入力に使用した資料 底本の書名 讃岐ものしり事典(p140~147) 底本の編集者 香川県図書館協会 底本の発行者 香川県図書館協会 底本の発行日 昭和57年4月1日 入力者名 森下孝男 校正者名 平松伝造 入力に関する注記 文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の 文字番号を付した。 登録日 2003年1月22日
-教 育- -140- 問 剛志舎について(土) 答 数え年17歳から結婚するまでの男子青年がはいり、地域社会の防災や年中行事 などの実施にあたったのを若衆宿といって、江戸時代からあった。 新入舎員の訓練(教育)は極めて厳格であった。その規律はきびしくいわゆる スパルタ式訓練であった。最年少の小若衆はいつも大目付、まかない役からきび しく躾けられた。例えば小若衆は長上に道であえば必ず挨拶をする。座敷へ上る ときは自分の草履を揃えることは勿論他人の草履も揃えて上る等々・共同生活の 規則を中心にしたものである。 土庄町小江の剛志舎は明治10年頃九富森太郎氏が初代舎長となって新しい時代 の小江の若衆連中によって結舎されたものである。 古来小江の沖にある鷲島(ルビ わしじま)は、北端に暗礁があって年に何回 か座礁する船の遭難 があった。遭難があるたぴに小江の漁師は救助に行った。この遭難者に対する美 しい人情と義務感から生まれたものである。後には火災、水難の際にも協力した。 この舎の特徴は、団員としての生活が厳格な規則によって支配され、又これを 守って強固な団結をはかっていたことである。 団員の心得として「いい聞かせ」という規則を覚えなければならないことであ る。口でとなえるだけでも1時間以上かかる微に入り細を穿った規則を暗記し、 入舎したばかりの小若衆は1月7日に「いい聞かせ」を覚えているかどうかを調 べられるようになっている。 ○ 土庄町誌 P963 小豆島の民俗 問 高松藩の教育について(香) 答 高松藩は江戸時代に最も学問を重んじた水戸藩の分れであっただけに水戸派の 朱子学が盛んであった。藩祖頼重は岡部拙斉らを高禄で水戸よりむかえ講義を開 かせ、2代頼常は元禄15年2月中野天満宮の側に講堂を建て、8歳~15歳の藩士 の子弟などを教育させた。この講堂は3代頼豊のとき閉鎖したが4代頼桓は元文 2年これを修復し、青葉士弘に講義させた。藩士、庶民は堂にはいれず、庭でき く程好学心は盛んになり私塾もさかえた。 5代頼恭は江戸屋敷内にも学問所を設け、殿様時代の教育の最盛期をつくり、 菊池武賢、後藤芝山、柴野栗山が有名である。6代頼真は安永9年中野天満宮の 北に藩校としての講道館を建てた。これは旧講堂の2倍あり、明治維新まで約90 年間の教育の拠点になった。 8代頼儀は、城内西の丸に学問所を建て、9代頼恕は城内に考信閣を設け、友 安三冬に歴朝要紀を編集させ国学も盛んにした。また、文政10年明善郷校を創立 し、11代頼聡は慶応元年講道館内に洋学校を設立し、明治2年学制を改め、漢学 寮、皇学寮、洋学寮とした。 殿様時代の教育は武士階級を目標としたもので、一般の庶民は浪人、医師、僧 -141- 侶の私宅や寺を教場とした寺小屋で読み書きそろばんを習った。 ○ 新修高松市史 第1巻 P419~ 第2巻 P536 新修香川県史 P551~ 高松市史 P237~ 増補高松藩記 P573~ 高松藩校 講道館 香川県の歴史 P173 香川県通史 P951~ 問 讃岐の寺小屋について(香) 答 士庶僧俗の別なく、一般四民に向って開かれた初等教育の機関であり、実質上、 現在の小学校の前身であった。 経営者・・庶民が著しく多く、僧侶がこれに次ぎ、武士、医師、神官、修験者、 女子となっている。 就学者・・筆子あるいは寺子と呼ばれた。年齢は男子は5歳~15歳、女子は6~ 10歳で、男女を通じて8歳の者が最も多い。入学の時期は正月15日前後に行なわ れた所が最も多い。寺入はめでたい行事の一つで、赤飯を師家に納めたり、寺子 を連れて天満宮に参詣したりする風は、県下各地に行なわれていた。 規 模・・教室は師匠の居住または社寺の一部を充てたものが多い。規漠はあま り大きくなく、高松市増田氏の男180、女120、計300の寺子を収容したのが最 大で、郡部では三豊郡勝間村師匠田中静の寺小屋で140人を収容したのが最大で あった。 教 科・・読書・習字・算術を授けたものが最も多い。実用本位で算術が比較的 重んぜられた。教科の選択は師匠の見込みと父兄の希望によった。 教 授・・授業は四季を通じて行なわれ、授業開始の時刻は一定しないが午前8 時のものが最も多く、終業の時刻は午後2時のものが多い。休日は節供、祭日、 正月、盆、大暑、歳末、農繁期その他特定の日で全然休日の無かったものもあっ た。朝習や夜学も若干あった。教授の方法は個別教授によるものが最も多く、一 斉教授によるもの、両者混用のものも若干あった。 訓 練・・訓練の厳格なのは、むしろ父兄に悦ぱれ、「雷師匠」などと呼ばれて その寺小屋は繁昌した。しかし、厳しい中にも親しみはあり、成人の後も音問を 絶たず、身上相談や処世上の指導を受けたりした。 管 理・・出席帳簿のあったもの、名札の表裏で出欠を明らかにしたものもある。 師匠のほかに代教を置いたものもあるが、古参の寺子が師匠を助けたり、当番制 にしたものが多い。 寺小屋の生活と行事・・天神講、文珠講、五節供、七夕、正月など。高松地方で は5月5日端午の節供には、師匠が寺子一同を率いて、藩士の騎馬訓練を見物に 行った。遊戯は独楽、水泳、鬼事、角力、毬突、竹馬、紙鳶、墨付、てんぎ、草 摘、人形造、金遊、犬の噛合などがあった。 束脩および謝儀・・束脩は有るを普通とし、銭、米、赤飯、餅、野菜、日用雑品 -142- など。謝儀は大低有ったが品目や納入の時期は随意であった。米であれば平均毎 月1升宛、銭であれば1年約30匁位であった。 ○ 香川県教育史 P121~130 総合郷土研究 P796~799 讃岐通史 高松市史 高松藩記 讃岐人名辞書 讃岐人物伝 全讃史 西讃府志、讃州府志(香川叢書) 日本庶民教育史 問 讃岐松平藩と京極藩の藩儒の系譜について(香) 答 高松藩では、初代松平頼重は水戸から儒者岡部拙斎を招いた。2代頼常は、林 家の門人菊池舎人及び荻生徂徠の門人岡井郡太夫を迎え、講堂を開いて釈奠 (ルビ せきてん)を行い、青年武士を学問に就かせた。藩儒十河順庵・根本弥右衛門 に講堂の側に宅を賜った。3代頼豊も四書五経を研究して天下国家の学問をさせたがそ の後十河氏は官を失い、根本氏は世を終えて志は中途半端で終った。5代頼恭は再び学 を興し、講堂の規模を拡大して講道館と名づけ、儒学の大家後藤芝山を学長とし、中 村文輔、岡井孝先等の老学者を用いて藩学を振興させた。9代頼恕は大聖廟を新 に建築し、また梶原藍渠・友安三冬・中村春野等を召出して考信閣を設けて歴史 の編集に当たらせた。 丸亀藩では、万治・元録の時代に京極寿昌院伊知子が涙草を著わし、井上本固 (ルビ もとかた)の女通女は藩主の母堂著性院に仕え、和漢の学に精通し、 処女賦・深閨銘をはじめ、東海紀行・江戸日記・帰家日記・往事集・秋燈集等を 表わして名声をはせ、元録文学隆盛の先駆となった。藩主高中も大いに学事を奨励し、 文政の頃、藩主高朗(ルビ たかあきら)は儒臣加藤俊治・岩村秩・中主膳に命じ 学事を拡張し、規模が大いに備わった。藩学を正明館と名づけ、寛政6年(1794) 儒臣渡辺半八に命じて創立させ、高中・高朗時代隆昌となった。 また丸亀藩では江戸藩邸に集義館を設けて藩士の子弟を教育し、丸亀では庶民教育 のために風袋町に敬止堂を建てた。高松藩の講道館には庶民の入学も許していたことと 同様注目すべきことである。 この傾向は、すでに庶民の間に高まっていた気風を迎えて向学の者が漸く多く なったことを示すものである。庶民出身の学者には苗字帯刀を許し、登用すると か処土(仕官しない武士)として優遇した。また私塾、手習師匠・寺子屋等の普 及により一般民衆の知能も大いに向上した。 民間学者としては、宮村経弼・香西成資等ははやくから有名で、のちには中山城 山・藤沢東〔カイ〕(#「カイ」は文字番号 21828)・吉田達斎・柳川成興・新居直矩 等すこぶる多い。各学系により、著者、学者名を挙げよう。 ○ 香川県通史 P951~P961 香川県教育史 香川県総合郷土研究 -143- 朱子学派 林家の系統 (注:○印は讃岐人)(# ○印を表記すると表が見ずらくなるので省略した。) |―徳力長顕―徳力良弼―徳力良翰 藤原粛―林信勝―|―林 恕――|―林 懿―|―林正懿―後藤世鈞(芝山) 惺窩 道春 | 鵞峯 | 鳳岡 | 榴岡 | | |―岡井泰―岡井氷室―岡井〔ケン〕(#「ケン」は文字番号8365)州―岡井赤城―岡井図南―| | | | |―――――――| | | | 根本 弥右衛門―| |―岡井馨―岡井敦 | | | |―| | | | 雨 森 三 哲―| | | | | |―――――――――| | | |――|―青葉士弘―青葉半山―青葉好徳―青葉訥斎 | | | | | |―――――| | | | | | | | 室鳩巣―| | | |―岡長洲(長祐)―岡元度(辰次)―岡 成功―岡 寛―岡 彬 | | |―岡長職(謙山) 晋之助 千城 正吉 | | |――中村文輔(君山)―中村弘道 | | | | 中村〔トウ〕(#「トウ」は文字番号 10936)斎――| | | |――――――――――――――――――――――| | |―――宮村経弼―| | | |――――――| | |―――速見常房 | |―菅玄洞――岡部拙斎 ――――| | |―松平頼常 | |―七条宗貞―――十河保安(順安)――十河安定(権三郎) | | | | 後藤芝山―――| | ――――| 柴野栗山―――| |―菊池東〔イン〕 | 市川寛斎―――| (#「イン」は文字番号2497)―|―菊池武雅(半陰)―菊池武韶―菊池武充―――菊池五山―――菊池武広 ―――――――――| |―菊池秋峯―菊池香橘 室鳩巣―中村蘭林―| | |―対島留雲 林 正貞―| | 菊池武賢―+――菊池武保――菊池縄武――菊池藻洲――菊池〔トウ〕(#「トウ」は文字番号10936)所 黄山 | 室山 守拙 武幹 武章 菘渓 | |―菊池武矩 高洲 青葉家の系統 青葉加賀守―青葉帯刀―緒方伝兵衛自勝―青葉吉兵衛重正―青葉伝兵衛直行―青葉伝兵衛士弘―| 高松初代(1) | |―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――| |―青葉権左衛門養浩―青葉伝兵衛悳―青葉伝右衛門慎―青葉伝平強―|―青葉織三郎 (2) (3) (4) (5) | |―青葉運太―青葉翰於 (6) (7) -144- 後藤芝山の系統 高橋宗直―| 林 正懿―|―後藤世鈞(芝山)―――柴野邦彦(栗山)―――柴野 升(碧海)―柏葉諏好 守屋義門―| | | 近藤篤山―| 菊池黄山―| | |―山田鹿庭―|―山田玉峯 | |―山田梅村―|―山田梅屋 |―久保泰亨 |―山田晋香 | 〔チュウ〕 広瀬淡窓―| | ((#「チュウ」は文字番号22958)斎) |―菱川 賓 |―菊池五山 |―後藤漆谷 |―後藤黙斎 |―後藤師曽 |―後藤厚甫 |―長尾正孝 その他諸系 安積艮斎―| |―赤松椋園 佐藤一斎―| 大橋訥庵―| 三土鼓丘 |―三土梅堂 菅 茶山 | | |―三谷退蔵 |―牧野黙庵 | 牧野松村 |―渡辺橙斎 葛西〔イン〕(#「イン」は文字番号26032)斎 |―葛西相清(省察) | |―植田南畝 |―富山潜斎 |―長尾鷲岳 |―渡辺松窩 |柏原櫓丘 |―片山恬斎―|―片山冲堂――――――――――――|―山田撫松 | (成之) | | | |―三好対〔オウ〕(#「オウ」は文字番号47268) | | |―久保蘿谷 高尾椿渓―|―高尾竹渓――高尾氏尹―高尾氏将―高尾氏芳 |―稲毛古雲 | |―松尾竹坡 |―高尾香泉 |―宮武梅字 |―岩井謙堂 |―中川黙堂 奥村景武―奥村宗弼―奥村淡斎―| 古賀精里―|―小橋道寧―|――小橋安蔵―小橋友之輔 |――――――――――| | | 香水 |―奥村松字―奥村学山 | |――木内順二 | | 竜山 久保城山―三木半村―柳原紫峰 | |――小橋多助 | ―― 橘陰 久富暢斎(高明)―久家克堂(高恒)―三好竹斎 |―赤井東海―| |―梶原霞堂 藤沢東 〔カイ〕(#「カイ」は文字番号21828)――| 梶原藍渠(景惇)―|―梶原藍水(景紹)-梶原景謙 奥野小山――| -145- | 篠崎畏堂――| |―尾池臣哉 中井竹山―| |―尾池桐陽―| | | |―尾池松湾 菅 茶山―|―三井雪航―|―日柳燕石 |―村岡伯衡―|―岩村南里 | |―中 清泉 井州 | | |―中村三蕉 尾藤二洲――|―加藤梅雀―京極琴峰 | 稲葉黙斎―|―渡辺柳斎―渡辺杏林―渡辺葵水 教義学派 山崎闇斎学派・南学派朱子学派 |―佐藤直方―跡部良顕(光海)―|――| | ―| | | |――| | 谷素有―山崎嘉右衛門―|―米川操軒―井上本固―|―井上通女―|―三田義勝 将中 闇斎 |―佐久間包照 | 室 鳩巣―| 陽明学派 三宅正名―中井誠之(秋庵)―中井積善(竹山)―佐藤坦(一斎)―河田興(廸斎) 大塩中斎(平八郎)―林良斎―|―村川量平 |―岡田子明 古義学派 伊藤仁斎学派 伊藤維〔テイ〕(#「テイ」は文字番号15163)(仁斎)―|―伊藤長胤(東涯)―| | |―安藤知冬(陽州) |―伊藤長堅(蘭嵎)―| ―| |― 香川南洋――――――宮武唯善(器川) |― | 後藤良山(養斎)――尾池泰庵(立誠)――| 尾池常 〔ケン〕(#「ケン」は文字番号32474)園(けんえん)学派(古文辞学派・復古学派・荻生徂徠学派) 篠原畏堂――| 奥野小山――| 荻生雙松―|―菅谷畏輝―藤川東園―中山城山―――|―中山〔ゴウ〕(#「ゴウ」は文字番号 48301)山 |―小橋橘陰 徂徠 | 甘谷 | |―― | | | | | |―香川克斎――| | | | |―吉田拡斎 | | | |―― | |―斎宮静斎―|―三野伯慎| |―近藤篤山―| |―服部南郭―|―望月三英 |―三野無逸|―|藤沢東〔カイ〕(#「カイ」は文字番号21828)―|―藤沢南岳―藤沢黄山―桓夫 | | | 黄坡 | |-平賀源内 | (大阪に移住、子は大阪に住す) 元造 -146- | | | | | 柴碧海―| |―揚分湖 | | |――――――| | 岡井氷室 |――井孝先 赤井赤城 |―|―相馬九方―土屋鳳洲 |―揚弘斎 |― 〔ケン〕(#「ケン」は文字番号8365)州 | | | |―渡辺孝先 |―玉井林叟 | |―三木半村 |―柏原謙好 (朱子学) | | | 林 正獻――| 久保城山―| |―中桐星城 菅 茶山―| 皆川淇園―| 山川孫水(〔クワウ〕(#「クワウ」は文字番号19387))―|―山川南岡(賀蔵)―山川波次 |――山川東渠(慎蔵) 藤沢東〔カイ〕(#「カイ」は文字番号21828)―――――― 斎心簡学派(〔ケン〕(#「ケン」は文字番号32474)園学派の斎宮静斎より出る) 荻生徂徠―服部南郭―斎宮静斎―|―三野伯慎―三野知彰―三野盤渓―三野知周 必簡 | (元密) (謙谷) (知充) (摂平) | (象麓) |―三野仲寿 | (藻海) | (無逸) |――菊池高洲―|―加藤西廓―加藤松窓 |― | 菊池武賢―――――| |―岸田茂篤―岸田月窓 | | |――坂本某 |―友安三冬 伴 嵩渓―――――――― 折衷学派(井上金峩尭関係派) (朱子学) 山田梅村 林章資―|―中井通熈―井上立元―菊池武慎 岡内綾川―|―岡内有恒―岡内春塘―|―岡内 格 | 金峩 (伯華) | (伯行) (有道) | (子葉) |―良野芸之 |―木下竜山 |―――――|― 華陰 | |―岡内清太―岡内勇 |―武田松陵 |―築地仲貫 折衷学派(開物学派) 皆川淇園―|―稲尾屋山―稲毛恭斎 |―大田眄柯 |―牧 犢児 菊池五山―| |―五柳僧星華 皆川洞園―|―牧 石潭―|―牧 詩牛―|―中村 〔ケン〕(#「ケン」は文字番号20078) | | -147- | | 小沢芦庵―| |―吉田暮浅 小川萍流―| 松岡 調―| 片山冲堂―| |―上里 済 菅 茶山―|―牧 東渚―| 三井隆斎―| 小寺清光―| | 小松信園―| | | ―| | |―― | 頼 山陽―|――――――|―秋山厳山―|―氏家整作 三井雪航―日柳柳東―| 奈良松荘―|―黒本茂矩―黒木安雄―黒木典雄 問 苗羽小学校旧田浦分校々舎(岬の学校)について(内) 答 明治35年(1902)8月、田浦尋常小学校として建築され、切妻瓦茸平家校舎、 2教室と教員住居を含む。その後昭和46年3月まで使用された。廃校のおりには、 1~2年生11人、3~4年生9人計20人在籍という複式学級の文字通りの小規模 校であった。 「本日早朝よりイワシ網出漁、児童登校し来らずよって午後より授業を開始す ・・・」と開校当時の学校日誌に記されている。開校より約1世紀、かれらが学ん だ岬の学校は、校史を閉じた現在も大切に保存され、壷井栄の「二十四の瞳」の 小説の舞台となった、おだやかな入江の後背地域に散在する約60戸の集落と田浦 分校の建物は昔日のおもかげを残している。 町内に残る明治時代建築校舎唯一のもので、昭和48年3月26日、町指定の建造 物になった。 ○ 内海町史 P385 香川県の歴史散歩 P216