するために歌われるのが千 本搗(ルビ せんぼんつ)きの歌である。この本の話者達の住んでいるあたりでは、その歌を歌って もらうために声がよくて歌をいくつも知っている女の人をわざわざ他村からでも雇って来た。中に は男の歌い手もあったが大半は女である。これらの地方の千本搗きの歌の若干を紹介すると、 浅野よいとこ ヨイトコショヤ ドッコイナ 日やけを知らず ヨイトコショヤ ドッコイナ 新池のおかげじゃ ヨイトコショヤ ドッコイナ 手を合わす ヨイトコショヤ ドッコイナ と歌い、次いで囃しの言葉を省略すると、 かわいがられて また憎まれて かわいがられた甲斐がない 咲いた桜に何故駒つなぐ 駒をつなげば花が散る と歌うのである。大勢の女達が大きい声で囃し立てて、大きい池ならばそれが何日もつづいた。 ソウリャ 下笠居よいとこ エッコラセ 五峰をうけて 瀬戸の大波が シンケン手打ちよせる 新在ちょいと出りゃ 生島(ルビ いくしま)の沖よ 西に見ゆるが大槌小槌(大槌島・小槌島) ―279― 大づつ小づつの二つの島は根から生えたか浮き島か 雇われて来た歌い手は自分の村だけでなく数ケ村を受け持って行くというのもあった。池普請に 出ている村の女達は村仕事の一つとして来ているのだが、雇われて来た歌い手には日当も出れば時 によっては弁当も出た。歌があるので仕事もよくはかどった。 この千本搗きが終ると今度は杵搗(ルビ きねつ)きをした。これは横杵でついて土を固めるので ある。この時にも千本搗きと同じような歌が出た。 こうした作業によって池の堤は固められやがて翌年のために再び水が溜められて行く。 池普請の仕事は讃岐の農民にとってどうしてもやらねばならぬ仕事であった。もし怠たれば老朽 化した溜池ならば、時には堤が切れて田畑はおろか人家までが押し流されてしまう災いをうけるこ とも多かったのである。池普請は年末までに終えるが、それがすむと寒い季節風が吹くようになり、 農民達はやがて正月を迎えるのである。 溜池については哀れな物語も多い。今は高松市仏生山町となっているが、香川町浅野からほど遠 からぬ土地にある平池(ルビ へいけ)には人柱の話があり、また浅野の新池には矢延兵六(ルビ やのべへいろく) の哀れな物語がある。 平池の人柱の話はこうである。むかし、平清盛が阿波の民部田口成良に命じて平池を築かせてい た頃のことである。何度も何度も堤が決壊していつ完成出来るか分らない。清盛公からはいつ出来 上るかの催促がしきりであった。困りはてた民部は一人の祈〔トウ〕(#「トウ」は文字番号24852)師 に頼んでどうすればよいか神のお ―280― 告げを聞こうとした。 すると祈〔トウ〕(#「トウ」は文字番号24852)師は明日の朝早くこの池のそばを通りかかる若い女 がいる。その女はちきり(秤り)を手に持っているからその女を捕えて池の堤に埋めるがよいと言う。 民部はあまりの非情さにそんなことはするまいと心に誓ったが、早く完成しなければ清盛の怒りは もとより、池下(ルビ いけしも)の百姓も困窮するに違いないと思いやって、とうとう家来に命じ て翌朝早くそこを通りかかった乙女を捕えて、「お前はちきりを持っているかどうか」を尋ねさせ た。娘は正直にちきりを持っていると答えると、これこそ祈〔トウ〕(#「トウ」は文字番号24852)師 の言った通りだと哀れにも娘を池の堤につきこめてしまった。 ところがそれ以後、堤は切れることが無かったという。池の堤のそのあたりでは今も深夜になる と、言わざら来(ルビ こ)ざらという娘のつぶやきの声が聞えるという。言わざら来ざらというの は、言わなければよかったのに来なければよかったのにという人柱になった娘の哀れな声だという。 矢延兵六も池にまつわる哀話の主人公である。 江戸時代のはじめに矢延兵六は藩の命令をうけて新池を築造した。この池があまりにも広大であっ たために、この池の水を落として高松城を水攻めにするたくらみがあるのだと藩庁に上訴するもの があって、兵六は池の完成とともに捕えられてしまった。そして赤馬に乗せられて阿波の国を追放 されてしまう。農民達は新池のおかげで干害から救われることになったので新池を見下す高塚山の 頂きに祠を立てて兵六を祀った。それから毎年兵六が追放された八月三日を兵六の祭として営む ―281― ことになった。それが今に残るひょうげ祭りであるという。 ひょうげ(「ひょうげ」に傍点)というのはおどけた、ひょうきんなということで、その祭の神幸の行 列がおどけているところから出た名前である。祭の前になると若者達は棕梠の皮、南瓜、茄子、瓢〔タン〕(#「タン」は文字番号26509)、 木々の葉、厚紙などで、神馬、神輿、神幸のための諸道具などを作る、若者の誰かが神主となって 神馬に乗る。生きた馬でないから馬は車に乗せてひいて歩く。神輿は杉の葉などで作られているが、 四人の若者がそれをかつぐ。こうして神輿の行列は高塚山から新池まで稲の穂の出たばかりの田の 間の道を横切って行く。沿道には見物の衆が多く詰めかけている。ふざけた気分のあふれた祭りで ひょうげ祭の名にふさわしい。行列はやがて新池までたどり着くと、そうした作り物のことごとく は池の中に投げこまれてしまう。 この昔話集に出て来るおばあさん達は大抵の方がこの祭りのことを知っている。そしておばあさ ん達は言う。昔より派手になって面白くなったと。それはこの祭りがもはや信仰ということを離れ て見せる祭りになったことを物語っている。言わば香川町ではこの祭りを観光的なものにしてしまっ ているのである。このあたりの地方では地蔵盆の日に地蔵尊の近くの土地に商店街などがあった場 合に、ツクリモノと言って有り合せの材料で芝居に登場する人物などを作って店頭に飾って見せる 習慣がある。ひょうげ祭りなどはそうしたツクリモノの影響をうけて出来上ったもので、さして古 いものではないようである。 ―282― さて、讃岐の秋祭りに色どりをそえるのは獅子舞である。それには大きく分けて三通りのものが あって、一つは一躰の獅子の頭を舞わすごとくありふれたものと、もう一つはその獅子が二頭で親 子と言い、また夫婦と言って舞う二頭獅子舞、それから大きい獅子の頭を舞わす大獅子の三つであ る。 この集の昔話の行なわれているあたりにはそのありふれた獅子舞と大獅子がある。ありふれた獅 子舞とここで言うのは一頭の獅子頭のゆたん(「ゆたん」に傍点)の中に二人の若者が入り、一人が頭 を使い、一人は後尾のあたりに入っている。鉦や太鼓の囃子につれて舞うのだが、これは讃岐の秋 祭りでは格別目新しいものではない。この獅子は秋祭りの前日にはムラマワリと言って村の家々を 廻って歩く。そして無病息災を祈るのであるが、家々では御祝儀を渡すことになっている。いよい よ祭りの当日には神輿につき従って本社からお旅所まで行く。この事をお伴(ルビ とも)をすると 言うが、本社では神輿の出る前に舞い、お旅所でもまた舞うことになっている。そのゆたん(「ゆたん」に傍点) は華かな図柄を画いて染めたものである。獅子つかいは若衆組の主な仕事の一つで、それがすむと ドウヤブリと言って慰労の宴会をすることになっている。その時には若衆組をもてなすために昔は 村の娘たちが手伝いに出た。この本の話者の一人の婆さまなどは、昔は娘にとってはそれが一つの 義務みたいなものだと話してくれたことがある。こうした獅子舞の他に香川町の近くの仏生山や香 南町には大獅子というのがある。これは木の枠でこしらえた大獅子の頭に二十㍍ばかりのゆたん(「ゆたん」に傍点) がついている。そのゆたん(「ゆたん」に傍点)の中に三十人くら ―283― いの人が入って祭の日に村落中を練り歩くのである。キョウクチという役の子供が時には獅子をか らかいながら歩いて行くが、この大獅子に近くの村々から大勢の見物人が出て賑わうことになって いる。 次に少し食物のことについて述べて見ることにする。先に述べた池普請の季節が来ると大小の溜 池では池の水を放って池をからっぽにする。その日が来ると付近の農家の人々は手に手に網を持っ たりバケツを持って魚を捕りに出かける。鮒・鰻・鯰・どじょう・はやなどの魚が水が減ってゆく につれてピチピチとはねかえる。人々は網ですくったり手ですくう。そしてバケツの中に入れて家 へ持って帰る。鯰だけはめったに食べないが、その他の魚は焼いたり煮つけにして食膳に上る。鮒 の料理の中に鮒豆というあめ炊きの料理がある。これはその年に取れた大豆と一緒に鮒をぐたぐた と一昼夜も炊くのである。砂糖と番茶を入れて長時間炊くものだから鮒の臭味はとれ、鮒はやわら かくなってしまって骨も頭もすべて食べられるという。 また、鮒のてっぽうあい(「てっぽうあい」に傍点)という料理も作る。これは鮒を白味噌であえて、 ねぎと唐辛子大根を細く切ったのを入れたもので、讃岐の美味しい郷土料理の一つとなっている。 これらは矢張り溜池が多い讃岐らしい食物である。 正月の雑煮は讃岐は白味噌汁仕立ての中に丸餅と大根・人参・牛蒡などを入れるのだが、その丸 餅があん入り餅であるところが多い。白味噌自体が甘い味噌であるのにその汁の中にあん入り餅を ―284― 入れるのだからそれは他国の人ならぞっとするに違いない。しかしそうした雑煮を昔から讃岐の農 村の人々は食べていたのだ。その白味噌はセチミソと言い、めいめいの家で正月の前が来ると作り こむ。そして正月には雑煮の汁となるのである。しかしもうこの頃では讃岐独特の料理というもの は少なくなった。 この昔話集の話者達も昔の食物のことなどはあまり語ろうとしない。こちらが聞けばやっとの事 で語ってくれるぐらいである。風土と民俗の一端について私は述べて見たが、おばあさん達はこう した環境の中に生れ育って次第に年を取ろうとしているのである。 ―285― 解説に代えて―子は清水の昔話― 関 敬吾 わたしは、昭和五十年一月刊行の武田君の『西讃岐地方昔話集』の解説を書いている。いままた、 武田、谷原両君の蒐集になる『東讃岐昔話集』の解説を書くことになった。 武田君はここに紹介するまでもなく、四国を代表する民俗学者の一人である。谷原君は新進の昔 話研究者ですでに『高松地方昔話集』(昭和五十一年)の好著を学会におくっている。これら二つの 記録以後、四国地方の昔話の蒐集ならびに整理は進行し、全国に魁けて四国の昔話の全体像の把握 を可能にしている。その概観が誰によってなされるかは将来の問題に属するが、当然に四国の昔話、 民俗に通暁した研究者によってなされるべきことはいうまでもない。わたしなど強くこれを期待す るものである。これが出来たら、わが昔話の研究に新しい方法を示してくれるのではなかろうか。 武田、谷原の両君もこの仕事の有力な候補者であろう。 さて、いま本書を解説するにあたり、東西讃岐の二つの集を読みくらべて見ると、それぞれの特 徴を読みとることができるようである。今回の『東讃岐昔話集』を通読して興味をひくのは、八十 六歳になる香西カスエ媼が語る七〇の話が収録されていることである。このなかでわたしがとくに 興味をもったのはいま問題にしている話「水が酒になった話」(一〇八番)である。本書の解説に 代えてこの話についてわたしの感想を簡単に述べることにする。 この話は、子は清水、強清水と呼ばれる養老の滝と同じ系統の伝説で、昔話としてはほとんど記 録されなかったようである。いま手もとにある資料は『津軽百話』の「鼬の酒」、山形の『牛方と 山姥』の「養老の滝」、谷原 ―286― 君の『高松地方昔話集』の同じく「養老の滝」の話だけである。もちろんこれ以外にも最近の採集 記録のなかにあるのではないかと思う。この話は伝説としては、大正五年、柳田翁が「孝行泉の伝 説」として『郷土研究』で問題にされた。この論文はこの伝説の儀礼的起原を論じたものである。 今日ではほとんど忘れられているが、初期の民俗学研究がそうであるように文献伝承にもとづいて なされたものである。この論文の直接の目的はこの伝説の起原を論じたものであるが、実証的立場 にもとづく、柳田先生の伝説研究の方法論が述べられているといってよい。この点からいってもこ の論文は学史的価値をもつといってよかろう。 柳田論文は、この酒泉伝説に附随する三つの因縁話をあげる。第一は神仏の奇瑞霊験。第二は福 分豊かなる者が奇なる泉に遭遇し、これによって富み栄えること。わたしが問題にしようとするこ とはこれと関係する。第三は、老いたる親と子の話に多くの酒泉を伴うこと。これが、この論文の 主題である。 そうして、結論として要するに、酒の泉と親子の民と云ふやうな奇抜なる取合せは、強ひて有名 なる美濃の養老を以って唯一の元祖とし、他の不有名なる地方を其模倣とし運搬とするならば格別、 然らざる限りは先づは自分の仮定の如く、其泉が古代に尸童を立てて神の祭を営んだ霊場の址で、 特に此清水を用ゐて神に捧ぐべきお神酒を醸す習はしであったが為に、変じて酒と成ると云ふ伝説 を生じたものと見なければなるまい。と(柳田集七、三三ページ) 子は清水の伝説は『日本伝説名彙』にもほぼ十例ほど記録されている。柳田論文にしたがって事 件の担い手によってタイプをあげるとつぎの如くである。 1 親と子。(a)酒を嗜む老父をもつ息子が、貧しくて意の如くならない。たまたま山中で酒を醸 す瓶を発見してこれを酌んで父に飲ませる。父が死ぬと酒は出なくなる。これは、鹿児島出水の地 名伝説であるが、ま ―287― た孝子水にふさわしい伝説でもある。 この瓶は三人兄弟の昔話宝物型における無限に酒の出る宝徳利と共通するモティーフである。 (b)薬としての水 病母が近江の湖水の水が飲みたいというので、孝行息子が行って水を竹筒に入れ て帰る途中で母の死を知り、悲しみのあまり路端にすてる。すると、その水が流れて池となる。こ れを孝池、孝子湖という(飛州志拾遺)。 富山西礪波の関清水の伝説もこれと同じく病親が京の加茂川の水を飲みたがる。孝子がこの水を 汲んで帰る途中、この関に来てつまずいて倒れ壺を破る。孝行の徳によってこの地に泉が湧いたと いう。同様の伝説は『伝説名彙』にもあげてある。 この伝説は酒泉発生伝説であるが、同時に奈良梨採り昔話の生命の果物と同じ機能をもつ生命の 水でもある。岐阜県吉城郡のふくべ水も同様であり、長野南佐久のさかい水もまた若返りの水といっ ている。 2 主人と馬方 馬方が毎日日暮れ方に酔って馬を曳いて帰る。主人がこれを問いたずね、二人で 行って飲むと酒である。主人はこれを売って財産を作ろうと考え、大きな器をもって汲みに行くと、 その泉はただの水であったという。 3 夫婦 昔話における二元的対立、隣の爺型にしたがって夫婦対立として語られることはしばし ばある。ここでは、魚の行商人が酒に酔って帰り女房をいじめる。女房は不審に思って夫の跡をつ けて行き、このことを知り、汚れ物を酒の湧く穴に投ずる。以後酒は湧かなくなったというのであ る(阿波伝説物語)。聖なる泉に汚物を投ずると水の神が怒るということは雨乞などに関係してし ばしば伝えられる伝承である。 昔話としての子は清水。 ―288― 1 水が酒になる話 孝子水と同じく息子が酒を嗜む父のために酒買いに行く。谷間の水を汲んで 帰る。父にすすめると酒であった。隣の爺がこれを知って金儲けをしようと汲んで帰るとただの水 である。この形式は構造的に見ると孝子水と馬方の伝説としてあげられた話との結合型である。 2 養老の滝 この伝承は養老の滝の伝説によるものである。 3 鼬の酒 酒の湧く穴の存在を夢想する爺が酒の泉を発見する。ふくべに入れて持ち帰り婆と二 人で飲む。翌日行くと鼬の尻から糞が出ている。爺は婆が欲ばるからだという。この話は打出の小 槌と同様で笑話である。 これらの伝承が何を語ろうとしているか共通した要素は見出しがたい。養老の滝の伝説は表面的 には孝行の徳を語ろうとする道徳的説話である。しかし「親は古酒、子は清水」あるいは「親は諸 白、子は清水」という、孝行の徳を否定する言葉が一方では行われている。その理由として、老父 が酔って帰るのを知って息子が行って飲むと水であったと説明されている。これらの伝承に共通す るのは親子関係を除外して考えるとある者にとっては酒であり、他のものにとっては単なる水にし か過ぎない。これが何に起因するか重要な問題ではなかろうか。 柳田説にしたがうと、言葉としては、「父は酔い子は疑うたといふ各地の昔話は、強清水と名づ くる変った地名の為に誘発せられたものであって養老一味の孝子譚とは何等交渉の無いものかと云 ふと、其は大いにさうではないやうである」(同上、七ノ二四ページ)とし、この伝説の主人公で あるこの孝子という点は神徳仏験と後世ぶりにも解しうるが、やはり子と云ふは神子のことで、思 ふとか慕ふとか云ふも信仰上の興味と見なければならないと結論している(同上、三四ページ)。 天福地福 伝説と昔話がいかにちがうかということは容易に決しがたい問題である。柳田先生は 好んで福分と ―289― いう語を使用する。この孝子は尸童に比定されるが、尸童は多くの童児の中から神によって選ばれ たものであろう。したがって宗教的福分ともいえる。天福地福の昔話もその理念は子は清水と共通 するものであろう。すなわち、天から福が授けられるか地から授けられるかということは、この昔 話では夢によって知る。夢は神霊の示顕と同価値である。子は清水の伝説を孝行の概念から解釈す ると矛盾するが、親と子の関係を主人と馬方のように隣の爺型として見ることが出来よう。讃岐の 「水が酒になった話」がこの形式である。これはまた天福地福の構造でもある。さらに一方が飲む と酒であり、他方が飲むと水であるということは福分の有無でもある。 さて、この昔話の亜型として「金は蛇」と「牡丹餅は蛙」の二つを一般に分けるが、その必要は ない。さらに「取つく引つく」も根本的にはこれと共通の形式である。 子は清水伝説の重要な点は「親にとっては酒」が「子にとっては水」である。親には福があって 子には福がないということでもあろう。これらは表面的には物質的な問題である。運命に関してい えば産神問答、夫婦の縁の昔話もまた同一の問題をことなった側面から説こうとするものである。 子は清水の伝説では神の示顕は語っていない。天福地福においては二人の人物がお互いに一方は 天から福が授かる夢を見、他は地から福を授かるという夢を見る。夢は神託に比較される。夢買長者 では鼻の穴から出た虻が黄金の存在を知らせ、それを信じたものが福をえている。 子は清水の伝説が他の民族にいかに分布しているかは知らないが、ここにあげた天福地福、金は蛇 の昔話は広く分布する話である。隣国中国では「水経注」に見られるという。われわれの天福地福 もこれとは無関係ではあるまい。その歴史的関係の究明は将来にまたなければならない。本書の解 説に名をかりて一つの仮説を述べた。