底本の書名 巡礼と遍路 入力者名 多氣千恵子 校正者 平松伝造 入力に関する注記 ・文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の 文字番号を付した。 ・JISコード第1・2水準にない旧字は新字におきかえて(#「□」は旧字) と表記した。 登録日 2007年8月3日
-151- 3 寺々の物語 西国三十三ケ所霊場の物語については、『日本霊異記』や『今昔物語』に載っているも のはすでに述べたが、そのほかに多くの物語が伝えられている。それらは四国八十八ケ所 のものと比較すると、歴史にまつわるものや、時の帝や貴族、高僧たちに関するもの、ま た古典に載っていて人々によく知れわたっているものが多い。近畿地方は古くからの都府 の地であり、早くから文化の開けている土地だからそれが反映しているのである。四国八 十八ケ所の方はなんといっても辺土の土地の物語であるから泥くさく、常民的である。 ここで西国札所の寺々の物語のいくつかを紹介することにする。 観世音霊験のかずかず(「観世音霊験のかずかず」は太字) <箸筒(ルビ はしつつ)を持った観世音-第三番粉河寺(ルビ こかわでら)> 昔、粉河に大伴孔子古(ルビ おおとものくしこ)という狩人が住んでいた。ある夜、 山中で光るものを見たので弓に矢をつがえて射ると、それは生身の観世音であった。たち まち発心して、殺生をやめ弓矢を捨てた孔子古 -152- は、お堂を建てて明け暮れ観世音を念じ勤行していると、ある夜一人の童子が訪れて、宿 を求めた。泊めてやると童子は七日間滞在して、千手観世音の像を刻んで、どこへともな く立ち去ってしまった。孔子古はその童子は観世音の化身であることを知っていよいよ信 仰を深くした。 さて、河内の国に佐太夫という長者がいた。娘が重病にかかり、もはや明日をも知れぬ 命となった。ところがどこからともなく一人の童子が現われて加持を行い、やがて娘の病 気はすっかり回復した。お礼をしようとしても、何にも受け取らないので、娘の使ってい た箸筒を渡すとそれを受け取り、わが住所は紀の国の粉河なりといって立ち去ってしまっ た。翌年、佐太夫たちがたずねていくとお堂の観世音像の手にかの箸筒が握られていたの で、長者はますますこの観世音を信仰することが厚かったという。 <壺坂上人のこと-第六番南法華寺> 昔、奈良の元興寺に弁基上人という高僧がいたが、壺坂に移り住んで寺の山頂で修行を していた。上人は小さな水晶の壺を持っており、それをこよなく大切にしていた。ある時 その壺の中に観世音の像を見た上人は、そのとおりの像を刻んで自らの庵室に祀り、それ を本尊として寺を建立した。それが壺坂寺の本尊であるという。後、小さな壺の中に観世 音の像を見ることができたということから、いつのまにか眼病祈願の寺となった。壺坂霊 験記の物語は明治年間に創作されたものであるが、この物語の背景にはやはり壺坂上人の 水晶の壺の信仰があるのである。壺坂霊験記などは大方の人が知っているのであろうが、 簡単にその梗概を記することにする。 -153- 昔、壺坂寺のあたりに沢市という盲人がいた。お里という名の気だてのよい美しい妻が いたが、夜が来ると、どこかへ行ってしまう。沢市は、お里には男ができたものと思って 、ある夜、お里のあとをこっそりとつけていった。するとお里は沢市の眼を治すために壺 坂の観世音にお祈りをしているのであった。 沢市はお里がこれほどまでに自分を思っていてくれたのかと、お里を疑ったことを恥じ て、裏の谷に身を投げようとした。それに気づいたお里もともに身を投げるが、不思議な ことに二人とも助かり沢市の眼も見えるようになったという。 <岡寺の大蛇ー第七番竜蓋寺> 昔、岡寺のあたりは樹木の生い茂る山であった。一つの池があって大蛇がすんでいたが 、時々岡の麓まで下りてきて、村里を荒した。義渕上人は法力をもってその大蛇を池の中 に閉じこめ、その上に梵字を書いた石を伏せた。それより後、この池を竜蓋(ルビ りゆう がい)の池(ルビ いけ)とよび、寺の名を竜蓋寺とよぶようになったという。今も本堂の 向って右にあるその池は清らかな水をたたえている。もっとも今では岡寺という名の方が 有名になっている。 <醍醐の水-第十一番醍醐寺> 第十一番上醍醐の観音堂の真下には名水が湧き出ているが、この清泉の名の起りには次 のような伝説がある。 理源大師が開山しようとしてこの山にはじめて登ったのは貞観年間のころである。大師 はこの山 -154- に水なきを憂えていると、一人の白髪の老翁が現われて、落ち葉の中に清水があるのを教 えた。そこで試みに飲んでみると、たいへんおいしい水である。大師は、 「ああ、醍醐味なるかな」 と思わず感嘆した。それ以来、この湧き水を醍醐水といい、寺の名を醍醐寺と名づけた という。なお、白髪の翁は観世音が仮にその姿を現したものだと伝えている。 へそ石の話(「へそ石の話」は太字) <三井寺の名の起り-第十四番三井寺> 三井寺では、広い寺の境内に吾閼伽井屋(ルビ あかいや)というお堂があって中には 霊水が湧いている。この水は天智・天武・持統三帝の産湯の水として使われたという。そ こではじめは寺名を御井(ルビ みい)の寺とよんでいたが、のち智証大師がこの寺の三 部灌頂(ルビ さんぶかんちよう)の法水に用いてから三井寺とよぶようになったといわ れている。 もとは八〇〇坊あまりの塔頭・末寺があり、その中には盲目の座頭などがよりどころと していた坊もあったのか、目をくり抜いて盲目になった大蛇がこの寺の鐘の音を聞いて湖 底にひそんでいたなどという昔話が各地に分布している。 <清水寺縁起-第十六番清水寺> 謡曲の『田村』にも出ているし、『今昔物語』にもある有名な話である。 -155- 昔、大和の国の子島寺(ルビ こじまてら)に賢心(ルビ けんしん)という一人の沙 門がいた。淀川を渡ろうとすると、水中にそこだけ金色になっている一筋の流れがあった 。不思議に思った賢心は流れに沿ってさかのぼっていくと、山城の国八坂郷(ルビ やさ かごう)の今の清水の滝の上に出た。そこには白髪白衣の老翁が草庵を結んで修行をして いた。その名を聞くと、自分はここに数百年も住んでいる行叡(ルビ ぎようえい)とい う者だ。ここは寺を建てるにふさわしいところである。この前に生えている木で観世音の 像を作ればよいというやいなや東を指して飛び去ってしまった。そり以来、賢心はここに 住んで修行をしていた。 坂上田村麿はこの寺のあたりに来て猟をしていたが、その奇瑞に驚いて、伽藍を建てた ということである。 <六角堂と池の坊-第十八番頂法寺> 昔、聖徳太子が難波に四天王寺を建てる時にこのあたりまで用材を探しにこられた。と ころがここに美しい池があったので、太子は水浴びをされようとして念持仏の観世音を池 の傍においた。さて、水浴びもすんで観世音を手で持ち上げようとすると、それまでは軽 かったのに重くて持ち上げることができない。さてはこの土地がお気に召したのだろうと 思った太子はここに六角堂を建てて観世音を安置したという。 今も本堂の裏にある井戸がその池の名残りだと伝えているが、そこには、華道の「池の 坊」がある。「池の坊」の起りは、太子のお伴をしていた小野妹子(ルビ おののいもこ) が、観世音の仏前に花を供えたのがはじめであるという。生花の流儀の起りが、このよう な宗教的な行事に結びついていることはなかなか -156- 興味が深い。 六角堂にはへそ(「へそ」に傍点)石というへその形をした石があるが、これにもいわ れがある。この石は中央に大きい穴があって昔の建物の礎石のようである。昔、桓武天皇 が都をこの地に移された時、諸官庁を建てるのにどうも六角堂の位置が邪魔になって仕方 がない。困っていると、一夜のうちに六角堂がひとりでに五〇尺(約一五メートル)も移 動し、へそ石だけが残っていたというのである。今も境内の茶店ではへそ石という菓子が おうすといっしょに出されている。 <行円上人発心のこと-第十九番行願寺> 狩人発心の話である。行円上人は、若い時は狩人であった。ある時、山中で大きい鹿を 射止めたが、傍へよってみると、鹿は雌で腹の中に仔鹿を身ごもっていた。殺生の罪の怖 ろしさを知った彼は、狩人をやめて出家した。それから上人は射殺した鹿の皮を衣にして 着用し、首には仏像を掛けてありがたいお経を唱えながら諸国を廻ったので、だれもが上 人のことを皮聖(ルビ かわのひじり)とも皮上人ともいった。やがて寺を建立したが、 世間の人は上人の姿から革堂(ルビ こうどう)とよんだものである。 革堂の本尊は千手観世音であるが、この仏像は上人が夢の中で高僧から賀茂神社に霊木 (ルビ れいぼく)があることを教えられてその木を彫ったものだという。 亀の報恩(「亀の報恩」は太字) <清涼山(ルビ せいりようざん)の香木-第二十二番総持寺> -157- 越前守藤原高房は太宰大弐(ルビ だざいのだいに)に任ぜられてはるばる九州に下る ことになった。淀の穂積まで来ると、猟師が大亀を捕らえていたので、あわれに思った高 房は亀を買い取り海に逃してやった。翌日いよいよ船が出帆しようとする時、河口近くで 乳母が誤って高房の子の政朝を河の中へ落としてしまった。が、これは実は政朝の継母と 乳母がしめしあわせて政朝を亡き者にしようとしたのであった。 皆はもはや政朝は死んでしまったかと驚いたが、高房が祈ると前日助けた大亀が背に政 朝を乗せて海中から浮かび上がってきて、政朝は危い命を助かった。大宰府に下った高房 は、これは観世音のお助けだと考え、仏像を彫って信仰しようとした。ちょうど唐人が来 朝していたのでこのことを話し、仏像を彫刻するための香木を探してほしいと頼んだ。 帰国した唐人が香木を探していると、清涼山の麓の川に夜な夜な光るものがあり、漁師 がそれを引き上げてみると、白檀(ルビ びやくだん)の香木であったので寺に寄進した という話を聞いた。唐人はこれを求めて日本へ送ろうとしたが、稀代の名木なので日本の 国へは送ることが叶わぬという。そこで唐人はやむなくその香木に銘を刻んで海中に投げ 入れてしまった。 一方、日本では高房が死んで、すでにその子の政朝の代になっていた。ある日、政朝が 九州の海辺を歩いていて、渚によい香りのする名木が漂着しているのを見つけた。よく見 ると、かの唐人が書いた銘文が刻んであったので、政朝は感激して都へひいて上らせた。 ところが不思議なことに茨木まで来ると名木は重くなって動きそうもない。何かこの地に とどまりたいわけがあるのだろうと思って、名木に向い必ずこの地にとどめおくとの約束 をすると、木はもとのように軽くなって都ま -158- で運ばれていった。 政朝はこの名木で仏像を造りたいと考えたが、なかなかよい仏師が得られない。長谷の 観世音にお願いをしてみようと参詣すると、満願の日に明日の朝寺の門前で最初に会った 者がお前の探している仏師であるとの夢の告げがあった。いわれたとおりに朝早く門外に 出ると、みすぼらしい身なりの乞食の子供が立っていた。しかし小刀を腰にさしている。 政朝はこんな乞食の子供に仏像が彫れるものかと思ったが、連れて家に帰り、こころみに 木片を与えて彫らせてみると、一夜のうちに十一面観世音の像を彫り上げた。そこで、こ れは只者でないと思った政朝が唐の国から漂着してきた香木を渡すと、一〇〇〇日目に亀 に乗った千手十一面観世音の像を彫り上げた。亀に乗っているのは政朝が亀に助けられた 因縁によるのだと考え、政朝とその子孫はこの地に総持寺を建てて本尊としたという。な お、仏像を彫った童子は長谷の観世音の化身であるといわれ、この観世音は政朝の故事に より今も子育て観世音として信仰されているという。 この寺は山陰中納言政朝の邸跡であると伝えられているが、境内には山陰流庖丁道場と いうお堂があって、政朝の像が安置されている。これは政朝という人は料理の名人で、庖 丁さばきに特にすぐれた人だったので今もお祀りしたあるのだという。 <空鉢仙人の托鉢-第二十六番一乗寺> この話によく似た話は四国八十八ケ所の屋島寺にもあってその話はすでに述べたが、お そらくここの話の方が古いのではなかろうかと思われる。 -159- 昔、インドからやってきた法道仙人は播磨の国の法華山で修行をしていた。仙人はやが て一乗寺を開いたが、寺は貧しくて修行者に食事を与えることもできない。そこで仙人は 、法華山の上から瀬戸内海を航行中の船に鉢を投げて食物を乞うことにしていた。ちょう どそのあたりは印南野(ルビ いなみの)の長い海岸線で九州や中国からの船が大和へ向 けて航海する道筋になっていたが、ことに朝廷に貢進するための上納米の船が通るのを見 ると、仙人は鉄鉢を船の中に投げこむ。そして船頭がその鉢の中に米を入れると、鉢はそ のまま法道仙人のところにもどってくる。こうして仙人はその米で一山の修行者を養って いた。ところがある時、船頭がそれをこばんだことがあった。すると空の鉢につづいて船 中の米俵が空を飛んで法華山の仙人の手元にとどいた。船頭は米を惜しんだことを深く詫 びて、米俵をかえしてもらったそうな。 弁慶も登場(「弁慶も登場」は太字) <書写山の性空(ルビ しようくう)上人-第二十七番円教寺> 書写山円教寺は、古い歴史を持つ大寺である。開基は性空上人だが、この上人にまつわ る話は多い。上人はある時生身(ルビ しようじん)の普賢菩薩を拝みたいと思った。夢 のお告げがあったので、書写の山からほど遠くない室の津の長者をたずねた。そこで今様 (ルビ いまよう)を歌う遊女の姿に上人は白象に乗った菩薩の像をまぼろしとして見た という。室の津は古い港だからこうした歴史を持っているのである。その長者の邸跡は今 も室の津に残っているということだ。 -160- また、上人がこの寺を開いた時に、寺にある一本の桜の木に天人が舞い下りてくること がたびたびあった。上人はそれを見て、その生木に如意輪観世音を刻み、その観世音を本 尊として祀ったという。後にその観世音は火災にあって焼失したが、火難に会った時に生 木の桜の生えていた場所から霊水がほとばしり出たという。 和泉式部は上人に深く帰依していたが上人にあてて、 暗きより暗き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ山の端の月 の歌を詠んだという。 この寺にはまた、武蔵坊弁慶に関する話が残っている。武蔵坊弁慶は出家してから諸国 修行の旅に出かけ、やがて書写山にやってきた。そこには多くの荒々しい法師たちがいた が、弁慶は悪童ぶりを発揮して手に負えなかった。弁慶がある時昼寝をしていると、その 顔に足駄という字をいたずら書きした者があった。目がさめてから仲間の法師たちに笑わ れた弁慶は、井戸の水にわが顔をうつし落書されたのを知って法師どもを相手に大喧嘩を はじめ、やがては本堂に火をつけたので、七堂伽藍ことごとく焼け落ちてしまったと『義 経記(ルビ ぎけいき)』に出ている。その時に弁慶が顔をうつした井戸は、今に弁慶鏡 の井戸として残っているという。 <撞(ルビ つ)かずの鐘-第二十八番成相寺> 天の橋立近くの山上にある成相寺は丹後の国にあるが、ここから鬼退治で名高い大江山ま ではそんなに遠くはない。そこで寺宝の中には鬼退治で活躍した頼光(ルビ らいこう)の 笈摺(ルビ おいずる)もあるそうである。 -161- 撞かずの鐘の話は、たいへん暗い話である。 昔、この寺に賢長という住職がいた。古い梵鐘をとりかえようと考え、やがて新しい鐘 ができ上がったので、鐘楼につるして撞こうとしたが、どうも鐘の音色がさえない。賢長 は再び鑄させたが、やはり音色はさえなかった。気がかりになった賢長は、もう一度やり なおさせたが、その折に乳呑み子が煮えたぎる銅湯の中へ落ち、溶けこんだのか、姿も見 えなくなってしまった。やがて鐘ができ、いざ鐘楼につるして撞くと、よく鳴るのだが、 その音にまじって子供の泣声がする。その時以来、子供の成仏を祈って鐘を撞かなくなっ たというのである。 <人魚と観世音-第三十二番観音正寺> 昔、聖徳太子が近江の国の神崎郡の湖畔を歩いていた時、浜辺にどこからともなく一匹 の人魚が姿を現して、太子にいうのには、私の前身は堅田の浦に住んでいた漁師で、湖上 に舟を浮べてすなどりをして世を渡り、仏の道などにはまったく無頓着で、世をすごして きたのでこんな浅ましい姿になってしまった。今では多くの魚どもから責めさいなまれて 、苦しい日々を送っているので、どうか千手観世音を彫って、私の菩薩を弔っていただき たいと太子に訴えた。太子はそれを聞いて哀れに思い、千手観世音像を刻み、寺を建てて その像を安置したのが観音正寺の起りだという。 なお、その人魚と称するものが本堂にガラスのケースに入れて納められている。人魚は はるかに遠い海だけでなく近江の湖にもいたのだと昔の人は信じていたのである。さまで 遠くない若狭の国の八百比丘尼の話を、私は思い出さずにはいられなかった。八百比丘尼 は、人魚の肉を食べて八〇 -162- 〇歳も長生きしたという伝説上の漂泊の巫女である。この寺にこのような伝説が残ってい るのは、案外八百比丘尼などの信仰がもとになっているのかもしれない。 <動かなくなった観世音像-第三十三番谷汲寺> 神仏が運ばれていく途中で動かなくなってしまい、その地がお気に召したのだろうと、 そのところでお祀りしたという話は各地で聞くものだが、西国巡礼納めの札所美濃の谷汲 寺にも、その話が残っている。 昔、奥州会津の黒川に大口大領なる者がいた。かねてより観世音を信仰していたので、 霊木を求めて十一面観世音を造らせようと思い、諸方を探したが、なかなか思うような霊 木が見つからなかった。そこで奥州永井村の文珠堂に祈願をこめると、夢のお告げがあっ て榎の名木が見つかった。 大領は喜んでその名木を都へひかせ自分も都に上った。すぐれた仏師がいたので頼んで 観世音の像を刻ませ、やがて奥州へ運ぼうとしたが、美濃の谷汲まで来た時に、どうした ことか観世音は動かなくなってしまった。どのようにしても動かぬので、さてはこの地に おどとまりになりたいのだろうと思い、大領はこの地で修行していた豊然上人と心をあわ せて寺を建て、観世音を安置したのがこの寺の起源であるという。この時にお堂に近い岩 穴から油が湧き出たので、醍醐天皇はこの寺の山号を谷汲山とおつけになったのだという 。 世を照らす仏のしるしありければ まだともしびも消えずありけり というこの寺の詠歌はこの故事を詠んだものだといわれている。