入力に使用した資料 底本の書名 讃岐ものしり事典(p236~241) 底本の編者 香川県図書館協会 底本の発行所 香川県図書館協会 底本の発行日 昭和57年4月1日 入力者名 辻 繁 校正者名 織田文子・平松伝造 入力に関する注記 文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の 文字番号を付した。 登録日 2004年5月20日
問 江戸時代の演劇について(香) 答 江戸時代の讃岐民衆娯楽の中心は、金毘羅参りで、ここに娯楽機関が集中し、しかも 仏生山や白鳥と琴平は御朱印地であるため、取締も寛大であった。歌舞伎座は大阪で発 達したが、讃岐では金毘羅大芝居、塩飽本島に千歳座があり、小豆島には14の農村舞台 があって、春秋には名優をよんで演技させていた。また、地方の庶民自身の自作自演も あったが、いずれも、幕府の方針によって勧善懲悪を筋書きとした浄瑠璃による音楽的 歌謡と三味線による伴唱と俳優の所作の合同劇であった。 また、俳優が人形を操って所作せしめ、浄瑠璃と三味線とにあわせて人形芝居をする 文楽は、今なお円座や直島・大見に伝えられている。 ・ 金毘羅大芝居。琴平町小松町。天保6年(1835)棟上げし、翌年完成した日本最古の 劇場で、階下の間口13間2尺(24メートル)、奥行24間2尺(44メートル)、廻り舞 台は直径4間(7メートル) ・ 千歳座、丸亀市本島町木鳥神社境内。文久2年(1862)の建築で、間口9間(16メー トル)、奥行4間(7メートル)で観覧席は劇場前の広庭である。 ・ 法光坊夏祭の芝居。三豊郡高瀬町上高瀬。元禄13年(1700)から毎年旧暦6月28日の 夏祭りに行なわれる寄せ芝居(素人芝居)の特色あるもの。 ○ 香川県通史 P1088 総合郷土研究 P743 現存最古の劇場金丸座 香川県放送郷土新誌 P91とP207 問 琴平金丸座について(香) 答 金丸座は天保6年10月9日(1835)大阪にあった筑後座を模して建てられたもで、現 存している劇場としては日本最古の由緒ある建造物である。昭和28年11月、県の重要文 化財に指定されたが、昭和39年指定解除になった。その後、十分な管理も出来ず、雨も りしたり、柱が傾いてくるなど荒れがひどいため、地元では、演劇・建築両学会から高 く評価されているこの劇場を復元しようとの意見が強ま ―237― り、文化庁へ国の重要文化財指定を申請した。昭和45年6月17日重要文化財の指定をう けたのち、所有者の金刀比羅宮より移築を条件に琴平町に寄贈された。昭和44年11月、 解体移築工事を行うこととなり、約300メートル西南、愛宕山腹仰の琴平町乙1241番地 に移築し、昭和51年3月竣工した。なお、重要文化財指定に際し、名称を、旧金毘羅大 芝居とした。 ○ 現存最古の劇場金丸座 金丸座実測図 香川県文化財調査報告第3集 建築文化第12号 香川県通史 P1058 重要文化財旧金毘羅大芝居修理報告書 問 祇園座(ルビ ぎおんざ)について(香) 答 香川郡香川町東谷の祇園座は起源は明らかでないが、安政年間(1854~1860)の墨書 の入った衣装箱があるので、そのあたりに創始を求められるかも知れない。下谷歌舞伎 として知られていたものであるが、朝夕に打ち仰ぐ、同町の祇園山にちなんで「祇園 座」と改称された。上演してきた芸題は時代物、世話物など数多いが、昭和20年ごろま では年40回も上演した年があったという。現在舞台一式、衣装箱20箱(200点)、かつ ら箱2箱(男女13頭)、台本30冊を保存している。この一座の特色は座長がなく、太夫 三味線、下座音楽、床山、舞台方、衣装方すべて農家の人たちで受け持ち、衣装にいた るまで部落内で金子を入れ、自給自足し、招かれて見物人に喜ばれること、そして自ら が芝居に打ち興ずることを楽しみにしている。 昭和40年4月3日、県指定無形文化財に指定。 ○ 香川県の文化財 P207 香川町史 P594 問 讃岐源之丞について(三) 答 1.人形芝居の沿革 讃岐の人形芝居(デコ芝居)が阿波から渡来したことは間違いない。阿波で最も栄 えたのは明治10年から20年にかけてのことで、当時は村持ちの人形座が50程あった。 阿波の元祖は淡路島で、正徳・亮保年間(1711~1736)には48座もあった。中でも 上村源之丞と吉田伝次郎座が最も有名である。今日の大阪の文楽も淡路島出身の植 村文楽軒の流れをくんでいるという。 2.讃岐源之丞の沿革 讃岐源之丞初代の座長は三好富太郎で芸名を三好三昇と名乗る。富太郎は阿波の デコ廻しに学び後に淡路の吉田伝次郎の弟子となり、吉田の姓を与えられて吉田源 之丞という座名を名乗った。生来の器用さと頭の良さで芸は一 ―238― 段と冴え、客の感動を心ゆくまで呼んだ。昭和12年62歳で生涯をとじた。高弟三好 勝太郎が2代目座長となった。勝太郎は芸名三好勝道、後改めて2代目三好三昇、 一座の繁栄に努力し、県内は勿論の事遠く東京、大阪方面に進出して人形芝居ファ ンの喝采を拍した。昭和27年9月20日香川県から文化財の指定を受けるや座名を讃 岐源之丞と改めた。昭和45年1月15日没。三豊郡三野町大見にこうした人形芝居が 栄えたのは初代座長の三好三昇、2代目座長の2代目三好三昇の功績に負うところ が実に大きい。2代目死亡後は株主である藤田音治と丸岡政則が一座の運営にあた っている。最近産業構造の変化に伴い若い者が工場や会社に進出して一時は座員20 数名もあったものが現在では6,7名に激減し、ここらで何とか後継者の問題を考 えなければ折角讃岐源之丞の将来も暗いものがある。 3.人形芝居の「よさ」 人形芝居の妙味は三味線と、浄るりと、人形使いの三者が一体となって芸を演ず るところにある。幸いにして三野町には三味線は町内出身の豊沢広兵師があり、 浄るりも素人太夫が7,8名居るし、人形使い即ち役者も現在6,7名は居るの で小さな芸題であれば先ず先ずやれるが、しかしこれらの後継者となると役者の 場合と同様前途暗いものがある。 4.当座の人形頭衣裳 人形頭の中には初代天狗久をはじめ、人形富、人形忠、天狗弁、大江順などの銘 入りの優品が多く、無名の頭にも佳作が少なくない。今その主なものをあげてみる と 1. 天狗弁作――三勝半七のお園頭、忠臣蔵鷺坂伴内頭 2. 人形富作――壷坂の沢一頭 人形富は天狗久や大江順の師匠で本名川島富五郎 御所人形の塗りを会得し美しい頭の作者 3. 大江順――鳴門のおつる頭、明治42年頃大阪文楽の人形師として勤め明治 45年死去 4. 天狗久――文政5年生まれで明治18年死去するまで70年間に作った作品の 数は非常に多い。 5. 人形忠――菅原伝授手習鑑の松王丸、一の谷熊谷頭有名 現在人形頭の修理は徳島県名東郡国府町で補修している。次に衣裳の中には奉納 年号の記入があって例えば太功記十段目の久吉の衣裳には「賀茂社丁卯文化四歳九 月吉日讃仁保北若連中世話人今屋弥兵衛」熊谷の上下(かみしも)には「文政三庚 辰九月吉日賀茂社奉納操十一号操連中」とか「天保二辛卯九月吉辰賀茂社奉納操、 喜捨今津屋伝治、永喜屋安右衛門24号等と墨書のあるところから明かに文化・文 政・天保にかけて仁尾町の賀茂神社の衣裳であったものを三好源之丞が買い求めた ものが多い。 ○ 香川県の文化財 人形の村 香川県指定の文化財とその解説 新大見村史 ―239― 問 小豆島の農村歌舞伎について(香) 答 小豆島の農村歌舞伎も県内の他地方と同じく祭礼と密接な関係をもっており、主とし て秋祭における奉納芝居として行われてきた。また現に一部では今も行われている。 小豆島の歌舞伎に関する正確な資料というものはほとんどなく、その起源についても詳 かにすることはできないが、現存する脚本の一番古いものが文化文政期のものであり、 古老の伝承から推測して、幕末から明治にかけてさかんに行われたものであろう。 また、かってはこの島に20余りあった舞台も、大方はなくなり、現存する舞台も崩壊 が甚しくその保存が心配されてる。 ○ 小豆島の民俗 P175 香川県民俗資料調査報告書 P35 香川県通史 P1062 文化財協会報特別号 4 P1 生徒の社会科研究 6、7号 問 高松の芝居小屋の消長について(香) 答 高松の芝居小屋は、明治4年に北浜のえびす神社裏の常小屋で、嵐橘斑が、姫競双葉 絵草紙を演じたのがはじめらしい。この常小屋は、明治9年ころまであったといわれる。 明治5年、塩上町の八坂神社(祇園さん)境内、小屋の名不詳。明治7年~11年、石清 尾八幡神社のお旅所、舞踊閣。同じころ、出晴多賀神社境内、春長楽。明治10年から、 片原町に延寿閣(のちの映画館、玉藻座)。明治14年、内町に旭座、川上音二郎らがオ ッペケぺ節をうたう。明治15年~20年、瓦町に朝輝閣。明治30年~昭和初年、片原町の 華下天満宮境内に肥梅閣(のちの映画館、日活館)、常設の寄席小屋程度らしい。明治 32年~昭和20年、内町に吾妻座が屋島座、大和座、聚楽座、大衆座、と座名を改め、戦 災で消失するまで約40年間続いた。本格的な大劇場であり、水谷八重子の大尉の娘、三 浦環の蝶々夫人なども演ぜられた。 ○ 高松市史 P471、P380 高松今昔記1巻 P69 讃岐案内 P61 問 香川県の人形芝居について(香) 答 直島女文楽 香川郡直島町 別名を「直島文楽」と呼ぶ。この一座は浄瑠璃を語る太夫も、三味線も、人形を使う 役者も、すべて女ばかりで、趣味的に奉仕的に、また「足洗いのオコモリ」などに慰安 休養の芸能となっている。直島には古来、小型のデコがあって地芝居に使われた。現存 するデコの胴に、「明治6年酉4月16日、中村若太夫 吉田大治郎」とあり、この人名 は下津清左衛門の父の芸名である。明治18年のころは直 ―240― 島文楽が一応止まり、城山の舞台も大正年間に取りこわされたが、高松市の下津森雄が 高松空襲の前夜、直島に疎開した 150箇の人形頭の一部を、この島に記念として贈り、 直島文楽の再興の機運を作った。 なかんずく、この座の愛蔵する島伝統の男頭は、縦9.7センチ、横7.5センチ、 女頭は縦7.9センチ、横5.4センチでこの種小型の淡路系古式デコの常として曲が 少ないのに関心が持たれる。 演技も女性心理の描写表現に慎重な研究を続け、瀬戸内海の島々からの招待公演等に も積極的であるのが喜ばれている。 直島女文楽人形頭および衣裳(昭和37.9.20県文化財指定) 人形頭35個 衣裳69枚 讃岐源之丞 三豊郡三野町大見 この座名は別に「三好三昇座」ともいう。座員18名。その内、三好勝太郎、島田松太 郎、丸岡正規、藤田音次の四人が人形株を持ちあって、保存と運営一切に当たっている。 人形頭の中には、初代天狗久をはじめ、人形富、人形忠、天狗弁、大江順などの銘入り の優品が多く、無銘の頭にも佳作が少なくない。 衣裳の中には、例えば太功記十段目の久吉の衣裳には「賀茂社、丁卯文化四歳九月吉 日、讃仁保、北若連中、世話人今屋弥兵衛」と、熊谷の上下(かみしも)には、「文政 三庚辰九月吉日、賀茂社奉納操、十一号操連中」とか、「天保二辛卯九月吉辰、賀茂社 奉納操喜捨今津屋伝治、永喜屋安右衛門、廿四号」先代萩の政岡の上衣の裏には、「奉 納賀茂社、升形屋八十平、永喜屋貞之丞文化七庚午歳九月十五日、二枚の内」とか、願 主出来屋林平、家運長久、奉納賀茂社、文化七庚午歳九月十五日」と墨書のあるところ から、明らかに文化、文政、天保にかけて同郡仁尾町の賀茂神社の9月15日の祭礼に奉 納された操人形座の頭、衣裳であることが知れる。 現在大見では、日枝神社と八幡神社の秋祭と津島社の大祭に奉納され、諸方面からの 演芸会に招待出演もしている。 讃岐源之丞人形頭および衣裳(昭和37.9.20県文化財指定) 人形頭42個 衣裳40枚 香 翠 座 高松市円座町 古くから「円座のふくさ人形」とか「東永井のデコ芝居」と呼ばれて有名だった。香 翠座は天保4年(1833)10月(女形頭箱に年号がある)の結成といわれ、県内東讃をは じめ、中国地方まで奉仕興行を続けた時代もあった。この座の持つ人形の頭の中には、 相当古い、いわゆる「キンキロデコ」と称する「デコマツ」もあって、頼母子講式保存 法と共に、この座の古さを物語っているが、かって松平藩の連枝松平頼該(金岳、左近 )が幕末勤皇活動の「かくれ蓑」的に、この人形座を利用して人心集らんに役立たせて いたころが、最も盛んであったろう。 人形の頭は、大部分が初代天狗久の作であり、使い方も阿波源之丞をうけ継 ―241― いでいる。素人の浄瑠璃太夫に人形をよく合わせて、興味深く豪快素朴に使う「段もの 」には、農民の喝采を博したあとがよくうかがわれる。 香翠座人形頭(昭和37.9.20県文化財指定) ○ 「香川県指定の文化財とその解説」より P 47~49 人形の村