底本の書名 巡礼と遍路 入力者名 渡辺浩三 校正者 柳田 強 入力に関する注記 ・文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の 文字番号を付した。 ・JISコード第1・2水準にない旧字は新字におきかえて(#「□」は旧字) と表記した。 登録日 2006年6月7日
-20- 2 四国遍路の変遷 四国遍路の風習がいつのころから起ったかはさだかでない。しかし、推測するに足る資 料はいくつか残っている。そして、どのような変遷をとげて、現在のような四国遍路の様 相になったかはほぼ明らかにすることができるようである。まず、注目すべきは海辺の霊 地をめぐるということであろう。 海辺の霊地 三人の僧の物語──古くからよく引用されるのだが、平安末期にできた『今昔物語』の 巻第三十一の第十四に、四国の辺地を通った僧、知らぬ所に行き馬に打ちなされた語(ル ビ かたり)というのがある。その話の筋を簡単に述べると── 今は昔、仏道を修行する僧が三人連れ立って四国の辺地をめぐり歩いていた。四国の辺 地というのは伊予・讃岐・阿波・土佐の海岸沿いの土地をいうのである。三人はやがて山 中に迷いこんでしまった。どうかして海辺に出ようとしたが、なかなか出ることができな い。途方にくれて歩いてい -21- ると一軒の家があった。 三人は中へ入って、道を聞こうとすると、中からおそろしい顔つきをした僧が出てきて 、三人に食事を与えた。三人は食事をすませて休んでいると、おそろしげな僧は家来らし いあやしげな僧をよんで、いつものものを持ってこいと言う。手下の僧が馬の手綱と笞(ル ビ むち)とを持ってくると、一人の僧をつかんで板敷から下へ引きずり下ろして、笞で 僧の背中を一〇〇度も打った。僧は助けてくれと悲鳴をあげたが、二人の僧はどうするこ ともできないでいた。一〇〇度打たれた僧はうつ伏せに倒れてしまったが、やがて引き起 すといつの間にか馬になっている。すると家来の僧が手綱をつけて向うへ引いて行ってし まった。二人の僧はおびえてしまって黙っていると、また一人の僧が前の僧と同じように 馬にされてしまった。 あとに残った一人の僧は、自分もまた馬にされるにちがいないと悲しんで日ごろから信 仰している仏様に、どうぞお助け下されと念じていた。そのうちに主の僧は手下にその者 はしばらくそうしておけと言って、どこかへ行ってしまった。一人の僧はどうせ馬にされ るのなら思い切って逃げようと、夜更けてから逃げていった。途中に一軒の家があるので 立寄ると、中から女が出てきて、私はあのおそろしい僧の正妻ですが年ごろいやなことを 何度も見てきました。あなたをお助けしたいと思いますから、この手紙を持ってこれから 二〇町ぐらい先の私の妹分の家に行きなさい。あなたをお助けできるのはその女の人だけ ですと言って、手紙をくれた。僧はその手紙を持って妹にあたる女のところへ行き、奥の 一間にかくしてもらった。やがて例のおそろしげな顔をした僧がやって -22- きたが、どうもその女は妾らしかった。やがておそろしげな顔の僧(鬼)は去っていった ので、教えられたとおりに逃げて海辺の道に出ることができた。 助かった修行僧は京に帰ったが、馬にされた二人の僧のために特別に善根をおさめてや った、という。そして、仏道修行とはいってもあまり不案内なところへ行ってはいけない と結んでいる。 この物語では、始めに四国の辺地というのは伊予・讃岐・阿波・土佐の海沿いの土地と いっているが、既にこの時代には四国の海沿いの土地を歩いている修行僧があったのであ る。 そして、この物語で示すように、山中の不案内な土地などに入ってはならぬと説いてい るのである。なぜこのように海沿いの土地に執着するのであろうか。さきに、遍路の行装 のところで述べた『梁塵秘抄』の歌にも、「潮垂れて」の一節がある。また『梁塵秘抄』 の中には次のような歌がある。これは霊験所の歌六首の中に入っているのだが、 四方の霊験所は、伊豆の走井、信濃の戸隠、駿河の富士の山、伯耆の大山、丹後の 成相とか、土佐の室生と讃岐の志度の道場とこそ聞け というのである。土佐の室生は今の四国第二十四番の室戸岬の最御崎寺であり、志度の 道場というのは第八十六番志度寺のことである。 この二つの寺はいずれも海辺にある寺で、いうまでもなく最御崎寺は太平洋に面してい るし、志度寺は瀬戸内海に面している。『梁塵秘抄』の時代はともに修行僧のこもる寺で あったのである。おそらく四国の辺地を歩く修行僧はこれらの寺で修行していたに相違な い。 -23- 海上苦行の寺 現在の四国八十八ケ所の寺の中にも、山中の寺が若干含まれている。しかし、それらは 例外であって、大半は海近くにある。岩屋寺の如きは、山中にありながら海岸山という山 号を持っている。これは、その山容が奇岩怪石に満ち、あとに述べる補陀落渡海(ルビ ふだらくとかい)の修行にふさわしい洞穴があるのと、山が深いために雲海の中にある心 地がするので、那智山のようなまたは室戸岬や足摺岬のような海辺の霊地の印象があるか らであろうと思われる。すなわち修行の僧たちは、山中でありながらここも補陀落渡海に ふさわしい霊地と見ていたのである。 香川県の仲多度郡に海岸寺という番外札所があるが、この寺は瀬戸内海に面した海浜の 寺で、海岸寺という名が似つかわしい寺である。ところがこの寺はよく調べてみると、熊 野信仰が影をおとしている寺であった。この寺の背後の山は第七十一番の弥谷寺(ルビ いやだにじ)であり、弥谷寺からは山越えをしてこの海岸寺まで来るへんろ道が通じてい るのである。この山越えの道には二つの洞窟があって、その一つは現在は穴薬師といって 、中に薬師如来を祀っているが、海上苦行の僧がこもるにふさわしい洞窟である。中は一 八畳敷きぐらいの広さで、洞窟の外へ出ると木の間がくれにすぐ眼下に海が見えている。 そこから三〇〇メートルばかり下ると、八王寺という虚空蔵菩薩を祀るお堂がある。お堂 の傍に小さい庫裏があって、今から七〇年ぐらい前までは尼寺であった。 それからはだらだらと下っていくと、海岸寺の浜辺に達するのである。七王寺という小 祠もこの -24- 近くに存在する。その上、何よりも興味が深いのは、海岸寺の近くの仏母院という寺は大 師誕生の寺という言い伝えを持っていることで、説経節かるかやのとうしん(「かるかや とうしん」に傍点)大夫の屋敷跡という伝承があることである。かるかや(「かるかや」 に傍点)によれば、とうしん(「とうしん」に傍点)大夫の屋敷に仕えていたあこう(「あこ う」に傍点)という女が日輪の申し子として金魚丸(大師の幼名真魚(ルビ まお)が説経で は金魚丸となったのであろう)を産んだことになっている。とうしん(「とうしん」に傍点 )大夫夫婦の石像というものは、澄禅の『四国遍路日記』によると弥谷寺の持仏堂の中に あるということである。弥谷寺の比丘尼谷(ルビ びくにだに)はかつて熊野比丘尼と関係 が深かったことを考えると、私は、説経かるかや(「かるかや」に傍点)の金魚丸誕生の一 節はまぎれもなく熊野比丘尼の唱導していたものであり、ひょっとすると八王寺も仏母院 も、熊野比丘尼が代々住みついていた寺ではなかろうかと思う。そしてここから遠くない 海岸寺は、補陀落渡海の信仰を細々と伝えていた寺ではなかったろうかと思うのである。 それは海岸寺の西方の海に突出した岩は古くは筏岩(ルビ いかだいわ)と名付けてここか ら筏に乗っていたという伝えがあることである。今の伝承では、昔はここから筏に乗って 上方(ルビ かみがた)などに行っていたというが、筏に乗って五〇里(二〇〇キロ)の風波 を越えて上方へ行くなどとは信じられない。ここはやはり補陀落渡海ならずとも、修行者 が海上苦行のために筏を浮かべる霊地であったのである。 少し道草を食いすぎたが、八王寺・仏母院などと併せ考えると、海岸寺は熊野信仰が一 つの影を落している海辺の霊地であった。それゆえにこそ、四国遍路がわざわざこの番外 札所を訪れるために弥谷寺からのへんろ道が通じているのである。 -25- 熊野信仰と四国遍路 その初期の四国遍路は四国の辺地を歩く修行者たちによって開かれていったが、その中 でも熊野山伏・熊野比丘尼の廻国行脚の影響が著しい。前述の岩屋寺・海岸寺もそれであ ろうと述べた。熊野山伏は高野聖と同じように、紀州から出て南海道を淡路を経て鳴門に 至り、吉野川に沿って歩いたが、やがては海辺の道をたどって土佐へ入ったものと思われ る。そして土佐の国でも歩くのはほとんどが海辺の道であった。 堀一郎氏は、熊野神の分布は土佐の海岸地帯と吉野川の流域に多いといわれているが、 それは四国遍路の道筋とほぼ合致する。ただ吉野川の流域のみが、四国遍路としては上流 地方にまで行っていないのは、少なくとも十番切幡寺と十一番藤井寺を結ぶ線のところま では川幅も広くて対岸は遠く、海辺の霊地としてもさしつかえがないといった具合であっ たからであるに相違ない。そうして熊野信仰は海辺の道場に補陀落渡海の信仰をもたらし ていった。 補陀落渡海──これは、観音の浄土を目ざして船出してゆくことである。五来重氏は水 葬と入水往生の二面を持つ宗教的実修と規定して大きな誤りはないと考えられているよう である(『熊野詣・三山信仰と文化』)。そして同書には熊野におけるいくつかの例をあげ ておられる。また近藤喜博氏は四国第三十八番の足摺岬の金剛福寺について、賀登上人は じめ幾人かの補陀落渡海者があったことを述べられている。おそらくこうした補陀落渡海 の信仰は、熊野と土佐との信仰上の関係を見た場 -26- 合、やはり熊野からもたらされたものであろう。室戸岬の最御崎寺の場合は、山上の寺へ 上る道の傍に洞窟があって、そこへ修行者はお籠りをしていたというが、それがはたして 補陀落渡海のためなりや否やは判然としない。 私は補陀落渡海の信仰というものを、それらの修行者は胸中には持っているのだが、時 代がたつと海辺における苦行あるいは海上苦行を行なうことに変化していったのだと想像 している。そして熊野はともかく四国では、足摺岬以外ではほとんど補陀落渡海はなかっ たのではないかと思う。それならば、海上苦行または海辺の苦行というのはどの霊験所で 行なっていたのであろうか。それは足摺岬の金剛福寺はもちろんのこと、『梁塵秘抄』に 出ている室戸の最御崎寺、讃岐の志度寺やその他の海浜の寺々、例えば前述の海岸寺など もその中に入るのではなかろうかと思う。そしてこれらの寺は、いずれも熊野信仰に何か のつながりを持っているようである。 志度寺の説話──えんま大王 古くから讃岐の国志度の道場とよばれている志度寺は、内海に面した古い歴史を持つ寺 である。 志度というのは、死出の旅路とか死出(ルビ しで)の田長(ルビ たおさ)の死出、 あるいは死門という言葉から出ているにちがいない。この寺が海辺にあるところからも、 補陀落渡海ないしは海上苦行の道場であったことは、たやすく想像できるのではないかと 思う。それにこの寺には志度寺縁起絵があり、その中でも海女の玉取物語は有名なものに なっている。 -27- また、この寺はえんま(「えんま」に傍点)大王の氏寺であって、黄泉の国からこの世 に帰ってきたという縁起物語がいくつか残っている。これは説経節の小栗判官が横山の党 に毒酒を飲まされてあの世に行ったが、えんま(「えんま」に傍点)大王のはからいで再 びよみがえって熊野の本宮の湯にまでとどけられ、やがては再生する説話と再生の条がよ く似ていて、やはり熊野山伏か熊野比丘尼が唱導したのではないかと思う。 志度寺のえんま(「えんま」に傍点)大王──志度寺にはえんま(「えんま」に傍点) 堂が本堂と大師堂の右側にあって、寺門を入った正面近くにある。本尊は十一面観世音で 山号は補陀落山というのだが、古くからえんま(「えんま」に傍点)大王の氏寺として信 仰されていた。縁起絵の中の白杖童子(ルビ はくちようどうじ)縁起・松竹童子縁起・ 千歳童子蘇生縁起・阿一蘇生(ルビ あいちそせい)縁起の四話がえんま(「えんま」に 傍点)大王によって再びこの世に送りとどけられた話になっている。その中の白杖童子の 話は「淀の津の住人白杖童子与(左下隅に「ニ」)讃州一臈(♯「臈」は旧字)長官息女(左 下隅に「一」)蒙(左下隅に「二」)〔エン〕魔王(♯「エン」は文字番号21073)教速(左 下隅に「一」)自(左下隅に「二」)冥途(左下隅に「一」)帰(左下隅に「二」)娑婆( 左下隅に「一」)令(左下隅に「レ」)修(左下隅に「二」)造当寺(左下隅に「一」)因縁記 録之事」となっているが、その筋書は次のようである。 昔、恒武天皇の延暦年間のころに、山城の国淀の津に一人の馬方があった。名は白杖童 子といったが、たいそう貧しくて、わずかの駄賃をもらって生活していた。信心深くて、 三間四面の仏堂を建てることを念願としていた。しかし、貧しい身にはそんなことはでき るあてもなく、いたずらに年を取ってそのうちに死んでしまった。やがてえんま(「えん ま」に傍点)大王の前に引きすえられて、現世でおかした所業をさばかれることになった が、生存中に仏堂建立の志があったのを知ったえんま(「えんま」に傍点)大王はたいそ う感心した。そして讃岐の国の志度の道場はわれの氏寺であるから、お前は再び帰って志 度の寺を造れと言った。そこで、再びこの世に帰ろうとしたが、途中の道でたいそうきれ いな若い女が悪い -28- 鬼のために追い立てられてえんま(「えんま」に傍点)大王の前に連れていかれるのに出 会った。白杖はこの女があまりにかわいそうなので、女といっしょに再びえんま(「えん ま」に傍点)大王のところへ行って、この女をぜひ許してやってほしいと頼んだ。そこで えんま(「えんま」に傍点)大王は二人を許し、娑婆に帰ったら二人で協力して志度寺を 造れと命じた。 二人は再びこの世に帰ってきたが、おのおのの生国へ帰るのでいよいよ別れる時に、自 分は淀の津の馬方であると白杖童子は言い、女はわたしは讃岐の国の第一の長官の娘だと いう。そして女はぜひ私の国にやってきなさい、この御恩返しはきっとするからと言う。 白杖童子はそれでは三年目にきっと行くからと約束をして別れた。やがて生き返った二人 はそれぞれその日を暮していたが、白杖童子は約束の三年目に讃岐の国の第一の役人の家 に女を訪ね、二人は協力して志度寺を造営したということである。 この白杖童子のほかの三話も、いずれもこの世へ蘇生して、志度の寺を造営したり再興 した話となっている。このようなえんま(「えんま」に傍点)大王の話が盛んに行なわれて 縁起に四話も載っているのはどういうわけであるか。志度寺に強力なえんま(「えんま」 に傍点)王の信仰があるのは、やはりこの寺が死出の旅路におもむくための修行の道場で あったことを暗示するものではなかろうかと思う、古くはこれらの縁起絵は絵解きの僧が 縁日に絵解きをしていたというが、あるいは、絵解きの僧というのは熊野信仰を持ち伝え ていた人々ではないかと思う。この寺の縁起にはもう一つ見逃すことのできないたいせつ な物がある。それは当願暮当縁起である。 -29- 志度寺の説話──当願・暮当兄弟 当願暮当の縁起物語はきわめて興味が深い。その筋書はこうである。 志度寺の落慶供養の時のことである。志度の山里に、当願・暮当という、二人の兄弟の 狩人がいた。兄の当願は、供養の場に行き貴いお経を聞いていたが、弟の暮当は今ごろど んな獲物をせしめているかと、心もそぞろであった。弟は夕方になって家に帰ってきたが 、兄の当願がまだ帰っていないので迎えに行くと兄は狩のことばかり考えていたので、罰 があたったのか首から下は蛇になっていた。兄は自分を水の深い満濃池に入れてくれとい うので、弟は大蛇になった兄を満濃池の中に入れてやった。 二、三日してから弟の暮当が兄の様子を見ようと思って、池の畔に行くと、大蛇の姿と なった当願が出てきて、これは何でも思いのままになる宝の珠だから持って帰って瓶の中 に入れておけ。七日ほどするとよい酒ができる。その酒はいくら汲んでもつきることがな い名酒だという。弟は兄から言われたとおりにすると、七日目には香りのよい酒ができて 、いくら汲んでも、つきることがない。そこで弟はたいそうな金持ちになった。 弟の妻がこれを見て不思議に思い、瓶の酒を何度も何度も汲むと、底のあたりに宝の珠 があった。それを聞いた国司の役人がその珠を国司を経て朝廷に奉った。朝廷ではこのよ うな宝珠は一対あるものだからもう一つよこせという。弟の暮当は困ってしまって、また 満濃池のほとりに行くと、兄 -30- の大蛇が出てきて残りの珠をも与えてしまう。暮当は喜んでその珠を朝廷に献上したが、 宇佐八幡がその宝珠をほしいというので、宝珠を船に乗せて運ぼうとした。ところが船で 運ぼうとしている時に、使者の伊四郎滝口(ルビ たきぐち)というものが、周防の味噌 島の沖でこの珠を遊女の貫主に見せようとすると、海中から黒い手が出てきて、珠を奪っ てしまった。それは竜神に奪われたのであった。貫主は海に入ってその珠を取り返したが 、遂に息絶えてしまう。やがて伊四郎滝口は珠を宇佐八幡に無事に納めることができた。 二人の兄弟の狩人話は万次・万三郎とか大汝・小汝などの話との間に何かのつながりが あるようだが、大蛇が目をくりぬいて、やがては両眼ともくりぬいてしまうというのは「 盲の水の神」という日本昔話の一つの型である。そしてこの話は盲目の説話運搬者が運ん でいたものに相違ない。狩人の話については、次項の狩人発心話のところで説くつもりで あるが、盲の水の神の話が当願暮当の縁起の中に入っているのはかつて志度寺の周辺には 近江の三井寺系統の説話運搬者がいたのではないかと思う。そして結末が海女の玉取りの 話と似ているところから見ると、この話は男ではなくて、女性の運搬者によって伝承され てきたように思われる。 志度寺の次の札所の補陀落山長尾寺はじめこの近辺には、かの静御前(ルビ しずかご ぜん)の伝説も各地にあって、それがこの付近一帯にかなり広く分布している。そして静 御前の墓もあれば静の母親の磯禅尼の墓もある。静御前の墓などは狭い地域に二つも残っ ているほどである。おそらくはこうした静御前の伝説も、志度寺周辺に住む盲目の女性の 伝播者が伝播していったのではなかろうかと思う。いずれに -31- してもより細かくこの寺の縁起については考えなければならぬと思う。 狩人の話 志度寺の当願暮当の縁起をはじめとして、四国八十八ケ所の寺々には狩人の話がいくつ か伝わっている。そうした話のいくつかは熊野権現御垂跡縁起(ルビ ごすいじゃくえん ぎ)と関係がないとはいい切れないであろう。熊野権現垂跡縁起によると熊野権現は唐の 国から九州彦山の嶺に下り、ついで伊予の石鎚山、淡路島の鶴羽の嶺、紀伊の切部山の西 の海の北岸玉那木の渕の松の木の下、熊野新宮の南の神蔵峰、とつぎつぎに下ってやがて 新宮の東の阿須加社の北の石渕の谷に勧請して鎮めまつったといい、その時初めて結玉家 津御子(ルビ むすびたまけつみこ)と申して二宇の社ができた。ついで六三年の後、本 宮の大湯原の大木の上に三枚の月形(ルビ つきがた)となって天降ったという。 その後、南河内の住人熊野部千与定(ルビ くまのべちよさだ)という犬飼が一丈五尺 ばかりの猪を射てその跡を追っていくと、猪は大湯原の大木の下に倒れ伏していた。千与 定はその肉を食べて一宿してから木の枝にいる月を見つけて、「月は如何なれば虚空を離 れて木の枝に在すか」と問うと、月は犬飼に答えて「われは熊野三所権現である」と言っ たという話である。 このような矢負いの獲物を追っていったという狩人話が三つばかり四国霊場の寺の中に 伝えられているがその一つは第二十番鶴林寺の話である。その話によると── 元禄年間に山麓に住む伊三太という猟師が猟に出たが獲物がない。夕方になったので帰 ろうとす -32- ると山陰から大猪が飛び出してきた。 伊三太が弓に矢をつがえて射ると矢はうまく猪にあたった。ところが猪は矢を負うたま ま走っていくので跡をつけると、猪はどうしたことか、本堂の中に入ってしまった。しか し堂内に見えぬので、寺僧にいって厨子をあけてもらうと、矢は本尊の地蔵菩薩の胸にさ さっていた。伊三太はこれを見て大いに驚き、殺生をやめて僧になって、寺の傍の茶堂で 念仏三昧にふけりながら一生を終えたという。伊三太が連れていた犬の墓は仁王門の下に あるということである。それから鶴林寺の本尊の地蔵菩薩は矢負いの地蔵というそうであ る。 もう一つは四国第三十七番岩本寺の話である。この方は仕とめた獲物を追っていくと本 堂に入ったという点はすっかり脱落していて、わが胸を射ぬいた矢の根が岩本寺からほど 近い森の地蔵の胸をさしていたというのである。すなわち、一人の貧しい狩人が山へ猟に 出たが、獲物を射止めることができず、樹木を相手に弓に矢をつがえ、われとわが胸を射 ようとした。ところが平素から観世音を信仰していたので、観世音がお助けになったのか 森の地蔵が身代りになったというのである。狩人はやがて狩りをやめたが観世音のお助け で近郷に聞える長者となり、森の地蔵は矢負いの地蔵さまとよばれるようになった。この 話は獲物を追って行くくだりはないが、それはおそらく脱落したのであろう。 -33- 雲辺寺と狩人譚 さて、第六十六番雲辺寺に伝えている狩人話を見ることにする。 昔、阿波側の麓の佐野という村に、与市・与成という二人の兄弟の猟師が住んでいた。 ある日のこと雲辺寺の山に登って猟をしていると、不意に大きな動物が出てきた。二人は 矢を九九本放ったが、うまくあたらない。そこで正体を現わせ給えと神に念じて、最後の 一本の矢を放った。すると手ごたえはあったが、動物の姿は見えないで、ただ血が点々と したたっているばかりであった。そこで血の跡をたどっていくと、本堂の中に入っている 。さてはご本尊を射たのかと、与成は猟師をやめて僧となって雲辺寺のお堂を建立したと 伝えている。連れていた犬の墓は今もこの寺の境内にあるという。 この雲辺寺の話では獲物の血の跡をたどっていったということになっていて、やはり鶴 林寺の狩人話と同じように熊野の猟師話に近いものがある。それに狩人の名が熊野の千与 定に近く与市・与成となっているのも私には偶然とは思えないのである。それからもう一 つたいせつなのは、これは熊野信仰とは関係ないかもしれないが、志度寺の当願・暮当の ように二人の兄弟の狩人話となっていることである。 東北地方にある二人の狩人話の名称がいずれも一種の韻をふんでいて、 万次・万三郎(「万」に傍点) -34- 大汝・小汝(「汝」に傍点) などというように、 当願・暮当(「当」に傍点) 与市・与成(「与」に傍点) となっているのは、これが兄弟の狩人話の語り方の何か目に見えない一つの約束があっ たのかと思われる。そしてこのように韻をふんでいるのは、これが一種の説話伝播者が語 って歩いていたという名残りであろう。 さて、第四十四番の菅生山大宝寺にも古くから狩人の話が伝承されていたようである。 これは澄禅の『四国遍路日記』に出ているのだが、話の筋はこうなっている。 大宝年間にこの菅生の山中に大きい光を放つものがあった。そのころ、久間(今の久万 )の郷を知行していた一人の猟師が山中に分け入ってこの光るものの正体を見きわめよう とした。たずね求めて見ると、満月が燃えさかって山中に降ってかがやいていたのであっ た。よく見ると、その月に十一面観世音の姿を拝むことができた。猟師はそこで一宇のお 堂を建てて、観世音をお祀りしたということである。 その後、猟師は天に登ったのか姿が見えなくなってしまった。そこでこの猟師を菅生山 の鎮守の神として祀り赤山権現(ルビ あかやまごんげん)といっている。 この大宝寺の伝承は熊野権現の垂跡縁起に非常に近いものがある。やはりこの狩人の話 も熊野信 -35- 仰のもたらしたものであろう。 衛門三郎の話 第五十一番札所の石手寺は、第四十七番八坂寺と同じようにその山号は熊野山である。 石手寺は『四国遍路日記』によれば、札所の本尊は薬師本社は熊野三所権現とあるから、 両部神道の時代には熊野神をもともに祀っていたのである。 それは八坂寺も同様で、八坂寺には次のような縁起がくっついている。すなわち昔、伊 予の国に一人の長者があった。熊野権現をたいそう信仰していて、三年間つづけて参詣し た。そして伊予の国へ迎えてお祀りしたいと願い出ると、それはよかろうという仰せがあ ったので、八坂村に社殿を建てて祀った。 このように石手寺・八坂寺ともに熊野信仰とは深い関係を持っていたのである。このよ うな背景をもとに衛門三郎の話を考えると、衛門三郎は熊野信仰の山伏たちが語りはじめ たものかもしれない。よく人口に知れわたっている筋書を述べてみよう。 昔、伊与の国荏原の村里に、衛門三郎という一人の長者が住んでいた。たいそう欲の深 い男で、神仏を信じないで無慈悲な男であった。 ある時弘法大師がこの里にやってきて、衛門三郎の家の前に立った。お経を上げ鉄鉢を さし出して報謝を受けようとすると、三郎が中から出てきて、この乞食坊主めとののしっ た。 -36- 大師は翌日も出かけたが、三郎に追いはらわれてしまう。しかしその次の日も、また次 の日も、やってきた。そして七日目に行くと、衛門三郎はいきなり大師の持っていた鉄鉢 を竹箒ではたき落そうとした。ところが鉄鉢は空高く舞い上り八つに割れて、かなたの山 に飛び散ってしまった。その日以来、三郎の八人の子がつぎからつぎへと死んでいってし まった。三郎はこれはどうしたことかと嘆き悲しんだが、ひょっとすると、あの乞食坊主 と思っていたのは弘法大師ではないかと気がついた。めぐり会ってお詫びを申し上げねば ならぬと、家を出て四国を廻ろうとした。しかし、大師に会うことはなかなかできない。 二一回目の廻国の時には、三郎はもうひどく衰弱して、阿波の国の焼山寺の麓に来た時は 息もたえだえの姿であった。そして老い衰えて倒れてしまった。そこへ不意に大師が姿を 現わして、お前の今までの罪は消えてしまった。何でも望みどおりのことをしてやろうと 言った。すると三郎は、自分は伊予の河野家の一族の者だが、来世は河野家の若君として 生れたいと言った。 そこで大師は傍にある小石を拾い、衛門三郎再来と書いて三郎の左手に握らせた。やが て三郎は落命したので、大師は三郎を葬り、三郎が今までついていた杉の木の杖をその塚 の上にさした。その杉の木の杖は成長して大木となった。その杉の木があるところが焼山 寺の麓にある杖杉庵であるという。 三郎が亡くなってから何年かたって河野家に若君が生れた。生れながらにして左手をあ けようとしない。祈〔トウ〕(♯「トウ」は文字番号24852)をしても、一向にあけない ので、菩提寺である安養寺(ルビ あんようじ)の僧をよんで拝んでもらうと、 -37- 手をあけたが、中に小石を握っていた。そして、その小石には衛門三郎再来と書いてあっ た。さては衛門三郎の生れかわりかということになったそうである。 安養寺は、この時以来寺の名を石手寺と改めたということである。これが衛門三郎の話 の筋であるが、四国遍路の始まりは衛門三郎の廻国からであるという伝説も盛んに行なわ れている。この話はよく考えると、四国廻国の者でなければとても作れないと思われる。 舞台を伊予の松山在から阿波の山深い焼山寺の山麓にまで移しているのだ。また、遍路の 風習がなければこんな説話は生れないであろう。 鉄鉢がわれて落ちたと伝える鉢伏山や、八人の子供を葬った八塚(これは古墳時代のも の)、あるいは、三郎の旧宅の跡(現在の得盛寺)などがあるところからみると、いくつか の小さい伝説をうまくつなぎあわせたようにみえる。おそらく、貪欲邪慳な山椒太夫(ル ビ さんしょうだゆう)のような物語がこの地方にあって、それに河野家のことや石手寺 の由来をからませて、いつとなくこの説話はでき上ったのにちがいない。 異常誕生説話 手に石を握って生れてきたという話は、古い文学にもあってかなり古くから行なわれて きたようである。『日本霊異記』と『今昔物語』には、遠江の国で生れた女児がいつまで も手を開かず、七歳になって手を開いたのを見ると、仏舎利を二粒握っていた。そこで父 母は喜んで、かねて心願の -38- 塔を建てたというのがある。 また、『今昔物語』には、書写山の性空上人は、針を手に握って生れてきたという話も 載っている。さらに『神道集』には近江の国に軒を並べた二軒の家の、男の子の生れた方 では掌に箕を作って家々をめぐって売り歩くとあり、女の子の方は万福来という文字を握 って生れたとの話が載っている。これはいわゆる日本昔話の運定め話の女房の福分譚とい う部類に入るものである。 衛門三郎再来の方は『霊場記』によると、河野氏において石を握って生れたのは河野息 方(ルビ おきかた)のことで、息方は当社権現(熊野権現)を崇敬して手に握るところ の石を宝殿に納めたと記されている。古典にもいくつかあるこの手を握ったまま生れてき たという説話は、現在も行なわれていて、私は香川県の小手島という離島で採集している 。それはこんな話である。 昔、貧しい男があって、お金を三文もらうと何の仕事も喜んでしていた。その男が病気 になって今にも死のうとする時に、傍の者が何か言い残すことはないかと聞くと、われの 掌に三文と書いてくれという。そのとおりにしてやると男は間もなく息を引き取った。そ れから何年かたって大阪の長者の家に一人の男の子が生れたが、手を握りしめたままでい つまでもあけようとしない。そこで易者を頼んで拝んでもらうと、ようやく手をあけたが 手には三文と書いてあった。そこで、これはあの三文の字を書いてやった男の生れ代りに ちがないないということになった。その男は後に、倉敷に来て三文屋と名乗って大きい商 売をしたそうな・・・・・ という話である。これらの手を握ってあけないというのは、説話の上では異常誕生とい うモチー -39- フであって、その生れた子がやがては長者になるとか、河野息方のような太守になれると か、仏塔を建てる機縁になるとか、何としても一種の福分を持って生れてくるのである。 私はこのような説話が伊予の松山地方で行なわれていたのが潤色されて河野家の物語に なったのであろうと想像するのである。 杖杉庵の話はこれまた全国に多い伝説の一つの型で、これらをうまく取り合せて、衛門 三郎話はでき上ったものであると思う。そして、それらを作為したのは、八坂寺・石手寺 に関係の深い熊野山伏のたぐいであろう。なお、八坂寺は衛門三郎の旧宅の跡である得盛 寺に近いところにあるのである。 木食上人の四国廻国 時代はよほど下るのであるが、木食上人といわれる一種の廻国行者も、熊野信仰の残照 を示すのではなかろうか。そういう観点にたって見聞した木食の二、三について述べてみ ることにする。 いうまでもなく、木食とは五穀を食べないで苦行をすることで、そうした苦行を積んだ 廻国修行者が木食上人とよばれている。高野山から出たどちらかというと身分の低い僧で 、中には僧体をした俗人もいた。日本廻国を大願として日本国中の霊地をめぐるのである が、こうした人々は当然四国遍路の修行もしているのである。木食上人で名高いのは柳宗 悦によって紹介された木食行道であるが、氏の『木喰上人和歌集』にある行道の年譜によ れば、行道は二度ばかり四国遍路に来ている -40- ようである。 まず、天明七(一七八七)年七〇歳の時に中国路から四国遍路にすすみ、下津井より多 度津に渡り、五月一七日七十七番の道隆寺に参詣している。それより逆打ち(番号を逆に まわること)をして讃岐・伊予・土佐・阿波と廻って再び讃岐に入り、鬼無に半月留まっ ている。ついで八十番の国分寺より七十二番の曼荼羅(ルビ まんだら)寺に参り、金毘 羅山に至り、やがて鬼無へもどって二か月余り滞在している。おそらくはそこで年を越し たのか、翌年には二月朔日に鴨村に行き、金毘羅山に二度日の参詣をして今度は伊予の道 後まで行き、一〇日間ばかり入湯して九州に渡っている。 (鬼無に滞在したというのは、現在の高松市上笠居町衣掛の観音堂もしくはその付近に 滞在したものか、今もここには行道作のえんま(「えんま」に傍点)王の像が安置されて いる。) 第二回目の四国遍路は寛政一一(一七九九)年八二歳の折で、三田尻より三津浜に上陸 し、順次に札を納めて、伊予より讃岐に入り、観音寺・善通寺・宇多津・国分とめぐり、 屋島に野宿して、七月に徳島に至っている。その後の行程ははっきりしないが、九月中旬 に伊予の三津浜から大阪に上陸している。翌年八三歳の時に日本廻国の大業成るとして郷 里の甲州丸畑に帰っている。 行道は四国遍路について並々ならぬ信仰心を持っていたのか、郷里に帰ると四国堂の建 立を志して八八体の仏像を彫刻しているのである。 こうした木食行道の年譜を見ると、全国にわたって足跡あまねく各所で難行苦行をして いるようである。しかし行道は道後温泉に滞在というのもあって、いささか苦行からは遠 ざかっているよう -41- にも見える。道後滞在というのは石手寺あたりに滞留していたようにも思われ、これだけ の年譜の記載では判然としないのである。今からここに述べる三人の木食上人については 私は非常な興味なり関心を持っている。それは木食善住(ルビ もくじきぜんじゅう)と 木食仏海、木食相観(ルビ そうかん)である。なぜ私が関心を寄せているかといえば、 いずれも海上苦行を行なっているからである。 木食と海上苦行 私は海上苦行というものの、これはやはり補陀落渡海の系統に属する行であると思って いる。今ここに木食善住の行録を見ると、 木食善住は丹後宮津の人で、寛政八(一七九六)年に生れた。二四歳の折に仏門に入り 、高野山の高阪坊において木食戒を受けて、この年より稲・麦・赤白豆・きびなどの五穀 を食わず、諸国の霊山を歩き、四国遍路は四度に及んでいる。 また諸国修行に出て、紀州那智山にて三七日滝修行をし、また同山権現にて二一日断食 行をなし、ついで 志摩の国にて筏に乗り修行の時俄かに大風起り洋中へ吹き出され筏とけて丸木を持 ちて泳ぎ居る時、神来り給ひ、紀州孤島へ助け給ふ とある。やがて諸国を巡歴し遂には七五歳で讃岐仲多度郡象郷村において入定するので あるが、ここに注目すべきは志摩の国で筏に乗って修行したということである。善住の行 録ではこの場所が -42- 志摩のどこであるかは明らかでないのだが、私は志摩の国安乗村の長寿寺の沖でなかろう かと思っている。長寿寺は、志摩半島の突端にある安乗崎のつけねにある寺で、今は住職 がいないそうであるが、古くは廻国の行者がよく滞在していた寺であるという。そして、 ここから筏に乗って海上に出て、五穀を絶ち無言の行をしていた僧があったというから、 おそらく木食善住の志摩の国にて筏に乗って行をしたというのはここでなかろうかと思う のである。 木食仏海という、宝永七(一七一〇)年に伊予の国の風早郡猿川で生れた上人も、元文 五(一七四○)年にこの長寿寺で修行をし地蔵菩薩の像を施仏としている。しかし仏海は 、海上苦行をしたという記録はない。ところがこれはいたって新しいのだが、香川県の郷 照寺(第七十八番)には木食相観の墓があって相観が彫ったという仏像があり、その仏像 は境内の木食堂に祀られてあるのだが、その相観の位牌に次のような記述が見える。木食 相観上人は、 播磨国志穂栗原村山下某二男、十歳得度、陸上にて苦行木喰数十年又海上小船にて 無言木喰苦行十九年に及ぶ。遂に宇多津、郷照寺に於て明治十八年旧四月八日八十歳 にて寂 となっていて、位牌の表には真阿相観法師と刻まれている。この木喰相観は老年に入っ て永く志度寺(第八十六番)にいたというが、体がひどく衰弱したので郷照寺へ連れてき たのだという。この位碑の裏面に書かれた、海上小船にて無言木喰苦行一九年というのは 何を指しているのであろうか。志度寺は海辺の寺で補陀落渡海あるいは海上苦行するにふ さわしい伝統を持つ寺であるから、志度寺の海上に筏あるいは舟を浮べて苦行をしていた というのか。それとも若年の折に木食善住が -43- 行なった如くに志摩の安乗崎の海で木食行をしていたのであるか、なかなか興味深い。 私はかつて十五番の阿波の国分寺の境内で木食友禅上人の碑というのを見たことがある 。いずれにしても、かなり多くの木食の聖が四国八十八ケ所を歩いて居り、そしてそれら の木食の中には、海上苦行をしていた人が何人かあったのである。それは補陀落渡海の後 世の姿であると想像する。それはやはり中世に行なわれた熊野の補陀落渡海が尾をひいて いる姿である。 志摩半島安乗崎の長寿寺が海上苦行の一つの霊地であろうと私は想像したのであるが、 それは熊野の海岸よりはいささか離れすぎている。しかしさまで遠い距離のところではな い。私は番外札所である讃岐の海岸寺もあるいは第八十六番札所の志度寺ももちろん、海 上苦行の霊地だったと信じているが、そうした海辺の聖地というものは各地にあったので はないかと思っている。おそらく古い時代の海辺の聖地というものは、そこに仏法修行の 道場ができると海上苦行の霊地になったのではないか。 讃岐宇多津町の郷照寺などは、木食僧がかつては何人か滞在して、居候のような生活を していたというから、ここもおそらくは海上苦行の霊地であったのである。今は塩田(こ れもほとんど廃棄になったが)ができて、その山麓に町並みが発達したので、古い面影は ないがここはやはり海浜の寺であった。そしてここだけが、四国札所の中で唯一の時宗で あることは興味が深い。日本の田舎のあちこちに残っている墓制に両墓制度というものが あって、死体を埋める場所と、後で石碑を立て参詣する場所の二つのハカを設ける制度が ある。その際に地方によっては、海のほとりとか河のほ -44- とりなど水辺に埋め墓を作るところがある。これは大浪が打ち寄せたり洪水の時は、自然 に流れてゆくのでいわば水葬に近いものである。これは水葬に等しいものだが、海上苦行 の僧が海上にて往生することとつながりを持つのではないかと私は思っているのである。 さて、明治の初めごろまでは、多数の木食僧が四国の霊場をめぐっていたようである。 八栗寺では、伊予の前神寺から歓喜天を勧請したのは似空上人という木食僧であると伝え ている。八栗寺の中興の祖として祀られているが、いずれにしても四国への木食僧の遍歴 は多かったのである。 女人禁制 四国には伊予の石鎚山、阿波の剣山などそのほかにも多くの霊山があって、修験者の登 る山となっている。それらの山は、もちろん近年まで女人禁制で女は登ることができなか った。最近になってその禁制はほぼ解かれ、今では石鎚山が山開き(七月一日)の後三日 間だけが女人禁制で、あとはすべて女人のために解放されている。 四国遍路の寺の中にも、古くは女人禁制の山がいくつかあって、女は参詣することがで きなかった。それはどの寺であったか今となってははっきりとわからないが、室戸岬の山 上にある第二十四番の最御崎寺と第十八番の恩山寺がそれであったことは明らかである。 最御崎寺の話では昔、弘法大師がこの山に登って修行をしていた。母の玉依御前が弘法 大師の身の上をおもんばかって、この山に登ろうとした。女人禁制の山なので、山は荒れ 狂って、火の雨が -45- 降ってきた。大師は山上から麓を見ると、今しも母親の玉依御前が登ってくる途中であっ た。大師は驚いて山を駆け下り、傍の岩をねじふせて母親をその下に避難させたという。 今もねじり岩という小さい洞窟が登山道の傍に残っている。 この伝説を見ても、室戸岬の山上の寺である最御崎寺が、女人禁制の寺であったことは よくわかる。 ところが、これとほとんど同じ伝説が高野山にもあって、それが説経節のかるかや(「 かるかや」に傍点)の中に入っている。 大師の母が大師に逢おうとして高野の山に登っていくと、空がにわかにかき曇って、山 が振動した。大師はその時にいかなる女人がこの山に登ってくるのかと、下って見ようと すると、矢立の杉というところで八〇あまりの尼の姿をした女が雷鳴振動のために地の中 にのめりこんでいた。だれかと思って見ると、わが母親であるが、大師はこの山は女人禁 制の山であるから登ることはかなわぬと言う。すると母親は腹を立てて、傍にあった石を ねじふせたのが今のねじり岩であるという。やがて火の雨が降ってきたので大師が母親を 隠したところを隠し岩という・・・・・ この説経節のかるかや(「かるかや」に傍点)に出てくる話とまったく似た話が、最御 崎寺に伝わっているわけである。高野山の方は女人堂ができて女人はそこまでの登山は許 されていた。しかし四国遍路の寺には、私の知るかぎりは女人堂といったものはないよう である。これは、高野山への参詣者と比べて登山者(四国遍路)が少ないためであるかも しれない。 -46- 一方の恩山寺の話はどうなっているか。 昔、弘法大師がこの山で修行をしていた時に、母の玉依御前が大師に会いたいと思って この山までやってきた。しかし女人禁制なので山へ登ることができないでいた。仁王門の あたりで途方に暮れていると、大師はそれを見て女人禁制を解く修法を行なった。それ以 来、女人も恩山寺に登ることができるようになった。昔は寺の手前にある花折りの坂まで は登れたので、女の人はここから礼拝していたのだという。 おそらく女人禁制の寺はこの二寺だけでなくもっと多かったのにちがいない。四国八十 八ケ所の寺は海辺の寺が多いとはいうものの山岳霊場も多いのである。 その初期の時代はほとんどの廻国者は妻帯していない修行の僧が多かったので問題はな かったのだが、後になって妻帯をする修行者がふえてくると、八十八ケ所の山々には修験 の霊山が多いから、徳島県の東祖谷山村などではこんな習俗が残っている。 四国遍路に夫が出ていくと、女房はどこへも行かずに、慎んで暮しているが、もし月の けがれがあれば、夫の身の上を案じて一日中家にじっと籠っているのだそうである。これ などは留守居をしていても女はけがれがあるから、女人禁制の山で夫の身にもしものこと があってはならぬと赤不浄をおそれているのである。 さて、弘法大師が女人解禁の修法をしたという恩山寺の話は興味が深い。無論こんな縁 起は後世になって語りはじめられたのであろうが、女人禁制の風はしだいにすたれて、時 代が下るにつれて -47- 男も女も四国遍路に出ることができるようになった。 私はこの四国遍路の変遷の章においては、四国廻国の起りを主として熊野信仰あるいは 一種の宗教人の遍歴の姿の中にとらえようとした。 しかし、四国遍路の起りについてはまだ重要なものがいくつかある。それは大師信仰で あり、死霊に対する信仰である。以下、それらについて述べることにしよう。