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底本の書名    讃岐ものしり事典(p130~139)
 底本の編集者   香川県図書館協会
 底本の発行者   香川県図書館協会
 底本の発行日   昭和57年4月1日
入力者名     森下孝男
校正者名     平松伝造
入力に関する注記
    文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
    文字番号を付した。

登録日   2003年1月22日
      

-社 会-

              -130-

問 明治21年の香川県の人口について(香)
答 明治21年(1888)12月3日三置即ち現在の香川県になったときの人口である。
 現住戸数136,877戸、一戸平均人員4.82人、本籍人口男339,052人、女325,984人、
 計665,036人。参考までに昭和56年(1981)12月1日現在の香川県は世帯数298,
 495戸、人口数男484,301人、女521,267人、計1,005,568人。
○ 明治36年香川県統計書 P19

問 香川県文化功労者について(香)
答 香川県では、昭和31年から、毎年文化の日に、県内の文化向上に、多年功労の
 あった人を選び、知事の名で感謝状と記念品を贈って、その功績を表彰している。
  県 文 化 功 労 者
 表彰年    受賞者氏名    受賞時年齢    職   種
 昭和31年  小 倉 右一郎     75     彫  塑  家
   32   磯 井 雪 技(如真) 74     漆  芸  家
   33   福 家 惣 衛     74     郷 土 史 家
   34   新 田 藤太郎     71     彫  塑  家
   35   香 川   勇(宗石) 68     漆  芸  家
   36   緒 方 益 圀     58     音  楽  家
   37   藤 原   茂(鶴来) 69     書  道  家
   38   三 好 真 長     77     金  工  家
   39   和 田 邦 夫(邦坊) 65     画     家
   40   野 島 泰 治     69     医     師
   41   宮 内 フ サ     83     郷土玩具製作者
   42   流   政 之     43     彫  刻  家
   43   松 浦 正 一     68     郷 土 史 家
   44    な   し
   45   豊 島 只 一     80     箏  曲  家
   46   細 渓 宗次郎     83     社会福祉事業家
       宗  道  臣     59     宗  教  家
   47   真 木 信 夫     79     郷 土 史 家
       加 藤 増 夫     76     郷 土 史 家
   48   横 田 ト ミ     81     邦  楽  家
       鴨   政 雄     66     彫  金  家
       後 藤 学 一     65     彫  金  家
   49   草 薙 金四郎     69     郷 土 史 家
       大 森 照 成     73     陶  芸  家
       明 石 聖 一(朴景) 63     漆  芸  家

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   50   坂 田   勲     80     植 物 学 者
       八代田 貫一郎     74     植 物 学 者
   51   大 西 林 次     85     社会文化人
       河 西 新太郎     64     詩     人
   52   武 田   明     63     民 俗 学 者
       鴨 居 ミ チ     74     書  道  家
   53   脇   須 美     80     歌     人
       高 橋 邦 彦     73     郷 土 史 家
   54   近 石 泰 秋     72     浄瑠璃研究家
   55   琴 陵 光 重     66     金刀比羅宮々司
       谷 口 国 介     84     美術教育者
   56   合 田 栄 作     71     人文地理学者
○ 四国新聞およびその他の各種新聞香川県版毎年11月1日~7日記載

問 香川県出身国会議員の伝記について(香)
答 個人伝
 松平頼寿一松平頼寿伝、三木武吉一三木武吉伝・三木武吉太閤記・三木武吉、大
 西禎夫一大西禎夫、三土忠造ー三土忠造、都崎秀太郎一梧庵略伝、宮井茂九郎一
 宮井茂九郎略伝、中野武営一中野武営翁の70年、大平正芳一私の見た大平正芳、
 私の履歴書・大平正芳、大平正芳の人と政治、最後の旅、大平正芳回想録、西尾
 末広一風雪の人西尾末広、津島寿一ー津島寿一追想録
  列伝
 近代四国人物夜話一三土忠造、小西甚之助、三木武吉、鈴木伝五郎、西尾末広、
 深川タマエ、戸沢民十郎、前川正一、中野武営、鎌田勝太郎、福家俊一、小西和、
 矢野庄太郎
 昭和の先賢一河田烈、鎌田勝太郎、津島寿一、松平頼寿、三土忠造、三木武吉、
 矢野庄太郎
 現代香川県人大観一大平正芳、加藤常太郎、木村武千代、久保等、玉置実、大松
 博文、成田知巳、西尾末広、平井太郎、藤井新一、福家俊一、福田繁芳、藤本孝
 雄
 さぬきの人間もよう一大西禎夫、三好始
 新修高松市史Ⅱ一大場長平、小田知周、鈴木伝五郎、田中定吉、戸沢民十郎、中
 野武営、林毅陸、前川正一、松平頼寿、三木武吉、三土忠造

問 坂出の人口について(坂)
答 明治23年  1,891戸  10,421人

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  明治28年   1,993戸   12,353人
  明治38年   2,863戸   16,673人
  大正4年   3,403戸   17,721人
  大正14年   4,624戸   20,075人
  昭和10年   4,695戸   23,620人
  昭和20年   6,993戸   40,222人
  昭和30年  12,643戸   58,551人
  昭和40年  15,281戸   61,347人
  昭和50年  19,012戸   67,667人
  昭和56年  19,835戸   66,081人
○ 坂出市史 P49~53    坂出市人口統計など
  坂出市政概要 P5~8 (昭和53年版)

問 香川県の自由民権運動の闘士と結社について(香)
答 新政府成立後、薩長の藩閥専制政治に反対するため明治7年土佐の板垣退助、
 後藤象二郎、肥前の副島種臣、江藤新平らは民選議院設立の建白書を提出した。
 これをきっかけとして憲法を制定し、国民の代表を政治に参加させるため、国会
 の開設を要望する声が高まってきた。この具体的なあらわれが自由民権運動であ
 った。板垣は建白書を提出して土佐にかえり、立志社を創設して運動の先頭にた
 ったが、土佐についで自由民権を唱道したのが香川県であった。かつて板垣は、
 明治元年正月、高松藩追討の大隊司令として高松に進駐したとき、川崎屋で宿泊
 したのであった。こうした縁があったためか、川崎屋の息子の川崎舎竹郎が世話
 役となり、当時の高松の文化人である中野滝次郎、鈴木伝五郎、佐々木清三、十
 河権三郎らとともに自由民権運動に立ちあがった。とくに佐々木清三は札会所の
 宰主をつとめた著名な町人の家に生まれ、封建時代の身分圧迫の苦汁をなめた経
 験をもっていた。彼はかつての城下の町人たちを集めて、封建思想からめぎめさ
 せ、民主々義の知識を啓発するために、私財を投じて「博文社」を結成した。明
 治8年7月の檄文によると、「博文社」の主旨は「ソレ宇内ノ形勢ヲ知り識見ヲ
 明ニスルハ各種ノ新聞紙ヲ読味スルヲ急トス。故二賢哲ノ士卜雖モ之ヲ手ニシテ
 措カザルナリ。(中略)更ニ展覧所ヲ兵庫町八十五番地ニ置キ諸誌郡籍ヲ積ミ、
 衆人ノ縦覧ニ供ス。(後略)」というもので、民衆への啓蒙運動が中心となって
 おり、運営には博文社部長川崎舎竹郎ほか5名の同志があたった。新聞ならぴに
 購読料は「日新真事誌(8円)、東京日日新聞(5円50銭)、郵便報知新聞(5
 円80銭)、朝野新聞(4円80銭)、東京曙新聞(3円75銭)」で、そのほか太政
 官日誌、官報などもとりそろえた。これは全国的にみても珍しいことであった。
 当時の高松の庶民たちは、日本の新文化を知ろうと知識欲にもえていた。また川
 崎舎竹郎は毎年30円ずつ出資し、社を援助した。兵庫町の閲監所では毎日午前9

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 時から午後3時までの間、一般の庶民は読むことができた。これらの新聞や雑誌
 の閲覧によって庶民の政治思想は育てられ、この時代の自由民権論の流行にむす
 びつくことによって、県下の人々の間に言論の自由と社会思想が高まり、博文社
 の活動の成果は大いに上がった。一方平民だけで組織された純民社が創立された。
 純民社では毎月1、2回の定例演説会の開催日を定め、午後7時より演説会を開
 き、10時に終った。弁士は約7名で、少ない時は3名ぐらいであった。「他人を
 そしり他人の名誉をきずつけてはいけない。風俗をみだす説をのべてはいけない」
 と政談演説の内容について弁士の心得がしめされていた。こうした言論による理
 想的な思想運動も、一般に大きな影響をおよぼした。また「腰抜新聞」が明治14
 年8月3日県下ではじめて刊行された。この新聞の名は腰が抜けるまでやりとお
 そうという意味でつけられたのであった。事務所を西通町におき、発行部数は1
 万547枚にもおよんだ。主幹は鈴木伝五郎で、川崎舎竹郎、渡辺克哲、久保財三
 郎、漆原文五郎、小西甚之助たちはさかんに活動した同志であった。高松の自由
 民権熱が頂点に達したのは、板垣退助が来高した時であった。明治13年高松に鈴
 木伝五郎が立志社をつくり、板垣は古馬場町にあった鈴木宅で演説会を開いた。
 大勢の人が押しかけ、家の中に入り切れなかったという。この頃来高した知名人
 に栗原亮一、木場繁、竹田正志、西山志澄らがおり、なかでも木場や栗原は「腰
 抜新聞」に民権に関する文章を執筆し、啓蒙運動につくした。高松立志社の人々
 は高知の志士何ものぞとの気概をもって民権思想を鼓吹し、次のような民権数え
 歌を流行させた。「1つとせ 人の上には人はなき 権利にかわりがないからは
 この人じゃもの」「2つとせ 2つとはない我が命 捨てても自由が残るなら
 このおしみゃせぬ」「3つとせ 民権自由の世の中に まだ目がさめない人があ
 る このあわれさよ」(後略)そのころ、小西甚之助は密会の開設をさけんで、
 高松立志社で演説を行ない、庶民の賛同をえ、15回にわたる国会開設の上願書を
 政府に提出した。まだ汽車もない東海道を下駄ばきで往来し、東京では三条実美
 をたずね、そのほか多くの高位高官を歴訪して国会開設を熱願した。そのため小
 西甚之助は「讃岐の名物男」としてその名を天下に高めた。やがて明治22年に憲
 法が発布され、翌23年には国会が開設されるにいたった。鈴木伝五郎は貴族院へ、
 小西甚之助、綾井武夫、中野武営、三崎亀之助、伊藤一郎らは衆議院へ、それぞ
 れ香川県の代表として出席し、ここに長い運動も実をむすんだのであった。
○ 香川県の歴史 P212~P215  香川県近代史  讃岐人名辞典  長尾町史

問 第11師団の歴史と戦史について(善)
答 明治29年7月13日陸軍平時編制改正のため、既設7師団を13師団に増加するこ
 とになり、四国を管区とし司令部が善通寺に設置された。歩兵43連隊・騎兵11連
 隊・野戦砲11連隊・工兵11大隊・輜重兵11大隊は善通寺に、歩兵10旅団・歩兵12
 連隊は丸亀に、歩兵22連隊は松山に設置され、初代師団長は陸軍中将乃木希典で、

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  北清事変・日露戦争を初め数多くの武勲をたてた。
○ 第11師団の歴史  第11師団の歴史的写真帳  騎兵第11聯隊史
  日本防衛史と第11師団の歴史  第40師団・第55師団戦史概要
  郷土部隊戦記 朝日新聞 昭37  鯨大地を征く  戦場郷土人脈
  香川県近代史 PlO84~  讃岐郷土読本 P386~P396

問 香川県出身の大臣について(香)
答 三土忠造(1871~1949)
   大川郡大内町水主出身
   田中(義)内閣の文部、大蔵大臣、犬養内閣の逓信大臣、斉藤内閣の鉄道大
   臣
  河田烈(1883~1963)
   祖父の儒者河田迪斎が善通寺市金蔵寺山身、第2次近衛内閣の大蔵大臣。
  矢野庄太郎(1886~1949)
   三豊郡豊中町出身、片山内閣の大蔵大臣。
  津島寿一(1888~1967)
   坂出市出身
   小磯内閣の大蔵大臣、東久邇内閣の大蔵大臣、岸内閣の防衛庁長官。
  綾部健太郎(1890~1972)
   高松市出身
   池田内閣の運輸大臣
  西尾末広(1891~1981)
   高松市女木島出身
   芦田内閣の副総理
  平井太郎(1905~1973)
   木田郡三木町田中出身
   石橋、岸内閣の郵政大臣
  加藤常太郎(1905~現存)
   綾歌郡国分寺町出身
   第2次田中(角)内閣の労働大臣
  大平正芳(1910~1980)
   三豊郡豊浜町出身
   第2、3次池田内閣の外務大臣、第2次佐藤内閣の通商産業大臣、第1、2
   次田中(角)内閣の外務、大蔵大臣、三木内閣の大蔵大臣、昭和53年に総理
   大臣
○ 郷土歴史人物事典香川   讃岐公論5、ほか

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問 高松市の空襲の記録について(香)
答 高松空襲は昭和20年7月4日午前1時40分過ぎ米軍B29爆撃機の一群による波
 状攻撃で、800トン余の焼夷弾と24トン余の爆弾が投下され、約4時間にわたる
 空襲であった。夜明け前東方に飛び去ったが、被害地域は旧市街地の約8割、罹
 災家屋全焼15,933戸、その他422戸、罹災者80,000人をこえ、死者930人、重軽
 傷者880人となっている。
○ 高松市史年表 P510  高松の空襲・手記編  たかまつ7月4日
  明治百年 P132  昭和50年史(上)P183   30年目の証言

問 高松藩の法令について(高)
答 高松藩の法令は、松平頼重が高松に入封する寛永19年(1642)5月、道中法令
 19か条を定めたのが始まりといえる。その後、社寺に対する条目やいろいろな規
 則が定められた。
  ここでは、元禄9年(1696)の御法令御条目を参考に記している。
  法令は21か条からなり、個条書に定書してある。その第1項には、「文武両道
 者、土之先務也、専励忠孝不可忘礼義事」と記してあって、武士は、学問・武術
 を習い、主君に忠義、親に孝養、礼儀をおもんじることを定めている。そのほか、
 武具の用意や手入れ、喧嘩口論の禁止など、又、船の出入は定めの川口5か所に
 かぎられ、きびしく取締られている。使番の武士などの一夜泊は許可書(切手)
 を必要とし、町中の者の出入は町年寄の判が必要であった。そのほかにも、嫁と
 り、家宅等の普請(新築・修理)饗応、身につける衣装などについても一つ一つ
 とりあげて定書をしている。
  条々17項を法令の補足的につけ加えている。これには、親不孝の者には、跡目
 (家を継ぐ)を継がさない、又、跡目をついでも、不孝、不行跡がわかれば、知
 行(禄)を召しあげると記している。又、領内の道や橋を調べて不通個所がない
 ように、制札(掲示板)は、つねに無沙汰のないように毎度改めること、武具、
 衣装、道具もぜいたくしてはならない。乗物は長衿以上の者〈身分の高い武士)、
 50歳以上で願い出たもの、老女、病人など・・・と。
  於江戸家中衣類之覚として11項、江戸供之定として何石取の武士は何人の供を
 召持つことができるなども定めている。
○ 高松藩記 PlO8~124   高松藩法令及び松平家系譜

問 多度津藩の倹約令について(多)
答 財政窮迫はいつの世にもあるものか、江戸時代幕府をはじめ、諸藩でも財政ひ
 っ迫し、倹約令をしばしば布告している。
  文久3年正月、多度津藩でも、衣食住をはじめ生活社会行事等にわたった倹約

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 令をだしている。藩主の命を受け藩の郡奉行から大庄屋、庄屋、五人組頭に順次
 令し、各戸の戸主からその印形を取って指令の徹底を図っている。お達しのうち
 のいくつかをあげると、
 ・衣類は男女ともに木綿に限ること、背いた者は牢番支配申しつける。
 ・ひなかざりは在来の分内裏紙びなの内、壱対をかざること。
 ・八朔のかざり馬、かざり人形等は今後停止のこと。
 ・はま弓、羽子板等かざることも売買も停止のこと。
 ・男女とも履物はなるだけ下直の品を用いること。
 ・呉服物、小間物類すべて栄耀がましい品物は売買停止のこと。
 ・家普請は身分不相応にならないようにすること。
 ・吉凶客類のことは親類と組合の外は堅く無用のこと。
 ・祭礼、御幸の外は、にぎわいごとすべて無用のこと。
 ・盆踊り無用のこと。
 ・女髪結停止のこと。髪を結わせたときは双方ともに剃髪させる。
○ 四箇村史 P292~297 多度津町史 PlO54

問 藩札について(香)
答 江戸時代諸藩の発行した紙幣をいい、高松藩・丸亀藩では金札・銀札・銭札・
 米札の4種類を発行したが、後には銀札のみとなり、100目札・10匁札・1匁札
 ・3分札・2分札があり、札と金や銀と両替する所もあった。多度津札は製造し
 たが発行はしなかったといわれている。
  明治2年に政府は太政官札を発行して旧藩札をことごとく交換した。
○ 高松藩々札  丸亀藩々札1・2  讃岐の藩札
  讃岐に流通した貨幣の話一讃岐公論 昭26.10
  香川県放送郷土新誌 P24~
  百十四銀行80年誌 P22  物語藩史7 P449

問 百十四銀行の歴史について(香)
答 百十四銀行80年間の発展大要
 |----|-----------|-----|---|----|---|
 | 年月日|   摘   要   |当 時 の|職員数|資 本 金|営業店|
 |    |           |代 表 者|   |    |   |
 |----|-----------|-----|---|----|---|
 |明治  |第百十四国立銀行開業 |発起人総代|  人|  千円|   |
 |11.10.7|下付         |松本貫四郎|  5|   50|  1|
 |11.11.1|営業開始第百十四国立 |頭取   |   |    |   |
 |    |銀行紙幣発行高4万円 |宮本 園丸|  5|   50|  1|


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 |31.10.7|営業満期国立銀行処分|      |    |     |   |
 |    |法により、株式会社高|頭取    |    |     |   |
 |    |松百十四銀行として新| 鎌田 房次|   50|    600|  3|
 |    |発足        |      |    |     |   |
 |33.7.1|高松貯蓄銀行を合併 |同  上  |   55|    630|  3|
 |大正  |          |      |    |     |   |
 |2.4.26|大川銀行を合併   |同  上  |   115|   1,130|  7|
 |9.12.15|宇多津銀行を合併  |専務取締役 |   125|   3,150|  15|
 |    |          | 井上 耕作|    |     |   |
 |10.6.1|高松商業銀行を合併 |専務取締役 |   150|   3,500|  17|
 |    |          | 井上 耕作|    |     |   |
 |11.12.17|東讃銀行を合併   |専務取締役 |   165|   3,900|  24|
 |    |          | 中村新太郎|    |     |   |
 |13.3.30|高松百十四銀行と高松|      |    |     |   |
 |    |銀行が合併し、株式会|      |    |     |   |
 |    |社高松百十四銀行を設|同   上 |   352|  12,620|  32|
 |    |立         |      |    |     |   |
 |昭和  |創業80周年記念式挙 |頭取    |    |     |   |
 |33.11.1|行         | 綾田 整治|  1,141|  540,000|  57|
 |    |          |頭取    |    |     |   |
 |57.3.1|          | 三野  博|  2,892| 1,000,000|  100|
 |----|----------|------|----|-----|---|
○ 百十四銀行80年誌  百十四銀行百年誌
 回顧録  株式会社高松百十四銀行

問 福崎騒動について(坂)
答 那珂郡南村大字柞原(現丸亀市柞原町)の大地主、福崎家の一族の福崎治郎は
 財産を蕩尽し生活に困るようになった。そこで治郎は本家福崎へ無心にいくよう
 になった。
  戸主は、時々施していたが限りがなく、相当の財産を贈り、以後要求せぬこと
 を誓わせた。治郎はこの財産を以て岡山に行き、岡山騒動の惨劇の跡を調査して、
 ピストル、弾丸、日本刀などを購入して帰って来た。
  これに対して、戸主タケは2人の用心棒を雇入れ、治郎の無心を武力によって
 撃退した。
  収入の道がない治郎は一大凶行を決意し、自分の弟の本三とその妻トラ、無頼
 漢平尾秀松と4人が盟約し、福崎家襲撃の計画をたてた。
  タケは危験を感じ、塩飽本島にいたり大阪に住んでいたりしたが、明治29年8
 月18日(旧暦7月10日)長屋門の落成式の祝賀に帰宅した。
  4人はこれを見て福崎家に殺到し、用心棒の黒木惣太郎、野田鹿之助と梅子、
 イソノを斬殺し、土蔵の中に隠れている、タケ、久勝、昇を火をつけて焼き殺し

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 た。凶行を演じた4人は墓場で自殺した。この事件を世に福崎騒動という。
○ 香川県近代史 P746~749  香川新報

問 女神丸事件について(土)
答 昭和20年8月8日女神丸が百数十名の客を乗せ(当日は香川県内の各町村の郷
 土防衛隊の隊員、町村長、助役、兵事係等が本土防衛の会議に出席するため)土
 庄港を出帆し、屋島の沖にさしかゝつたとき、敵機グラマン機3機が襲来、低空
 飛行で機関銃掃射をあびせた。死者22名と多くの負傷者を出した事件である。
○ 女神丸事件

問 歴代知事の氏名と在任期間について (香)
答 歴代知事
  代    氏   名        在 任 期 間
  1   林     薫   明治 21年12月3日~22年12月25日
  2   柴 原   和      22年12月26日~24年4月8日
  3   谷 森 真 男      24年4月9日~26年4月4日
  4   小 畑 美 稲      26年4月5日~28年11月7日
  5   深 野 一 三      28年11月8日~29年4月10日
  6   徳 久 恒 範      29年4月11日~31年7月27日
  7   小 野 隆 助      31年7月28日~31年12月23日
  8   吉 原 三 郎      31年12月23日~33年1月18日
  9   荒 川 義大郎      33年1月19日~33年10月24日
  10   末 弘 直 カ      33年10月25日~35年2月7日
  11   小野田 元 〔ヒロ〕(#「ヒロ」は文字番号19292)
                   35年2月8日~43年6月17日
  12   鹿子木 小五郎      43年6月18日~大正3年6月8日
  13   川 村 竹 治   大正 3年6月9日~4年1月7日
  14   若 林 賓 蔵      4年1月8日~6年1月28日
  15   坂 田 幹 太      6年1月29日~8年4月17日
  16   佐 竹 義 文      8年4月18日~11年6月16日
  17   佐々木 秀 司      11年8月17日~12年10月24日
  18   中 村 健 蔵      12年10月25日~13年6月23日
  19   浅 利 三 郎      13年6月24日~15年9月27日
  20   三 浦 実 生   昭和 1年9月28日~2年5月16日
  21   元 田 敏 夫      2年5月17日~4年7月4日
  22   坪 井 勘 吉      4年7月5日~6年6月26日
  23   高 橋 雄 豺      6年6月27日~6年12月17日

              -139-

  24   伊 藤 昌 庸      6年12月18日~7年6月27日
  25   君 島 清 吉      7年6月28日~8年6月22日
  26   木 下 義 介      8年6月23日~10年1月14日
  27   藤 野   恵      10年1月15日~11年6月ll日
  28   佐 藤 正 俊      11年6月12日~12年12月23日
  29   玉 田 昇次郎      12年12月24日~13年2月15日
  30   藤 岡 長 敏      13年2月21日~15年4月8日
  31   永 安 百 治      15年4月9日~17年1月8日
  32   小 菅 芳 次      17年1月9日~20年1月20日
  33   泉   守 紀      20年1月12日~20年4月20日
  34   木 村 正 義      20年4月21日~20年10月26日
  35   田 中 省 吾      20年10月27日~21年1月24日
  36   竹 内 徳 治      21年1月25日~21年6月7日
  37   増 原 恵 吉      21年6月8日~22年3月7日
  38   長 瀬 英 一      22年3月8日~22年4月15日
  39   増 原 恵 吉      22年4月16日~25年7月25日
  40   金 子 正 則      25年9月11日~29年8月10日
  41   金 子 正 則      29年9月5日~32年9月4日
  42   金 子 正 則      33年9月5日~37年9月4日
  43   金 子 正 則      37年9月5日~41年9月4日
  44   金 子 正 則      41年9月5日~45年9月4日
  45   金 子 正 則      45年9月5日~49年9月4日
  46   前 川 忠 夫      49年9月5日~53年9月4日
  47   前 川 忠 夫      53年9月5日~現在
○ 「香川のもの知り事典」P28 香川県の歩み

問 県下の労働運動の本について(香)
答 組合史・・香川県総評15年史(年表)、香川県教職員組合運動史、香川高教組
       史、全逓高松簡保支部20年のあゆみ
  争議・・・香川県地方労働委員会の5年史(昭21~25)2年史(昭26~27)3
       年史(昭28~30)4年史(昭31~35)5年史(昭36~40)
  労働情報・香川の労働情報 昭38~39
  組織実態・香川県労働組合便覧 昭24~