入力に使用した資料 底本の書名 讃岐ものしり事典(p210~213) 底本の編者 香川県図書館協会 底本の発行所 香川県図書館協会 底本の発行日 昭和57年4月1日 入力者名 辻 繁 校正者名 織田文子・平松伝造 入力に関する注記 文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の 文字番号を付した。 登録日 2004年5月20日
─210 ─ 問 潟元塩田と梶原景山について(香) 答 「高松の名勝」によると「松平頼恭公は潟元の海辺に塩田を開こうとして時の執政木 村亘に命じた。亘はかねてこの地において塩田開拓の経験ある梶原景山に命じて、その 工事を着工させた。宝歴3年(1753)春から着工し、5年に30余町歩の塩田を開いた。 (久米栄左衛門の坂出塩田完成は文政12年(1829)8月であり、これより74年前のこ とである。) その年が乙亥であったので、世に亥の浜と呼び、翌6年に16町歩の子の浜を開拓し た」とあり、屋島西町の塩釜神社には梶原景山碑がある。 梶原景山は諱は弼、字は寅亮、享保12年8月7日引田に生まれ、安永元年12月27日、 年46歳で歿した。塩釜神社の碑は大正14年6月11日除幕式が挙行された。 潟元にはこの外に、「新浜」「屋島塩田」があり、各資料で紹介されているが、土地 の古老の話では「生簀浜」「三間古浜」「明神西浜」「明神東浜」があったといわれて いる。 大阪朝日新聞四国版の昭和4年5月24日紙には「大蔵省は25日付大蔵省告示第85号を もって、昭和4年9月30日限りで塩の製造を禁止する地域を発表した。木田郡屋島村西 潟元字宮西の塩田廃止とあるのは三間古浜のことらしい。明神の東西浜は屋島グランド から屋島病院にかけてで、現在の琴電志度線をつくる頃、塩田が廃止され当時としては 相当高価で買収されたとのことであるが資料はわからない。 また、塩田に関する既刊の資料は、おおむね坂出、宇多津地区のものであり、潟元を 中心とする東讃塩田は塩田の構造、道具、釜屋などが異なっており、今後の研究が期待 されている。 ○ 高松の名勝 塩と碑文 屋島塩業組合沿革史 屋島 P31 香川県愛媛県塩業組合(会社)沿革史資料 P38~、P69~ 讃岐通史 P906 木田郡誌 P362 高松の事始め P175 増補高松藩記 巻3 P197、巻7 P590、附録 P56、 山田郡西潟元村字亥浜塩田御払下ヶ之義に付歎願 塩業通鑑 P92 旧藩叢書 1P21~ 新修高松市史 第1巻 P423、第2巻 P335、P637 大日本塩業全書 坂出塩務局潟元出張所 塩田研究 P14~ 御大礼記念 坂出塩業改善一斑 P363~ 近世塩田の成立 P298 塩展覧会記念帳 P23~ 讃岐人物伝 P248 讃岐人名辞書 P293 第3次整理塩田一覧 讃岐の歴史P87 修身資料 讃岐の誇 P330 問 坂出の塩田について(坂) 答 その沿革について、延喜式 (967年施行)の諸国の調の中に、「自余、輸絹、塩,阿野 郡輸熬塩」とありその頃すでに製塩が行われていた事が明らかにされている。しかし製 塩が発展したのは勿論徳川時代からで、坂出地方は文政12年(1829)久米栄左衛門によっ て塩田が築かれてから長足の進歩をとげた。古老のいい伝えまたは、記録によると慶長 ・元和の頃赤穂の人々が移住して来て塩作りを業とし、先ず古浜が 350年前に開拓され、 その面積16町余釜数18であった。現在の市役所付近一帯である。 天明7年(1787)に林田の宮武清八が御供所沖に5町余、5軒前の塩田を拓いた(こ れが現在の宮武塩田である)次に文政年間の久米栄左衛門による東西の大浜が築造され、 その広さ110余町歩、釜数72という広大なもので塩都坂出の基礎となった。ついで慶応 元年(1865)11月に8町余の綾井浜が開墾され、明治に入ってから阿賀浜・林田浜・明 治浜・本条浜・金山浜・総社浜・大番浜・金山新塩田が次々に開拓され名実共に塩の都 坂出が誕生した。 高松藩時代の坂出村は郡奉行の所属であったが、塩田は開墾地として藩の所有であっ たので、特に勘定奉行の下に御済方を置きその直轄であった。また塩会所が置かれ、塩 問屋も東西大浜に各1戸置き、産塩の売捌、石炭の買入等を掌った。 明治4年塩会所等は廃され産塩石炭取扱所が設置されたが、同15年12月これを廃 し同16年2月塩産合資会社が創立された。明治37年専売法が発布され坂出塩務局(後の 坂出地方専売局)が開府した。 しかしこの広大な塩田も製塩法の変遷により、すべて廃止され住宅地などに生まれ変 っている。 ―212― ○ 塩田の研究 近世塩田の成立 塩と坂出 塩の話あれこれ 日本塩業の研究第1集 総合郷土研究 坂出市史 香川県地誌 上・中・下 高松藩記 香川県通史 坂出地方専売局事業統計書 問 香川県の真珠業について(香) 答 香川県の母貝養殖は、昭和33年東讃の小田志度湾関係の小田、鴨庄、志度および牟礼 の4漁業協同組合によって試験養殖したのが最初である。この試験養殖が予想どおりの 成果を収め、その有利性が実証されたので県外真珠業者の県下各浦湾への入漁等による 真珠養殖漁場の増加とともに、関係地元組合の母貝養殖も年々増加の一途をたどり、本 県養殖業の中でハマチ、ノリにつぐ生産を上げるにいたった。その間母貝生産量の増加 に伴って、昭和35年度には、県漁連内に母貝養殖を自営し、または母貝養殖を営む地区 漁業組合を会員とした香川県真珠貝養殖事業連合協議会が結成され、県の指導方針の下 に、組合別着業量および総生産量を自主的に決定していった。これに基づき昭和36年 には優良稚貝の一括共同購入と、生産母貝の県下一体の統一価格による共同販売体制が 確立され、以来計画生産が実施されている。なお昭和39年度における本県の真珠母貝 生産量は450トンである。 その他、首飾・腕輪・耳飾などに使われている人造真珠製造は西讃地方に一部見られ る。これは仁尾町大字仁尾己の富士パール工業株式会社で、昭和28年4月に発足し、仁 尾町内ならびに三豊郡内各地で下請加工させ、出来上がった製品は85%を米国へ、残り 8%は豪州、7%はカナダへそれぞれ輸出されている。月産製造量は30~50万連である。 ○ 香川県の真珠母貝養殖について 仁尾町誌 問 讃岐のタイの浜焼きの起源について(香) 答 春の初ダイを藩主にみつぐ風習があった藩制のころ、タイの鮮味が失われることをき らって、いろいろ考えていたおり、一漁夫が食塩製造の際、製出する食塩の下で蒸煮し てみたところ、案外味がよく、長く保存できることに気づいて、容器として農夫がかむ っている竹皮笠をそのまま利用して、今のような浜焼きの姿ができたといわれている。 はじめは食塩の下で蒸煮していたが、食塩専売法施行後は、生きたタイを塩田の中でむ し焼きにする。しかしこれも近ごろは、あとの塩が使えないために、焼いた石の上で製 造している。 なお高松のタイの浜焼きの特色としては、腹の中へ特産の鶏卵をいれてある。 ○ 香川県水産要覧 たべもの東西南北 讃岐公論 昭24.6 高松今昔記 4巻 ―213― 問 ハマチ養殖の歴史と香川でとれる魚の本について(香) 答 ハマチ養殖では「海を拓く安戸池」で、内海漁業の行きづまりを察知し、かん水養殖 を志し、生家に近い安戸の入江に着目し、昭和2年以来、開拓者精神をもってハマチ・ イナ・セイ・タイの試験養殖に精魂をかたむけ、遂に事業化に成功した野網和三郎の一 生を紹介している。 香川の魚については、約50種の魚の紹介と月別の魚、魚の名前の方言を標準和名の索 引や魚扁のつく漢字のはいった「讃岐の魚」がある。 ○ 海を拓く安戸池 讃岐の魚 瀬戸内海における水産増養殖業の現状と将来の方向に関する報告 瀬戸内海を中心としたハマチ養殖事業の現状と問題点について 香川県水産要覧と香川県水産試験場事業報告や試験報告