産業 (17K)

入力に使用した資料
底本の書名    讃岐ものしり事典(p192~197)
 底本の編者    香川県図書館協会
 底本の発行者   香川県図書館協会
 底本の発行日   昭和57年4月1日
入力者名     坂東直子
校正者名     磯崎洋子
入力に関する注記 
    文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
    文字番号を付した。
    JISコード第1・2水準にない旧字は新字におきかえて(#「□」は旧字)
    と表記した。

登録日   2003年3月20日
      

-産業-

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問 庵治石(「庵治石」は太字)について(香)
答 庵治石とは、木田郡庵治町の久通、丸山あたりで採石される花崗岩をいう。この石は硬くて
 、風化に強く、特に細目という石は、雲母、長石、石英の1つ1つが細かく、磨くと美しい石
 になる。黒雲母の量によって細目、中目、荒目と分けられ、それぞれ石灯籠や墓石などに加工
 され、県内外に送り出されている。昔は、庵治石を採取される山は高松藩が管理していた。採
 石や加工の方法も、火薬やノミを使っていた時代から、現在は機械化されて、切断機、研磨機
 によって多量に製品が出来上っている。町は石屋が軒をつらねている。
○ 庵治町史 P281  香川の産業誌 P76  庵治石の歴史

問 一閑張り(「一閑張り」は太字)について(丸)
答 木製の原型を使って漆やのりで紙を張り重ね、型から抜き取ったものを素地とした漆器、ま
 た机のような板物素地に紙をのりで張り重ね、漆をほどこしたものをいう。その名称は塗り師
 飛来一閑(1578~1657)の考案によるところからきている。一閑は明人で寛永年間に帰化。
 その作品の雅味を愛した千宗旦が茶道具として用いた。
  山田貞助さん(丸亀市幸町)が伝える丸亀独特の一閑張りは、竹製品に手すきの紙を何枚か
 張り、その上を柿渋で何回も塗り固めたものである。製品は菓子器、盛り皿、書類入れ、ちり
 とりなどいろいろだが、それぞれに創意をこらしおのおの違った趣をみせている。
○ 中国・四国の民芸 P158  日本の名産事典

問 うちわ産業の今昔(「うちわ産業の今昔」は太字)について(丸)
答 全国の9割を占めたうちわ産業も昭和42年ごろから材料の竹の生産や和紙の生産が減少した
 こと、乾燥に経費がかさむこと、さらに従業員の減少、高齢化もあって、丸亀うちわ製造の前
 途は多難である。昭和41年に年産6,970万本を生産し、従業員も2,500人であったが、昭和50年
 には約5,000万本、従業員も1,100人と大幅に減少している。しかし、高級品のうちわは依然好
 評であり、また、車のアクセサリーなどのミニ飾りうちわや壁かけうちわ、モビールうちわ
 (動く彫刻)、郵便うちわなど民芸調の装飾品はみやげ品としても喜ばれ需要が見込まれてお
 り、本来の用途以外である宣伝用や装飾用にも数多くつくられている。
○ 香川の産業誌 P26

問 うちわ産業の起源(「うちわ産業の起源」は太字)について(丸)
答 寛永10年(1643)金刀比羅大権現の別当宥光が金刀比羅宮の御紋である「羽田

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 扇」にちなんで、金刀比羅詣りの土産として(金)の印(#「金」は丸囲み)を入れた団扇を
 作ることを思いつき、生駒藩の時代に大和団扇の本場大村藩から先覚者2名を招いて金刀比羅
 団扇の製造を始めたのが起源といわれている。「すおう」と称する植物の汁に明礬を混ぜて色
 をつけたが幾度も塗り重ねるので、大量生産が困難であったが、ドイツから「スカーレット」
 と称する染料が輸入せられ着色が容易となり能率もあがるようになった。最近では全国生産の
 8割をあげているといわれているが、電化・機械化時代になり、丸亀団扇は幾多の問題をはら
 んでいる。
○ 団扇の研究  丸亀団扇の起源と沿革  地理学研究 18
  塩屋平柄団扇沿革の概要  讃岐産業2600年史年表
  丸亀の団扇-讃岐公論 昭25.4~29.11
  丸亀高校社会部亀山 3  高松南高校郷土誌研究会丸亀

問 志度町の桐下駄(「桐下駄」は太字)について(香)
答 全国の生産量の三分の一といわれる志度町の桐下駄は、明治40年、大川郡大内町丹生出身の
 砂山房太郎によって、書生下駄、日和下駄がつくりだされた。昭和5年には、年産約9万足を
 製造している。第二次世界大戦戦後、大坂へ販路を求め、技術改良もした。昭和26年ころは、
 年産130万足を製し、志度の桐下駄の名を高めた。原材料の桐は、新潟県をはじめ遠く国外か
 ら送られてくる。桐材のアクをぬくため、路地横に積みあげられている風景は、志度の風物詩
 である。全工程のうち、機械はわずかで、あとはほとんど職人の手造りである。
○ 香川の産業誌 P71  志度町史 P803  伝統さぬき拝見 P4

問 讃岐円座(「讃岐円座」は太字)について(高)
答 三代物語円座の郷の条に「円座を造る工人、これ(円座郷)に居る、故に名づく。その工、
 唯一人、その制を密かに一子に伝う、世に最も珍とする所にして、天下に名あり。」とある。
  円座は神社や寺院の土間や板敷のところで用いる円形の座席敷物である。材料ははじめ蒲の
 葉を用い、のちには菅や蘭・藁でも作った。
  讃岐円座は早く平安時代から讃岐の特産品であった。延喜式巻第23の交易雑物の条に、讃岐の
 特産品として「菅円座40枚」とあり、また庭訓往来にも「伊予すだれ讃岐円座、同じく檀紙、備
 前刀云々」とあって、多く作られていたことが判明する。
  江戸時代には生活様式が変わり需要が少なく、したがって生産がとだえた。
○ 円座村史 P8  高松藩祖松平頼重伝 P207  法勲寺村史 P45
  香川郡誌 P144  三代物語2 P88  全讃史 P498
  綜合郷土研究 P746  古今讃岐名勝図絵 P328

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問 讃岐三白(「讃岐三白」は太字)について(高)
答 砂糖・塩・綿を讃岐三白という。
○ 香川県通史 P902-916  讃岐糖業の沿革  新修高松市史2 P628-635
  日本産業史大系7(中国、四国篇)  津田町史 P122-131  讃岐製糖史
  新香川 昭35.7.8  四国法務 昭32.10  久米栄左衛門  総合郷土研究
  月刊香川 昭29.8  農業香川 昭32.2と昭32.4  文化財協会報特別号9
  物語藩史7 P409

問 〔ショウ〕油(#「ショウ」は文字番号40011)の起源と小豆島〔ショウ〕油(#「ショウ」
 は文字番号40011)(「〔ショウ〕油の起源と小豆島〔ショウ〕油」は太字)について(香)
答 わが国における〔ショウ〕油(#「ショウ」は文字番号40011)のはじまりは室町時代中期
 からといわれているが、京都の宮廷を中心とした公〔ギョウ〕(#「ギョウ」は文字番号
 2880) や僧侶・上層の武家階級のみが使っていたようで、江戸初期以来、大阪城御用の味
 〔ソ〕(#「ソ」は文字番号4303)用塩を献納しつづけた小豆島に、京都乃至大阪の醸造家か
 ら塩廻船の船頭たちによって、きわめて自然にもたらされた。そして彼らを通じて、次第に富
 裕な塩浜主や村役人層の間で自家用として作られはじめたといわれ、一般農民層が自家醸造を
 はじめたのは文化年間(1804)以降といわれている。
  新修香川県史、香川県の歴史、小豆郡誌、近世小豆島経済史考は、文化6年(1809)安田村の
 醸造家高橋(橋本屋)文右衛門をもって、嚆矢としているが、近世小豆島社会経済史話第3集
 と内海町史年表は、文化元年(1804)に高橋文右衛門が〔ショウ〕油(#「ショウ」は文字番号
 40011)製造をはじめて、大阪の問屋へ販売したとあり、島〔ショウ〕油(#「ショウ」は文
 字番号40011)の始源は寛政年間(1791~1800)とも考えられる。
○ 近世小豆島社会経済史話 第3巻(塩・〔ショウ〕油(#「ショウ」は文字番号40011)
 篇)
  小豆郡誌 P642~
  内海町史年表 P66  香川県の歴史 P242  新修香川県史 P601
  近世小豆島経済史考 P88~  讃岐産業2600年史年表 P27

問 小豆島の特産〔ショウ〕油(#「ショウ」は文字番号40011)・素〔メン〕(#「メン」は
 文字番号47827)・甘藷・オリーブ(〔ショウ〕油・素〔メン〕・甘藷・オリーブ」は太字)
 などの起源について(香)
答 讃岐産業2600年史年表によると
 天正11年(1583) 大阪築城用として石材を徴す。
 文禄年間(1592~1595) 小豆島の住人浪華地方に至り始めて〔ショウ〕油(#「ショウ」は
            文字番号40011)醸造を習得す。
 慶長3年(1598) 池田村某伊勢参宮途中大和三輪に留まり素〔メン〕(#「メン」は文字番号
         47827)製造を伝習す。
 享保20年(1735) 甘〔セキ〕(#「セキ」は文字番号32242)栽培を始める。
 文化6年(1809) 安田村高橋文右衛門、〔ショウ〕油(#「ショウ」は文字番号40011)を大
         阪方面に販売す。
 明治34年(1901) 小豆島〔ショウ〕油(#「ショウ」は文字番号40011)製造同業組合設立す。
 〃38年(1905) 小豆島〔ショウ〕油(#「ショウ」は文字番号40011)製造同業組合が〔ショ
        ウ〕油(#「ショウ」は文字番号40011)試験場をつくる。
 〃41年(1908) 香川県農業試験場、農商務省の嘱託により西村にオリーブ100本を試作し、44
        年果実を採取す。

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 〃43年(1910) 香川県〔ショウ〕油(#「ショウ」は文字番号40011)試験場を苗羽村に置く。
大正3年(1914) 大膳頭福羽子爵オリーブ園の有望を説き塩漬にして大餐に供す。
○ 近世小豆島社会経済史話 3集(塩・〔ショウ〕油(#「ショウ」は文字番号40011)篇)
  近世小豆島経済史考
  小豆郡誌  香川県通史  讃岐産業2600年史表

問 特産品手袋産業(「手袋産業」は太字)について(香)
答 明治21年に白鳥本町千光寺副住職の両児舜礼師(ルビ ふたごしゅんれいし)が還俗し、大
 阪に渡って、メリヤス手袋製造業を始め、事業が軌道にのると郷土白鳥より数人の子弟を招い
 た。その一人、棚次辰吉が明治32年、初めてこの手袋製造業を白鳥に移したといわれている。
 そこで棚次と教蓮寺住職であった楠正雄、村長でもあり大地主であった橋本安兵衛らが資本を
 出しあって教蓮寺で積善商会(技術養成をあわせた下請工場)を設立した。
  大正3年からの第一次世界大戦は、欧州の手袋産地ドイツ・イギリスが戦争状態に入ったた
 め、日本に注文があり、従業員1600人という大阪手袋工業株式会社が設立された。(本工場は
 大阪で、大川郡各所に分工場を持った。)積善商会で技術を学んだ森本伴次郎によって大正6年
 東洋手袋株式会社も設立され、その他中小工場も次々と設立された。(資本金が比較的小さく
 てよいのと低賃金労働力が豊富なため)
  昭和13年に始まる綿糸配給統制令、17年の企業整備を経て、戦後は30年代より縫手袋・編手袋
 にかわって革手袋・ビニール手袋が進出した。
○ 東讃地区における手袋産業の実態  地理学研究15  明治100年香川県の歩み P159
  香川県の手袋 昭33年1月  地域と産業2 P524
  生徒の社会科研究8

問 虎屋旅館(「虎屋旅館」は太字)について(金)
答 虎屋旅館は、琴平で一番古い宿屋である。虎屋の初代は小左衛門であるが、金毘羅と直接関
 係ができるのは2代小助からのようである。正保2年から寛文6年まで金毘羅別当金光院住職
 を勤めた宥典の実家が財田村にあり、小助の家はすぐ近くの丸井村にあって、実家へ戻ってい
 た宥典のお供をして金毘羅へ出てきたとのことである。虎屋では、はじめ、参詣者が神前へ奉
 納する神酒を売っていた、のち旅籠を兼ねるようになった。寛保から宝暦頃には、高松藩の役
 人たちが止宿するようになっている。新築した門が分限不相応ということで閉門にさせられた
 のもこの頃である。小助は寛文2年、宥典から褒美として円座を頂いた。これは今でも大切に
 保存されている。また虎屋の代々主人は、正月と5節句に、別当住職に独りで挨拶できるとい
 う町人としては特別な名誉が与えられていた。その後

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 一時衰微したこともあったが、宿屋としての虎屋の家業は時代が降るにつれて隆盛になってい
 った。それだけ町内のいろんな土木工事とか、金毘羅当局への上納金のことでも大いに努めて
 いた。明治の初年、京都の画壇で活躍した森寛斎は、金光院の御用で何度も金毘羅を訪れたが
 、宿は虎屋と決めていたようである。そして、ここで歓待されたのであろう、すべての障壁画
 が寛斎の筆になる2階建の座敷がいまも昔のまゝに遺っている。虎屋のことは、幕末期、ここ
 で足を止めた各地からの文人によっても書き留められている。河井継之助の「塵壺」、成島柳
 北の「航薇日記」などはその代表的なものである。現在、金毘羅の街方の資料はあまり遺って
 いない。そのなかで、虎屋のことは、ある程度、資料によっても探ることが出来る。そこには
 門前町としての金毘羅の一つの縮図があるように考えられる。
○ 山下盛好著「町方諸家譜(仮題)」(丸亀市山下栄氏所蔵)  「金光院日帳」
  「金光院御用留」

問 高松の日傘(「日傘」は太字)について(香)
答 明治20年ごろ、高松市宮脇町の上春岩吉が、高松の手漉和紙と塩江の竹を使って、日傘の生
 産をはじめた。第一次大戦後は、国内だけでなくアメリカへも販路をひろげた。大正末期から
 昭和15年ころまで、高松のあちこちの空地で色とりどりの絵日傘を干している風景がみられた
 。輸出先もアメリカをはじめインド、イギリスなど多くの国へ送り出した。昭和5年の統計で
 は、製造業者110軒、年間91万余本が生産され、このうち外国向けが88万余本にもなった。昭
 和15年ごろから輸出がとまり、25年ごろから洋傘の普及で減少し、今は数軒の業者によって、
 舞傘などがつくられているだけになった。
○ 香川の産業誌 P19  高松市史 P360  綜合郷土研究 P442

問 保多織(「保多織」は太字)のおこりについて(香)
答 元禄2年(1689)に高松藩祖松平頼重候は、讃岐の産業を開発し、国産を奨励し、一方幕府へ
 の献上品を特産するため、京都禁裡の織物司であった北川伊兵衛常吉と言う者を高松に召し寄
 せたところ、常吉は苦心に苦心を重ねて織物を完成、頼重候にご覧に入れると、この織物は強
 くて「多年を保つことができようぞ」とおほめになったところから、「保多織」としたといわ
 れている。高松藩はこの織物を他へ売ったり、譲ったり、使用することを禁じ、その製法も一
 子相伝の秘法としてこれを保護した。北川家は伊兵衛を初代として7代続き、明治の御維新で
 今の宗家10代岩部常太郎氏の祖父恒次郎氏が8代を継いで北川家から岩部家へと引継がれてい
 る。
○ さぬき美工 昭39年12月号 P18  新修高松市史Ⅱ P322

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  高松市史 P326  勝地讃岐と其産業陣営 P179  高松藩祖松平頼重伝 P205  
  綜合郷土研究 P413  日本の伝統織物 P233

問 丸亀の産業(「丸亀の産業」は太字)の発達について(丸)
答 丸亀は西讃における政治の中枢であっただけに、産業・経済・交通などの発展に大きな役割
 りをはたしてきた。長期間陸軍駐屯地として栄え大正末期以来大規模の塩業・紡績工業界の近
 代産業の勃興もあったが、まだまだ見るべきものは少なかった。太平洋戦争後北部海岸線には
 広大な埋立てによる土地造成が行なわれ、多数の工場誘致により新しい産業・工業立市への息
 吹きが強く感じられる。特産品としてはうちわ・イースターバスケットなどが有名で外国にも
 輸出されている。
○ 丸亀商工名鑑 P30  現代展望郷土誌 P79
  生徒の社会科研究3

問 室本特産〔コウジ〕(ルビ こうじ)(「コウジ」は太字、#文字番号47818)の起源につ
 いて(観)
答 観音寺市室本町の〔コウジ〕(#「コウジ」は文字番号47818)の製造販売は今日に至るま
 で、当地の特権のようになっているが、室町時代(永禄元年6月2日)に西讃の支配者香川之
 景よりその特権を認められ、代々これを継承し保護されてきたからであり、今なお室本〔コウ
 ジ〕(#「コウジ」は文字番号47818)の名声を持続しているのはこの伝統によるものである。
○ 観音寺市誌 P427~  西讃府誌 P812  三豊郡史 P331~
  なお室本町〔コウジ〕(#「コウジ」は文字番号47818)商組合には香川之景の制書が保管
  されている。