1600年(慶長 5) ~ (32K)


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底本の書名   香川県史 年表 別編Ⅱ 近世
 底本の編集者  香川県
 底本の発行者  香川県
 底本の発行日  平成三年三月二十日
入力者名    渡辺浩三
校正者名    渡辺美智子
入力に関する注記
      文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
      文字番号を付した。

登録日   2002年10月9日
      


1600年 慶長5 (庚子)
  政治・経済
   6・- 生駒一正・正俊父子,上杉景勝討伐のため家康軍に従い関東に赴く(近
       世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
   7・- 生駒親正,豊臣秀頼の命により丹後国田辺城攻撃のため,騎馬30騎を
       参陣させる.この後,高野山に入り家康に罪を謝る(近世史料Ⅰ「讃羽
       綴遺録」)
   8・25 生駒一正,同月23日の岐阜城攻撃の手柄により,徳川家康より感
-114-
       状を与えられる(生駒家宝簡集)
   9・15 生駒一正,徳川軍の先鋒として関ヶ原の合戦に参戦する(近世史料Ⅰ
       「讃羽綴遺録」)
   9・28 徳川家康,塩飽1250石の領知を船方衆650人に認める(塩飽勤番所文
       書)
   9・- 生駒親正,高野山で出家する(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
   この年 生駒藩,香西加藤兵衛(往正)ほか20名を登用し,佐藤掃部に「国中ノ
       仕置」を命じる(南海通記)
  社会・文化
   12・13 生駒一正,金光院へ31石寄進する(金刀比羅宮文書)
1601年 慶長6 (辛丑)
  政治・経済
   5・- 生駒一正,家督をつぎ徳川家康より讃岐17万1800石余を安堵される
       (近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
  社会・文化
   1・8 生駒一正,屋島寺領25石余を以前の通り安堵する(屋島寺文書)
   3・28 生駒一正,金光院へ42石5斗を寄進する(金刀比羅宮文書)
   4・6 生駒一正,白峯寺に青海村50石を寄進する(白峯寺文書)
   4・- 生駒一正,金毘羅の三十番神社を修復する(金刀比羅宮文書「御当山諸
       堂棟礼之写」
   この年 生駒一正,屋島寺へ44石3斗6升を寄進する(御領分中寺々由来)
   この年 生駒親正・一正父子,鵜足郡聖通寺山北麓の浦人280人を丸亀城下へ
       移住させる(丸亀市立図書館「三浦漁夫旧記」)
1602年 慶長7 (壬寅)
  政治・経済
   この年 生駒一正,丸亀城から高松城に移る.丸亀には城代をおく(近世史料Ⅰ
       「讃羽綴遺録」)
  社会・文化
   この年 播磨国の人々が坂出(内浜・須賀)に移住する(西光寺文書)
1603年 慶長8 (癸卯)
  政治・経済
   2・13 生駒親正,高松で没する.78歳(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)(生駒記
       では69歳)
1604年 慶長9 (甲辰)
  政治・経済
   3・28 生駒藩,干損のため未納となっていた天正18年・文禄1年・文禄2年
       の3か年分の蔵入米1万5000石の決済をする.うち1500石は免除
-115-
       される(生駒家宝簡集)
  社会・文化
   10・13 生駒親正夫人教芳院,志度寺観音堂を再建する(志度寺文書「志度寺記
       録」)
1605年 慶長10 (乙巳)
  政治・経済
   10・- 片桐且元,小豆島の検地を実施する(土庄公民館「慶長10年小豆島肥土
       山検地帳」)
  社会・文化
   この頃 香西郡飯田郷の檀紙生産が断絶する.旧跡に紙洗池がある(讃岐国大日記)
1607年 慶長12 (丁未)
  社会・文化
   8・- 白峰寺観音堂建立のための勧進が許され,大内郡を除く国内の各郡から
       計53石が寄進される(白峯寺文書)
1608年 慶長13 (戊申)
  政治・経済
   9・- 生駒一正,初めて妻子を江戸へ住まわせる(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
1609年 慶長14 (己酉)
  政治・経済
   5・23 生駒一正,妻子を江戸に住まわせたことにより,徳川秀忠より「半役」
       (国役を半分にする)を申しつけられる(生駒家宝簡集)
  社会・文化
   2・2 生駒一正,国分寺より梵鐘を召し上げ,その代りとして荒田1町を寄進
       する(国分寺文書)
   3・14 生駒藩,国分寺へ梵鐘を返却する(国分寺文書)
   8・20 生駒一正,高松城下見性寺に柞原郷内20石を寄進する(見性寺文書)
   9・6 生駒一正,金光院寺領の諸役免除を認める(金刀比羅宮文書)
   この年 生駒一正,親正の菩提のために弘憲寺を建立し,寺領50石を寄進する
       (弘憲寺文書「弘憲寺記録」)
1610年 慶長15 (庚戌)
  政治・経済
   (2)・8 駿府に参勤していた生駒一正,名古屋城築城を急ぐため名古屋へ赴く
       (徳川実紀)
   3・18 生駒一正没する.56歳(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
   4・- 生駒正俊,家督を継ぎ高松城に居住.この時に丸亀の町人を高松城下に
       移し丸亀町と称す(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」・南海通記)
1611年 慶長16 (辛亥)
  政治・経済
   1・9 生駒正俊,徳川秀忠より讃岐国領知並びに半役の判物を与えられる(生
       駒家宝簡集)
1612年 慶長17 (壬子)
  政治・経済
   3・25 生駒正俊,駿府の徳川家康に
-116-
       参見する(徳川実紀・近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
   6・28 生駒正俊,江戸からの帰途駿府の徳川家康に参見する(徳川実紀)
1613年 慶長18 (癸丑)
  社会・文化
   1・14 生駒正俊,金光院寺領の諸役免除を安堵する(金刀比羅宮文書)
   3・8 生駒藩,引田馬宿浦に〔アツカイ〕状(#「アツカイ」は文字番号4394)
       を出し引田・馬宿間の漁場争論の裁許を下す(瀬戸内海歴史民族資料館
       「生駒一正家老網場裁許状」)
1614年 慶長19 (甲寅)
  政治・経済
   10・1 徳川家康大坂征討の出陣を命じ,大坂冬の陣おこる.
   11・1 生駒正俊,大坂木津川口に陣をしく(徳川実紀)
   11・1 片桐且元,徳川家康の命により小豆島年寄りに島中の塩・薪木・鰯など
       を尼崎に運び,茨木城・天王寺城に差し出すよう命じる(小豆島御用船
       加子旧記之写)
   11・17 生駒正俊,住吉で家康に参見する.家臣森出羽・生駒将監・萱生兵部の
       活躍めざましく家康・秀忠より感賞される(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
  社会・文化
   8.- 全国的に踊りが広がり,これを伊勢神踊と号する(讃岐国大日記)
   10・25 大地震起こる(讃岐国大日記)
1596~1615年 慶長年間
  社会・文化
   この頃 生駒藩,高松城下魚棚の住人の一部を野方町に引き移し,水主役を勤め
       させる(英公外記)
   この頃 金倉(蔵)寺の諸堂が復興する(金倉寺文書「由緒書」)
1615年 元和1 7・13 (乙卯)
  政治・経済
   2・12 小豆島草加部村の年寄ら,大野治長の命により塩910石を大坂城へ納め
       る(菅家文書)
   3・22 小豆島草加部村の年寄ら,大野治長の命により薪3500束を大坂城へ
       納める(菅家文書)
   4・6 徳川家康,大坂再征令を発し,大坂夏の陣おこる.
-117-
   5・1 生駒正俊,二条城で徳川家康に,伏見城で徳川秀忠に参見する(近世
       史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
   夏   生駒正俊,大坂夏の陣で徳川方につき,軍用金5000両を家臣に配分して
       生玉庄に陣取る(生駒記)
   5・7 大坂城落城
   6・- 大坂入城中の小豆島大庄屋ら,大坂城落城後二条城に連行され,土井
       利勝より豊臣時代同様に幕府の御用水主を命じられる(「小豆島志料」
       所収「小豆島三才図絵」・小豆島御用船加子旧記之写)
   (6)・13 一国一城令公布.これにより丸亀城廃城となる.
   この年 大坂の役に際し,塩飽船,兵糧米を備中国より堺まで廻送する(塩飽島
       諸事覚)
  社会・文化
   3・7 播磨国赤穂の田中孫六ほか27名,那珂郡塩屋村に移住し同地に塩田を
       開く.東西7町56間,南北6町(西讃府志)
   この年 イエズス会のある神父が讃岐を訪問する(日本切支丹宗門史)
1616年 元和2(丙辰)
  政治・経済
   2・21 生駒正俊,大坂城修築のため大角石・栗石を献上し判物を与えられる
       (徳川実紀)
   6・13 長谷川左兵衛(藤広),小豆島へ浦留並びに大坂方落人の氏名書上の差
       し出しを命じる(笠井家文書)
   6・13 これより以前,小豆島は堺奉行長谷川左兵衛の管轄下におかれる(「小
       豆島志料」所収「年代記」・笠井家文書)
  社会・文化
   この年 山崎宗鑑,観音寺に「一夜庵」と号する小庵を結んで閑居する(讃岐国
       大日記)
1617年 元和3 (丁巳)
  社会・文化
   2・21 生駒正俊,金光院に釣鐘を寄進する(古老伝旧記)
   6・- 生駒藩,志度寺へ定書を下す(志度寺文書)
1618年 元和4 (戊午)
  政治・経済
   この年 小豆島は伏見奉行小堀政一の管轄下におかれる(「小豆島志料」所収
       「年代記」)
  社会・文化
   3・10 生駒正俊,新たに金光院へ73石5斗を寄進する〔先年分も含めて147
       石〕(金刀比羅宮文書)
   (3)・10 生駒正俊,金光院に三十六歌仙の扁額を奉納する(古老伝旧記)
1619年 元和5 (己未)
  政治・経済
   6・12 生駒正俊,安芸国福島政則の
-118-
       領地没収に際し広島城受け取りを命じられる(生駒記)
   6・- 小豆島の舟50艘と水主1200人,福島政則改易に際し徴用される(小豆島
       御用船加子旧記之写)
  社会・文化
   この年 イエズス会のある神父が伊予・讃岐・阿波・小豆島・塩飽を訪問する
       (日本切支丹宗門史)
1620年 元和6 (庚申)
  政治・経済
   1・18 幕府,大坂城修築を西国大名に課す.生駒正俊,玉造口より大手門まで
       と京橋より青屋口までを分担する(徳川実紀)
   11・28 生駒正俊,大坂城普請の労を徳川秀忠よりねぎらわれる(生駒家宝簡集)
   この頃 生駒藩家臣浅田右京と萱生兵部ら惣家中370人の間で対立がおこり,右京
       は一時失脚する(近世史料Ⅰ「讃岐探索書」)
  社会・文化
   1・- 大坂城築城の石材運搬船として小豆島の船・水主が徴用される〔寛永
       5年まで続く〕(笠井家文書)
1621年 元和7 (辛酉)
  政治・経済
   3・25 生駒正俊,子の小法師(高俊)に幕府への奉公を諭す書状を送る(生駒家
       文書)
   6・5 生駒正俊,没する.36歳(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
   7・- 生駒高俊,家督を継ぐ.外祖父藤堂高虎,生駒藩政の乱れを恐れて後見
       する(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
1622年 元和8 (壬戌)
  政治・経済
   8・- 藤堂高虎,家臣西島八兵衛・疋田右近を讃岐に派遣し藩政を執らせる〔西
       島八兵衛は一時帰藩す〕(西島家文書・近世史料Ⅰ「讃岐探索書」)
   9・- 藤堂高虎,藩地の三野四郎左衛門ら4人の奉行に施政方針を伝える
       (生駒家文書)
   この年 松原玄雪により志度塩田が開発される(松原家文書)
  社会・文化
   8・- 生駒藩の金毘羅社領寄進高330石となる(琴陵家文書「御朱印之記」)
   9・13 生駒藩,大内郡水主村大山善左衛門による開墾地30石を,水主神社領
       として免税を認める(大山家文書)
1623年 元和9 (癸亥)
  政治・経済
   8・13 直島領主高原直久,父次勝の家督を継ぎ直島・男木島・女木島3島の
       600石を知行する(国立公文書館「干城録」・徳川実紀)
  社会・文化
   2・10 生駒藩,志度寺へ定書を下す(志度寺文書)
1625年 寛永2 (乙丑)
  政治・経済
   1・5 高松藩,志度浦塩浜に年貢として塩150俵を課す(松原家文書)
   春   西島八兵衛,再度来讃する(西
-119-
       島家文書)
  社会・文化
   3・3 生駒一正,八栗寺へ制札を下す(八栗寺文書)
   10・20 生駒一正,宇足津西光寺へ制札を下す(西光寺文書)
   この年 ヨハネ・バッチスタ・ポルロ神父,讃岐を訪問する〔日本切支丹宗門史)
1626年 寛永3 (丙寅)
  社会・文化
   7・- 4月より当月の間旱魃となり,飢える者多数出る(讃岐国大日記)
   8・- 矢原正直,西島八兵衛より多度郡の毎年の旱損の相談をうけ,旧満濃池
       内に所持の田地を差し出す(満濃池古図)
1627年 寛永4 (丁卯)
  政治・経済
   春   浅田右京,藤堂高虎の支援を受け惣奉行に復帰する(近世史料Ⅰ「讃
       岐探索書」)
   6・- 乃村縫殿,伊賀に追い籠められる(近世史料Ⅰ「讃岐探索書」)
   8・19~28 幕府隠密が讃岐を探索し高松城と城下町の様子について報告する
       (近世史料Ⅰ「讃岐探索書」)
   8・- この頃までに,西島八兵衛,生駒藩奉行に就任(興泉寺文書)
   8・- 生駒藩,この年の検見では検見の侍を1郡につき10人宛,12郡へ計120
       人派遣する(近世史料Ⅰ「讃岐探索書」)
   この年 生駒藩の蔵入高,9万4636石3斗4升,給知高12万6352石9斗8升
       (西島家文書)
  社会・文化
   この年 生駒高俊の母堂円智院,金毘羅祭りの頭屋米10石を寄進する(近世史料
       Ⅱ「金毘羅一山規則書」)
   この年 香川郡龍満池が築かれる(全讃史)
1628年 寛永5 (戊辰)
  社会・文化
   10・19 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手する(満濃池古図)
   12・27 聖通寺の仏具,弘憲寺に移される(聖通寺文書)
   この年 西島八兵衛,山田郡三谷池を修築する(政要録)
1629年 寛永6 (己巳)
  政治・経済
   4・19 高原直久,直島・男木島・女木島3島の検地を実施し,3島の合計石高
       2000石余となる(国立公文書館「干城録」・池田家文庫「直島免状帳」)
  社会・文化
   4・- 岩手英方の「白峯寺奉納英方独吟連歌」成る.
1630年 寛永7 (庚午)
  政治・経済
   2・9 生駒高俊,浅田右京・西島八兵衛・三野四郎左衛門らの奉行に藩
-120-
       政の精励を命じる(西島家文書)
   8・16 徳川秀忠,慶長5年の朱印状通り塩飽1250石の領知を船方衆650人に
       安堵する(塩飽勤番所文書)
   10・5 藤堂高虎,江戸で病により没する(西島家文書)
  社会・文化
   8・4 引田政所7名連署による鰯網争論についての〔アツカイ〕覚書
      (#「アツカイ」は文字番号4394)が出される(瀬戸内海歴史民族資料館
      「引田馬宿浦鰯網出入裁許状」)
   この年 小豆島で小堀政一のキリシタン検索が行われ,5名が転宗する(切支丹
       宗徒人名録)
1631年 寛永8 (辛未)
  社会・文化
   2・- 満濃池の全工事,完成する.堤長45間,堤高12間半,池廻り4501間.
       水掛り高は那珂郡,鵜足郡,多度郡合計3万5814石(鎌田博物館「那珂
       郡満濃池諸色御普請覚帳」「満濃池水掛り申候村高之帳写」)
   4・7 生駒高俊の命により,西島八兵衛・三野四郎左衛門・浅田右京ら白峯寺
       宝物の目録を作成する(白峯寺文書)
1632年 寛永9 (壬申)
  政治・経済
   1・26 生駒高俊,徳川秀忠死去の遺金として銀34枚給される(徳川実紀)
   6・10 肥後国加藤忠広の改易に際し,小豆島の船70艘と水主が徴用される.
       この水主のうち200人は翌年まで城番を命じられる(笠井家文書)
   7・1 肥後国加藤家,石丁場の普請道具の片付けを土庄村庄屋笠井三郎右衛門
       に依頼する(笠井家文書)
   この年 肥後国加藤忠広改易に際し塩飽の船70艘徴用される(塩飽島諸事覚)
   この年 生駒高俊,藩行政の人事刷新をはかるため市原惣左衛門・高屋少右衛門
       を代官,下津平左衛門を町奉行兼水主奉行,入谷小兵衛・坂本実右衛門
       を惣横目,杉村少太夫・黒田久六を普請奉行として新たに登用する(西
       島家文書)
1633年 寛永10 (癸酉)
  政治・経済
   1・11 生駒高俊,昨年の江戸大火の復興費用として将軍より銀2000貫与えら
       れる(徳川実紀)
   この年 幕府巡見使として川勝丹波
-121-
       守・溝口伊豆守 牧野織部正,来讃する(讃岐国大日記)
  社会・文化
   この年 讃岐には,郷・庄として101,地名は578ある
       (金刀比毘羅宮(#「毘」は底本のママ)「讃岐国絵図」)
   この年 江戸城普請石を小豆島と備前大島で切り出し,大船11艘で江戸まで運
       ぶ(笠井家文書)
   この年 斉藤徳元「塵塚俳諧集」を編む.
1634年 寛永11 (甲戌)
  政治・経済
   3・- 藤堂高次,江戸家老前野助左衛門・石崎若狭ら12名に専横防止の処置
       として誓詞の提出を命じる〔29日,誓詞を藤堂藩重臣に提出する〕
       (生駒家文書)
   (7)・18 藤堂高次,生駒高俊へ藩政から日常生活にいたるまで細部にわたる
       指示を出す(生駒家宝簡集)
   8・4 生駒高俊,徳川家光より讃岐国17万1800余石の領知判物を与えられる
       (生駒家宝簡集)
  社会・文化
   1・- 岩手英方の「金毘羅権現法楽独吟和漢連歌」成る.
   この年 志度で市右衛門ほか84名のキリシタンが逮捕され,転宗する(真覚寺文
       書「真覚寺記録」)
 1635年 寛永12 (乙亥)
  社会・文化
   4・3 生駒藩の奉行西島八兵衛・浅田右京,生駒高俊の命により矢原又右衛門
       に50石を与え満濃池の管理を命じる(矢原家文書)
   9・8 西島八兵衛,山田郡神内池を築造する(全讃史)
1636年 寛永13 (丙子)
  政治・経済
   1・8 江戸城惣郭の造営始まり,生駒高俊は石垣を担当する(徳川実紀)
   2・26 生駒高俊,江戸城外郭石垣新築の労により酒肴を与えられる(徳川実紀)
   5・28 生駒高俊,高松城石垣の修築を幕府より許可される(生駒家宝簡集)
1637年 寛永14 (丁丑)
  政治・経済
   7・- 生駒帯刀,江戸家老の前野助左衛門・石崎若狭らの非法を訴えるため,
       土井利勝・藤堂高次らへの18か条の訴状を持って江戸へ向かう(近世
       史料Ⅰ「讃羽綴遺録」・生駒家文書)
   11・7 小堀政一,小豆島庄屋へ,島原の乱派遣上使板倉重昌の九州下向に際し,
       船と水主を確保し待機するよう申し渡す(「小豆島志料」所収「小豆島
       風土記」・小豆島御用船加子旧記之
-122-
       写)
   12・4 小堀政一,小豆島庄屋へ,島原の乱派遣上使松平信綱の九州下向に際し,
       船42艘を大坂へ回送し御用を勤めるよう命じる(八木家文書・小豆島
       御用船加子旧記之写)
   この年 上使板倉重昌の命により塩飽船25艘,大坂から陣道具を積み島原に届
       ける(塩飽島諸事覚)
  社会・文化
   春   西島八兵衛,松島から新川の間の堤防を築き,福岡・木太・春日の新田
       を開く(翁嫗夜話)
   11・21 北条郡坂出村百姓ら,西光寺を檀那寺として,キリシタン門徒でないこ
       とを誓約する(西光寺文書)
   12・23 京極高和,播磨国龍野6万石を与えられる(京極御系図)
1638年 寛永15 (戊寅)
  政治・経済
   4・11 肥前国島原城主松倉勝家,所領を収公され弟の松倉重利は生駒高俊に
       預けられる(徳川実紀)
  社会・文化
   この年 友安盛員「神道一滴書」を著す.
1639年 寛永16 (己卯)
  政治・経済
   12・- 生駒帯刀と石崎若狭らの対立が拡大し、家中立退きの状況となる(蜂須賀
       家文書「草案」)
   冬   土井利勝と藤堂高次,生駒帯刀を江戸に呼び訴えの内容を審査するが,
       前野助左衛門の死去により帯刀の訴えを白紙にもどし帯刀を藩地に帰す
       (生駒家文書)
   この年 生駒藩の蔵入高7万9700石,給地高15万2300石(松浦文庫「生駒家
       讃州侍帳」)
  社会・文化
   3・1 生駒藩,平田与一左衛門より銀子130貫目を借り受ける(平田家文書
       「大野原之儀ニ付万覚帳」)
   7・13 松平頼重,幕府から常陸国下館5万石を与えられる(英公実録)
   この年 生駒高俊,金光院へ40石を寄進し,頭屋米合わせて50石となる(近世
       史料Ⅱ「金毘羅一山規則書」)
   この年 生駒藩家臣中の「侍」(地方知行100石以上,切米知行40石以上のもの)
       は地方知行327人,切米知行46人の計373人(生駒家分限帳)
   この頃 高松城下の侍屋敷270軒,町屋敷1364軒(讃岐高松城下屋敷割図)
1640年 寛永17 (庚辰)
  政治・経済
   5・5 石崎若狭ら一党の国元侍175人高松を退く,その他江戸詰199人・妻子
       ・手代・足軽ら総勢3・4千人が家中を立ち退く(近世史料Ⅰ「讃羽綴
       遺録」)
   5・20 生駒高俊,家中立ち退きについて幕府へ報告する(生駒家宝簡集)
   7・26 幕府,生駒藩騒動の処分として生駒高俊の封地を収公し,長子高
-123-
       法と共に出羽国矢島1万石に移す.
       石崎若狭・前野次太夫らは切腹,生駒帯刀は大名預けとする(徳川実紀)
   7・27 青山幸成,讃岐国御使を命じられる.大目付井上政重も長崎に赴く途中,
       幸成と共に讃岐に入り国政を糺すよう命じられ,目付花房勘右衛門ら
       3名も讃岐国目付を命じられる(徳川実紀)
   9・初 讃岐国城請取として伊予大洲藩主加藤出羽守・今治藩主松平美作守・西
       条藩主一柳丹波守ら讃岐に入る.讃岐は三分され,大内郡・寒川郡・三
       木郡・山田郡・香東郡は一柳丹波守,香西郡・南条郡・北条郡・鵜足郡は
       松平美作守,那珂郡・多度津・三野郡・豊田郡は加藤出羽守が統治する
       (近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
   この年 三野四郎左衛門の弟三野与右衛門,高屋村塩田を開き,以来塩庄屋およ
       び塩問屋を兼帯する(三野家文書「二山堂草剳記」)
   この頃 生駒藩の内高は23万3166石余(多和文庫「讃岐国惣村高帳」)
  社会・文化
   9・25 小堀政一,小豆島へ,江戸城普請石として,西国大名に小豆島の石を渡
       すよう命じる(笠井家文書)
   この年 生駒家,金光院に「讃岐国絵図」を寄進する(金刀比羅宮「讃岐国古絵図」)
   この頃 高松城下には269軒の侍屋敷がある(生駒家廃乱記)
1641年 寛永18 (辛巳)
  政治・経済
   9・10 肥後天草の領主山崎家治,豊田郡・三野郡・多度郡・那珂郡の19か村
       ・鵜足郡の1か村計5万石を与えられ,城地は見立てて決定するよう命
       じられる(山崎家譜・徳川実紀)
   9・14 青山幸成・伊丹順斎,山崎家治の所領引渡しを命じられる(徳川実紀)
   10・13 青山幸成・伊丹順斎,「領境定覚書」を示し讃岐と阿波の領境を明確にす
       る(政要録)
   10・16 塩飽年寄宮本助の丞,幕府御用が多く塩飽の船頭・水主とも迷惑をして
       いる旨を大坂川口奉行小浜民部に告げる(岡崎家文書)
  社会・文化
   この年 野間三竹「沈静録」を著す.
   この頃 那珂郡の五条・榎井・苗田の3か村を池御料とする.
       およそ石高2100石余(政要録)
1642年 寛永19 (壬午)
  政治・経済
   2・28 松平頼重,常陸下館から讃岐
-124-
       高松12万石へ移封を命じられる(英公実録)
   4・23 高松において生駒家の船並びに船道具や船目録を,高松城番松平美作守・
       加藤出羽守の家臣から船奉行渡辺大和へ引き継ぐ.船数43艘(英公実
       録)
   5・7 松平頼重,江戸を発し高松へ向かう(英公実録)
   5・28 松平頼重,高松城に入る(英公実録)
   5・29 高松藩,紀伊藩主より櫓52挺立蘭〔ショウ〕丸(#「ショウ」は文字
       番号15378),同42挺立黄龍丸を贈られ渡辺大和受け取る(英公外記)
   7・16 松平頼重,初めて栗林に行く(英公実録)
   7・28 山崎家治,丸亀の古城を修築し居城にすることを許される(徳川実紀)
   8・28 高松藩主松平頼重,屋島に遊び壇ノ浦で佐藤継信の墓を見る(英公実録)
   9・11 丸亀藩主山崎家治,高松へ挨拶に赴き,松平頼重に会う(英公実録)
   10・26 高松藩主松平頼重,初めて国内巡見に出発し宇足津に泊まる.翌27日
       象頭山へ登り満濃池を見る(英公実録)
  社会・文化
   10・- 野間三竹「学医通論」を著す.
   この年 京都の豪商平田与一左衛門,丸亀城普請入札のため手代木屋庄三郎を丸亀
       に派遣する(近代史料Ⅱ「井関池由来并水掛り池々之覚」)
   この頃 高松城下,町家数表家1345軒・裏家520軒,計1865軒,家臣以外の人口
       1万2967人(随観録)
1643年 寛永20 (癸未)
  政治・経済
   1・2 高松藩関船彩鷁丸,完成する(英公実録)
   2・6 丸亀藩主山崎家治,幕府より丸亀城築城のため銀300貫を給される(山崎
       家文書)
   3・29 高松藩,キリシタンを捕らえ5月17日に江戸へ送る(英公実録)
   5・10 高松藩主松平頼重,高松を発して江戸へ向かう(英公実録)
   5・14 高松藩,困窮家臣に銀・米を貸与する(英公実録)
-125-
   5・26 高松主松平頼重,江戸へ入る(英公実録)
   8・3 高松藩,江戸藩邸を桜田に置く(増補高松藩記)
   10・- 高松藩,キリシタン宗を信じる者を捕らえて江戸へ送る(英公実録)
   この年 大坂の商人天王寺屋五兵衛と松屋加兵衛,高松藩の掛屋となる.天王寺屋
       はのち元禄2年,高松城下丸亀町へ出店を置く(神宮文庫「聞ままの記」)
   この年 高松藩,寒川郡鴨部の大串山に馬を放牧,庵治の水島で牛を養う(歴世
       年譜)
  社会・文化
   4・- 当月より6月下旬まで雨降らず,秋から冬にかけて餓死するもの多数出る.
       讃岐国の十分の一が被害をうける(讃岐国大日記)
   5・6 京都の豪商平田与一左衛門手代木屋庄三郎および三島屋又左衛門・備中屋
       藤左衛門の3名,丸亀藩へ豊田郡大野原開拓の許可願いを届け出る(近世
       史料Ⅱ「井関池由来并水掛り池々之覚」)
   5・7 高松藩主松平頼重,佐藤継信の碑を屋島壇ノ浦に建立する.碑文は岡部
       拙斎が撰する(英公実録・英公外記)
   5・- 高松藩領旱魃により雨乞い祈祷を行う(英公実録)
   7・- 豊田郡井関池の築堤工事が行われる( 近世史料Ⅱ「井関池由来并水掛り
       池々之覚」)
   8・- 高松藩主松平頼重,白峯寺を再興する(白峯寺棟礼)
   この年 満濃池の底樋前半部の伏替と竪樋の仕替を行う(政要録)
1644年 正保1 12・16 (甲申)
  政治・経済
   5・3 高松藩,キリシタンを捕らえて獄につなぐ(英公実録)
   10・19 高松藩,大久保公忠を小姓から老中(年寄)に任じ1000石加増し1300石
       とする(英公実録)
   この年 高松藩主松平頼重,高松城修復に着手し,まず二ノ丸郭を整備して藩主の
       居館を建てる(小神野夜話)
  社会・文化
   2・- 井関池築造工事,一応完成する(近世史料Ⅱ「井関池由来并水掛り池々之
       覚」)
   8・晦 井関池の堤防,大雨のため決壊(平田家文書「大野原年代」)
   11・- この頃鵜足郡坂本郷の家数は221軒,人口1000人,耕牛馬68頭(三谷家
       文書「宇足郡坂本郷切支丹御改帳」
   この年 与島の岡崎次郎左衛門沙弥島を開作し,麦高10石・水主役9人に定まる
       (鎌田博物館「塩飽島中古記録写掌中防忘録」)
   この年 高松城下の水不足を解消するため地中に樋を埋め,遠くの河水を引いて町
       中へ配水する(英公実録)
1645年 正保2 (乙酉)
  政治・経済
   1・- 高松藩,大久保主計(公忠)を大老に任じる(英公外記)
   (5)・26 高松藩,藩内のキリシタンの口書を老中・大目付に送る(英公実録)
  社会・文化
   5・16 金光院,幕府社寺奉行へ社領330石を幕府朱印地とするよう願い出る(琴
       陵家文書「御朱印之記」)
   6・13 木屋庄三郎・備中屋藤左衛門・三島屋又左衛門,豊田郡大野原新田の水不
       足解消のため,井関池修築の嘆願書を丸亀藩に出す(近世史料Ⅱ「大野原
       新田之儀御公儀へ万書上申留書」)
   9・26 金毘羅三十番神社上棟する(古老伝旧記)
   この年 小豆島土庄村の加藤忠広丁場跡から,町人請負で京都五条の橋石70本が
       採石される(笠井家文書)
   この頃 新池が406築かれ,これまでの池960と会わせて1366になるという(英
       公外記)
-126-
1646年 正保3 (丙戌)
  政治・経済
   5・- 高松藩江戸屋敷の大老彦坂織部より,松平頼重入部後の新建の百姓屋・
       塩竈・新築池などの書付けを幕府老中へ提出し賞賛されたことが,藩地の
       年寄へ伝えられる(英公外記)
   6・23 高松城二ノ丸・三ノ丸の石垣修築を許される(英公実録)
  社会・文化
   この年 高松藩,山田郡東植田村に城池を築く(英公外記)翌4年8月完成(政要
       録)
   この年 キリシタンの鍛冶職善左衛門,江戸送りとなる(切支丹宗徒人名録)
   この年 満濃池の底樋後半部の仕替えをする(政要録)
1647年 正保4 (丁亥)
  政治・経済
   4・- 高松藩主松平頼重,生駒時代に塩田となっていた屋島の相引を以前の通り
       汐を通すよう命じる(英公外記)
   この年 高松藩,検地を行う(蓮井家文書「長尾西村当代以後御免定帳」)
   この年 高松城の多門・天守・矢倉の修復を行う(小神野夜話)
   この年 小豆島は大坂船奉行・大坂町奉行の管轄に置かれる(「小豆島志料」所収
       「年代記」)
  社会・文化
   3・21 高松藩家臣松平可正(半左衛門),白峯頓証寺に「詠十三首和歌」を奉納
       する.
   4・- 高松藩主松平頼重,大内郡の虚空蔵院に20石寄進する(英公外記)
   6・25 小豆島の池田村と中山村とが村境をめぐって争う(八木家文書)
   10・20 高松藩主松平頼重,幕府寺社奉行に金毘羅領330石を朱印地にする願書を
       出す(近世史料Ⅱ「金毘羅一山規則書」)
   11・10 池御料代官守屋五右衛門,金毘羅へ起請文を奉納する(金毘羅宮文書)
   この年 陶工森島作兵衛重利,松平頼重から10人扶持,切米15石を与えられて
       名を紀太理兵衛と改める(松浦文庫「松平頼重年譜」写)
-127-
1648年 慶安1 2・15 (戊子)
  政治・経済
   1・23 幕府より徳川秀忠十七回忌にあたり,軽罪人の赦免を命じる奉書が高松藩
       に届き,高松藩,大赦を実施する(英公外記)
   3・17 初代丸亀藩主山崎家治,没する.55歳(徳川実紀)
   6・14 山崎俊家,丸亀藩第2代藩主となる(徳川実紀)
   この年 小豆島新開検地が実施される(坂手公民館「小豆島草加部村新田検地帳
       坂手村分」)
  社会・文化
   2・7 豊田郡井関池の堤防大破する(平田家文書「大野原年代」)
   2・17 大坂町奉行,公儀御用につき,石材59本の切り出しを小豆島に命じる
       (笠井家文書)
   2・24 金毘羅社領330石並びに山林竹木諸役免除の朱印状が将軍家光より下付さ
       れる(琴陵家文書「御朱印之記」)
   3・17 高松藩より金光院に朱印状が渡される(英公外記)
   8・26 松平頼重,金毘羅大権現に参詣し,太刀並びに歌仙を奉納する(英公外記)
1649年 慶安2 (己丑)
  政治・経済
   1・23 幕府,丸亀藩主山崎俊家に丸亀城修復・普請などの指示を出す(山崎家文
       書)
   2・10 生駒家遺臣南部七郎左衛門,かつてキリシタン宗を信じたかどで捕らえら
       れ,獄につながれる(英公実録)
   3・28 丸亀藩,豊田郡大野原新田に最初の検地を行う(平田家文書「大野原年代」
   6・26 高松藩,江戸城西ノ丸の造営を命じられる(英公実録)
   12・- 高松城中の倉庫・石垣が完成する(英公実録)
   この年 高松藩,キリシタン宗を信じる者を捕らえて江戸へ送る(英公実録)
   この年 高松藩,代官の数を従来の10名から5名に減員する(政要録)
  社会・文化
   1・- 高松藩主松平頼重,金光院に用材を寄進し大門(仁王門)を上棟する(金
       刀比羅宮崇敬史)
   4・11 紀伊国塩津村彦太夫,小豆島土庄村庄屋笠井三郎右衛門に鯛網入漁の代償
       規定書を差し出す(笠井家文書)
   この年 矢延平六,鵜足郡仁池を築造する(片岡家文書「仁池由緒書」)