入力に使用した資料 底本の書名 讃岐ものしり事典(p197~210) 底本の編者 香川県図書館協会 底本の発行者 香川県図書館協会 底本の発行日 昭和57年4月1日 入力者名 坂東直子 校正者名 磯崎洋子 入力に関する注記 文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の 文字番号を付した。 JISコード第1・2水準にない旧字は新字におきかえて(#「□」は旧字) と表記した。 登録日 2003年3月20日
-農業- 問 香川県の甘土料(「香川県の甘土料」は太字)について(香) 答 甘土料とは別名で慣行小作権といわれ肥沃料金ともいわれた。その発生の歴史は古く明治以 前からあり、大正10年以後の農民運動もために発生したことも注意されるべきである。 甘土料の存在はある一面において小作人の既得権として小作者に対して有利な立場をもたせ たのであるが、これは一面的な見方であり、この甘土料が一たん小作者の変更となれば小作者 には小作料プラス甘土料という二重の地主の搾取をうけることになる。また耕作者が新しい小 作地を借入れようとする場合には、甘土料が小作料に加わり、地主による小作料と小作者によ る甘土料の二重の搾取を受け、両者を合して、甘土料のない場合の一般的な高額小作料と (#6文字分の空白)ものとなった。 ○ 木田郡農民史 P26 讃岐農村経済の解剖 P106 耕地の売買価格、収量、小作料及甘土料に関する調査 香川県農地改革三年史 世態調査資料 第37号 -198- 問 岩瀬池(「岩瀬池」は太字)について(瀬) 答 満濃池に対して、16世紀中頃高瀬町に勝間次郎という大池があった。度重なる大洪水により 下女塚等の悲劇伝説を生みながらも、治水の解決は出来なかった。農民は水を奪われ生活は極 度に疲弊した。高瀬町に武田五兵衛という義人が現われて、苦難の末、現在の岩瀬池を築堤し て今日に及んでいる。貯水量100万立方メートル、かんがい面積高瀬町、三野町に及び370ヘク タール。 ○ 讃岐の池と水 P103~ 上高瀬村史 P110~ 三豊郡史 高瀬のすがた P180~ 高瀬町の歴史 問 岩の橋源太夫(「岩の橋源太夫」は太字)について(観) 答 豊田郡観音寺坂本に生まれる。元禄年間当地相撲界無敵の大関で、身長6尺(182センチメー トル)、体重45貫(166キログラム)あり、丸亀藩主のお抱え力士であった。当時坂本郷の地 勢は海岸方面には堤防も幼稚で海水が天候状況で深く浸入して、地域の住民はもとより農民た ちも田畑の灌水の便なく大変な苦労で飲料水にも欠乏することもあった。源太夫は丸亀藩主か ら「勝相撲の褒美をとらせる。希望があればいってみよ」といわれたとき、この様な現状を藩 主に告げ、「財田川の水を坂本の田に引く構井を造って戴きたい」と願い出て許され出来たの が今の新井出川で、その灌漑面積32町2反余に及び関係郷土民は感謝の念に燃えて、後世その 偉業を讃え碑を建設(昭和51年1月3日)した。 ○ 観音寺市誌 P495 問 西讃百姓一揆(「西讃百姓一揆」は太字)について(観) 答 寛延3年1月、数年来の旱害につづく洪水による大兇荒に加え、奸吏・庄屋等の「………無 法なる税を課すの外………日用品に至るまで重き税を課し如何に穏順なる四郡の民も忍ぶに忍 びがたく………」(西讃百姓騒動記)、笠岡村(現豊中町笠田)大西権兵衛外7名の主謀者に よって組織された三野・豊田・〔ナ〕珂(#「ナ」は文字番号39305)・多度の郡民6万余は13 か条の歎願書をもって丸亀・多度津両藩に強訴した。本格的な百姓一揆である。 13か条の歎願内容を見ると、庄屋等村役人の横暴・酷税等当時の地方政治・民衆の生活の実状 を良く知る事ができる。藩当局も民衆の組織された力の強さに驚き、直ちに10か条の重要項目 を認め、3か条については追って沙汰すべしとして解決し、郡民は松皮餅、藁だんごを食べつ づけた餓死寸前の状態からようやく脱することが出来たのである。 又郡民の要求にしたがい不法な大庄屋等12名は閉門に付されたが、一揆の主謀者として大西権 兵衛外死罪12名、追払46名外計245名が処罰された。主謀者7名の内5名迄を出した笠岡村に は、道音寺境内に権兵衛と妻子の小祠が祭られ、又 -199- 明治42年村当局・有志により七義士神社が建立され、家族をも犠牲にして(9歳の未子まで全 員死罪)郡民を餓死の危機から救った栄誉は「七人童子」又「七義士」と称され現在に生きつ づけている。 ○ 七人童子快挙録 観音寺市誌 P570~581 西讃の百姓騒動と七義民の史話 三豊郡史 P488~500 香川県通史 西讃百姓騒動記 七義士神社所蔵の資料 旧記録権兵衛神社記 丸亀領分百姓騒動覚帳 寛延騒動記録 萬覚帳 西讃の百姓一揆始末 讃岐寛政一揆の性格 問 蛙子池と太田典徳(「蛙子池と太田典徳」は太字)(香) 答 瀬戸内海は日本の中でも最も雨量が少ない。香川県はその中でも最も雨が少ないので、昔か ら稲作の殆どが溜池に依存している、更にその中でも小豆島は日本で一番雨量の少ないところ である。毎年平均1,200ミリ程度である。 しかも小さい島であるから、水の溜まる場所が少ない、その上地勢が急峻なため、流水面積が 短い、従って雨が降れば一気に水がふえるし、雨が止むと同時に谷や川は干上って河原になっ てしまう、だから島民は昔から旱魃のため非常に苦しみ悩まされている。 この苦労と心配を何とか解決しようと努力したのが、今を去る280余年前に肥土山村の庄屋太 田伊佐衛門典徳斉である、肥土山の山中千駄窪に池床を見つけて、天明2年、時の代官万年長 十郎に訴願して許可を受け、貞享元年から3か年の歳月と多数の労力多額の資材を投じて、淵 崎村、上庄村の人達と協力して貞享3年に完成した。当時池床に蛙の子が沢山いたので蛙子池 と名ずけたという。最初に出来た蛙子池は貯水量約7.8トン程度の池でその後代々の庄屋や池 惣代や村人たちによって数度に渡る池床の拡張や嵩上げ工事が行われ、現在は貯水量約60数万 トンの溜池になった。 ○ 蛙子池関係文書 小豆郡誌 讃岐の池と水 P77 讃岐のため池 古今讃岐名勝図絵 P200 問 香川用水(「香川用水」は太字)について(香) 答 香川用水は、昭和43年10月に着工して以来、10年の歳月を経て完成した。香川用水計画とは 、早明浦ダム建設を中核とする「吉野川総合開発計画」によって香川県へ分水されることにな る年間2億4,700万トンの用水を香川県内へ導水し、農業用水、都市用水(上水道、工業用水 )として供給するための一連の計画をいう。昭和23~24年度に吉野川総合開発計画による調査 が実施された。昭和40年早明浦ダム建設着手、同48年竣工。昭和43年10月23日香川用水事業の 起工。用水を供給する区域は、島しょ部及び山地部の町村を除く5市30町に及ぶ。年間供給水 -200- 量は農業用水が1億500万トン、工業用水が7,900万トン、上水道用水が6,300万トンである。 吉野川からの取水は、池田調整池から約8キロメートルの阿讃導水トンネルにより、三豊郡財 田町財田中まで導水される。そしてこゝで東西の両幹線水路に分水する。昭和49年暫定通水し 、同53年完成した。香川用水建設の事業費は約674億円である。 ○ 香川用水史 P25 香川県農業史 問 鎌田池(「鎌田池」は太字)について(坂) 答 坂出市南部にある高台、同市福江町に鎌田池がある。この附近は現在「大池原」(ルビ お おいけばら)という地名で呼ばれているが、古くはこの一帯を「鎌田か原」と呼び、鎌田池の 池名もこれから出たといわれる。 鎌田池は、上池(又は鎌田池)と下池(又は福江大池)の2つから成っており、普通これら を一括して「鎌田池」と呼んでいる。 さて、これら2つの溜池の起源は明らかではないが、「全讃史」や「讃州府誌」によると、鎌 田池の条に「福江村に在り。往古よりこれあり。」とあり、更に福江大池の条に「同じく福江 村に在り。寛永4年之を作る。」とあるので、下池は寛永4年(1627)に築かれ、上池はその以 前に築かれていたようである。 また、この池の歴史は、“塩の町”坂出市の開発史にさかのぼる。塩田をつくり、坂出干拓 を成功させた久米栄左衛門の偉業と共に息づいてきたのである。 下池は、旧川津の四組横井から大束川の水を引いて貯水していたが、上池は常山の落ち水を受 けるだけであった。そこで、栄左衛門は、「水たまりの悪い上池に何とか貯水を」と、大束川 に目をつけ、坂出干拓を成功させた翌年の天保元年(1830)に掛井手堀削工事を完成させ、旧坂 本横井からの水利で貯水できるようにしたのである。その後、水稲耕作が増えるのに伴い、明 治20年、下池の増築が行われた。しかし、干拓地に造成された坂出の宿命は、飲料用の地下水 の欠乏だった。急速に進む農地の宅地転用によって、かんがい両積が減少したため、昭和7年 、やっと上水道に鎌田池・上池が充てられた。このとき上池を仕切ってできたのが、中池であ る。 以後、昭和51年9月まで市上水道水源として使用されてきた上池は、鴨川浄水場に一本化さ れて、水源機能を中止。また、中池は市立坂出中学校建設地として埋め立てられ文教地に衣替 えし、下池も一部埋め立てられテニスコート、児童公園が建設されるなど市民の憩いの場に変 容している。 ○ 讃岐のため池 P224~P227 讃岐の池と水 P83~P86 全讃史 P415 ~416 四国新聞 昭54.8.22 ため池百選 坂出市史 西讃府誌 -201- 問 借耕牛(「借耕牛」は太字)について(香) 答 讃岐では耕作に主として牛を使用していた。6月と11月の耕作時には耕牛が不足するため、 となりの阿波からその期間牛を借入れる風習があった。 阿波の山村には草生地が多いので、牧牛がし易いため水田に比して耕牛を多く飼っていたの で農繁期の讃岐へ牛を貸すわけである。 コメトリウシといわれたのは牛を貸してかわりに米1石をもらって行くからである。多いと きは阿讃の国境の峠を越えて数百頭の牛がきていた。しかし、耕耘機の普及とともに借耕牛は 今はすっかりすたれてしまった。 ○ 香川県地誌中 P20 日本の民俗37(香川)P90 下高岡農協史 借耕牛の研究 四国農業試験場報告6巻 香川県放送郷土新誌 問 香川県の干拓地(「干拓地」は太字)について(香) 答 (1) 高松藩では初代藩主頼重が寛文7年(1667)に山田郡沖松島(現在の高松市松島町)よ り西潟元までの間18町に堤防を築いて干拓せしめた、これが木太春日、潟元新田である。 (2) 阿野郡西庄村(現在の坂出市)の大庄屋本荘和太郎左衛門は嘉永4年(1852)より5年 の年月をかけ、私財を投じて江尻村海辺に新田を開き、これが今に本荘新田と呼ばれる 美田である。 (3) 観音寺市と大野原町にまたがる104.3ヘクタールの干拓地を三豊干拓という。昭和43 年に竣工した。 ○ 新修香川県史 P608 県土地改良課 問 国市池(「国市池」は太字)の承水溝について(瀬) 答 国市池は三豊郡第一の大池で、灌漑255ヘクタールを潤している。 昔、生駒藩政の慶長年間に初めて築造に着手し、京極氏入国の後、寛文中に完成されたとい われている。 この池の水源は、遠く高瀬川の上流、高瀬町下麻に発し、高鳥横井で高瀬川の流れをひき、 勝間にいたって、水増池に注ぎ、原に出て比地二でこの池に入る。延長7キロの承水路である。 隣接の勝田池と共に高瀬川より取水できるのは、秋の彼岸から春の彼岸までとされている。し かし、溝路は年を経てうずもり、貯水量も減少し、累年干害を多くみるに至った。昭和7~8 年改修工事をほどこし、現在に至っている。 ○ 高瀬町誌 P321 西讃府誌 P468、P497 香川ものしり事典 P113 国市池承水溝記念之碑 勝田池の碑 -202- 問 衣掛(ルビ こがけ)池(「衣掛池」は太字)について(香) 答 盆栽の町高松市鬼無町は、この衣掛池の池掛りである。衣掛池の名は、むかし西行法師がこ の池で路傍の松に衣をかけて休んだところから名付けられたと「讃州府誌」などに見える。池 が築造されたのは「衣掛池之碑」によると、西嶋八兵衛が神内池ほか90有余の池を寛永3年か ら13年(1627~37)にかけて築造竣工した池のひとつにあたると記されている。「全讃史」に は生駒氏高松要害のために築くとも書かれている。池自体の直接流域をもたぬため水源を本津 川、香東川、宮下出水と変更し、現在は内場ダムから水を引いている。この池の満水面積126, 250平方メートル、有効貯水量371,310立方メートル、かんがい面積75ヘクタール。 ○ 讃岐のため池 P272 香川県のため池実態調査 P9 問 三大小作争議(伏石、金蔵時、土器事件)(「三大小作争議(伏石、金蔵時、土器事件)」 は太字)について(香) 答 第1次世界大戦後、急激に勃興したデモクラシー思想を背景とした杉山元治郎等の指導によ って全国にひろがった日本農民運動の渦の中で小作料減額要求から端を発したもので、伏石事 件(大正11年)は窃盗罪、金蔵寺事件(大正14年)と土器事件(昭和2年)は騒擾罪という罪 名に問われた。 小作争議は大正10年から昭和4年まで起こっているが、香川県がその中心になったのは①圧 倒的に小作地が多い(全国40%に対して63%)②経営規模と耕作面積が全国一零細③日本農民 組合の組織が強力(昭和2年末支部127、組合員12,263人) また小作争議は政治運動に発展し、昭和2年9月の県議選では溝淵松太郎・平野市太郎・中村 康三が当選し、3年2月の初の普通選挙では1区上村進、2区大山郁夫が労働党から立候補した。 ○ 香川県近代史 P848~854 香川県警察史 P29~42 香川県農民運動史の構造的研究 明治100年 P208~213 香川県農民運動の史的考察 農民運動と高松事件 木田郡農民史 再建・生活の探求(島木健作) 讃岐の文学散歩 文学のふるさと(15) (山陽新聞 昭和35年5月22日) 問 志度寺の庭園(「志度寺の庭園」は太字)について(香) 答 大川郡志度町の志度寺の庭園は、讃岐の守護細川家が造営し、寄進した曲水式庭園である。 これは、わが国造園の大家である重森三玲が、戦後、志度寺書院の改築設計のため来町したと き判明した。そして、重森氏指導のもとに昭和37年復元完成した。面積3,300平方メートル。 このような庭園を曲水式庭園といい、もともと中国からはいってきた造園方法で、池水は入江 が多いのが特徴とされる。堀の上手から流す酒盃で、参集の詩人が、酒をいたゞくまでに詩か 歌をつくるという一種の遊びに使われ、わが国でも、平安時代の貴族の間で盛んに行われた。 -203- 池中の島は、志度寺縁起にちなんで竜蛇の形と真珠島とを模したものといわれる。 ○ 志度町史 日本庭園史大系 第29巻 P80 問 小豆島百姓一揆(「小豆島百姓一揆」は太字)について(香) 答 明治維新直前は幕藩体制は根底からゆさぶられ、ペリーの来航による安政の通商条約から物 価は高騰し、百姓は最も大打撃を受けたが、同時に支配階級である大名にとっても、藩財政は 壊滅の危機にひんしていた。 小豆島の西部6郷は、天保9年(1838)3月幕領倉敷代官の支配から津山藩に移ったが、津山 藩は次第に新法を課し、遂に文久元年(1861)に年貢の1割増を含む新法6か条の増税を課した。 百姓は、最初合法的に新規6か条の停止と旧政に復することを要求する歎願書を提出すること になり、各村より2名の惣代を選んだが、納得のいく返答がなかなか与えられず、遂に、日頃 藩権と結んで百姓を苦しめていた高利貸や問屋など30余軒の島内有力階層を打毀す大規模な暴 動を、慶応3年(1867)1月13~17日(日本歴史大辞典では1月29日)起こした。主謀者は津山 に送られ「永牢」に処せされたが、その年の暮には大政奉還が行われており、津山で死亡した か、小豆島に帰ったかは不明。 ○ 小豆郡誌 P130 小豆郡略史 P1057 文化財協会報特別号 5 義民小村田之助 P85 近世小豆島社会経済史話 2 P139 わたしたちの小豆島 P19 問 大化の改新当時の条里の跡(「条里の跡」は太字)について(香) 答 大和朝廷は豪族などの私有していた土地を全部収用して公田とし、土地の区割りをし、区分 けした田を男一人に20アール、女はその3分の2、5歳以下は支給せず、これを6年毎に更新 した。土地の分配を公平にするため耕地を碁盤の目のように整理した。これを条理の制という。 条理のやり方は、大体郡毎に土地を6町(約650メートル)間隔で縦横に区切り、6町間隔の 列を「条」6町四方の一区画を「里」と呼び、その境界にはあぜ道や用水路を設け不便をなく した。 旧多度津郡では〔ナ〕珂郡(#「ナ」は文字番号39305)との境界となる金倉川を基準に一条 が始まり、金倉川が山地に接する大麻神社付近を起点として一里が始まった。 ○ 多度津の歩み④ 山陽新聞 昭45.8.5~10.2 史蹟名勝天然記念物調査報告1 文化財協会報特別号3 讃岐香川郡誌 P152 地理学研究15 讃岐平野の条理制 讃岐文化の展望 上 P48下 P8 讃岐の条理 -204- 問 線香水(「線香水」は太字)について(香) 答 香川県の主として東部地方には、古くから水ブニ(水反別・石高水・香水等)と称する特別 な用水権がある。 この水ブニと称する用水権は総有的な観念がなく、用水権は各一筆一筆の土地毎にその持分が 定まっており、土地の所有者は、その用水権の持分に応じてのみ用水の分配をうける。原則的 には土地に付随した一定量の用水権の持分を水ブニと称する。 水ブニの持分を示す単位として ● 水反別(水畝)で示すもの ● 引用水量に対する持分の割合(本・歩・厘)で示すもの ● その他香の長さ(香寸)石高引水時間等で示すものがある。 そのうち香水が線香水のことであり、抹香または線香の燃焼に要する時間が分水時間となる もので何寸何分と持分が記入されている。 ○ 香川県農業水利慣行調査 農業香川 昭和29年6月号 香川県讃岐平野における農業水利慣行 香川の水(四国新聞昭和43年11月切抜き) 香川の水(讃岐公論昭和37年8月抜刷) 問 高瀬銘茶(「高瀬銘茶」は太字)について(瀬) 答 茶の起源については、四国山脈に山茶として地生していたとも、備中の人栄西禅師が宋から 茶種を持ち帰って広めたとも、紀伊の人明恵上人が銘園五場を選んで種子を播いたともいわれ ているが明らかではない。 讃岐では丸亀藩主が高瀬の茶を愛飲される等その栽培は古く在来種の古い木が処々残っている 。又その成育も極めて順調で茶の生産に適している所から新しい品種の栽培が始まり色、味、 香、共に全国トップレベルをいく高瀬銘茶は年産167ヘクタールで3,400トンを目指して整備が すすめられている。 ○ 高瀬町資料集 問 香川県には大小多くの溜池(「溜池」は太字)があるが、その歴史や普請について知りた い。(香) 答 「讃岐の池と水」によると県の溜池台帳に登録してあるものは18,606池と書かれている。こ れは農家4~5戸に1溜池の割合である。このうち29の溜池についてその歴史と参考文献を記 載してあり、また池普請の今昔も詳細にのべている。 また、「讃岐のため池」は70の溜池について詳細に記してある外、讃岐の水利についてもくわ しく述べてある。さらに、各市町村史にも多く記載されている。 ○ 満濃池史要 美合村の地名とその伝説 土器川上流の歴史と伝説 -205- 文化財協会報特別号7 農業香川 昭和36.1~37.12 讃岐のため池 物語藩史7 P405 農業教育高校教育研究会農業部会創刊号 問 内場ダム(「内場ダム」は太字)について(香) 答 塩江から約1キロ琴電バス内場池停留所で下車すると、眼前に大きな堰堤と緑の山に囲まれ た広い水面が現われる、この池が内場池である。 香東川の一支流内場川を高さ50メートル、長さ157メートルの堰堤でせきとめ、周囲6,500メ ートル、貯水量740万トン。これは、ほぼ満濃池と同じ容積に当たる 県下屈指の大きな池で ある。 これだけのダムを作ることによって私たちは治水と灌概(#「概」は底本のママ)と上水道 の三つの面で非常に大きな恩恵を得ることになるので、多年頭痛の種であった洪水の防止はも とよりのこと、香川郡と高松の面積にして4,700町歩というものが灌漑用水の悩みから解消され るのである。 また、一方この内場ダムに直接水道管を通すことにより、高松市の上水道は完璧の布陣を布い たようなものである。 総工費7億5千万円 工事に当たっては幾多の困難があった。 昭和13年工事がはじまったが、太平戦争が激しくなって一時工事は中止、戦後24年再び工事を 始め昭和28年3月が完成した。 車で池の周囲を一周するに約20分、水面にうつる阿讃の山々の変化に富んだ美しいながめは四 季を通じて旅客の目を楽しませている。堰堤西側小高い丘の上には、池の守護神竜神社がまつ られている。又堰堤の西端、池に面して池築造の親ともいうべき中村和七翁の銅像がある。 池にはにじ〔マス〕(#「マス」は文字番号46492)、鯉、鮒、うなぎなどが放養され季節に なると釣を楽しむ者が後を絶たない。 ○ 塩江町史 P45 生徒の社会科研究 第3号 讃岐の池と水 P23 月刊香川 昭和28年7月号 讃岐のため池 問 奈良須池(「奈良須池」は太字)について(香) 答 高松市岡本町にあるこの池は、大池番付で満濃太郎、神内次郎、三谷三郎に次ぎ奈良須四郎 と呼ばれる大池である。しかし、高松藩初代藩主松平頼重公の御蔵奉行前田与三兵衛によって 寛文10年(1670)8月に奈良須池が完成するまでは、土姓池、上池、下池、よしま池の4つの小 池が相接して築かれていた。そして、いい伝えによると、この池には古くから度々大池の築造 が目論まれたが、いつも困難にあい完成することができず、ついには「不成(ルビ ならず) の池」と呼ばれるに至っていたという。 ○ 讃岐の池と水 -206- 溜池物語(農業香川36.1~37.12) 美しい香川県 讃岐のため池 問 香川県の農業解放以前の大地主(「農業解放以前の大地主」は太字)の戸数はどれだけか (香) 答 香川県50町歩以上所有の地主の調査(大正13年6月)によると、その地主の戸数は48、その 職業は商業8、工業1、農業21、他の職業を兼ねるもの18。またそれを郡市別に見ると大川14 、木田5、高松2,香川1,綾歌5,仲多度8,三豊11、丸亀2となっている。 ○ 日本農業発達史 第7巻 P671~P765 香川の農民運動 P410 問 豊稔池(ルビ ほうねんいけ)(「豊稔池」は太字)について(香) 答 豊稔池は三豊郡大野原町の旧五郷村田野々部落にある。大正9年と13年の大旱魃で灌漑用水 の必要を痛感し、大関耕地整理組合を組織し、組合長合田梅太郎を中心に計画をすすめ、大規 模な新溜池を完成した。 豊稔池は山と山の間をせきとめて池をつくるダム形式をとる原則から、田野々部落柞田川上流 に絶好の池床を認め、工事は県営事業とし大正15年3月27日起工した。 堰堤構造は、わが国農用溜池では例のない近代的な大規模なもので、様式は農林省指定多拱式 石堰堤で総工費559,800円、完成は昭和5年3月27日。 築堤上向って左の山の際に、築造の由来と工事の経過を書いた豊稔池碑があり、木と木の間か ら見える高さ300メートル余の石堰堤は見事である。 有効貯水量は159万立方メートルで、県内5番目の大きな池である。 ○ 大野原町誌 P804 五郷山部分林史 P357 郷土の先覚者(四国新聞) 讃岐のため池 農業教育 創刊号は県下の溜池の水系と貯水量や受益面積の一覧を登載している。 問 鬼無の盆栽(「鬼無の盆栽」は太字)について(香) 答 文化年間に山野に自生する松を掘りあげ鉢植に仕立てたものを、金刀比羅宮に参拝した人達 が、土産品として買いとって行ったことがきっかけとなり、今日に至ったといわれている。技 術的な面においては北山太作氏、神高氏、平木氏等で研究が重ねられ、その後鬼無甚三郎氏に よってさらに技術が深められ基礎が築きあげられた。 立地条件では、花崗岩系の砂壌土で水排けが良く、雨が少なく、日照時間が長 -207- いという点で恵まれ、他産地にない風格のある盆栽が生産される。 栽培面積は50ヘクタール、戸数は150戸、種類では黒松、錦松、五葉松などで、黒松が80%を 占めている。全国的には90%までが鬼無で生産されている。 大正中期に組合が設立され、第二次世界大戦の勃発で生産が衰えたが、戦後愛好家により栽 培が開始されて昭和41年には戦前の水準までに復活した。 今では毎月15日に盆栽市を開催し、盛会をきわめているが、将来は都市化の影響を受けて、 苗木養成と仕立て専門農家に分業化が進行するだろう。 ○ 香川の園芸 ’71 P105 盆栽史 総合郷土研究 P369 新修高松市史Ⅰ P671 錦松由来記 問 丸亀のため池(「丸亀のため池」は太字)について(丸) 答 丸亀は主として水稲作で農家経営をしていたが、水源が少なかった。 香川県内には、溜池台帳に登録されたものが1万8千、それ以外を加えると約2万ある。農 家戸数約9万戸だから農家4~5戸でひとつの溜池をもつ割合で、なかには、三豊郡の神田・ 二宮・麻・財田などのように農家の数より溜池の多いところさえある。全国における溜池数は約 30万といわれるが、香川県下は実にその一割にちかい数を占めている。又、県下の水田面積が およそ、5,700町歩であるから、そのウエートがいかに大きいかがわかる。水田の用水として 供給をうけている水源の割合をみると、溜池を水源とするもの70.4%、河川16.3%、地下水11.8 %、天水1.5%である。讃岐の産米を百万石とした場合70万石は溜池の水を利用していること になる。全国的には溜池に依存するものは68%で、香川県の場合はまったく逆である。これに よっても香川県の農業の場合、いかに溜池の存在が重要であるかがわかる。 丸亀における溜池は、溜池台帳には43あり、最高貯水量156,896立方メートル(郡家町、枡 池)がある。この枡池は天和元年に築造され、堤長1,068メートル、堤高45メートルある。最低 貯水量700立方メートル(飯野町、神谷池)で、堤長54メートル、堤高12メートルがある。 ○ 新修丸亀市史 讃岐のため池 四国開発の先覚者とその偉業 第3集 ため池 問 満濃池(「満濃池」は太字)について(香) 答 香川県最古、日本最大の溜池として有名なこの池は、仲多度郡満濃町大字神野にあり、浸食 谷を利用してつくられ、吉野・七箇にまたがっている。 最初、神野池と称したが、真野・万農・万濃・万能等の変遷を経て満濃池となる。 -208- 大宝年間(701~704)に創築され、弘仁12年(821)の僧空海の修築以後、多くの改良が加えら れ、堤長155メートル、堤高32メートル、周囲19.7キロメートル、最大水深30.14メートル、満 水面積139.6平方キロメートル、貯水量15,400,000立方メートルの規模を有し、4,600平方キロ メートルの灌漑面積を誇り、名実共に讃岐第一の名池に恥じぬものとなった。 今昔物語(大納言源隆国著、藤原時代の説話集)に、この池に竜が出た話が記載されている。 ○ 満濃池史要 讃岐の池と水 P48 さぬきの地名とその伝説 P15 讃岐民話集 P231 世界大百科事典(平凡社)27 P289 新修香川県史 P672 農業香川 昭和36年6月号 讃岐公論 昭和39年9月~40年4月号 新さぬき風土記 P181 香川県民俗誌 美しい香川県 讃岐のため池 問 万象園(「万象園」は太字)について(香) 答 昭和50年5月26日に名勝として、丸亀市文化財に指定された庭園で同市中津町にある。 元丸亀京極藩の別邸で、世間ではこれを中洲の御茶所と呼んだ、広大な庭園、御茶所、魚楽 亭、観潮〔ロウ〕(#「ロウ」は文字番号15430)などを造った。藩主はしばしばここから瀬戸 内海に浮かぶ塩飽七島をはじめ、その間を往き交う真帆片帆の風景を眺め、茶会などを催した 。なかでも6代藩主高朗は詩人で琴峯と号し、「中津即興」「観涛〔ロウ〕(#「ロウ」は文 字番号15430)」など多くの作詩がある。明治維新後は民間人の私有となった。 面積349平方メートル余、江戸時代の大名庭園である。 ○ 丸亀市史 P103 丸亀の文化財 P115 問 水ききん(「水ききん」は太字)について(丸) 答 丸亀における水ききんは寛永3年(1626)天明3年(1783)など、ひでりの害は深刻ななやみの 種であった。よく「香川の旱魃、高知の洪水」といわれるが、住民は食べるのに食なく草木の 葉まで食べたという。自然の猛威をうけて、立枯れの稲を救うために苗ごとに水を注ぐ「どび ん水」ということも行われ、それでも足らず真剣に神に祈った。そのため水に関係のある神社 が他県にくらべて多く、また各地の雨乞いの風習や行事が沢山残っている。 ○ 讃岐のすがた P66 新修丸亀市史 P224、P246、739 「讃岐の雨乞踊」調査報告書 -209- 問 讃岐の水呑百姓(「水呑百姓」は太字)について(善) 答 大名を統率するために徳川幕府が用いた参勤交代の制度や幕府からのわりあての土木工事な どは、各大名の重荷となって財政は赤字つづきであった。武士は経済に困り、農民には多くの 税金をかけ、常に農民は生死のさかいをさまよう様な苦しさとなったのである。 そして「百姓と油はしぼればしぼる程出る」という言葉が流行するようになったのである。 わが讃岐においてもこの例にもれないのである。検地とは田地を測量し、田の品をしらべて土 地台帳に記入することで、このため百姓が生活を豊富にしようと思って役人の目をぬすみ新に 知らない所へ田畑を作ったのを役人がこの検地によって税金をかけるようになることで、幕府 の定めた年貢の率は四公六民といって、4割の米を年貢に出し、6割を農民の所得とすること で、大変に税金は重く、小作人はこの中から更に地主に年貢を出さなければならないので名の 通りの水だけしかのめない水呑み百姓であった。 そして、この新しい田の開墾は農民のためでなく、赤字つづきの諸大名の経済を救うためであった。 ○ 讃岐の地名とその伝説 P45 問 三豊のミカン栽培(「ミカン栽培」は太字)について(香) 答 観音寺第一高等学校地歴部、昭和43年3月発行の「地歴の窓第4号」は、三豊・観音寺地区 におけるミカン栽培について研究報告をしている。 昭和40年度における県内のミカン生産高は23,060トンで、うち、三豊・観音寺地区は約40% の11,526トンであり、昭和38年には三豊柑橘センターが、昭和41年には県下随一の三豊共同選 果場が設立された。 五郷地区では嘉永3年(1850)井関川東の神職佐伯国治氏が、大阪より苗木を持ち帰り屋敷に 植え、曽保地区では安政の頃、浅野兵助氏が温州ミカン10本を屋敷の庭に栽培したことから、 大野原・仁尾の山際で栽培されるようになった。 中国・九州を除いた全国各地にトラックや貨物列車で出荷され、また高瀬・山本・財田にあ る缶詰工場で加工され、国内はもちろん欧米にも輸出されている。 ○ 地歴の窓 4 大野原町誌 P1038 大野原の姿 仁尾町史 P373 生徒の社会科研究 7 香大農学部紀要 5(大野原町五郷) 地理学研究 12(香川県下)、17(坂出市)と20(観音寺市) 問 栗林公園(「栗林公園」は太字)について記している郷土資料名を知りたい(高) 答 香川県の文化財 香川県名勝しおり 古今讃岐名勝図絵 P275~P278 高松の名勝 P52~P66 -210- 西嶋八兵衛と栗林公園 栗林公園案内 栗林公園 栗林公園掬月亭並びに庭園修理工事報告書 問 竜満池(「竜満池」は太字)について(香) 答 香川郡香川町川東にある竜満池は、昭和初期、仏生山~塩江間にガソリンカーが開通して、 一躍桜の名所となった。この竜満池の築造は、寛永4年(1627)、生駒時代、西嶋八兵衛の手に よったと伝えられる。大野池、北田井池、立満池ともよばれたが、江戸末期の庄屋竜満権之守 の名をとって竜満池となった。貯水量50万トン余は、香東川の自然水を利用、岩崎橋南の、一 の井関から導水する。受益面積は大野、川東で200町歩である。水持ちの悪い水田が多く、不 足勝ちの水を平等に分けるための「香水」(ルビ こうみず)や三足半などの水利慣行がある 。香水は、香盤で香をたいて時間配水した、のち時計に変わった。むかしは、配水のため死人 が出る程の水げんかもあった。川東八幡のお旅所が、池の中に設けられ、堤に桜が植わり、昭 和初期はにぎわった。いまは池の一部が埋め立てられ変わりつつある。 ○ 讃岐のため池 P280 香川町史 P110、P603