底本の書名 巡礼と遍路 入力者名 多氣千恵子 校正者 平松伝造 入力に関する注記 ・文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の 文字番号を付した。 ・JISコード第1・2水準にない旧字は新字におきかえて(#「□」は旧字) と表記した。 登録日 2006年12月5日
-110- 2 遍路の種々相 哀れな遍路(「哀れな遍路」は太字) 四国遍路は古い起源を持っているが、その初期においてはある種の宗教人の旅であった 。その風習が一般の人々の間にも広まるにつれて、もちろんその根底には信仰があるのだ が、病苦や貧苦の世界から抜け出すために遍路の旅をこころみる者も多くなってきた。そ してそのまま自らを四国遍路の中に埋没させて消えていった者も少なくない。 現在もなお、私たちが四国札所寺院の本堂または大師堂の前に立った時に、なんともい いようのないなまぐさく人間くさい感じに打たれる。それはいかにも常民的で、底辺に生 きる人々の心意をそのまま現しているように見えるからなのだ。私たちは常にその中にあ って暮らしているのだが、私などはどうしてもそれを直視することができない。 ばさっと切られて束ねられた女の黒髪、ギブスの手や足、木綿の布で作った乳房の型、 いざり車、一面に貼られた納め札、茶色っぽく色あせた人物写真など、それらがぐいぐい と堂の前に立ちどま -111- る私に迫ってくる。それはいかにも暗くてわびしい風景である。病苦や貧苦にさいなまれ た人々の声がわんわんと音を立てて聞えてくるようである。それはたとえようもなく悲し くて哀れなことである。 私はこんな哀れな遍路の話をいくつか聞いている。 これは土佐大豊の山村で一人のお婆さんから聞いた話であるが、長男に家督を譲って隠 居したそのお婆さんは、四国遍路をして大師のおかげをいただこうと思い立った。それは つれあいのおじいさんが盲目であったからだという。 お婆さんが四国遍路に出ようとすると、親類の者から一人の同行をせがまれた。それは 遠縁の娘で肺を病んでいる娘であった。四国札所には、肺大師といって胸を病んでいる者 を救う大師の信仰もあるからである。こうしてお婆さんは、盲いた夫と肺病の娘を連れて 遍路の旅に出た。背には白い布で包んだ行李を背負い、胸には札ばさみを掛けた。盲目の 夫にはお婆さんの持つ金剛杖の一端を握らせた。肺の悪い娘の荷物も持ってやっているの でなかなかの苦労である。そのころの遍路の旅は普通五〇日であったというが、盲目の夫 と病人の娘を連れたお婆さんは六五日もかかったという。それでも無事に打ち納めて帰っ てきたが、帰ってまもなく肺病の娘は死に、おじいさんの盲目はとても治りそうもない。 そこでお婆さんはもう一度おじいさんを連れて遍路の旅に出た。 二度目の遍路に出た時に、お婆さんは阿波の札所で盲目の母遍路といっしょに行く六歳 ばかりの男の子を見た。子供はぱっちりと開いたすずしい眼をしているが、母親は目はあ いているのだが何 -112- にも見えない。子供は杖のはしを握り、母が後を握ってたどたどしく歩いていた。お婆さ んのお金も少ないのだが、よほど貧しいように見えたので、五銭玉一つを子供に接待じゃ といって握らせた。母親はまだ盲になってまもないのか、勘も悪いが、子供が喜ぶのに気 がついた。そして、厚く礼をいってからこんなことをいった。阿波の番外札所の柳水庵の お水を目につけて盲目が見えるようになった話を聞いた、私はそれで廻っているのです、 と。 お婆さんはその話を小耳にはさんだので、二度目の旅の時に柳水庵では夫の目に水を何 度もつけた。そして少しばかりのききめでもあるかと思ったが、ききめはなかった。二度 目の遍路から帰ってきたが、今度こそお大師さまのおかげをいただこうとお婆さんは思っ た。身内の者などはあまり乗り気でなかったが、三度目の旅にお婆さんは出た。今度の旅 も無事に帰ってきたが、やはりききめはなかった。そのうちにおじいさんは死んでしまっ た。お婆さんが隠居する時に引き取っていた二男も三男も大工になって独立した。そして 今では暮しの方は少しばかり楽になったという。 ニジリヘンド(「ニジリヘンド」は太字) 足腰のたたぬ身の不自由な遍路のことを、ニジリヘンドとよんでいる。今はもうすっか り少なくなったが、ニジリヘンドは木のコマのついたニジリグルマに乗っていた。そして わが手がかなう者は手でコマをまわして行くのである。たいていそんな人は犬を連れてい て、犬が引いていった。ニジリグルマを引く犬は従順で主人のいうことをよく聞いた。 -113- 昔は、村へニジリヘンドがやってくると、素朴な山の村などでは、見つけた村の人は近 所の衆をよんできて、四、五人そろうとその車をおしてやった。そして村境までおしてい くのである。すると、今度はその村の人が次の村との境までおしていく。こうして順ぐり に村から村へとたどっていくのであった。それはまるで説経節のをぐり(「をぐり」に傍 点)で小栗判官を乗せた車が藤沢から紀州の本宮の湯まで送られていったのに似ている。 をぐり(「をぐり」に傍点)の方は目も見えず耳も聞えず足腰も立たないのだが、街道筋 の人々はこの車をおすならば供養になるべしといっておしていくのである。 ニジリヘンドの車をおす村の人にも、そうした供養の観念といったものがおぼろげなが ら胸中にあったであろうことは想像にかたくない。 このニジリグルマで送ることを八十八番札所のある多和の村などではニジリオクリなど とよんでいたが、この風習が途絶えたのはだいたい昭和のはじめで、その後はニジリヘン ドが来ると村役場の方で臨時に二人の人夫を雇ってその者が車をおしていったということ である。しかしそれも今ではすっかりやんでしまったそうである。 乞食へんろ(「乞食へんろ」は太字) 各家々をまわって何かの接待を受ける風も、それがなんとなく遍路にとって普通のこと となってくると、門に立っても経などは少しも上げないで、ただ物もらいだけをする遍路 がふえてきた。こうした中から乞食へんろが生まれてきた。これは物もらいだけが目的な ので、各戸の戸口に立って、 -114- 手を合わせて鈴の一つも振って、いくばくかの米なり銭をもらうのである。もしくれない 家があると、悪口雑言を吐いて立ち去っていくのであった。このような者の中には屈強な 中年の男などもいるので、主婦だけが留守番をしている家などではこうした遍路が村に入 ってくるのをたいそうおそれていた。 今から二、三〇年ほど前までは、徳島県の由岐あたりへは、こんな遍路が群をなして来 ることがあった。そうして何日も滞在するのである。由岐には、浜辺にこのような人々が 雨露をしのぐにふさわしい洞穴があったので、そこへ泊っていて、何人もが家々へ物もら いに来た。中にはおどして金品をねだる者もあった。村では困りはてて警察に届けるが、 駐在所は遠いものだから取り締りに来た時は逃げていて、巡査が帰るとまたやってきた。 私は老人からこの話を聞いたが、それはおそろしいものだったという。 ところで、これは稀なのだが、素直で正直そうな乞食へんろが来ることがあった。この ような人は、墓地の中にある葬具を入れた小屋や無住の庵などで何日も日をすごした。そ して葬式の日などに手伝ったりする。やがては村の人と懇意になって、葬式の時に寺の和 尚さんのきょくろく(「きょくろく」に傍点)(腰かけ)を持っていくようになり、無住 の庵に住みついて村人から庵坊さんとよばれ、葬式の日の手伝いはもとより、農繁期で人 手がない時は麦刈などの手伝いもしてたいそう重宝がられる。こんな例は少ないのだが、 私は徳島県三好郡の井内谷でこのような人に出会ったことがある。 また、業病を病んでいるために旅に出た四国遍路は二、三〇年ほど前まではいくつかの 寺の近辺 -115- には若干いたようである。もはや廻国してゆく気力もないのか、それとも遍路をして行く よりも大寺の傍で住んでいる方が生活ができるのか、寺の裏山などには何人かが小屋掛け をして住んでいたという。七十五番の善通寺などはなんといっても名高い寺だから、参詣 者は常の日でも跡を絶たない。その上、市が立つと多勢の人出で賑わう。そこで参道に座 って、物乞いをする者があった。かぶっていた菅笠を前に広げてその中に納経帳などを入 れてじいっと頭を下げているのである。そんなのを見ると、慈悲深い老人などはいくらか のお賽銭をその中に投げ入れる。そうして夕方が来るとわがすみかに帰っていくのであっ た。痛ましいものであったが、今はこうした風景もすっかり見られなくなってしまった。 托鉢というのは物乞いに似ているから、信仰がうすれると托鉢の風体をしていた者が乞 食へんろに成り下っていった事情はよくわかるような気がする。 乞食へんろは四国八十八ケ所に関係なくどこへでも物乞いに歩いた。もはや信仰心のな い彼らは遍路の衣装こそつけているが、ほんとうは単なる物乞いであったのである。 四国八十八ケ所の打止めの寺である八十八番の大窪寺の付近には、何かの事情があって 故郷に帰れない遍路たちが庵や共同墓地の中の葬具置き場で四、五人ずつたむろして住ん でいることがあった。路銀も使いはたすともはや物乞いに出るよりほかにしようがない。 そしてこのような遍路は、村の家々を廻って歩いた。やはりなんといっても素朴な山村だ から、気だてのよい人の家が多い。そんな家をよく覚えていて、遍路たちは出かけていっ た。寺の近くの槇川(「まきかわ」に傍点)というところに住んでい -116- る木村さんという気だてのよい物知りのおばさんに聞くと、木村さんの母親というのがた いそう親切な人で、そんな遍路がやってくると、嫌な顔一つもせずに常に何かを与えてい た。そんな中にかなりな年配の遍路がいた。それが二、三日見えないので気になって見に いくと、谷川で洗濯をしかけたままうつぶせになって川べりに倒れていた。まだ春浅いこ ろのことであったので、谷川の水は冷たくて心臓麻痺にでもなって急死したのだろうとい うことになった。こうした哀れな話は多いのであるが、中には悪事を働く遍路も少しはい たようである。こういうのはいわゆるにせの遍路で、逃亡の目的で遍路に出たというのが 多い。同宿の遍路をだまして金を巻き上げたり、加持祈祷をしてやるといって金をうばう のである。明治の末ごろから大正年間にかけては、このような悪い遍路もいたようだが、 今はすっかりなくなったようである。 捨往来手形のこと(「捨往来手形のこと」は太字) 江戸期も半ばを過ぎると、社寺参拝などの信仰の目的をもって、遊山旅行する者が多く なってきた。しかし藩制時代のことであるから関所手形が必要であった。各地には番所が あり関所があったので、そこを通るためには関所手形を見せなければならなかった。土佐 藩などはことに関所手形の吟味がきびしかったようである。 その関所手形の中に捨往来手形というものがあって、これは普通の関所手形と違って非 情なものであった。長途の旅であるので、途中で病死する者も多く、また業病や口べらし のために出てきた -117- 者もあるから、捨往来手形というものは必要であったのだろうと思われる。 私が見た捨往来手形の一つを紹介する。これは尼僧の者で、この尼僧は格別業病でもな く病弱でもないのだが、やはり四国遍路の折にはこのような手形をもっていったのである 。香川県三豊郡仁尾町の常徳寺の尼であるが、後には多度津郡多度津町勝林寺の尼となっ た。そしてこれは現在も勝林寺に所蔵されている。その文面は口語文になおすと次のよう になっている。 往来一札のこと 一、この尼僧二人は今般四国巡拝を志願してまかり出ましたが、御関所は相違なく通し てください。また行き暮れたときは一宿をお願いいたします。万一病死の節は所の法に従 って宜しくお願いたしますが、こちらへお知らせくださるには及びません。 天保六年乙未三月 讃岐三豊郡仁尾禅宗常徳寺印 智寂 玄芝 処々御関所御役人中 村々御役人中 と記されている。こうした往来手形は途中で行き倒れてもその村の法に従って埋葬して ほしい。わざわざ知らせてこなくてもよろしい。棄ておいてくださいというので捨往来手 形とよんでいるの -118- であるが、おそらく何千人かの遍路が郷里を離れた四国の辺地でさびしく死んでいったの にちがいない。家が貧しいので口べらしのために遍路の旅に出された者もあろうし、中に は治るあてのない業病のために出てきた者もあるだろう。四国では接待の風習が盛んであ った時代はなんとか口すぎをすることができたというのも、こうした口べらしや業病の遍 路たちが多く出まわる一つの原因になったのかもしれない。しかし帰るあてのない哀れな 遍路たちは、何回も廻っているうちには結願の寺である大窪寺へ来たならばもはや精も魂 もつきはてて落命することになったであろうことはたやすく想像できる。大窪寺の周辺に 遍路墓が多くて、それがへんろ道の傍に多いのは、たとえどこの在所の村か書いてなくて も、生国を同じくする者が通りすがりに回向してくれることを期待したからにほかならな いと思う。 厄まいり(「厄まいり」は太字) 弘法大師が四二歳の厄年の折に四国八十八ケ所を開いたという伝説が古くからあって、 厄除けを祈願して彫刻されたという仏像が札所寺院のいくつかに存在している。そこで厄 除け祈願の寺というものがあるが、中でも四国第二十三番の日和佐の薬王寺には、後鳥羽 院厄除けの伝説があって厄除けの寺として有名である。 四国地方には、女三三歳、男四二歳の厄年に、厄除けのために神仏に参詣したり、盛大 な酒盛りをするといった風が根強く存在していて、ちょうどその年ごろが男女ともに気力 も充実し農村では -119- いわば村の中堅ともいうべき年であるから、厄除けのためには金品を惜しまないというと ころが多い。 そこで日和佐の薬王寺などへは、阿波一国はもとより讃岐の東半分、土佐は室戸岬近辺 からも参詣する者が跡を絶たないのである。後鳥羽院が御厄除けのために伽藍を再建され たといい、本尊の薬師如来もその折に作らせられたというわけで、ことに正月の会式の折 などは厄除け祈願の者はもとより、多くの参拝者がここへ出かけてくる。薬王寺のヤクと いう音から厄にかけて厄除けということになったのであろう。 まず厄年の人は厄坂を上っていく。男厄坂(ルビ おとこやくざか)は四二段、女厄坂 (ルビ おんなやくざか)は三三段の石段である。そして石段を上るごとに一つ一つに一 〇円なり一円なりのお賽銭をおいていく。上ったところには臼があってその中に抹香を入 れてあるので、傍においてあるヤクヨケギネで厄年の数だけその抹香をつくのである。そ れからお堂の中にある鐘を撞木で年の数だけたたいてから本堂に行って参詣する。こうす ると厄が落ちてしまうからその年は無病で何の厄難にも会わぬと信じているのである。な お、厄坂にまいたお賽銭は昔から拾ってはならぬといい、もし拾えば厄難が身につくと信 じられているそうである。 日和佐の薬王寺についで厄除けで名高いのは第二十九番土佐の国分寺である。大師は四 二歳の折に土佐の大津に上陸して、ここへやってきたのが、ちょうど節分の日であった。 そして星供養の祈?をしておのが像を彫ったという。その大師像は星供大師(ルビ ほし くたいし)とよばれ、男四二歳、女三三歳の厄年の -120- 人は節分の日にこの星供大師に参詣するそうである。また伊予の第六十五番三角寺も厄除 け祈願に参る人があるという。 元来が四国地方の人々は、厄除けのためにその土地の氏神などに参詣するのがもっとも 多かったのだが、大師四二歳の時に四国霊場を開いたという伝説が広く行なわれた結果、 四国札所の寺に厄除けに参詣する人が生じてきたのである。 安産を祈る(「安産を祈る」は太字) 伊予第六十一番の香園寺が安産祈願の寺であることは寺々の物語のところで述べたが、 そのほかにも安産祈願の寺はいくつかある。 産は女の大厄と昔の人は考えていたので、安産を祈るためには神仏の加護を求めるより ほかはなかった。医学の進んでいない当時にあってはそれはやむをえないことであったろ う。 五十一番石手寺の迦梨帝母堂(ルビ かりていもどう)は境内に祀られてあるが、これ が安産祈願のお堂である。そこには墨で名前を書いた小石がうず高く積まれているが、安 産を願う者はこの小石を持って帰り、子供を安産すれば二つにして返すのだという。第七 十六番金剛寺にも迦梨帝母堂があってここでも安産を祈って参詣する人が多い。 第三十四番の種間寺に参詣すると、そこには底の抜けた柄杓(ルビ ひしゃく)がたく さん奉納されているが、これがまた安産祈願の名残であった。 -121- 種間寺の近在の女は身ごもると柄杓を持ってこの寺に参詣する。寺ではその柄杓の底を 抜いて三日二夜の祈?をして、それを取りにきた妊婦に渡す。それを持ち帰ってから床の 間に祀っておき、安産するとその柄杓を寺に再び納めるのである。 柄杓の起源はもともと瓢で、瓢というのは霊が宿ると考えられていた。それゆえに柄杓 の底を抜くというのは霊を外へ出しやすい形にすることで、そんな意味から安産の祈願に 用いられているのであろうと思われる。 第六十五番三角寺もまた安産祈願の寺である。ここのは少し変わっていて、身ごもった 婦人はこっそりと忍んできて、寺の台所の杓子を取ってくる。それをだれかに見られると 安産の祈願にならぬので、こっそりと取ってくるのである。そして、いよいよ産気づくと その杓子を枕の下におく。そうすれば安産は疑いなしというのだそうである。 そのほかにも安産祈願のための腹帯を出しているという寺は多い。妊婦は戌(ルビ い ぬ)の日にこれを受けに行く。 今から五〇年ぐらい前までは、安らかな産ということは女人のだれもが望んだものであ った。そのためにいろいろな習俗が四国の札所寺にまで行なわれているのであろう。 走り遍路(「走り遍路」は太字) 俗にハシリヘンドというのがある。これは若者がただ一人であるいは数人の者が群をな して走っ -122- て遍路をしていくのである。今では話のみ残っていて、もうその風習は後を絶ったと思う が、今から五〇年ばかり前に私はまったく偶然に、ハシリヘンドというのを第七十七番の 道隆寺のすぐ前で見たことがある。白装束をつけた若い男の遍路が二、三人で走っていく のである。ちょうどそのころはまだ門前に一軒の遍路宿があったので、そこであれは何か と聞くとハシリヘンドだといった(四国では遍路は最近まではヘンドとよんでいた。それ は辺土を廻るというところから出たものである)。 その後になって聞いてみると、主として瀬戸内海の備後・安芸などの西の島々では、成 年の一五歳になる前には必ず四国遍路に行ってこなければならないので、元気な若衆など は、数人が走って廻ってくるのだという。私はこの話はずっと後になって広島県の鞆の沖 の走島でも聞いたが、そこでは若者たちは帰ってくると四国遍路のみやげとして求めた南 天の箸(これは七十五番の善通寺などで売っている)や手ぬぐいなどを村の人々に配る。 村の人は若者を上座に座らせて宴会をするが、そのような行事がすむと初めて、正月一五 日の若者入りの時には大手を振って若衆組の一員になることができたのだという。これは 今ではほとんど行なわれないが、成年式の一つの行事であったようである。 娘たちがうちそろって四国遍路に出るということは今までに聞いたことがないが、淡路 島の八十八ケ所には娘がそろって出かけたということを、香川県大川郡の多和というとこ ろで聞いたことがある。多和は四国八十八番の大窪寺のある村落だが、ここで聞いた話で は娘は年ごろになると淡路の八十八ケ所に出かけていった。善根宿をしてくれる家がある というので泊めてもらうと、よほど -123- 信心深い家であるのか、それともそういうしきたりであるのかはわからないが、寝具の布 団などは全部新調であったという。そして多和では昔は淡路の八十八ケ所から帰ってくる と、もうどこへでも嫁にいっていいのだなどといっていたそうである。 なお、ハシリヘンドについては家が貧しいので走って廻れば日数も路銀も半分ですむか らこんな廻り方をするのだなどと聞いたことがある。いずれにしても一風変った四国遍路 のやり方である。 『四国偏礼功徳記』に見る功徳譚(「『四国偏礼功徳記』に見る功徳譚」は太字) 『四国偏礼功徳記』は元禄三(一六九〇)年に僧真念によって著された書物であるが、も うこの時代になると遍路の風習も盛んで、いろいろな功徳譚が行なわれていたことがわか る。現在行なわれている功徳譚に先行するものとして、そのうちの若干について述べてみ ることにする。 ○貞享年間のことだが土佐の国の高岡郡仁井田の窪川村に弥助という人があった。女房が 機を織っているところへ偏礼の僧(遍路)がやってきた。施すものもないので、織りかけ の布を切って手ぬぐいにでもお使いなさいといって渡した。それから後はこの布はいくら 切って使っても減ることがなかった。さてはこの僧は大師であったのかと二人は厚く信仰 したという。 この話はいわゆる日本の昔話の宝手ぬぐいという話であるが、切幡寺の縁起よりはずっ と素朴である。私は切幡寺というのは焼畑をしていた土地などでキリハタジと名づけたと 思ってもいるし、そのことは前述したが、キリハタの名から切り機を連想してあのような 縁起ができたものと想像し -124- ている。この『四国偏礼功徳記』によってあの話が創作されたとはいわぬが、いずれにし ても切幡寺縁起よりは素朴で古い民話のおもかげを伝えているものと考えるのである。 ○紀州の高野領に善三郎という生まれつきのどもりがあった。常に苦しんでいたが、大師 に祈って偏礼に出ると三日目にすらすらと言葉が出るようになった。 ○奥州の会津に一人の行脚の僧がやってきて、ある小家に立ち寄って、一晩泊めてくださ れといった。ところがその家の主人がいうのにはこの土地は塩に不自由して困っているの で紙に包んで屋根につるして見ているだけだが、この塩でも出して差し上げようと、その 包みを開いてみると、肝心の塩はなくて、中はからっぽになっていた。それを見て僧は哀 れに思い祈?をすると、急に井戸ができて中から塩が湧き出てきた。それは周囲が八尺ば かりの楠の木の中から湧いていて、その底には梵字を書いた石があった。驚いた主人は里 人を集めてその梵字を拝ませた。そして僧に向って貴方はどなたですかと聞くと、自分は 四国のあたりを遊行している僧であると名乗ったが、まもなく行方知らずになってしまっ た。 皆の者は、これは弘法大師にちがいないということになって、四国偏礼をしようと出か けていった。 それから後は、塩はますます多く湧き出るようになり里人たちは裕福になったので、田 畑を耕すことを怠るようになり、運上金までを塩で払う始末であった。すると塩は出なく なってきた。一同は悲しんで、大師に立願して、そろって四国偏礼に出ることにした。そ こで再び塩は湧き出たとい -125- う。 ○紀州伊都郡東家村の者が四国偏礼に出かけて、阿波の焼山寺の麓のある家で宿った。そ の家の主人はよほど心がけのよい者とみえて、女房が病気なので充分なおもてなしはでき ないがといって快く泊めてくれた。主人はもしも皆さん方の中に薬でもあればほしいとい うので、高野の御符を与えた。 一行はそれから焼山寺の山に参拝し札(ルビ ふだ)を打って下りてくると、宿の女房 の病気は大分よくなっていた。それから一行は自分たちの参拝のための札ともう一つ宿の 女房の全快を祈るための札と両方を打ったので、ますます快方に向って全快したという。 不思議なことに、一行の中の太郎衛門の札だけは行くさきざきの寺で何者かが先に打って あったというが、これは大師が打っていてくれたのだということがわかった。一方、宿の 主人はたいそう喜んで偏礼者のための宿はもちろんのこと、馳走をしてもてなすことしき りであったということである。 ○備後の国の安名郡に宝泉寺という寺があったが、そこに雲識(ルビ うんしき)という 弟子があった。少し知恵のおくれが目立つ人だったので、それを悲しんでいた。しかし大 師をたいそう信仰していた。四国偏礼に出て、讃岐の国の白峰の稚児(ルビ ちご)が嶽 (ルビ だけ)に登ると、普通の人のようになれると聞かされたので、四国偏礼に出てい よいよ白峰の稚児が嶽のところまでやってきた。急峻なその岩山に登ろうとすると、たま たま讃岐の国の高松の商人といっしょになった。雲識は自分は稚児が嶽の岩上から身を投 げ捨身の行をするからもはや路銀はいらぬ。この路銀を寺へとどけて、わが亡き後を弔う てくれるよう -126- に頼んでほしいといって、岩山の上から身を投げた。ところが下へは落ちず、木にかかっ て命は助かった。あとで聞くと、黄の衣を着た僧が現われて雲識を上にあげてくれたとい う。雲識はそれからは普通の人となった。 『四国偏礼功徳記』の中にはまだいくつかの説話があるが、元禄年間には功徳の話も全国 的に伝播されていたことが知れるであろう。