1 西国巡礼と観音信仰

 底本の書名 巡礼と遍路 
 入力者名  多氣千恵子
 校正者   平松伝造
 入力に関する注記 
   ・文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
      文字番号を付した。
   ・JISコード第1・2水準にない旧字は新字におきかえて(#「□」は旧字)
    と表記した。

 登録日   2007年3月23日
      

Ⅲ 西国巡礼
(#写真が入る)西国第十六番清水寺のにぎわい

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1 西国巡礼と観音信仰
 
 近畿地方にある三十三ケ所の観音霊場を巡拝することを、西国巡礼とよんでいる。平安
朝の中期にはこの風習はすでに始まっていたが、やはりもっとも盛んであったのは江戸時
代の元禄期のころであろうと思われる。今でこその白装束などの者はほとんどいないが、
古くは四国遍路と同じように、白衣・笈摺・笠・杖などの行装に身をかためて、三十三ケ
所の観音巡礼をしていたのであった。しかしそれは庶民のことであって、平安の貴族たち
は馬に乗り、食糧や衣服を準備させて観音参拝に出かけていったと思われる。だが、どち
らにしても根強い観音信仰がささえとなっていたことはいうまでもない。

 観音信仰(「観音信仰」は太字)

 観世音が種々の姿を現わして衆生を救う、というのが観音信仰である。十一面、千手千
眼、如意輪、不空羂索(ルビ ふくうけんじやく)、准胝(ルビ じゆんでい)、六臂如
意輪、馬頭、聖観世音など、観世音の慈悲はあまねく庶民のだれにもさしのべられている
と昔の人は信じていた。なんの差別もなく、だれでも済度するという信仰が観

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世音の姿をこのように変化させたのだが、人々はその奇怪な姿をいぶかることもなく礼拝
して、観世音におすがりしようとする。おそらくこれほど深い親しさをもつ信仰はないの
ではなかろうか。
 三十三ケ所という数字は四国八十八ケ所の八十八と同じように、あまり深い意味をもつ
ものではあるまい。もっとも、観世音は三十三の身に姿を現わして衆生を救うということ
が観音経の所説にあるというから、それから三十三ケ所の観世音霊場が設けられたのかも
しれない。しかし廻国巡礼する人々にとってはそんなことはどうでもよいのであって、た
だ巡礼することによって観世音の信仰にひたるのがその目的であったのである。

 『日本霊異記』にはすでにいくつかの観世音霊験の話が載っているが、なんといっても
多いのは『今昔物語』の巻十六で、これには四〇話ほど記されている。すでに『今昔物語』
の時代には、このような説話はあまねくゆきわたっていたのである。まず『日本霊異記』
の話を見ることにしよう。

 『日本霊異記』の観世音霊験話(「『日本霊異記』の観世音霊験話」は太字)

「兵火に遭いて観世音菩薩を信敬し現報を得たる語」というのがある。これは伊予の国の
越智(ルビ おち)の直(ルビ あたえ)が百済を救わんがためにかの国へ遣わされてい
たが、唐の兵に捕えられた。しかし観世音の像を得て、それを船に請(ルビ しょう)じ
入れて祈念すると、西風が吹いて、筑紫の国へ無事生還した。やがて越智の直は伊予の国
の大領となり、寺を建ててその観世音を安置した。

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 次に観世音の銅像が盗人に盗まれたが、池の中に鷺(ルビ さぎ)が現われ、木にとま
った。そのあたりに来ていた牛飼がその鷺を見つけて石や土くれを投げつけたが、飛び立
とうとしない。そこで牛飼はその鷺を捕えようとすると、鷺は水中に入ってしまった。そ
こで不思議に思って今まで鷺のとまっていた木をひき上げてみると、観世音の指があった
。こうして観世音の仏像が見つかった。
「観音の木像の助けを被ぶりて王の難を脱れし縁」という話では、武蔵国多磨郡の山継と
いう男が、賊地に毛人を討つために遣わされていた。その妻は夫が賊地を廻るころに無事
を祈って観世音の木像を造って信仰していたが、そのおかげで夫は無事に帰ってきた。と
ころが夫は、恵美押勝(ルビ えみおしかつ)の乱に連座して処刑されようとした。しか
しかねて信敬していた観世音の木像の加護で命は助かり、いったんは信濃の国に流された
が、やがては多磨郡の少領に任ぜられたという観世音霊験の話である。
 また、「二つの目盲(ルビ めし)いたる男敬いて千手観世音日摩尼手(ルビ ひまに
て)を称え以て現(ルビ げん)に眼を明くを得たる縁」というのであるが、これは後の
壺坂霊験記(ルビ つぼさかれいけんき)にまで連なる説話で、『今昔物語』にも引き継
がれてゆく説話である。奈良の京、薬師寺の東の里に二つの目が盲いたる人があった。観
世音を信仰して日摩尼手を称え拝んでいた。日摩尼手というのは千手観世音の四十手の一
つで、盲の者はこの手に祈れという手である。昼は薬師寺の東の門の傍に布を前に置いて
座り、日摩尼手の御名を唱えて拝んでいた。行き交う人々は哀れんで銭や米をその布の上
に施していった。日中は鐘を打つ音を聞くと、寺内に入って、僧たちより施しを受けて暮
らしていた。そんなことが何年かつづいていた。ある時二人の人がどこからともなくやっ
てきて、われら二人でお前の目を見えるようにしてやろうといって

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左右の目を治療してくれた。そして私らは今から二日の後必ずここへ来るから、お前は慎
んで待っておれといって去ってしまった。男の目はその後しばらくして見えるようになっ
たが、二人の人は約束の日にはとうとう来なかった。これはまったく観世音の徳力である
というのである。
『日本霊異記』の中には、このような観世音の霊験を物語るいくつかの説話が入っている
。そしていずれも奇異譚(ルビ きいたん)であるが、昔の人はそのようなこともあった
にちがいないと信じ敬ってこうした説話を聞いていたのである。
 次の『今昔物語』の観世音霊験の話は、『日本霊異記』より怪奇の点は少ないが、いか
にもその話の筋は常民の間からひとりでに生まれてきたような庶民的な味わいがある。

 『今昔物語』の観世音霊験譚(「『今昔物語』の観世音霊験譚」は太字)

 巻十六の観音信仰の物語は清水の観世音の説話がもっとも多いのだが、遠くは陸奥の国
、筑前・伊予・周防・越前などにも及んでいて、もうすでに日本国中に観音信仰が広まっ
ていることがわかるのである。しかしなんといっても畿内を中心とした観世音霊場の物語
が多く、その中でも西国三十三ケ所の霊験がもっとも多い。これは次第に三十三ケ所の霊
場というものが成立しつつあったことを物語っているといってよかろう。それらの中でお
もなものの話の筋を簡単に述べてみよう。
 <丹後の国の成合観世音の霊験の語>
 今は昔、丹後の国の成合というところのある山寺に、一人の僧が修行のためにこもって
いた。冬

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のことなので、雪が高く積って、里へ出て食を乞うこともできず、食物もつきてしまって
、今や飢死(ルビ うえじに)寸前となってきた。僧は火を焚く気力もなく横になって寝
ていたが、今はこれまでと死を覚悟して、一心に観世音を念じて祈っていた。ところが寺
のこわれた戸の間から外を見ると狼に食い殺された一頭の猪がいた。食べようとは思うも
のの、長年仏法を信じてきたのに今さらどうして肉食することができようかと、迷いに迷
ったが、あまりの飢えの苦しさにたえられないで、とうとう刀を抜いて猪の左右の股の肉
を切りさいて食べてしまった。しかし肉食の罪をおかしたので泣き悲しんでいた。
  そのうちに雪もやんで、里の人たちがこの寺へやってきた。寺には旅の僧がこもってい
たが、大雪だったので餓死したかもしれぬなどと口々に話しながら来てみると、僧が元気
な姿でいるので、皆の者はびっくりした。ところが、鍋の中に檜の木片が残っているので
、旅僧はどうしてまた木片などを食べたのかといいながらよく見ると、なんと本尊の観世
音の両の股が切りとられている。人人がどうして観世音の両の股など切り取ったのかと聞
くので、僧が見ると、まさしく観世音の両の股が切り取られている。そこで僧ははじめて
、自分が猪の肉だと思って食べたのは、観世音の両の股であったのかと気がついた。そこ
で、皆の者にそのことを話すと、人々は涙を流し、感にたえなかった。
 僧は観世音の御前でお祈りをして、どうぞ元のように成らせ給えと祈ると、人々の見て
いる前で観世音の両の股はもとのとおりになった(第二十八番成相寺の話である)。

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<唖の女、石山の観世音の助けにより物を言う語>
 今は昔、ある身分の貴い人に娘がいた。たいそうな美人であったが、唖であった。神の
たたりか、それとも何かの悪霊がついているのかと、神仏に祈ったり、祈祷をしてもらっ
た。しかし、なんの効果もなかった。はじめのうちは、両親も娘のことを心配していたが
、そのうちにほうったらかしにして、乳母だけが娘の世話をあれこれとしていた。そのう
ちに年ごろになったので、結婚させて子どもでも産んだらあとあとこの娘の世話をしてく
れるだろう、と乳母は考えた。そこで娘が唖であることは秘密にして、美男の殿上人と結
婚させた。男は結婚して、毎日通ってきたが、女はまるで物をいわない。恥ずかしがって
いるのかと思っていたが、どうもそうではないらしい。そのうちにこれは唖だと気がつい
た。娘は、唖だということを知られたので、失踪してしまった。男が訪ねていってみると
、娘はいないので、方々を探しまわったが、なかなか行方がわからないでいた。
 女は石山に乳母の親類の僧がいたので、尼になろうと思って、親しい女房一人と召使の
女を連れていったのである。そしておこもりをして観世音を念じ、この病気をどうか治し
てくださいと一心にお祈りしていた。たまたま比叡山の東塔の阿闍梨が、唖の女がおこも
りをしているのを見つけた。この阿闍梨はすぐれた祈祷師であったので、私が祈祷をして
あげようと、観世音の御前で三日三晩祈った。しかし効果がないので、なおもつづけて祈
っていると、女は口の中から何かを吐き出していたが、そのうちに不充分だが、物がいえ
るようになった。それからしばらくすると、普通の人のように物がいえるようになったが
、これは今までは悪霊がついていて、唖にしていたのであっ

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た。女は喜んで涙を流して礼をいい、お礼のしるしにと永年持っていた水晶の数珠を阿闍
梨に渡した。
 一方、夫の殿上人は妻を探しだすことができないので方々の社寺に参詣していたが、あ
る日比叡山の根本中堂に参詣した。かの阿闍梨とは昔からの知り合いだったので、その宿
坊に行って休んでいると、見おぼえのある水晶の数珠が掛けてあった。驚いて、この数珠
はどうしたのかと聞くと、阿闍梨は石山で唖の女房が参詣していたので、祈祷をして治し
てやったところが、お礼のしるしにもらったのだという。殿上人はそれを聞くや否やさて
はわが女房にちがいないと、急いで京に帰り石山へ訪ねていった。女房ははじめは身をか
くすようにしていたが、やがて打ちとけて、連れ立って京に帰っていっしょに暮したとい
う(第十三番石山寺)。

 昔話と観音信仰(「昔話と観音信仰」は太字)

<長谷に参る男、観世音の助けにより富を得る語>
 今は昔、貧乏で身寄りもない一人の青侍があった。この男は大和の長谷の観世音に参っ
て、どうぞお助けくださいといって、何日もおこもりをして拝んでいた。三七日(ルビ
さんしちにち)の夜明けに不思議な夢を見た。「お前には何も授ける物はないが、お前が
寺を出てすぐに手にあたるものを授けよう」という夢であった。
 男はそれから寺の門を出ていくと、何の拍子かにつまずいてうつぶせに転んでしまった
。そうす

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るといつのまにかわが手は一本の藁しべをつかんでいた。ああこれが自分に授かったもの
かと、その藁しべを持って出ていくと、一匹のすだま(「すだま」に傍点)(虻)が飛ん
できて、わが顔のあたりをとびまわるのでうるさくて仕方がない。木の枝を折ってそれで
追いはらったが、いつまでも飛んでくるので、捕えて、手に握っていた藁しべでくくり、
それを枝の先にぶらさげて持って歩いていた。しばらく行くと、京の方から車に乗った若
君と女の人が召使を連れてやってきた。すると車の中の若君があのすだま(「すだま」に
傍点)がほしいという。馬に乗ってお伴をしていた召使の男がやってきて、そのすだま(
「すだま」に傍点)を差し出せよといった。
 男はこれは観世音さまからいただいたものだが、若君がほしいのなら差し上げようとい
って、すだまを家来の者に渡した。すると家来の者はお前ものどがかわくだろうといって
大きい蜜柑の実を三つもきれいな紙に包んでくれた。
 男は藁しべ一本が蜜柑三つにもなったと喜んで、今度は木の枝に蜜柑をつるして肩にか
けて行くと、やがて身分の高い女が侍を連れて長谷へ参詣するのに出会った。ところがそ
の人はのどが乾いたのか、どこかに水はないかと、大騒ぎをしている。そこで男が蜜柑を
渡すと、女は喜んで布三反を男に与えた。
 この貧しい男は一本の藁しべが三反の布になったのでたいそう喜んで、先へと行くうち
に日が暮れてしまった。そこで道のほとりの小屋に泊り、夜が明けるのを待ちかねてそこ
を出ていくと、いい馬に乗った人がやってきた。実にりっぱな馬だなあと思って見ている
うちに、その馬は急に倒れ

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て、死にかけてしまった。馬の主は、鞍を下ろして連れていた駄馬につけかえ、それに乗
って行ってしまった。従者一人が残っていたが、馬の処置に困っている。男は傍へ寄って
、自分がこの馬の跡始末をしよう、しかしただでもらうわけにはいくまいからこの布一反
を差し上げようというと、従者は布一反をもらうなり喜んで立ち去ってしまった。
 男は死んだ馬の傍に立って、藁しべ一本が蜜柑三つとなり、布三反となった。この馬が
もし生き返ったら布三反が馬一頭になるのではないかと思って、長谷の観世音の方を礼拝
すると、なんと馬は息を吹き返して、頭を持ち上げて起きようとした。そこで男は手をか
けて馬を起してやり、人目につかぬように物かげに引き入れて、馬をしばらく休ませてや
った。人に見られると、盗んだものと疑われるので、布一反でそまつな鞍を買い、残りの
布でまぐさを求め、馬に乗り京の方へ向っていった。
 夜になったので、宇治のあたりで泊り、翌朝早く京の町へ入った。九条のあたりまで来
ると、一軒の家で引越しでもするのか、がやがやと騒いでいる。男はそこで引越しをする
のには馬がいるにちがいないと思い、そこへ行って馬がいらぬかと聞いた。家人はその馬
がいい馬であるのを見て喜び、この南にわが田があるからそれととりかえてくれと言う。
男はそこで馬を九条の田一町と米少少ととりかえて安気に暮すことができるようになった
。その後もこの男は、これは観世音の霊験だといって常に長谷へ参詣していた(第八番長
谷寺)。
 これは現在も日本中に広く分布している藁しべ長者の昔話の一つの型である。こうした
昔話が霊

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験譚の中に取り入れられたのであろうか。次に記す長谷観世音の霊験話も、昔話の中から
取材したように思われる。これも国内に広く分布している、いわゆる「大年の火」という
系統の話である。もっとも若干異なっているところはあるのだが。
<長谷の観世音に仕える貧しい男、金の死人を得る語>
  今は昔、京の町に貧しい生侍がいた。親もなく頼みとする主人もなくて、妻と二人でひ
っそりと暮していた。長谷の観世音を常に信仰して、京からただ一人歩いて参詣し、どう
か私をお助けくださいと念じて、何日も参籠したが、何の夢のお告げもなかった。男は妻
は何のお告げもないのに参籠してはむだだといったが、男は三年間は毎日参詣してみよう
といって、遠い道を長谷まで通いつづけた。
 三年の月日が満ちようとする、その年の一二月の二〇日過ぎに、やはりなんのお助けも
得られなかったかと、泣く泣く帰りかけ、九条のあたりをとぼとぼ歩いていると、検非違
使庁(ルビ けびいしちよう)の放免(ルビ ほうめん)たちに出会った。放免というの
は、囚人であった者が刑満ちてから下級の役人として使役されているのである。
 放免たちはいきなり男を捕えて、八省院(ルビ はつしよういん)という役所に連れこ
み、内野にあった一〇歳ばかりの子供の死体を川原に持っていって捨ててこいといった。
男は長谷の観世音に参詣して満三年目の帰りにこんな情ない目に会うのかと思ったが、こ
れも自分には救われる縁がないのかとあきらめ、この死人を持ったが、重くて仕方がない
。後からは放免たちがせきたてるので、運んでいったが、とて

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も川原までは持っていけそうもない。そこで、家に持って帰り夜になってから妻といっし
ょに捨てに行ってもよいかと聞くと、放免どもはそれはかまわぬという。男が家に持って
帰ると、妻はそれは何かと尋ねた。男がわけを話すと、妻は不機嫌であったが、そうかと
いって、こんな死体をそのままにしておくことはできないから、二人で死体を持ち上げよ
うとするが、重くてどうすることもできない。不審に思って死人を調べてみると、ひどく
固く、木のはしでつついてみるとまるで黄金のようであった。そこで火をともして、小石
でたたいてみると、それはまさしく黄金であった。これは長谷の観世音が恵んでくれたの
だとありがたく思って、家の奥深く黄金をかくした。それからというもの、二人は黄金を
少しずつかいて、それを売っては暮していたのでたいそうな長者になった。やがて男はま
すます幸運になってりっぱな役人になった。
 大年の日すなわち年の暮に死体の入った棺を家の中にとどめておいたところ、それが黄
金になったという昔話が長谷の観世音の霊験話になったのである(長谷寺)。
 
 観世音の御利益(「観世音の御利益」は太字)
<貧しい女、清水の観世音に仕えまつり、御帳を賜わる語>
 今は昔、京に貧しい女が住んでいた。清水の観世音を信仰していつも熱心に参詣してい
た。
 ところが観世音の霊験は一向に現われず、ますます暮しが貧しくなったきた。そこで女
は観世音を恨んで、たとえ前世の因縁はつたなくても、少しばかりのお助けはいただきた
いとお祈りをして、

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御前に伏せていると、いつのまにかまどろんだが、その夢の中で御前から人が出てきて、
お前には何にも与えるものとてないが、これを頂戴するがよいといって、御帳の垂れ布を
わが前に置いてくれた。女は目ざめてみると、夢のとおりにわが前には御帳の垂れ布が置
いてある。わがためにいただくものはこれよりほかにないのかと思ったが、まさかこの御
帳をいただくわけにはまいらぬと、その布を本堂の外陣と内陣との囲いのところに挟んで
おいた。
 その後、また夢の中で、お前はどうしてこれをいただかぬのかと、さきの人が出てきて
責めるので、女はその布をいただいて帰り、その布で着物と袴を作って着た。ところが、
それからというもの、その着物と袴を着ているとだれからもかわいがられ、いろいろな物
を頂戴するし、頼みごとをするとどんなことでも叶うようになってきた。やがて何不自由
なく暮すことができるようになったが、何かよいことがあればと思う時はこの着物を着る
ことにしたという(第十六番清水寺)。
<隠形(ルビ おんぎよう)の男、六角堂の観世音の助けにより身を顕わす語>
  今は昔、一人の生侍がいて、京の六角堂の観世音にお仕えしていた。ある年の大晦日の
夜、知人の家に行って、夜更けてから家に帰る途中で、一条堀川の橋を渡って西の方へ行
くと、大勢の人が火をともしてやってきた。こんな夜更けにどなたか高貴な身分のお方が
通られるのかと、男は急いで橋の下に身をかくしていると、それは人間ではなくて、なん
と鬼の行列であった。男は生きた心地もしないでじっと立ちどまっていると、最後に歩い
ていた鬼がその男に気がついて、ここに人間が見えるわといって男を引っぱってきた。別
に重い罪とが(「とが」に傍点)のある奴ではないから助けてやれという

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と、四、五人で男につばを吐きかけて、向うへ行ってしまった。男は少し気分が悪くなっ
たが、なんの危害も加えられなかったことを喜んだ。そして早く帰って妻や子にこの話を
してやろうと、急いで家に帰った。
 ところが妻も子も自分を見ても知らぬ顔をしているし、なんのそぶりも見せない。自分
から話しかけてもなんの返答もしてくれない。そこで男はこれはどうしたことか考えたが
、さては鬼が自分につばを吐きかけたとたんに、自分の身は隠れて人の目には見えないよ
うになってしまったのだと気がついた。これは困ったことになったと男はひどく悲しんだ
。しかし自分は人の姿も見ることができるし、人のいうこともよく聞える。だが、自分の
していることやいっていることは人には聞えぬから、自分が傍にある何かを取って食べて
も、気づかれないのである。
 翌朝になると、妻や子は男が帰ってきていることが見えないので、昨夜人に殺されたの
かもしれないと悲しんでいた。男は自分の身が隠れて見えなくなってしまったのをひどく
悲しんで、六角堂に参籠して、どうぞ私の身を元どおりに人の目に見えるようにしてくだ
さいと祈願した。一四日ばかり参籠して、明け方に夢のお告げがあった。それはお前は夜
が明け次第すぐ出ていって最初に出会った人のいうとおりに従え、というのであった。
 そのうちに夢がさめたので、夢のとおりに出ていくと、門を出たところでおそろしげな
顔をした牛飼の少年が大きな牛をひいていくのに出会った。ところがその少年は男を見る
と、私といっしょに行かぬかという。ははあ夢のとおりだなと思い、ついていくと、西の
方一〇町ばかりのところに

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大きい門構えの家があった。その門の中へ入ろうとしたが、門はしまっている。すると少
年は牛を外へつないで、門のすきまの細いところから入ろうとし、男にもここから入れと
いう。そんなところから入れるはずはないと思うのだが、少年は男を引っぱりこんで中へ
入れた。門の中は広い家になっていて、大勢の人がいる。
 少年は男を連れて中へ上りこみ、奥の方へ入っていった。男の姿はかくれているのでだ
れも見とがめる者がない。やがてこの家の姫君が病気で寝ているところまで来た。見ると
姫君のまわりには女房たちがかしずき、姫の容体を見守っている。牛飼の少年は男に木槌
(ルビ きづち)を持たせて、姫君の頭や腰を打たせた。すると姫君はたいそう苦しんで
大声を上げ、姫の両親はもうこれで死ぬのではないかと泣き悲しんだ。やがてえらい祈祷
僧をよびにやる様子だったが、そのうちに祈祷僧が来て病人の傍で般若心経を誦みはじめ
た。男はその声に威圧され、恐ろしくてたまらぬ。牛飼の少年はそのお経を聞くと、やに
わに逃げ出してしまった。やがて不動明王の陀羅尼(ルビ だらに)を誦むと男の着物に
火がついた。それがどんどん焼けていくので、男は大声を上げて、救いを求めた。
 すると不思議なことに、男の姿がはっきり見えたとみえて、姫君の両親や女房たちは姫
の傍にあやしげな男が座っているのに気がついた。そこで男を捕えて、いったいどうした
ことかと聞くと、男は今までの一部始終を物語った。男の姿が見えるようになると、姫君
の病状もすっかり快くなった。
 祈祷師がこの男は六角堂の観世音さまの御利益を受けた者だと説明したので、男はゆる
されて家

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に帰ることができた。これは不動明王の陀羅尼のおかげであるが、やはり観世音の不思議
な御利益の一つである(第十八番六角堂)。
<醍醐の僧蓮秀、観世音に仕えまつりよみがえることを得た語>
 今は昔のことになってしまったが、醍醐に蓮秀という名の僧がいた。妻子がある僧であ
ったが、観音に仕えて毎日観音品一〇〇巻を誦み、また賀茂神社を信仰して、常に参詣し
ていた。 
 ある時に蓮秀は病気にかかって死んでしまったが、不思議なことに、一夜明けると生き
返った。これはその時に蓮秀がした物語である。
 ……死んでからだれも人のいない山路をたどって遠いところに行ったが、途中で会うの
は鬼神たちばかりであった。高い山を越えていくと大きい川があって、いかにも広々とし
て深い川であった。ふと見ると、鬼のような顔つきの一人の老婆が大木の下にいた。その
木の枝には何千枚ともわからぬほどの衣が掛けられていて、老婆はじっと見張りをしてい
るようだった。私が近寄っていくと、「ここは三途の川で、わしは三途の川の奪衣(ルビ
 だつえ)婆じゃ。お前の着物を脱いでわしに渡してからこの川を渡っていけ」 
 と老婆がいうので、着物を脱いで老婆に与えようとすると、にわかにどこからともなく
四人の天童が現われ、私が渡そうとした着物を老婆からうばい返して、老婆に向い、
「蓮秀は法華の信者で、観音がお守りしている人だ。蓮秀の着物を取ってはならぬ」
 といった。すると鬼の老婆は手を合せて拝み着物は取らなかった。天童は私にここはあ
の世へ行

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く道筋で悪業の人が行くところだからお前は早くもとの国へ帰って、法華経を読誦します
ます観世音を念じるがよいといった。それから天童は私を連れて帰ろうとしたが、そこへ
また二人の天童が現われ、われわれは賀茂の明神のお使いで来た、蓮秀が冥途に行くのを
明神さまがごらんになって早く連れもどせよというのでやってきたというや否や、私は生
き返ったのだ、と蓮秀は語った。
 それからは蓮秀の病気はすっかり快くなっていってもとのとおりの健康な体になったと
いう。その後も蓮秀は法華経を読誦し、観世音に仕え、また賀茂の御社に参詣することを
怠ることがなかったという(第十一番上醍醐)。

『今昔物語』第十六には多くの観音信仰の説話があるのだが、その中の西国三十三ケ所に
関係あるものについてその内容の一端をここに述べてみた。この巻の中にはどこの観世音
の霊験かもわからぬ物語も入っているのだが、観音信仰がすでに根強く庶民の間に広がり
つつあったことを示している。そうしてこれらの霊験譚の中には民間に行なわれている日
本昔話のいくつかがさりげなく姿をかえて入っているのが私には興味深い。説経僧かある
いはそれに近い説話の伝播者が日本昔話を翻案してこのような形のものにしたと私は信じ
ている。こうしたことによって、観世音の信仰はますます広がっていき、それはすっかり
庶民的なものとなっていった。畿内を中心とした観世音の霊場が次第に固まっていったこ
とは当然であろう。