底本の書名 全国昔話資料集成 9 岩崎美術社 西讃岐地方昔話集 香川 武田 明編 責任編集 臼田甚五郎 関 敬吾 野村 純一 三谷 栄一 装幀 安野 光雅 底本の編者名 武田 明 底本の発行者 岩崎美術社 底本の発行日 1975年1月30日 入力者名 松本 濱一 校正者名 織田 文子 入力に関する注記 文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の文字番号を付した。 登録日 2003年1月22日
―162― 西讃岐地方昔話集 話型対照表 (# 表の線は底本では「実線」) ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 話 名 | 日本昔話集成 | 番 号 | ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 一 桃太郎 | 桃の子太郎 | 一四三 | | 二 瓜子姫 | 瓜子織姫 | 一四七 | | 三 子育幽霊 | 子育て幽霊 | 一四七 | | 四 一寸法師 | 一寸法師・聟入型 | 一三六A | | 五 寝太郎聟入 | 博徒聟入 | 一二五 | | 六 嫁の輿に牛 | 嫁の輿に牛 | 一二二 | | 七 山田白滝 | 山田白滝 | 一三三 | | 八 天人女房 | 天人女房 | 一一八 | | 九 鶴女房 | 鶴女房 | 一一五 | | 一〇 蛤女房 | 蛤女房 | 一一二 | | 一一 蛇女房 | 蛇女房 | 一一〇 | | 一二 蛇聟入 | 蛇聟入 | 一〇一B | | 一三 猿聟入 | 猿聟入 | 一〇三 | | 一四 お月お星 | お銀小銀 | 二〇七 | | 一五 継子と笛 | 継子と笛 | 二一七 | | 一六 皿々山 | 皿々山 | 二〇六 | ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 話 名 | 日本昔話集成 | 番 号 | ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 一七 継子の椎拾ひ | 継子の栗拾ひ | 二一二 | | 一八 手無し娘 | 手無し娘 | 二〇八 | | 一九 取付く引付く | 取つく引つく | 一六三B | | 二〇 鳶長者 | | | | 二一 炭焼長者 | 炭焼長者・初婚型 | 一四九A | | 二二 ものを言ふ亀 | 大歳の亀 | 二〇四A | | 二三 味噌買橋 | 味噌買橋 | 一六五 | | 二四 笠地蔵 | 笠地蔵 | 二〇三 | | 二五 地蔵と酒 | 笠地蔵・竜宮童子 | 二〇三 | | | | 二二三 | | 二六 黄金の餅 | | | | 二七 黄金を産む黒猫 | 竜宮童子 | 二二三 | | 二八 聴耳 | | | | 二九 舌切雀 | 舌切雀 | 一九一A | | 三〇 見るなの座敷 | 見るなの座敷 | 一九六A | | 三一 七福神の夢 | | | | 三二 猫檀家 | 猫檀家 | 二三〇 | ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ―163― ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 話 名 | 日本昔話集成 | 番 号 | ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 三三 鼠の浄土 | 鼠浄土 | 一八五 | | 三四 地蔵浄土 | 地蔵浄土 | 一八四 | | 三五 猿地蔵 | 猿地蔵 | 一九五 | | 三六 鎌倉海老 | 大鳥と蝦 | 四八二 | | 三七 竹の子童子 | 竹の子童子 | 一四五 | | 三八 牛方山姥 | 牛方山姥 | 二四三 | | 三九 天道さん金の鎖 | 天道さん金の鎖 | 二四五 | | 四〇 口無し女房 | 食はず女房 | 二四四 | | 四一 山寺の怪 | 化物問答 | 二六〇 | | 四二 一つ目小僧 | | | | 四三 金の茄子 | 金のなる木 | 五二二 | | 四四 仁王の力競べ | 仁王と賀王 | 四八〇 | | 四五 慢心はけがのもと | 大鳥と蝦 | 四八二 | | 四六 蟻の目にどんぐり | | | | 四七 運定め話 | 産神問答 | 一五一A | | 四八 親捨山 | 親棄山 | 五二三A | | 四九 山伏と狐 | 山伏狐 | 二七五A | ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 話 名 | 日本昔話集成 | 番 号 | ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 五〇 うそつき小僧 | | | | 五一 二反の白木綿 | 二反の白 | 四八五 | | 五二 尼裁判 | 尼裁判 | 三一九 | | 五三 旅学問 | 旅学問 | 三一八 | | 五四 愚か村 | | 三六二 | | 五五 愚か聟(三話) | 団子聟 | | | | 糸合図 | 三四五 | | | 頭巾と土蔵 | | | 五六 ぐつとしんの話 | | 三四三 | | 五七 雨降れ蛙 | | 四 | | 五八 鳶不孝 | 鳶不孝 | 四八 | | 五九 尻尾の釣 | | | | 六〇 弟子恋し | 時鳥と兄弟 | 四六 | | 六一 猿蟹合戦 | 猿蟹合戦 | 二五、二六| | | | 二七A | | 六二 片足脚絆 | 片脚脚絆 | 五八 | | 六三 長い話 | | | | 六四 小判チャリン | 長い話 | 六三二 | | 六五 稲神さま | | | | 六六 三人片輪 | | | ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ―164― ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 話 名 | 日本昔話集成 | 番 号 | ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 六七 亀の伊勢参宮 | | | | 六八 横津の泥棒 | | | | 六九 真島のお化け | | | | 七〇 名を惜しむ商人 | | | | 七一 四つの角 | | | | 七二 みみずの縁談ばなし | | | | 七三 てんの浄瑠璃語り | | | | 七四 正直小判 | | | | 七五 嫁と姑 | | | | 七六 話千両 | 話千両 | 四〇九 | | 七七 鬼の橋 | | | | 七八 ごーへい鳥 | | | | 七九 福の神の逃げる話 | | | | 八〇 魔の池 | | | | 八一 年自慢 | | | | 八二 消えた僧 | | | | 八三 首のぬきかえ | | | ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 話 名 | 日本昔話集成 | 番 号 | ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 八四 円座の泥棒 | | | | 八五 継子ばなし(皿々山) | 皿々山 | 二〇六 | | 八六 猿聟入 | 猿聟入 | 一〇三 | | 八七 青竹三本のブニ | | | | 八八 馬方と山姥 | 牛方山姥 | 二四三 | | 八九 小盲の話 | 米倉小倉 | 四一二 | | 九〇 屁ひり嫁 | 屁ひり嫁 | 三七七 | | 九一 猿聟入 | 猿聟入 | 一〇三 | | 九二 童子丸 | 狐女房・聴耳型 | 一一六 | | 九三 天道さん金の鎖 | 天道さん金の鎖 | 二四五 | | 九四 てっちょかっちょ | 片脚脚絆 | 五八 | | 九五 おとぎり草 | | | | 九六 のみとしらみの伊勢参り | 蚤と虱の駆足 | 一四 | | 九七 猫山 | 猫檀家 | 二三〇 | | 九八 善通寺の五重塔 | 鴨取権兵衛 | 四六四B | | 九九 しゅんとく丸 | | | | 一〇〇 鷹の棄て児 | 鷹の育て子 | 一四八 | ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ―165― ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 話 名 | 日本昔話集成 | 番 号 | ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 一〇一 子育て幽霊 | 子育て幽霊 | 一四七A | | 一〇二 寐太郎 | 博徒聟入 | 一二五 | | 一〇三 俵薬師 | 俵薬師 | 六二二 | | 一〇四 大黒舞(小盲) | | | | 一〇五 天に昇った下男 | | | | 一〇六 鴻の池の話 | 鶴女房 | 一一五 | | 一〇七 桶屋の運 | 産神問答 | 一五一B | | 一〇八 阿波と讃岐と大阪の人 | 烏の巣 | 四八八 | | 一〇九 姥捨山 | 親棄てもつこ | 五二三C | ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 話 名 | 日本昔話集成 | 番 号 | ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― | 一一〇 旅学問 | 話千両 | 五一五 | | 一一一 倉敷の三文屋 | | | | 一一二 炭焼五郎兵衛 | 炭焼長者・初婚型 | 一四九A | | 一一三 歯医者と手品師と法印 | | 四四二 | | 一一四 十八の国の難題 | 播磨絲長 | 一二九 | | 一一五 宝化物 | 宝化物 | 二五八 | | 一一六 夢見小僧 | 夢見小僧 | 一五六 | | 一一七 塩売り | | | | 一一八 西行のはねくそ | | | ――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 関 敬吾著「日本昔話集成」(角川書店)による ―166― ―167― 編者ノート■武 田 明 ―168― 西讃岐地方の昔話と民俗 一 地 理 この一冊の昔話集の中には西讃岐地方の昔話がおさめられている。 西讃岐地方と言うのは香川県の西半分すなわち三豊郡、仲多度郡、綾歌郡と丸亀市、坂出市、善 通寺市の地方である。早くから文化の開けた地方で気候の温暖な地味のよく肥えた土地である。南 には阿讃山脈が走り、海には塩飽(ルビ しわく)諸島、粟島、志々島、伊吹島などがある。 陸地部の大半は古くは農村であったが、今は小都市が多く交通も便利で非常によく開けている。 旧藩時代は藩の殖産事業として木綿・砂糖・塩の生産が盛んでこれを讃岐三白と称していた。しか しそれらの産業はほとんど姿を消し、今では米麦の生産と都市周辺や瀬戸内海の埋立地では工業が 盛んに行なわれている。兼業農家は多くなり農家の子弟の大半は阪神地方に出て働くか、わが故里 の近くの工場に通勤している。 昔から干害の多い土地で西讃岐、東讃岐あわせて二万ばかりの溜池があって、農業用水の大半は それらの溜池に負うている。最近になって徳島県の池田町から吉野川の水を香川県に導水して干害 ―169― を防ごうとしている。溜池の中でもっとも大きいのが仲多度郡の満濃池で弘法大師が修築したと言 われている。この池には今昔物語にもあるように龍にまつわる説話が多く残っている。 西讃岐地方でもっとも大きい社寺は仲多度郡琴平町の金刀比羅宮と善通寺市の善通寺である。い ずれも常民の信仰の対象として早くから知られているが、門前町を形成している。また四国八十 八ヶ所の札所寺院も西讃岐のみで十数ヶ寺あって、観音寺・弥谷寺・国分寺・白峰寺などはとりわ け名高い寺となっている。 島嶼(ルビ とうしょ)のかずは香川県全体で百十八島もあるのであるが、西讃岐地方には塩飽諸 島のような古い水軍の歴史を持つ島がある。本島・広島・牛島・手島・櫃(ルビ ひつ)石島・与 島・高見島・佐柳島・岩黒島・小与島・粟島・小手島・志々島・伊吹島などがその主な島々であ る。かつては沙弥島・瀬居島も島嶼であったが今は埋立の結果陸つづきとなっている。 これらの島々の人々は大半が農業で中には半農半漁といった家もあればまだ漁業のみを専業とし ている家もある。島の人々には早くから出稼ぎの風習があって、今でも阪神地方にもっとも多くの 人々が出ている。 二 昔話とその採集記録 この地方の昔話は従来私の手によって三百話足らずが集められている。今度この本の中におさめ ―170― られた西讃岐昔話集が昭和十六年の出版で話数が八十四話、讃岐佐柳・志々島昔話集が昭和十二年 から十七年にかけての採集で昭和十九年出版で話数がやはり八十四話、ついで塩飽諸島の昔話が百 話ばかり採集されてこれは昭和四十年の出版となっている。 あまりにもよく開けている地方であるために採集量が少ないのは残念である。そしてそれらの昔 話の大半は島嶼部あるいは阿波との国境に近い地方のものが多い。ただこの本の中におさめた昔話 のみは中には若干の島嶼部のものもあるが、大半は西讃岐の本土のものである。 この地の昔話は語り口は単純で話の筋も複雑なものが少ない。古くは とんと昔 とんとん昔もあったそうな ざっと昔 などが発端の語り口で、末尾は そうじゃそうな そうらえばくばく(佐柳、志々島) もうなししゃんしゃん それで十年ひとむかし などの句になっている。しかし今ではこうした語り方をする老人も少なくなってしまった。 筋書としては手のこんだものは少なく早く笑話にしたがる傾向がある。そして一般に明るい語り ―171― 口の話が多い。 冬ごもりの暮しがないために炉端で昔話が語られる機会は現在ではほとんどない。西讃岐では囲 炉裏は百年も前からほとんどの土地で姿を消しているのである。ただ一つの囲炉裏が仲多度郡琴南 町の前の川に残っていたがそれも数年前にこわされてしまった。そこで昔話は冬ならば炬燵のまわ りで行なわれていた。それも南国の明るい日ざしのさす部屋でである。冬でも時には日向ぼっこを かねて縁側で行なわれるという場合も多かった。 夏の日は縁台で夕涼みをしながら行なわれたという土地が多く、また島などでは夕凪の暑い夕方 浜辺に出て昔話が語られていたという。それが今ではマスコミの影響ですっかり消え失せようとし ているのが現状である。 三 昔話の運搬者 本集にはあまり出て来ないが、この地方の昔話の運搬者は桶屋とホーロク(炮烙)売りと塩売りと がその主なもののようである。 桶屋はこの地方では方言でイイダサンとよんでいる。イイダとは西讃岐ではおしゃべりのことで もあるが、かつては各戸をめぐって歩いて桶を新調したり桶の輪がえをしていた。日常家具として の桶の需要はいちじるしく、コエタゴ、ウシオケ、トーオケ、オヒツ、サカナオケ、ハンボなど数 ―172― 多くのものが作られていた。桶屋は家々でそれが大きい農家であれば数日逗留して夜が来ると昔話 や世間話にうち興じた。食わず女房の昔話などは桶屋がもたらしたものであろう。西讃岐地方の陸 地部では桶屋はすっかり少なくなってしまったが、まだ島々には桶屋が住んでいる。そしてこの頃 では自らの船をあやつって各島の浦々をたずねている。かつてのように島の家々に寝泊りすること はほとんどなくて船中で泊っている。 桶屋の次に昔話の伝承者と思われるのはホーロク売りである。讃岐ではホーロクはコーラともよ ばれているが、素焼きのままのいかにもこわれやすい器である。西讃岐では観音寺市近くの岡本、 東讃岐では高松市のみまやがその生産地である。ホーロクはこわれやすいから如何としても昔話の 中ではすべって転んでホーロクが割れた、と言った話が多い。ホーロクは炒りものをするために農 村の生活では欠かすことの出来ないもので、讃岐では大豆を炒ったり、旧六月一日のロクガツヒト ヨにコーラヤキと言う粉を焼いてつくる一種の晴の日の食物の調理に用いられている。 桶屋やホーロク売りの他に昔話の伝播運搬者として考えられるものに塩売りがある。塩が専売に なる以前は塩売りは籠の中に塩を入れて宇多津・坂出・詫間などの塩田地帯から塩を売りに出かけ た。讃岐の農村は言うに及ばず遠く阿波の山村まで売りに行った。塩売りが登場してくる昔話はお そらく自らが古くからあった説話を脚色したものであろうと思われる。 説教僧や六部・四国遍路などがもたらしたと思われる昔話も若干残っているがこれらはどっちか ―173― と言うと従来の昔話を信仰霊験ばなしとしたものが多く本来の昔話とは遠いものになっている。 四 昔話の語られていた機会 常の日にも昔話は語られていたが、昔話はまた晴の日にも語られていた。常の日の昔話は老人や 母親が子供達に聞かせるものが多く、晴の日の昔話は西讃岐地方ではやはり庚申講の集いの折で あった。六十一日毎に来る庚申(ルビ かのえさる)の日は庚申様の掛軸を講元の家にかけて夜にな ると集って来た講中の人が昔話をしていた。 また西讃岐では土地によると毎月二十一日のお大師さまの日にお堂に集って昔話をするというこ ともあった。一般的に言って信仰的な集いの席で、お日待・お月待の折などに話が栄えた。しかし どっちかと言うと大人たちばかりの席がそんな場合には多かったので、昔話はともすれば笑話化、 猥雑化の話となったり、昔話以外の世間話や時事談といった風なものになり勝ちであった。そして 世の中が革(#「革」は底本のママ)ってくるとこうした信仰的な講の集りは廃れて、昔話もおのず と消滅してゆく。 五 西讃岐の民俗 西讃岐と言っても三郡三市にわたる人口の稠密な地帯であり島嶼部も多い。これらの地域で行な われていた昔話がどんな民俗にささえられていたかその一端を記しておきたい。 ―174― この地方は島嶼部及び海沿いの地方と阿波との国境の山の村の地方のみが真言宗で平野部の大半 が浄土真宗である。真言宗の人々は浄土真宗の家々が真言宗の家に較べて民俗行事のほとんどをし ないから昔から「一向ほっこう物知らず」などと言う。一向は浄土真宗の事であり、ほっこは讃岐 の方言では馬鹿者ということである。すなわち民俗行事の中でも年中行事などの大半は浄土真宗の 家々ではやっていない。葬送の風習なども真言宗の家にくらべるとどうしても簡単である。それを 嘲ってそんなことを言っているのである。それ故に家々で行なう民俗行事の念入りなものはどうし ても真言宗の家々が多い島々や山の村に多く伝承されている。しかし祭礼などはそうした例には入 らない。 西讃岐地方で一番大きな祭礼というのは十月十日に行なわれる金刀比羅宮の大祭である。 俗にオトウニンサン(お頭人)とよばれているが憑坐(ルビ よりまし)の童子二人がこの祭には 参加する。深夜に祭神の鎮座する象頭山のご本社から出た行列は山を下って山麓の被川までゆくの である。その神幸の行列を拝むために西讃岐のみならず全国各地から参拝者がおしかける。この祭 礼などは西讃岐の民俗行事としては最大のものである。 善通寺市の本熊神社の秋祭などは氏子のみの祭であるが、民俗学の上からは注目に価する祭であ る。ここの祭にはこんぴら祭と同じようにシオカワノシンジ(潮川の神事)というものがある。すな わち祭の数日前に社前の清流の中に頭座の主人と神宮がとびこんで身を清め祭礼に用いる神具を ―175― 洗う。 ここの神社のご神体は玄米で、その年の頭屋(ルビ とうや)が氏子の家から集めて来たものであ る。そして祭の前日が来ると頭屋の家のニワにはオジンヤと言う仮の小さい社殿が建てられる。そ して本社から神輿をかついで来てそのオジンヤの前におく。 いよいよ祭の当日には神輿の行列は頭屋の家を出てお旅所に向う。頭屋の家の主人は一升枡に入 れた玄米を持ってその行列についてゆく。お旅所ではミョウニンとよばれるその社についての古く からの家柄のものが侍立する中で神主は頭屋の主人からその玄米をうけ取ってそれを神輿の中に入 れる。それから供物などをしたり獅子舞などがあったりしてやがて神輿はご本社に帰り祭は終るの である。 綾歌郡宇多津町のウブスナ(宇夫階)神社の祭には鳥喰みの神事があり、また観音寺市の琴弾八幡 の祭も賑やかなものとなっている。 しかしこうした神事につながる民俗的な行事として西讃岐地方でもっとも一般的にひろく行なわ れているのはモモテの祭である。 これは早春の祭であるが、今でももっとも念入りに行なっているのは、三豊郡詫間町の荘内半島 や粟島、塩飽諸島の中の櫃石島などである。西讃岐では大部分の集落がこれを今もなお年中行事の 習俗の一つとして行なっている。 ―176― 春のはじめにあたってその年の稲作の豊稔を祈るのがその大きな目的であるが、漁業者のいると ころでは大漁祈願をもすることになっている。あるいは男四十二歳、女三十三歳の厄年の人の厄ば らいのためにするのだと言っている土地もある。すなわち集落の若衆が前日までに的を作り、氏神 の境内でその的を射て、その年の豊凶を占うのである。その的を射る射手には子供が出る場合もあ るが、無心の子供に弓を射らせる方が古い形式かもしれない。 モモテには頭屋の行事がつきまとっている。頭屋の行事がもっとも古くからのものを伝承してい るのは詫間町の生里(ルビ なまり)のそれであるが、ここでは頭屋にはその年の内に忌み穢れの あった家はなることが出来ない。射手は七日ばかり前から頭屋の家に寝泊りして潔斎(ルビ けっ さい)するがモモテの前日には深夜の海に入って身を清める。モモテの当日には裃を着て氏神であ る荒神さまに行き、その境内で矢を放つ。食事は黒塗りの本膳に前年からとっておいた干しわらび と飯が出される。的に矢があたるごとに歓声がおこり、集落の人々は重箱に煮〆などを詰めて持参 して、お互いに交換し合って食べるのである。この荘内半島あたりのモモテは旧二月の初めである が、同じ西讃岐でも土地によっては地神モモテと言って春彼岸の社日にこれを行なうところがあ る。この方は弓射は簡単であるが、地神まつりに重点がおかれているようである。地神さまの日に は田へ入るな、田へ入ると祟りがあるなどの言い伝えがあるが、田の神がその年になってはじめて 村里まで下りて来られるという信仰を持っているようである。このモモテは東讃岐には少ないが、 西讃岐に隣している愛媛県の宇摩(ルビ うま)郡、徳 ―177― 島県の三好・美馬郡あたりでは盛んである。 これは讃岐一円のことであるが、春市の行事もきわめて特色あるものである。西讃岐ではその年 になって一番早い春市は仲南村法然堂の春市で、まだ正月の気分が残っている頃なので子供たちは 昔はイカ(凧)を買って帰るのが楽しみであった。 法然堂へ参らんか、イカ買うて帰らんか などの童歌が古くから歌われていた。しかし何と言っても一番参詣人の多いのは善通寺の春市で 弘法大師誕生の伝説を持つこの大寺では一日や二日でなく何日もつづいて市が立つ。三月二十一日 がその当日であるが、アトイチと言うのがあってほぼ七日間ぐらいにわたって境内には露店が出 る。日常の雑具や植木食品などが売られている。 三豊郡本山寺の市も名高い。これは一年間に何回もの市が立って季節ごとの荒物が売られてい る。寺社に立つ市はまだこの他にも多くのものがあるが、村の人々にとっては出買いのために必要 なものであった。もとはやはり阿波の山間部の人々と讃岐の農村の人々との間に行なわれていた物 物交換の市がこうした形式のものになったと思われる。 春になるとまた四国遍路の姿が目立つようになってくる。西讃岐には十数ヶ寺の四国八十八ヶ所 の寺院があるが、これらは本四国(ルビ ほんしこく)とよばれている。この本四国の他に大抵の 島々には小さい規模の八十八ヶ所があって、三月二十一日の大師の命日にはこれらの八十八ヶ所を めぐる風習がある。島(ルビ しま) ―178― 四国(ルビ しこく)と呼ばれているのがそれで、西讃岐地方では粟島の八十八ヶ所が名高い。こ の日はお接待と言って草餅・アンパン・菓子・チリ紙などを各札所に縁台をおいて参詣した人に与 えることになっている。 西讃岐地方の風習にイヤダニマイリとよぶものがある。三豊郡と仲多度郡との境に弥谷山(ルビ いやだにやま)とよぶ三百米ばかりの標高の山がある。この山の中腹には劒五山弥谷寺という寺 があって四国八十八ヶ所第七十番の札所となっている。 この弥谷山麓の真言宗の家々では死者が出ると、初七日または埋葬の翌日、あるいは四十九日の 仏事がすんでから死者の霊を弥谷山に連れて行く風習が残っている。土地によっては墓まで行って 背中に負う真似をして行く。その折に中には死者の髪の一部を紙に包んで持って行くところもあ る。最近では春の弥谷山のミズマツリの時に、あるいは春彼岸の中日に行くというところもあっ て、今でもオミズマツリの日は大層な人出である。三豊郡のこの山の麓の地帯がこの風習をもっと も濃厚に伝承している。 両墓の制度も西讃岐の真言宗地帯には多い。大体が島嶼部か海岸地帯であるが三豊郡の平地部に も若干見られる。埋め墓は島々では海浜が多く(粟島の一部は別)、参り墓は寺の境内に多く設けら れている。そして詣り墓の方は地盤のしっかりとしたところが多い。 島と違って陸地部では埋め墓は海浜でなければ土砂のよく崩れそうな山の中腹とか、大水でも出 ―179― ればすぐに流されてしまいそうな河原などに多く設けられている。 いずれにしても埋め墓の方は早く流失するとか埋没してしまうことを予期しているように思われ る。 いよいよ詣り墓を寺の境内とか村の共同墓地に作るのは大体が埋めてから二、三年後である。と ころが近年になってもはや新しく詣り墓を作らないで埋め墓の上に小さい石塔を建てるという例も 多くなって来た。 死んで埋葬する時に埋め墓が狭い土地ではアナガヤシということをする。これはもはや何年か たって古くなっている埋め墓を掘り返すことである。掘り返して出て来た白骨はそのまま墓地の片 隅などにうち棄てて一向かえり見ようとしない。そして掘り返したあとに新しく死者を埋めるので ある。 最近になって火葬の風習がひろまってくるとともに西讃岐地方の各地で行なわれていた両墓の制 度がようやくくずれようとしているのが現状である。ただ西讃岐の海に浮ぶ離島のみが両墓の制度 を未だに伝えている。 西讃岐の民俗の中で他地方とくらべて古い風習のよく残っていると思われるものに葬送習俗があ る。殊に葬送から葬家に帰った時の作法にはかわったいくつかの行事があって、日本人の死霊に対 する考え方の一端を示している。例えば丸亀市の広島などでは野辺の送りから帰ってくると、葬家 ―180- の縁先には箕の中に炒り豆を入れておいて、その炒り豆を葬式に参加した人は浜辺へ持って行って 埋め、「イリマメに花が咲くまでもどってくるな」と言う。 また丸亀市の手島や仲多度郡多度津町の高見島などでは、青竹で馬をこしらえておいてそれをま たいでから家の中に入るという。高見島では葬式の帰りに身内の者が一本の笹を墓場のそばから 取って帰りそれを今まで病人が寝ていた部屋にさして、「もう帰って来ても笹原になっとるけに 帰って来るな」などと言うそうである。 新仏のためのミの日の行事なども西讃岐では濃厚に伝承されている行事である。 西讃岐地方には婚姻の習俗としていわゆる聟入婚の風習が残っている。しかしこれは今では塩飽 諸島の佐柳島・高見島などに細々と行なわれているだけのようである。 すなわち婚姻が成立してから聟が嫁の家に通うので、夕方になって行き、朝になってからわが家 に帰ってわが家の仕事に従事しているわけである。嫁は嫁でやはりわが親里の仕事をしている。 しかし聟方の姑がなくなったとか、病弱であったりすると嫁は聟の家に入りこむ。この聟入婚の形 式が残っているのは多分に労働力の関係からであろうと思われる。中には何年もの間、聟の家に入 りこまないで子供が二、三人も出来てから嫁入りしたという話も残っている。 西讃岐地方は大半が農村部で一部に漁業者がありまた香川県の小都市の多くがこの地域に散在し ―181― ている。交通の便はよく阪神地方との関係も深いので都市化の傾向は著しくこれらの民俗も今や消 滅しようとしている。昔話もすでに昭和の初め頃から衰退していると言える。採集もほとんど絶望 的だがやはり伝承者を見つけて好い資料を掘り出さなければならない。 『西讃岐地方昔話集』について 一 柳田国男先生と『西讃岐昔話集』 この一冊の昔話集は昭和十六年九月に刊行された『西讃岐昔話集』におさめられたすべての昔話 八十四話と今度新しく追加した昔話三十四話からなっている。 『西讃岐昔話集』は私が勤めていた香川県立丸亀高等女学校生徒に昭和十四年の夏休みに採集を依 頼したものから選んだものである。 香川県地方に分布しておりそうな昔話を八十話ほど選んで私は昔話採集標目を作った。それを印 刷して生徒に与え採集を依頼したものである。随分と多くの昔話が集ったが、どうも童話やお伽話 の本からそのまま写して来たもの、あるいは有名な古くからの説教話などを老人から聞いたものも あって、どれが本物であるかを見きわめなければならなかった。 ―182― 柳田国男先生が昭和十四年の秋九月二十一日に松山市を経て奥様とご一緒に拙宅にお立寄りにな った。私は海の見える広い縁側で柳田先生にその集った昔話をお目にかけた。先生は「ずい分多い ね、送ってくれ給え」と言われた。先生はそれから私と和気周一氏の案内で多度津町の桃陵公園に 遊ばれ内海の展望を欲しいままにされてから金刀比羅宮へ行かれた。急坂になると先生は奥様の手 をひかれた。秋の事で讃岐の野には彼岸花(まんじゅしゃげ)が一面に咲いていた。それから先生は 屋島に向われたのだが、先生の帰京後、私は集った昔話集の原稿を一括して柳田先生のもとにお送 りした。 先生はつぶさに御覧になって例の赤色の細い字でその一つ一つに「これは説教僧の改作ならん」 とか「誰に聞いたか注意して見るべし」、などと書きこまれ、さらに○△×の字を書かれ○は本当 に採集したもの、△はあやしいのでもう一度採集して見る必要があるもの、×は全然偽作のものと 言う風に分類された。そして御返送していただいたものについて何度もお問合せをした結果まとめ 上げたのがこの『西讃岐昔話集』である。前編と後篇に分けたのは前編は本当の昔話、後篇は柳田 先生によれば昔話の外廓とも名ずべきもので、これはこれなりに研究の価値があると柳田先生はお っしゃった。こうして『西讃岐昔話集』は大戦前の十六年九月に日の目を見たのである。 ―183― 二 追加のこと ところが今度この一冊をまとめるにあたって『西讃岐昔話集』だけではあまりにも話数が少ない し叙述も簡略化されている。そこで新規に三十四話を採集して書名も『西讃岐地方昔話集』と改め たものである。西讃岐地方といってもほぼ丸亀市及び仲多度郡を中心とした地方であるが若干の島 島も含まれている。殊に今度補充したものの中では丸亀市の広島・小手島、仲多度郡多度津町、三 豊郡粟島、綾歌郡綾上町のものが入っている。その中でも綾上町のものはもっとも最近の採集で、 今でもすぐれた話者として秋山ツイノ、水野カメなどの婆さまがいる。 秋山ツイノ婆さまは農家から農家へ嫁に行った人であるが、水野カメ婆さまは父から聞いたと言 い、その父なる人はもとはかなりな家の人であったが、綾南町滝宮の居酒屋その他で遊んで家は人 手に渡りそれから角力取りになった。大阪角力の十両までとった人でなかなか強力であった。角力 取りをやめてからうどん屋をしていたが五人も六人もの付近の百姓の連中が遊びに来た。 するとそれらの人々を相手にして角力を取り、十番取って一番でも負けると、うどん一〆と酒一 升とをかけた。うどん一〆は一〆の粉をうどんにすると四十玉以上となった。それをユダ〆にして 食べることが多かった。その父はうどんを作るのが上手でメン棒でウチイタの上の粉をのばしコマ を使って、庖丁で切った。出来たものは籠に入れて川の中でさばくのだが、上手だったので千切れ ることはなかった。なおユダ〆とはチョクの中に入れ汁を入れる食べ方である。 ―184― そうした父から聞いた昔話が大半であると水野の婆さまは言う。 補足の中の話者の一人である粟島の合田牛之助さんは私が三十年ばかり前に会った人でその昔話 の大半は三豊郡比地大の天理教布教師の前川鶴吉さんより聞いたものである。一昨年は国学院大学 の学生にも昔話を聞かせたと言っていた。 また小手島の山田久一氏はまだ健在で多くの昔話が聞けそうである。話者の一人である多度津町 青木北山の山下源吉さんは村の人からは「また源さんの大話か」と嘲けられていたがすでに故人に なってしまった。 なお広島江の浦の話者である大石光政さんは昭和十六年刊行の『西讃岐昔話集』の話者の一人で ある大石角太郎さんの遠縁にあたる人である。 ○ 綾上町では昔話の他に伝説も色々と聞いたのでここに付記することにした。 イ 綾上の枌所(ルビ そぎしょ)の奥に首切峠というのがある。ここには首のない地蔵を祀ってあ るという。 昔、平家が落ちのびて来た時にここで首を切り落した。それからしばらくして村の百姓が馬に 米をつけて通っていると、ここまで来ると カッパ カッパ シャリン シャリン と言う。これは不思議なことだと思って馬の方を見ると馬の背に首を切られた侍が乗ってい ―185― た。ここで首のない地蔵を祀ったのが今の首切堂の起りだという。 ロ ナワスジでマノモンの通る道すじだと言っている。村内にはいくつもあるがクラカケヤマを一 直線に見る道すじのところを言ったり、また泉谷の山を通っている道もナワスジである。マノモ ンとは化物のことであるがナワスジにはヒチニンドウジという化物が七人そろって座って話をし ていたり、大きい黒牛が寝そべっていることがあるという。 ハ オビタキという妖怪もいる。山から角力取りのようなかっこうをして火をとぼして下りてくる そうである。 ニ タカバエという村内の峠には昔は大きな二本杉があった。昔ある人が夜ふけてそこを通りかか ると誰かの股の下をくぐるような気持がした。うす気味悪くなって上を見上げるとその股のよう なものは次第に上へのびて行って自分のまわりには足のくるぶしのところがあった。これはタカ ボウズだと思いあわてて逃げて帰ったそうである。 ホ ウチアゲという山にはシロウズマという妖怪が出た。山の畑では付近の人が積み重ねてある藁 グロを持ち上げるとその下に白い石のような形をしたものがいて、ごろっとまいでた。あわてて 蹴とばそうとするとまたごろっとまいでる。何度もしているうちに気がついたら自分は遠い山の 中に来ていたという。 ヘ トツクリマワシという妖怪もよく出る。これは人里はなれたさびしい所に出るもので人の気持 ―186― をよく知っていて蹴とばそうとすると横に逃げまた足を上げようとすると前へころがっていった りする。 ト 枌所(ルビ そぎしょ)にはミチマガリというお化けがでる。このお化けはぞろっと出て来て人 が蹴とばすとふくれるという。 これは何かの祟りに違いないと言うので付近の人が地蔵さんを 建てた。その地蔵さんの顔をかいで持っていると博奕に勝つと言うので今では顔の大半が欠け落 ちている。 チ 大高峰山(タカンボ山)からかぶと衛門という人が大石を投げた。それが道の上に落ちたので 通行に邪魔になるので村の人が石屋をよんで来てのみを入れると血が出た。これは仏さんだと言 うて祀ったという。 リ かぶと衛門は二百〆の弁当をさげたとか大石をかついだという剛力の者であった。 ヌ この在所にはメエヨバヌダという田がある。 昔、山の神の祠の上の物見の金比羅さんからかぶと衛門が三斗三升分の苗を田んぼ目がけて投 げつけた。ところが折から田植最中の早乙女にあたって三人の早乙女が亡くなった。それからそ の田では田植の時に苗をくれというと三人の早乙女の亡霊が出るというので早乙女を田のそばに 祀ってソオトメ塚とよんだと言っている。それからのちその田を植えるには苗のかずを丁度よい ように用意して植えたと言う。 ル 高須にはサイノカミを祀ってあるが昔は旅に出る時はかならず詣って柴を折って供えていた。 ―187― 香川用水の水路が付近を通ることになって、村の人が相談して大塚神社の境内におさめた。とこ ろがある人の夢枕にサイノカミがあらわれてもとのところに帰りたいという。そこで今ももとの 場所に建っているそうである。 ヲ 牛川の氏神の大塚神社はナガレノスイジンさんだと言う。昔、西分の大塚バエから洪水の時に 流れて来て川の洗い場にひっかかった。ある家のお婆さんが洗濯に来ていてそれを見つけこれは 勿体ないことだとわが家に持って帰って祀っていたが、わが家におくのは恐れ多いと思い今の地 に神社を建てて祀りはじめたのがその起りだという。 ワ 大高見峰山(タカンボサン)と高鉢山はもとは夫婦の山であった。ところが山どうしが夫婦げん かをして今に両方の山とも横に顔をそむけているという。 なおこの書物については柳田国男先生及び関敬吾氏のご学恩によるところが多いことを銘記する。 また写真は白川悟氏・高橋克夫両氏のお力ぞえをいただいた。厚く御礼を申し述べる。 この書物の前編と後篇は前版のまま旧仮名づかいによった、ことを記しておく。 ―188― 解 説 関 敬 吾 武田君と初めて会ったのはいつか、もう定かに記憶していない。多分、わたしが雑誌『昔話研 究』を編輯していた昭和十年か十一年ごろであったろう。柳田国男先生の引合わせで、わたしの陋 居を訪ねてこられた。まだ、そのころ武田君は慶応大学の紅顔の学生であったと思う。来訪の要件 は、もちろん昔話研究のことであった。 そのころ、わたしは柳田先生のお宅に民俗学研究者たちが毎週集まる木曜会の末席に座をもらっ たばかりの時であった。したがって民俗学に関する知識はもとより、研究しようとする昔話のこと もほとんど知らなかった。『桃太郎の誕生』というこの方面の名著は読んではいたが、その理解の 程度ははずかしいものであった。昔話も幼少のころの記憶以外には他の地方の記録は岩倉市郎の『 加無波良夜譚』のほか数冊しか読んでいなかった。 木曜会の先輩たちは、そうしたわたしの知識を見透してか、昔話の研究は民俗学の広野に咲いた 花を摘むようなもので、新参者がもの好きにやるようなものだと、暗にわたしの無知を宥めてくれ るかのようであった。これに対してわたしは、否定も肯定もできなかった。木曜会の同人はすでに 一家の見識をもっているためか、これらのなかには昔話を研究しようとする人もいなかったようで あった。 先生はそうした事情を十分に知っていて、昔話を研究しようとする武田君を研究の同志として、 わたしに引合わされたのかも知れない。したがってわたしは武田君を指導するつもりは毛頭なかっ た。 ―189― 柳田先生はたしかにわたしなど而立の齢すぎてから物好きに民俗学の花園にまぎれ込んで来たの で、あるいは逃げ出すことを警戒して武田君をわたしのところに差向けられたのかも知れない。し かし、わたしにも、また武田君にも、昔話は広野の花のように摘みとって来て、花瓶に插して眺め るつもりは決してなかった。 そのころ柳田先生のいいつけで編集していた『昔話研究』の目標は昔話を集めて整理して、将来 の研究の基礎をつくることであった。雑誌は研究論文を発表することよりは、むしろ、昔話を聴き に来る人を村で静かに待っている老翁老媼を捜し出し、その口から直接に昔話を聞き出して正確に 記録して発表することが第一の目標であった。さらに地方に散在する昔話研究の同志を求めて、そ の滅びゆく伝統的な物語の研究を促進することが第二の目的であった。 昔話の研究者はまだ少なく、熱心な研究者、採集者の村もしくはその周辺の昔話集はいく冊か公 表されてはいたが、それだけに全体を見返すには採集地があまりにも少なかった。われわれは急い で採集、記録するとともに、昔話が語られる状態をも観察して採集の研究に生かすことをひそかに 考えていた。こうした方法による資料の蒐集を雑誌の編集者としてのわたしは、武田君に期待し た。 『昔話研究』を一、二号出したころであったろうか。そのころ、ウイーンの歴史民族学の重鎮シ ュミットのもとで民族学を研究し帰国されたばかりの岡正雄さんが東大の人類学教室で講演をされ た。わたしも聴講に行った。演題は記憶にない。そのときドイツ人であったかオーストリアの学者 か知らないが、岡さんに紹介された。赤門前で三、四人でお茶を飲んで雑談していたとき、たまた ま『昔話 ―190― 研究』の話が出た。それを聞いて、この異邦人は、こんなメルヘンの専門雑誌はヨーロッパにもま だないといった。わたしもこの言葉に意を強くしたが、しかし、この外国人は、この雑誌を「Zeit schri-ft fu¨r Ma¨rchenforschung」(昔話研究誌)とはいわずに「Ma¨rchenzeitschrift」と いった。わたしは研究のつもりにしていたのに、ただ昔話雑誌といったので、いまの言葉でいえば 頭に来たのか、妙にこの言葉が今も耳朶にこびりついている。その外国人がこの雑誌の内容を見た わけではないが、たしかに彼のいうとおり昔話資料の発表雑誌であったことはたしかである。それ から四十年を経過した今日、昔話研究を標榜する雑誌も一、二ある。また厖大な昔話も発掘されて いるが、彼がいったとおり、『昔話研究』の時代からそれほど真の意味の昔話研究の段階にはいた っていない。 その後、外国の昔話研究書にときには目を通すこともあった。たまたまホッグスの『十民族の昔 話の比較研究』という一四頁ほどの論文を読んだ。ホッグスはスペイン系の研究者で、そのドク ター論文の『スペイン昔話の索引』というのを、わたしは読んでいた。この十民族というのは、北 欧の七民族とルーマニア、ハンガリー、スペインの三民族である。この研究はアアルネ・システム による昔話索引を利用して、その昔話がプロテスタント地域とカソリック地域とのあいだでいかに ちがうかを統計的に比較検討したものである。わたしはその結果よりも蒐集されている昔話数に目 が向いた。これらの目録に利用された昔話の数は最大がフィンランドの二一一七三、最少がリヴォ ニアの五九八、平均して三七四三である。 そのころわれわれの昔話がどのくらい採集され、どの程度、いかに整理されているか知らなかっ ―191― た。あるいは柳田先生のカードだけであったかも知れない。わたしは、これを読んでフィンランド の十分の一でもほしいと考えていた。そうして研究の前提として、すでに『昔話集成』のようなも のを夢想していた。 『昔話研究』の発刊とともに、柳田先生は昔話の全国的調査を構想しておられたように想像され ることがあった。武田君をわたしに紹介されたのが、この構想とあるいは関係していたのではなか ったろうか。服部報公会に申請した〝民間説話の資料蒐集並に出版〟に関する許可書が、昭和十一 年一月二十三日となっているのが、わたしの手許にある。わたしはそれから三年間、この事務にた ずさわった。この全国昔話の調査方法は、まずわが国の標準的な昔話のタイプを一〇〇選び、これ を調査の基本項目とし、全国同じ方法で調査することであった。柳田先生の昔話研究の興味、昔話 に関する一般的知識を述べた論文を序説として『昔話採集手帖』をつくった。調査地はもちろん未 採集地ではあるが、前から行われていた山村生活調査の選定規準にしたがって村を選んだ。 『採集手帖』に用いた標準タイプの選定は、『昔話研究』発刊の目標の一つであったので、調査 の有無と関係なく、同誌に四回にわたって発表した。動物昔話二四、本格昔話は桃太郎以下二八例 。全国調査が決定したので、雑誌に発表するのを中止して、さらにあとの四八を加えて一〇〇とし た。 雑誌に発表した昔話の順序は、わが国昔話の分類の端緒となった『日本昔話集』(昭和五年)の配 列方法に準拠した、動物昔話、本格昔話、笑話に分けていた。これがアアルネの分類といかなる関 係にあるかは知らない。しかしそれ以後、昔話の完形・派生の新しい見解を序説にも述べられたの で、それにしたがって、桃太郎昔話を第一におき、完形・派生(動物昔話・笑話)、果てなし話の順 に、 ―192― 柳田説にしたがって、わたしが分類配列した。用語もここでは本話(完形)、小話(派生)を使われて いる。完形・派生説については、わたしはかつて述べたことがある(「昔話伝説研究」三)。 この分類案は『日本昔話名彙』に適用されている。目次の昔話名に傍線があるのが一〇〇の標準 昔話である。しかし、個々の話の配列の順序は多少入れ換っているが、根本的には『採集手帖』と 同一である。ただし、大きく変っているのは、歌い骸骨と運定め話の解釈で、最初わたしは完形昔 話のなかに分類していたが、『名彙』ではこれを因縁話として派生説話に変更されたことである。 完形・派生の区別は根本的には構造によるのであるが、前述の二つと三井寺話はむしろ内容あるい は意味によるもののようである。 最近、わが昔話の指導的な研究者が三分法はアアルネ・システムであり、二分法は柳田説である かの如く言い、わたしの『昔話集成』はアアルネ分類の適用だと述べているようである。あまりに 単純な見解であろう。先にもふれたが『日本昔話集』(アルス版)はいわゆる三分法で、おそらくは 日本昔話の最初の分類であろう。アアルネは最初三つの種類に分けていたが、タムソンの英訳(一 九二八)には形式譚を項目としてあげた。ところが最近の版(一九六一)では、これを独立させて 四分類となっている。タイプは、サブタイプも入れて動物(六〇五)、本格(一二四〇)、笑話 (一三七五)、形式譚(一二七)をあげている。柳田先生の完形・派生論で形式譚がいかに位置づ けられているかは知らない。柳田説にしたがえば、これまで分類の最初におかれた動物譚が最後に 変更されている。同じく三分類である。 昔話の分類は二つに分けるか三つに分けるかはそれほど重要な問題ではない。わが国でも知られ て ―193― いるエバーハルトの『中国昔話のタイプ目録』は昔話(メルヘン)と笑話の二つに分けている。同 じ著者の『トルコ昔話のタイプ目録』は、動物相互間の問題を主題としたものから、人と動物、人 と精霊、人と呪物、人間相互間の問題、笑話も要するに人間関係が主題である。ここでは二三項に 分けているが、単一分類である。 二分法は新しいところでは、なくなった石原綏代さんが紹介した英国のブリグス女史の『ブリテ ィシュ・フォークテールズ辞典』は、A(Folk-Narratives)とB(Folk-Legends)の二つに分か れている。Aに五項、Bは七項に細分している。この二つを総括してFolk-tale(民話)といってい る。アアルネなども早くから、昔話と伝説とを共通の基礎に立って分類している。昔話における分 類の三つないし四つは小項目である。伝説は一般伝説、起原伝説、動物の声(小鳥その他の声)に 分けている。こうした分類は日本に紹介されなかっただけである。伝説は日本では信仰と規定し、 昔話と区別しようとする伝統があったからである。 現在の昔話や伝説の分類はそれぞれの学派の理論にもとづいて昔話の種類をいかにくくり、いか に分けた方が、研究遂行に便利であるかを目的としてなされるものである。現在、動物や植物の如 く昔話の系統分類はまだ不可能であろう。諸外国の分類論に目を通すことなしにこの問題を口にす るのは盲蛇にすぎない。 全国昔話調査では、武田君にはたしか、福島県の双葉郡に行ってもらったのであろう。その結果 の一部は『昔話研究』に発表され、その他の原稿はわたしが所持している。武田君はこれと前後し て大 ―194― 学を卒え、郷里の学校に赴任されたのであろう。その最初の仕事がこの昔話集である。この集には 新たな昔話が三十四加えられている。これらのなかにはところどころ『採集手帖』利用の跡が見ら れる。この『西讃岐昔話集』を契機として、武田君の四国における昔話の組織的な採集が始まって いる。その一つは阿波祖谷山の昔話である。いま一つは瀬戸内の島、佐柳、志々島の昔話記録であ る。武田君の三つの昔話集はそれぞれ地理的、経済的関係を異にする山村、平地農村、島々の昔話 である。この三つはそれぞれ自然条件も異なった地域の昔話である。この祖谷山、佐柳・志々島の 昔話は二つとも全国昔話記録として刊行された。 ところが、戦争は苛烈の度を加え、出版は統制され、紙は配給に変った。われわれの昔話記録は 不急不用の烙印がおされ、刊行中止のやむなきにいたった。刊行したものは十三冊であった。なか には、刊行の時期を待っているあいだに貴重な採集記録を戦火で失った人もあった。あとで聞いた ところによると、これらの小さな昔話集は慰問袋に入れられて、北支、中支の戦線、あるいは南海 の島々を守る将兵のもとに送られたということである。ここにあらためて、伝統文化の力強さを知 り、グリム昔話集がナポレオンの馬蹄にドイツが踏みにじられているときに刊行されたということ を改めて思い起した。 前述のほかに、讃岐では武田君には瀬戸内の塩飽の昔話(候えばく<(#「<」は繰り返し))が ある。そのほか『小豆島の昔話』(立石憲利)がある。 ・阿波 武田君の祖谷山昔話をはじめ、その隣村井内谷の昔話も最近刊行された。このほか『祖谷 山昔話』(細川頼重)、大谷女子大学説話文学会の学生諸君の調査にもとづく海部郡海南町の昔話 記録、 ―195― 『浅川・川東の昔話』ならびに同伝説・世間話集がある。いま一つは同じ海南町における京都立命 館大学説話文学会の学生諸君が記録した『川上昔話集』がある。 前者は昔話三〇八話、伝説の類が一四四。この中にはこれまでの研究に利用された話がいくつか ある。川上昔話には一九二話が収録されている。 ・土佐 かつて『旅と伝説』に発表された昔話が『土佐昔話集』(桂井和雄)として刊行されている。 これは出色の昔話集で『全国昔話記録』の一つとして用意されていたものである。いま一つは同じ 編者の『笑話と奇譚』がある。このなかでは、この地方で知られている笑話の主人公中村の泰作、 どぐれの半七などの奇行が中心となっている。豊後の吉四六、日向の半ピなどと共通する内容の笑 話である。これらは土佐、豊後、豊前、日向など比較的広い範囲にわたって笑話圏を形成している。 研究に価する。このほか『土佐笑話』(徳弘 勝)、高校生が集めた『のみとしらみの伊勢参り』 『お大師様と天の邪鬼』『須崎市の昔話』(いずれも編者は坂本正夫)がある。最近『土佐昔話集』 (明治二十三年生まれの老媼の記憶にもとづく昔話)も刊行された。 ・伊予 『伊予の昔話』(和田色誉)、大谷女子大学説話文学研究会の『広見町昔話集』『広見町 笑話集』がある。場所は北宇和郡、四十七年調査。いずれも同じタイプの昔話、笑話が多く記録さ れている。 これらは個々の話のあいだの変化は比較的少ない。こうした同系の話の併記もよいが、それぞれ の笑話を地図の上に記すとなんらかの新たに研究の道を発見するかも知れない。たとえば、年令別 、性別、職業別に整理し、もしくはこれらを組合せてみることもできる。これによって学生諸君が 共同に調査した目的にもとづいて、学生諸君による共同討議の結果をまとめる必要もあろう。わた しは昔話 ―196― を学生諸君とともに調査した経験はないが、社会学専攻の学生とともに社会調査を行ったことはし ばしばある。したがって調査のまとめ方について意見を求められるのが普通である。 最近、学生諸君による地域社会における昔話の共同調査の結果が報告されている。ここ数年間に 著しい傾向である。わたしなど、これらの記録を読むことによって、これまでと異なった地域社会 との関連における昔話の研究をする必要があることを迫られているような気がする。こうした学生 諸君の調査は普通、調査に先立って指導教官によってインストラクションが行われる。したがって インストラクションの内容、調査の方法、その結果などについて記録されていると、つぎの研究に 役立つであろう。 解説の名のもとにいささか駄弁を弄しすぎた。武田君との最初の出合い以来、同君の研究、調査 を垣間見ると、そのフィールドは四国である。昔話の採集は土佐をのぞいて三県にわたっている。 このほか民俗学のその他の領域に及び、最近では昔話研究に深い関係をもつ伝説集も刊行している ようである。武田君は四国の民俗学のエキスパートの一人である。 わが国の従来の昔話採集の地域範囲はほとんど「村」に限定されていた。それにもかかわらず書名 は郡名、旧藩時代の国名を冠しているのが多い。このことは無意識にかつての生活共同体、文化共 同体と結びついている。武田君のばあいは、西讃岐、讃岐、佐柳、志々島、塩飽諸島の昔話、いま 一つは阿波祖谷山、井内谷の昔話である。 ところで、昔話の研究はどうかというと、昔話のある一つのタイプを全国的観点から選び出して 比 ―197― 較研究の名のもとに研究する傾向が常であった。しかも一方においては民俗学的調査が行われてい るにしても、これらと有機的に結びつけて、地域との関連における研究にはほとんど見られなかっ た。これが比較研究の名のもとに行われた研究態度であった。もちろんこれが邪道であるというの ではないが、これに対する反省がいかに行われたろうか。 昔話はその性質からいって汎世界的であるが、一方ではそれ以上にこれを伝承する民族と強く結 びついている。このことは、一つの氏族内においても同様である。九州、中国、四国、東北の昔話 を読むとその差異のあることを知る。ここに一つの着眼点があるのではなかろうか。全国的視野か らの研究は、無意識にせよある程度、日本以外の民族の昔話との比較研究が意図されていたのでは あるまいか。かりに、日本全体の昔話の研究が目的であったにしても、その前提としてそれぞれの 地域のインテンシーブな研究を先に行うことが必要である。四国の昔話を集中的に調査された武田 君には、他の地方の昔話よりははるかに豊かな知識がある。したがって武田君に、全国的な関連に おいて四国の昔話の研究を希望する。またそれは可能であると信ずる。 第二の問題として、さらにいま一つ狭い段階の研究もある。さいわい、武田君は山村、島、平地 農村地帯の昔話を蒐集されている。こうした地域、生産の関係が昔話になんらかの影響を与えてい はしないか、そうした研究もまた必要であろう。これを目標として研究する方法もある。そうして これを四国全体に及ぼし、さらに四国に近接した地域との関係に進むことも可能であろう。 第三に、日本の昔話のタイプがどれだけあるかももちろんわからないが、かつて「集成」には五 〇〇以上のタイプを抽出した。しかしその当時はまだタイプに関する明確な認識がわたしにはなか った ―198― ので不十分ではあるが、四国における昔話のタイプを抽出することによって、わが国全体のタイプ を規定するのに十分な参考になりうると思う。もちろんこれはわたしの提案である。武田君はすで に研究のテーマを考えておられるとは思うが、わたしの希望を述べることを許されたい。