入力に使用した資料 底本の書名 讃岐ものしり事典(p213~225) 底本の編者 香川県図書館協会 底本の発行所 香川県図書館協会 底本の発行日 昭和57年4月1日 入力者名 辻 繁 校正者名 織田文子・平松伝造 入力に関する注記 文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の 文字番号を付した。 登録日 2004年5月20日
問 猪の鼻峠について(香) 答 財田上(香川県三豊郡財田町)から国道32号線を南へ抜け、讃岐山脈の屋根をぬって 猪の鼻峠にまっすぐにのびていく。この道は四国の先覚者として讃岐鉄道の発起人なり、 製糸会社を起こし、あるいは北海道移民をすすめた大久保〔ジン〕(#「ジンは文字番 号35739)之丞がひらいた。彼は阿波と讃岐の道をつけることが、四国の産業経済の発 展のために何より必要と考え、明治19年3月新道建設に着手、3年11か月の歳月を費や して明治23年3月阿波と讃岐を結ぶ70キロの道を完成した。 いまの国道32号線は大久保新道を基礎につくられた。 ○ 讃岐路 P150~P153 土讃北線猪之鼻隧道工事誌 郷土の顔 P14 道神大久保〔ジン〕(#「ジン〕は文字番号35739)之丞命 郷土に輝く人々 P47~P73 香川県の歴史 P25 阿讃の峠 P28~P29 問 宇高連絡船の歴史について(香) 答 宇野と高松を結ぶ国鉄連絡船の起こりは、明治33年(1900)4月設立の讃岐汽船が、 船玉丸(116トン)という貨客船を高松~岡山間に就航させたのが始まりである。 その後明治36年3月18日、山陽鉄道の姉妹会社として生まれた山陽汽船が、岡山~ 土庄~高松間に定員300人の客船(224トン)を配船し、中国と四国の連絡に当たるこ とになった。 ついで山陽鉄道の国営移管後、明治43年6月12日、国鉄宇野線の開通に伴って、高 松~土庄~宇野間に初めて鉄道専用の連絡船を就航させた。翌44年2月11日には土庄 への寄港を廃止して宇野~高松を直結した。 この宇高連絡船の初期就航船は、国鉄が山陽汽船から引き継いだ玉藻丸と児島丸( いずれも224トン)を当てたが、その後新造の水島丸(341トン)、南海丸(545トン) の ―214― 両船に切り替えるいっぽう、大正10年10月10日には初めて貨車航送船を配航した。 そして第二次世界大戦後は、紫雲丸、眉山丸、鷲羽丸、第三宇高丸(貨車航送用)、 讃岐丸などの新造船をつぎつぎに就航させた。 それから昭和41年3月には伊予丸(3083トン)、同年10月には土佐丸(同上トン数) 、42年10月には阿波丸(同上)と、あいついで新税(#「税」は底本のママ)の大型連 絡船を配航したが、これらはいずれも貨車27両を同時に積載できる優秀船である。 ○ 高松の事始め P15 宇高航路50年史 四国鉄道75年史 問 昔の駅路の基点(元標)の歴史について(香) 答 国分石――奈良・平安時代約550年間、讃岐の政治・文化の中心であった府中(坂出 市府中小学校の校庭)にあり、讃岐の駅路(ルビ うまやみち)の中央を表示するた め、据えた石と伝えられている。 一里塚――慶長9年(1604)従来の1里6町を改めて1里36町とする一里塚制がし かれ、お江戸日本橋を起点とし、諸道に一里塚を築かせ並木を植えさせた。讃岐にお ける起点は高松城下常盤橋(今の三越附近)で高松藩内に46の一里塚があったといわ れている。 道路元標――大正15年の県例規によると各町村1か所ずつ計175の道路元標の設 置位置の地番と位置目標が書かれており、これが現在の道路の基準点であり、道路の 延長測定などに利用されている。 ○ 讃岐の道ばた 讃岐の峠 P89~ 讃岐の史話民話 P288 問 甲知駅(河内駅)について(坂) 答 駅制は、古代から中世にかけておこなわれた交通制度で、大化の改新による、中央 集権政治の確率に伴って始められた交通制度で、人馬乗りつぎの場を駅といった。そ の駅通には、大路、中路、小路、の別があって、こゝに、駅馬が置かれた。京より重 大緊急の用務を帯びた官吏や使者が使用していた。讃岐は、南海道に属して、醍醐天 皇の延喜の定めによると、刈田(引田)、松本、三谷、河内、甕井、柞田の6駅で各 駅に4匹の駅馬がつながれていた。阿波二駅、伊豫六駅で京からの連絡は、京より紀 伊を出て、淡路を一周して阿波の国府に入り、大坂越えして東讃に入り、引田、松本、 (大川郡松尾村田面)木田の三谷駅を通って府中中村の国府(今の坂出市府中町石井) に至り、額坂を通って飯山の南を通り、仲多度郡筆岡の甕井駅を過ぎ、鳥坂越えして、 三豊郡柞田駅に出て、伊豫大岡駅(川之江)に連絡していた。河内駅は坂出市府中町 にあったと思われる。 ―215― ○ 新修香川県史、P104~107 讃岐文化の展望 府中村史 P245~247 新さぬき風土記 グランド百科辞典 (3)(#直前の「3」は丸付き) P212~P213 問 讃岐の五街道とは (香) 答 江戸時代の主要道路は、高松城の外堀にあった常磐橋(三越高松支店前通り)を起 点として、志度・長尾・仏生山・丸亀・金毘羅の五街道と丸亀街道の国分から分かれ て和田浜にいたる伊予街道があった。五街道の区間は次のとおりである。 志度街道(常磐橋~引田) 長尾街道(常磐橋~丹生) 仏生山街道(常磐橋~仏生山) 丸亀街道(常磐橋~丸亀) 金毘羅街道(常磐橋~金毘羅) ○ 香川年鑑 昭44年版 P172 讃岐文化の展望 P79 綜合郷土研究 P454 問 県下の国鉄・私鉄の歴史について(香) 答 県下では讃岐鉄道が明治22年5月23日に丸亀―琴平間を開通したのが最初(日本で は明治5.5.7に品川―新橋間、明治5.9.12に新橋―横浜間が最初)。その後、 讃岐鉄道は明治37年11月28日山陽鉄道と合併し、明治39年12月1日に国有になった。 一方、私鉄では明治45年11月に東讃電気軌道(株)が今橋―志度間を開業したのが 最初。 国 鉄 私 鉄 明30.2.21 高松―丸亀 明36.3.18 宇高連絡船 山陽鉄道 43.6.12 宇高連絡船 明45.4 出晴―長尾 高松電気鉄道 大 2. 12 観音寺―多度津 大6.5 高松市内線 四国水力電気 昭 2. 4. 3 松山まで 15.12 栗林―滝宮 高松琴平電鉄 6. 9 高知 〃 昭 2. 4 高松―琴平 〃 10. 3.20 徳島 〃 大11.10 善通寺―丸亀 琴平参宮 昭 3. 1 坂出―琴平〃 〃 38. 9 琴平参宮の電車廃止 4. 11.12 仏生山―塩江 塩江温泉鉄 16 〃 廃止 5 坂出―琴平 琴平急行電鉄 16 〃 廃止 ○ 四国鉄道75年史 P18~63 宇高航路50年史 香川県近代史 P715~718 、860~863 、934 高徳線は斯くして ―216― 高松よもやま(4)(#直前の「4」は丸付き) 山陽新聞 昭35.2.5 新修高松市史(Ⅱ) P487~ 宇高連絡船(2)(#直前の「2」は丸付き)朝日新聞 〃45.6 宇高航路(1)(#直前の「1」は丸付き)山陽新聞 〃35.6.1 昭45.9.1より産経新聞に各駅停車(各駅の歴史など)連載 問 金毘羅船について(金) 答 「金毘羅へ参詣する客を運ぶ船はすべて金毘羅船といってよい筈であるが、実際は 大阪を出て丸亀へ渡る参詣船をいうことが多い。この金毘羅参詣船が、記録に見える のは、延享元年(1744)正月が最初である。それは大阪江戸堀五丁目明石屋左冶兵衛 と、同大川町多田屋新右衛門が連名で金毘羅当局へ、「金毘羅信仰の輩」を「相応の 運賃ニ而心安致渡海候様」に「参詣船取立」たいとの願書を差し出して許されたのが 最初である。そして明石屋、多田屋の金毘羅参詣渡海船は、年増しに繁昌し、ことに 夛田屋は讃岐出身の者であり、御本社前に銅の狛犬を献納し絵馬堂の寄進にも関係し た。多田屋発行の引札も残っており、金毘羅関係の書物として最も古い「金毘羅参詣 海陸記」「金毘羅霊験記」などにも夛田屋の名が刷り込まれている。 ○ 「金刀比羅宮史料」第32巻 75巻 問 讃岐の津(港)について(高) 答 讃岐は瀬戸内海に面して海岸線が長く、入江も多い。また島々が散在することから、 古くより海路の便が開かれて物質や文化も海路を得て流れこんできた。 海上交通の制として古くはムロを各地に設けた。高松のムロは室山の山麓に設けら れ、今も室町の地名をのこしている。屋島の浦生はムロの転訛であり、宇多津にはム ロの小地名がある。観音寺市には室本・高室の地名があり、また小豆郡池田町に室生 がある。いずれもムロがあったところと思われる。 ムロには室の役所があって、寄港船の便宜を図っていた。室の名は古代のもので上 代では津とよんだ。津には役所が設けられ津守が置かれ、寄港する船舶に飲料水、薪 炭、食糧などを供給していた。丸亀市の津ノ森は津守の転訛である。宇多津町の津ノ 郷、高松市高松町津ノ村などは津に関係のある地名である。 平安時代になると海上交通がいっそう発達して、讃岐では各郡ごとに津がおかれて いた。 大川郡の津は現在の白鳥町大字湊 寒川郡の津は現在の津田町大字津田 三木郡の津は現在の牟礼町(一説には志度町) 山田郡の津は現在の高松町津ノ村 香川郡の津は現在の香西本町本津 ―217― 阿野郡の津は現在の坂出市高屋町(林田町も含む) 鵜足郡の津は現在の宇多津町 那珂郡の津は現在の丸亀市中津町 多度郡の津は現在の多度津町 三野郡の津は現在の三野町吉津 刈田郡(豊田郡)の津は現在の観音寺市 ○ 香川県通史 P236~P238 新修香川県史 P107~P108 新修丸亀市史 P27~P29 問 高松港の歴史について(香) 答 高松には古来より3つの港があり、それぞれ次のような性格のもとに発展してきた。 東浜港は商人たちの出入りに、西浜港は漁業者の専用に、堀川港(現在の新湊町付近) は藩船の係留にあてられていた。そして明治維新後、この3港を高松港と称したので ある。 「高松市史」昭和8年刊「高松小誌」昭和17年刊によると、明治7年ごろ旧高松藩士 田中庄八が大阪・高松・多度津間の運輸業を起こし、2~3年して他の2名とともに松平 頼聡他2名の所有する金比羅丸を譲り受け三港社を創立、また大阪の宗像市郎は太陽丸 ・飛燕丸で阪神~多度津間、岡山階行社は第1・第2凌波丸で阪神~岡山間を運行しだ したので、田中庄八は各船主と交渉して、高松寄港を実現した。しかし高松港が海底が 浅いため、旅客は一人ひとり、人の背をかりてハシケに移り、それから乗船するといっ たありさまであった。そこで庄八は明治13年下横町(現在の北浜町)北方海面230アー ルを自費で埋めたてることを願い出て、まず130メートルの防波堤を築いて乗客の便を はかったのである。明治26年築港の議が起こり、同30年6月起工し、元の堀川港とその 海面を埋め立て同33年8月完成した。さらに同34年防波堤および突堤工事、また港内主 要部の竣設(#「竣設」は底本のママ)工事を行って約3か年で完成した。 しかし、年々増加の一途をたどる交通量とともに、船・車の連絡ならびに貨車航送を 実施することになり、あらたに港湾拡張の必要を生じ、大正10年本港が第二種重要港 湾に編入されたのを機に、同12年より6か年計画で工業に着手し、昭和3年3月に完 工された。 なお大正11年には市から県に高松港が移管されたと記されている。 次に「四国港湾要覧」昭和28年刊によると、昭和23年2月、四国鉄道局は、第2バ ースおよび可動橋を新設し、翌24年には第1バースを建設完成したと記されている。 ○ 港(12)(#直前の「12」は丸付き)(山陽新聞昭和35年4月30日) 高松よもや ま(5)(#直前の「5」は丸付き)(山陽新聞昭和35年2月6日) 香川県総合開発 計画書 昭和31年刊 ―218― 香川県の港湾 昭和30年刊 瀬戸内海沿岸開発計画総合調査書 昭和31年刊 瀬戸内海交通体系調査書 昭和33年刊 問 高松港の灯台の歴史について(香) 答 今の高松港の基礎は天正16年(1588)生駒親正が讃岐の領主になってから造られたも のである。港の前方には女木、男木島が横たわり東に屋島、西に王越が突き出して防波 堤の役目を果たすという天然の良港である。以来瀬戸内の要港として栄え、高松藩主松 平家では東浜を商港、西浜は漁港、堀川港を藩の専用港として使い分け港の機能を高め ていた。明治以来、幾たびかの改修、拡充工事が繰り返され、近くには朝日町の埋め立 てなども行われ県下を代表する港としての形態を整えるに至った。 高松海上保安部の調べによると高松港の出入港船は1日600隻余りを数える。およそ2 分半に1隻という混雑ぶりである。同保安部では西防波堤灯台の近くに信号所を置いて 船の流れをコントロールし、航行規制も行っている。すなわち入港船は必ず西防波堤灯 台と中防波堤灯台の間の「西口」を通らなければならない。出港船は1,000トン以上が 西口、1,000トン未満は中防波堤東灯台と東防波堤灯台の間の「東口」を通るというも のである。西防波堤灯台近くには霧信号所もあり、陸地から高松港灯浮標が見えなくな ると霧笛を鳴らし、停船勧告を出すという仕組み。 高松港には最も早く設置された西防波堤灯台をはじめ6基の灯台があり、夜間の定期 船やタンカー、スクラップ・鋼材積載船などの出入港の安全を図っている。 防波堤の改築前 │ 名 称 │ 初点の年 │ 燈 質 お よ び 周 期 │ 光達距離 │ │ 北防波堤西灯台│ 昭和 4 │ 明暗緑光 明3秒 暗2秒│ 5カイリ │ │ 北防波堤東灯台│ 〃 32 │ せん紅光 毎3秒に1せん│ 6 〃 │ │ 西防波堤灯台 │ 〃 4 │ 明暗紅光 明3秒 暗3秒│ 11 〃 │ 改 築 後 西防波堤(円形コンクリート造り紅色 昭和39年12月28日初点灯) 中防波堤西 (同白色 41年1月28日) 中防波堤東 (同紅色 42年1月26日) 東防波堤 (同白色 42年1月26日) 高松港朝日町防波堤 (同紅色 47年10月16日) 8号防波堤 (同紅色45年12月1日) ○ 瀬戸の灯台 P21 潮風に立つ 宇高航路50年史 P40 ―219― 問 高松(林)飛行場について(高) 答 昭和19年1月23日、林村役場(村長 三宅信夫)に陸軍省航空本部の係官から、軍用 飛行場建設決定の連絡があった。飛行場となる用地は林村を中心に、川島町・三谷村・ 多肥村の4か町村に及ぶ広い面積である。 1月28日には、軍の責任者村田大尉が来て、飛行場設置の正式通達があり、この地域 の立ち退き関係者約400人、林村だけで275戸が移転することになった。 林村役場・広田神社・農業会なども移転した。 林村での施設用地面積は、田・畠・宅地などで約178町7反余であった。 昭和19年8月、滑走路ができて始めて飛行機が飛来してきた。9月には、明野飛行隊 高松教育隊が置かれた。 戦争終結後、昭和21年7月、進駐軍から滑走路(約47町歩)以外は開拓を許可されて、 11月に開墾起工式をおこない、約60戸が帰村してきた。 昭和27年7月15日、林飛行場も高松空港として、民間航空にも使用できるようになっ た。 昭和30年5月には、極東航空が大阪~高松間に定期航空便を開始した。所要時間約45 分、大人片道運賃2,500円であった。 昭和31年12月7日、約34町歩を飛行場として残し、すべてを解放払下げとなった。 ○ 林村史 P120~P148 新修高松市史 第2巻 P482~P487 高松市史年表 P486、P495、P521 問 多度津の港について(多) 答 多度津の港は古くから良港として栄えその名の示す通り多くの船が渡ってきた港であ る。特に栄えたのは江戸時代の中頃でこんぴら参りの西廻り船、つまり九州や中国方面 から多くの船が来た。その頃は櫻川の河口港であったが京極高琢(ルビ たかてる)は 天保6年(1835)から5か年計画で大拡張改修工事を計画し完成した。金毘羅船はもと より近海の漁船をはじめ五島船や北前船も出入りするようになってお隣りの丸亀港と共 に空前の大盛況を呈した。その後も絶えず改修を重ねたが特に明治40年の頃からは町営 事業として桟橋工事、突堤築造、浚渫(ルビ しゅんせつ)と埋立て工事等に努力を重 ねて有数の良港となり大阪商船や関西汽船等が出入りした。日露戦争の時に一太郎やー いの美談が生まれたのもこの港であって桃陵公園には、今もその記念像が残っている。 現在ではこの港を中心にはさんで東側と西側とに約800万平方メートルの土地を造成 して飛躍的発展を期している。 ○ 多度津町誌 グラフ多度津 ―220― 問 多度津の廻船問屋について(多) 答 多度津の港は、昔から金比羅詣りの船で賑っていた。元禄7年に京極高通が丸亀より 分封して多度津藩が成立し、ここに陣屋が設けられた。 以後6代、176年間にわたって港町として発展していったのであるが、その発展の大 きな契機となったのは、湛甫(ルビ たんぽ)の構築であった。すなわち天保4年、五 代藩主高琢のとき、総工費六千二百両余という巨費を投じて、内海屈指の良港を完成し た。この湛甫の完成により、多度津の町は活気づき、港には諸国より廻船が入港し、港 はますます繁栄した。 幕末になると多度津の港は丸亀の港を凌いで、讃岐三白の砂糖や塩、綿を積み込み、 西廻り航路に帆をはらませて日本海にぬけ、越前、佐渡や遠くは北海道まで廻航し、帰 りには干鰯、塩鯖、扱苧、鉄、半紙、肥料などを持帰って手広く売捌く北前船の基地と もなった。 廻船問屋には、西廻り針路図、盛徳丸、仁政丸の往来手形、松前藩資料を伝えるかつ まやを始め、米屋、大隅屋、蛭子屋、竹屋など、はた、よろづ問屋、干鰯問屋中には、 油屋、松尾屋、茶屋など70余軒を数え、千石船とともに商家の町として全盛をきわめた。 なお、現在も当時を語る漆喰塗りの萬問屋の屋根看板が二三残り、往事のおもかげを 伝えている。 ○ グラフたどつ 多度津町文化財協会報第16号 問 香川県の鉄道のはじまりについて(多) 答 香川県にはじめて鉄道が開通したのは明治23年5月23日であった。多度津町の現在の 鉄道工場の所に本社があり、またそこを起点として当時の琴平村に至る7.5マイルおよ び丸亀町に至る2.9マイルと合計10.4マイルのものである。讃岐鉄道株式会社の建設 によるものであって発起人は多度津町の景山甚右衛門氏外17名であった。機関車はドイ ツから輸入されたものであり定員20名のマッチ箱のような客車を5輛ほど引いて走った。 人々はこれを陸蒸気(ルビ おかじょうき)といって珍しそうに見物に来た。その反面 には人力車夫が失業するといって大騒ぎすることも起こった。運賃は丸亀から琴平まで 上等が48銭、下等が16銭であった。そのうち上等車に乗ると新聞に氏名が掲載された。 給料は社長景山甚右ヱ門氏が月給35円、駅長が月給11円、機関士が日給90銭、車掌が日 給22銭、駅夫が日給16銭から17銭までであった。その後明治39年に鉄道国有法にもとづ いて国有に移管して今日の国鉄四国総局に発展した。大正2年尾道から多度津へ着いた 志賀直哉はその名著「暗夜行路」の中で「停車場の待合室ではストーブに火がよく燃え ていた。そこに20分ほど待つと普通より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗って 金比羅へ向かった」と書いている。 ○ 多度津町史 汽車ポッポ 四国鉄道75年史 問 豊浜港について (豊) 答 築港以前讃岐西部の門戸として、観音寺港とともに川口利用の泊地として利用されて いた。享保年間(1716~1736)には、大阪方面との往来が頻繁になったため、築港の必 要を感じた、庄屋興右衛門は領主にその許可願いを出した記録があるが実現しなかった。 宝暦年間(1751~1764)になって、大字和田浜の住人藤村喜八郎和田村の住人宮武幸右 衛門と謀り幕府に上申して、私財を投じて築港の工事を完了した。安永2年(1773)こ れによって宇多津以西唯一の良港となった。大波止100間、南北二線堀割(浚渫の意) 長さ170間、幅23間半、深さ6尺、2749坪であった。 明治年間になって防波堤の増築、船溜護岸改修港内浚渫工事を実施した。その後大正 7年より同12年の修築により、川筋の切替えと埋立てをするとともに船溜護岸改修:港 内浚渫工事を実施した。昭和12年より同年13年の修築により、防波堤の増築:および港 内の浚渫と約6万坪の埋立地を造成した。そして現在の富士紡を誘致した。その後昭和2 8年度防波堤増築、昭和29年度、昭和30年度改修により内港のふところを拡げて現在の 港が出来たのである。明治26年、豊田郡姫の江村有志惣代がつぎのような願い書を作っ て浚渫の促進を図った。 河川浚渫乃義ニ付願 豊田郡姫ノ江村大字和田浜港湾ハ百四拾余年以前ノ築港ニシテ西ハ燧洋ニ望ミ東南ハ 阿予ノ両国ニ接近シ貨物ノ運輸ハ日々ニ頻繁ヲ告ゲ県下ノ一大良港ト云フモ敢テ過言ニ 非ラザルベシ而シテ本港ハ白坂川ノ流末ニシテ該川小流ナリト雖モ水源ハ全部和田村高 尾山二発シ近傍各村ノ細流ヲ合シテ一川流トナリ港湾ニ注グ旧時ニアッテハ藩庁ノ保護 ヲ受ケ毎年河流浚渫致シ来リ候ニ就テハ水害及ヒ難破船ノ憂ナク一般ノ便益ヲ与ヘラレ 然ニ維新後王政復古ト共ニ廃セラレ20有余年ノ今日ニ至ルマデ僅カニ有志ノ醵金ヲ以テ 微々タル浚渫ヲ為スト雖如何セン港内土砂堆積ニ従ヒ河流ノ疎通ヲ妨ケ一時降雨ニ際セ バ出水海潮ノ為漲溢シ田園家屋等水害ヲ被ムルモノ不尠益々土砂ノ堆積ヲ来シ河流ノ疎 通ヲ妨ゲ其害年1年ヨリ甚シク有志ノ醵金ノミニテ支ユル能ハズ殊ニ船舶出入ノ便ヲ欠 キ風波ニ際セバ難破船ノ惨状実ニ名状ニ堪ヘズ為ニ商工業上ニ影響ヲ及ボシ此侭荏苒数 年ヲ経ハ河流ハ疎通ヲ絶チ港内ハ埋没シ商工業益衰頽ニ傾キ延ヒテ全県ノ経済ニ波及ス ルニ至ルベシ茲ヲ以テ有志者相謀リ金弐百円右河川浚渫費ノ一助トシテ醵金可致候間浚 渫ノ義弐拾七年度地方税中ヘ御組入水害船舶出入ノ両便ヲ謀ラレンコトヲ敢テ希望ノ至 リニ耐ヘズ仍テ別紙設計書及略図相添只管奉願候也 明治26年10月19日 ○ 豊浜町誌 月刊香川 ―222― 問 鍋島灯台について(香) 答 坂出市与島町鍋島にあるこの灯台は、神奈川県三浦半島の観音崎灯台(明治2年)に ついで古いものである。英国人リチャード・ヘンリー・プラントンの設計・監督によっ て建設されたものである。石造りの風格ある灯台は100年以上たったいまもなお活躍して いる。昭和40年までは4人の職員が孤島の灯台守として不便な生活に耐えてきたが、46 年からは与島と防波堤によって陸続きとなり、2人ずつの職員が1週間交替で勤務にあ たっていたが、現在は無人の灯台となった。48年に海上交通安全法が制定されてから備 讃瀬戸の分岐点にたつこの鍋島灯台の重要性がますます増してきた。光の色は紅緑光各 8 秒、光達距離は紅15.5カイリ、緑11カイリ、初点灯は明治5年11月15日。 ○ 瀬戸の灯台 P24 問 へんろ道について(善) 答 四国八十八か所参りの遍路のために「遍路道」と称する特別な道路が発達した。 俗に八十八の霊場は、弘法大師の開創されたものと伝えられている。そして延宝、天和 の頃、真言宗の僧真念が、自ら四国の山野を〔バツ〕渉(#「バツ」は文字番号 37447 して、弘法大師の霊場を踏査ずること十数回に及んで、大いに功徳を説いたために、急 激に著名になり、四国遍路の名を見るようになったといわれる。 この札所は山中避間の地に多いので、遍路道は山峡急坂を通り、或いは札所と札所と の近道をとるために、田圃の間をたどって出来、従って道巾も狭く、山道同様の所もあ った。 辻々には「へんろ道」などと刻んだ石標が立てられている。讃岐における札所は、第 六十六番雲辺寺より第八十八番大窪寺迄の二十三札所であり、里程 140キロ余といわれ る。 ○ さぬきの道ばた 日本の民俗「香川」 問 本州~四国海底トンネル敷設運動について(香) 答 天然の運河―瀬戸内海は昭和40年代に入って、日本経済の将来をになう“黄金ベルト 地帯”として脚光を浴び、一躍“瀬戸内海時代”の名がクローズアップされ、本州と四 国を結ぶ大橋も着々と建設がすすめられている。 明治22年5月23日、讃岐に初めて鉄道が開通した日、讃岐鉄道祝賀式の席上で、大久 保〔ジン〕之丞(#「ジン〕は文字番号35739)は「塩飽諸島を橋台として架橋連絡せ しめれば常に風波の憂いなし、南東北向、東奔西走瞬時を費やさず、それ国利民福これ より大なるはなし」と述べ、離島四国の開発には本州と四国を結ぶ連絡橋の架橋こそ最 大のカギであると主張した。 大正3年の第34帝国議会で徳島県選出の中川虎之助代議士が、明石―鳴門両海 ―223― 峡の架橋案を持ち出し、昭和14年暮れ、阿部内閣の永田秀次郎鉄道大臣(兵庫県選出) により鉄道線の構想となって現われ、翌15年、当時内務省神戸土木出張所長であった前 神戸市長原口忠次郎氏に受け継がれ、戦後昭和21年11月に本省の現地調査が行われるな ど、徳島側の運動が相当先行していた。 昭和23年10月28日に徳島市で開かれた第4回四国市議会議長会では、次の2件が提案 され、徳島と香川がようやく対立した。 「第9号議案 四国・本州間に海底トンネル敷設方要望の件 丸亀市議会議長提出 理由 交通の良否は其の国の文化程度を知る尺度とも言われる如く交通と文化とは分離 して考えることの出来ぬ問題である。然るに吾四国における交通の状況はどうか。四国 循還(#「還」は底本のママ)鉄道も未だ未完成の現状にありこれを本州・九州等に比 すると余りにも其懸隔の甚だしいものがある。 現時、四国と本土を結ぶ連絡は船便であるが、この船便も春の靄、夏季の台風、冬季 の季節風等、時々の天候に左右せられて、其の都度交通は杜絶せられるのである。これ がために、四国県民の蒙る不便と損害は、莫大なるものがある。この不便と損害を除き、 四国の交通と文化の発展のために、曩に敷設せられた関門海底トンネルの如きトンネル を四国と中国を結ぶ最短距離であり、且つ、海底深度の尤も浅き個所を選べば経済的に も技術的にも、その施工が容易であり、完成の暁における四国民は勿論全国民のうける 利便の大なるものがあると思惟せられるので、これが実現方を其の筋に強く要望するも のである。」 「第10号議案 鳴門・淡路・明石間海底トンネル開鑿について 徳島県市議会議長会提出 理由 四国の産業文化開発の上から速かに四国と本土との陸路連絡を計る必要があり、 政府に於ても既に計画を考慮せられて居る。」 以上2案を協議し、やる以上、九州・四国を含めた四国・本土・九州を連絡する海底 トンネルの敷設方を要望することとした。 それから7年を経た昭和30年5月26日、新居浜市で開かれた第17回四国市議会議長会 定例会では、その直前(5月11日)の紫雲丸沈没事故もあり、またもや、香川・徳島の 2件が議題となった。 「追加提案 本州と四国間に海底トンネル敷設促進方の件 香川県市議会議長会提出 理由 本件については、既に昭和23年10月28日の四国市議会議長会において議決し、関 係向に対し、これが敷設方を要望しあるにもかかわらず未だその実現を見るに至らざる は、四国県民の等しく遺憾とするところである。瀬戸内海では常にガスのため重大事故 が頻発しておるのである。去る5月11日には宇高連絡船紫雲丸の沈没事件があり、多数 の犠牲者を出した事実に徴しても、四国・本州を結ぶ海底トンネルの必要性が痛感せら れるゆえんである。 故に、これが海底トンネル開さく促進のため、海底トンネル建設期成同盟(仮称)を ―224― 結成し、この団結の力により早期着手への途を開き、将来におけるこの種の事故の防止 をはかりたい。」 「第2号議案 四国と本州を海底トンネル等にて直結するよう要望について 徳島市議会提出 理由 最近の宇高連絡船紫雲丸沈没事故は痛恨事であり、四国の如く周囲を海に囲まれ たものにとっては、つくづく本州との直結を痛感するものである。ついては、今後かか る海難事故のない様、本格的に四国と本州を結ぶ海底トンネルその他の連絡方法を調査 し、出来る限り速かに施工出来るよう要望するものである。」 両提案に対し、中学生の多くの事故を出した高知市から賛成の発言があり、四国市議 会議長会が提唱して、四国知事会・県議長会・町村長会や町村議長会などに働きかけ結 成をはかることとした。 昭和32年10月には、香川県が本州四国連絡橋の架設計画に着手し、昭和33年3月19日 の県議会では「高松・岡山間海底トンネル又は架橋建設促進案調査特別委員会」が設置 され3月30日の高松市議会は「四国と本州を結ぶ架橋または海底トンネル(高松市亀水 町大崎の鼻―玉野市日比町)期成促進についての決議を万(#「万」は底本のママ)場 一致可決した。 その後、運動は橋に集中し、懸案の県内3ルート(高松―宇野、小槌―日比、下津井 ―坂出)を坂出―児島に一本化し、夢のかけ橋から瀬戸大橋へと促進されてきた。 ○ 新修高松市史Ⅲ P108 高松市議会時報 122(昭和30年6月1日) 本州四国連絡橋架設運動史 瀬戸大橋関係経過報告 瀬戸圏時代(四国新聞) RNCエリア情報 瀬戸大橋別冊 瀬戸大橋(四国新聞) 月刊香川 昭和45年7月号 瀬戸大橋のあらまし 昭和45年10月 問 丸亀街道について(丸) 答 琴平門前町横瀬の鳥居をくぐり、東に曲折し、苗田を通り再び北に折れて、如意山の 東麓をすぎ、丸亀平野の中央を北進する。その間、金毘羅灯籠が等間隔に点在し、公文 ・与北・郡家村の神野神社前には、茶堂跡が残っている。 丸亀旧城下町にはいる南口は、中府付近で西・北へと道路は鍵型に曲折して、市街地 になる。中府町、南条町又は富屋町、浜町を通って、丸亀港に達する。丸亀港は西汐入 川の川口にあって、内堀、新堀には、5基の灯籠があり、塩原太助をはじめ多くの講員 の刻名がしてある。そのうちの太助灯籠だけが今なお昔の面影を残している。 ○ 丸亀街道 ―225― 問 丸亀港について(丸) 答 讃岐のこんぴらさんで親しまれる金刀比羅宮から北へ約10キロ丸亀は江戸後期に金毘 羅船の発着所として賑わったところだ。今は使われていないが文化3年(1806)に福島 湛甫(ルビ たんぽ)、天保4年(1833)には新堀湛甫が築港されると、大阪淀屋橋か ら定期船が連日通い、港には旅館、船宿が並んだ。その頃の歴史を偲ばせるものに太助 灯籠がある。新堀湛甫構築時に寄進されたものだ。駅の北側にある公園から見える岸壁 が往時の港であり、明治42年以後たびたびの港湾改修により現在では大型船の発着所と なり、年間1万総トン以上の外国船を含め5万余隻の船が出入している。 ○ 丸亀市史 丸亀の港と塩飽の船方 丸亀史料シリーズ第9号