底本の書名 巡礼と遍路 入力者名 多氣千恵子 校正者 今田 一恵 入力に関する注記 ・文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の 文字番号を付した。 ・JISコード第1・2水準にない旧字は新字におきかえて(#「□」は旧字) と表記した。 登録日 2007年12月28日
-163- 4 西国巡礼の旅と詠歌 西国三十三ケ所の道筋(「西国三十三ケ所の道筋」は太字) 四国八十八ケ所めぐりは、四国の島内をぐるりと一巡するので、またもと来た道の近く まで帰ってくるが、西国三十三ケ所巡礼の方はそのようにはいかない。第一番の青岸渡寺 は太平洋に面した南端の霊場であり、第三十三番の谷汲寺はもはや近畿地方からはずれた 東の端の寺である。 西国という名については、東国という言葉が大ざっぱに関東地方を中心とした東の国を いうのに対して、近畿地方を中心とした地方というほどの意味と考えてよいであろう。そ してそれは関東の人々が西国巡礼に多く出るようになってからいわれ出したというのでな く、むしろ西国地方の人々も含めて東国に対するものとして西国といったものと思われる 。 その上に西国には西方浄土、西方世界などという極楽浄土を求めるひびきがある。そこ で西国巡礼などということがいわれはじめたのであると私は考える。 西国三十三ケ所の第一番は那智の青岸渡寺であるが、いうまでもなく那智は熊野三山の 一つとし -164- て、だれしもあの雄大な滝を思わずにはいられない。そしてだれの思いにも熊野の信仰と いうものが根強くあるので、かつては長谷寺が第一番であったが、青岸渡寺が第一番にな ったのである。伊勢に参詣してから熊野に足をのばすということもあったかもしれない。 那智からは、熊野本宮の湯につかってから山中の道を田辺に出る。本宮の湯は小栗判官 の旧蹟であるので、ここで湯浴みしてから、遠い道をやっと明るい紀州の海辺に出て、第 二番の紀三井寺、第三番の粉河寺と打っていく。打つというのは参詣のしるしに、木の札 を打ちつけることである。後には単なる紙の札となってしまったが、打つという言葉は今 も残っているのである。 粉河寺から半里(二キロ)ほど来たところは高野(ルビ こうや)の辻(ルビ つじ) といい高野山に至る分れ道になっていた。ここには石造の常夜燈があって、右へ曲れば高 野山に、左へ曲れば槇尾寺(ルビ まきのおてら)と石に彫りつけてあった。高野山まで は約一五里(六〇キロ)だから、高野山へ参詣する者も多かった。だいたいが信仰の旅で あるから、そうかたくなに定められた観世音の霊場ばかりを廻っているわけではない。例 えば四国八十八ケ所の遍路も、善通寺という七十五番の霊場まで来ると、そこから二里( 八キロ)ばかり離れた金毘羅大権現まで参詣してくるという具合であったのだ。 さて、高野山を下りると、河内の葛井寺(ルビ ふじいでら)に行き、今度は大和の壺 坂寺、岡寺、長谷寺と打って奈良の町に入るのである。奈良の札所は興福寺の南円堂だが 、東大寺の大仏や二月堂、三月堂、また春日神社にも参詣して、奈良では一日をゆっくり とすごしたものと思う。 -165- 花の都も巡礼(「花の都も巡礼」は太字) 宇治へ入って三室戸寺、上醍醐を打つと、今度は近江に入り、まず岩間寺に行く。それ からは石山寺、三井寺と湖国の風光に接しながら、いよいよ花の都に入るのである。おそ らく京の町に入るとともに巡礼はほっとしてくつろいだ気分になるのではなかったか。こ こまで来ると郷里の便りもなんとなく聞かれるし、町は賑やかだ。今熊野を打ってから清 水寺へ行くと、それが花のころなれば、なおさら都の春を満喫することができたであろう 。六波羅密寺、六角堂、革堂と名高い寺々を廻って、遙かな東国から来た者や九州、中国 から来た者は、何日も滞在して京の名所めぐりをしたことと思われる。 洛中の見物がすむと、洛外に出て西山にある善峰寺に行く。それからは亀岡の穴太寺、 大坂の総持寺、箕尾の勝尾寺と廻る。次いで中山寺へ行くが、ここは徳道上人が三十三ケ 所の宝印を埋めた寺だ。中山寺を打ってから今度は播磨の国に入り、清水寺に達する。こ こは二十五番の清水寺で、京の清水寺とは同名の寺である。本堂の舞台からは遠くには播 磨灘が見渡される。次が一乗寺で、ここからは北条の石仏も近いという。そうしていよい よ次の札所が書写山円教寺だ。西国札所の寺の中では、近江の三井寺や奈良の興福寺と並 ぶ大寺である。歴史も古く、物語にも富んでいる。そのうえここは、西国三十三ケ所の中 で最も西の寺だ。ここまで来ると、もはや山陽地方のただ中に入っていくような気がする 。ここから成相寺までは遠い。昔は姫路から成相寺までは三日もかかっ -166- たという。天の橋立の景色を真下に見下す成相寺は、いわば裏日本であるから冬は雪も深 い。『今昔物語』に出てくる成合の縁起は、雪でこの山に籠っている僧のことを述べてい るが、まことにふさわしい。次いで第二十九番の松尾寺に行く。四国の札所では本山寺だ けが馬頭観世音を本尊としているが、西国では馬頭観世音を本尊としているのはこの寺だ けだという。 そして、次が湖上に浮ぶ竹生島である。昔は今津かもしくは木津から渡って第三十番の 宝厳寺に参詣していたというが、今は大津や長浜、彦根あたりからの遊覧船で行く人が大 半である。もうここは三十番だ。私は昔、今津や木津から舟を浮かべてこの島に渡った巡 礼の姿を思い浮べた。おそらくは遠い那智の御山の滝のことや京の寺々のことなどを思い やったことであろうが、まもなく打ち終って故郷に帰れる喜びばかりが、大半の巡礼には 湧いたことであろう。四国遍路のような病苦と貧苦とにさいなまれた悲愁といった気持か らはかなりかけ離れていたのではないかと思う。 次に長命寺、観音正寺と参詣して、いよいよ美濃の国の谷汲寺すなわち納めの寺となる のである。 ここには笈摺堂(ルビ おいずるどう)があるので、今まで着ていた笈摺と金剛杖をお 堂に納めてようやく結願となる。西国巡礼の途中は肉食を禁じられていたので、一般の巡 礼はここで精進落しをするのが慣例になっている。本堂の柱には鯉の彫り物があって、そ れに触れると精進落しになるといういい伝えもできているようである。門前町がよく発達 しているが、ここを打ってしまうと、飲み食いしたりさては遊興して帰る者が、昔は多か ったからだという。 -167- 西国の札所を打ち終ると、東国の者は信濃の国の善光寺まで行ってから帰っていくこと が多かったということである。 哀感ただよう詠歌(「哀感ただよう詠歌」は太字) 西国三十三ケ所にも四国八十八ケ所にも、寺々には詠歌というものがあって、それをそ の寺の本尊に上げることが例となっている。上げるというのは、詠歌を信者が唱えて本尊 に奉るのである。 その中で西国三十三ケ所の詠歌はもちろん文学的な価値があるというわけではないが、 哀切きわまりなく、信仰者、ことに死者のあった家の人の心をゆさぶるような歌である。 これに反して四国八十八ケ所の詠歌はお義理にもよくできているとはいいがたい。このこ とはすでに十返舎一九などもいっていて、彼はその著『金(ルビ かね)の草鞋(ルビ わらじ)』の中で、 このご詠歌と言ふものは何人の作為なるや風情いたって拙なく、てにをはは一向に ととのはず、仮名の違ひ自他のあやまち多く、誠に俗中の俗にして論ずるに足らざる ものなり されど遍路道中記に御詠歌と称して記しあれば諸人各々霊前にこれを唱へ 来りしもの故この草紙にもそのままを著したれども実に心ある人はこのご詠歌により てあたら信心を失ふことあるべく嘆かはしきことなるをやと…… と実にきびしい批評をしている。 それは西国札所の詠歌があまりにも哀感をこめているのに反して、まったくできが悪い ことを指 -168- しているのであろう。こうしたことが影響しているのかどうかはわからないが、四国地方 などでも新仏ができた時にとなえるのはすべて西国三十三ケ所の詠歌である。 人が死ぬと四九日までの間は、真言宗の家ならば大半の家で、昔は毎夜詠歌をとなえて いた。死者の魂は四九日の間はその家の棟を離れないという信仰があるから、これは死者 の霊魂のために、また一つには死者の菩提を願おうとして三十三ケ所の観世音のためにと なえているのである。詠歌を上げるにはトウ(「トウ」に傍点)を取る人があって、この 人がまずとなえ、次いでほかの人が声を合わせるのである。トウというのは、先頭に立ち 中心になってとなえる人のことである。そして、札所ごとに傍にいる者が線香を一本ずつ 上げていく。このように死者のために四九日の間詠歌を上げることは、死者の霊をして西 国三十三ケ所の観音の霊場に遊行させるのが目的なのである。例えば第二十四番中山寺の ところまで来ると、さあ、のどが乾いているだろうからといって、仏壇の新仏の位牌の前 にお茶を供え、それから中山寺の、 野をも過ぎ里をも行きて中山の 寺へ詣るは後の世のため の詠歌をとなえるのであった。この詠歌の詞句から、四国地方の人々は中山寺は遠 いところという印象を受けて、こんな習慣が始まったのかもしれないが、要するに、詠歌 をとなえることによって、死者の霊をして三十三ケ所の観音の霊地を廻らせているのであ った。 ところで、このようにして死者の霊がそれらの観音の霊場を廻っていると考えるのも、 詠歌の中に道行(ルビ みちゆき)的なところが見いだされることと叙景的なところが あるということも一つの理由かもしれな -169- いと私は思っている。二、三の例をあげるならば、 ふるさとをはるばるここに紀三井寺 花の都も近くなるらん(第二番紀三井寺) みやまぢや檜原松原分け行けば まきのを寺に駒ぞいさめる(第四番施福寺) 野をも過ぎ山路にむかふ雨の空 よしみねよりも晴るる夕立(第二十番善峰寺) などは道行的なところであり、 春の日は南円堂にかゞやきて 三笠の山に晴るるうす雲(第九番南円堂) よもすがら月をみむろど分け行けば 宇治の川瀬に立つは白波(第十番三室戸寺) 波の音松のひゞきも成相の 風吹きわたす天の橋立(第二十八番成相寺) などの歌は、実に美しい叙景の歌である。そしてそれが平易であるために、一般の人々 にも覚えやすく、また人々の鑑賞にもたえることができたのである。そのうえになんとな く神秘的な感情を伴うのはいかにも不思議なことである。 これらの詠歌は伝説の上では花山院がお作りになったとされているが、おそらくは長い 年月の間に、だれが作ったというのでもなく、自然にでき上っていったものではないかと 思う。 さて、新仏の家での四九日の間の詠歌というのは、西国三十三ケ所の詠歌がすむと、つ づいては高野山の詠歌、信濃の善光寺の詠歌が上げられる。高野山のは、 ありがたや高野の山の岩かげに 大師はいまにおわしまします ととなえ、次いで善光寺は、 -170- 身はここに心は信濃の善光寺 みちびき給へ弥陀の浄土へ ととなえるのである。そしてそれが終ると観音経をくり返して三度となえることになっ ているようである。それですべて終りだが、やがて盆飯とか茶菓子が出されて詠歌のおつ とめが終ることになっている。 このように西国三十三ケ所の詠歌が盛んなのは、やはり常民の哀感に訴える何物かがそ こにあるからであろう。