入力に使用した資料 底本の書名 讃岐ものしり事典(p130~139) 底本の編集者 香川県図書館協会 底本の発行者 香川県図書館協会 底本の発行日 昭和57年4月1日 入力者名 森下孝男 校正者名 平松伝造 入力に関する注記 文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の 文字番号を付した。 登録日 2003年1月22日
-社 会- -130- 問 明治21年の香川県の人口について(香) 答 明治21年(1888)12月3日三置即ち現在の香川県になったときの人口である。 現住戸数136,877戸、一戸平均人員4.82人、本籍人口男339,052人、女325,984人、 計665,036人。参考までに昭和56年(1981)12月1日現在の香川県は世帯数298, 495戸、人口数男484,301人、女521,267人、計1,005,568人。 ○ 明治36年香川県統計書 P19 問 香川県文化功労者について(香) 答 香川県では、昭和31年から、毎年文化の日に、県内の文化向上に、多年功労の あった人を選び、知事の名で感謝状と記念品を贈って、その功績を表彰している。 県 文 化 功 労 者 表彰年 受賞者氏名 受賞時年齢 職 種 昭和31年 小 倉 右一郎 75 彫 塑 家 32 磯 井 雪 技(如真) 74 漆 芸 家 33 福 家 惣 衛 74 郷 土 史 家 34 新 田 藤太郎 71 彫 塑 家 35 香 川 勇(宗石) 68 漆 芸 家 36 緒 方 益 圀 58 音 楽 家 37 藤 原 茂(鶴来) 69 書 道 家 38 三 好 真 長 77 金 工 家 39 和 田 邦 夫(邦坊) 65 画 家 40 野 島 泰 治 69 医 師 41 宮 内 フ サ 83 郷土玩具製作者 42 流 政 之 43 彫 刻 家 43 松 浦 正 一 68 郷 土 史 家 44 な し 45 豊 島 只 一 80 箏 曲 家 46 細 渓 宗次郎 83 社会福祉事業家 宗 道 臣 59 宗 教 家 47 真 木 信 夫 79 郷 土 史 家 加 藤 増 夫 76 郷 土 史 家 48 横 田 ト ミ 81 邦 楽 家 鴨 政 雄 66 彫 金 家 後 藤 学 一 65 彫 金 家 49 草 薙 金四郎 69 郷 土 史 家 大 森 照 成 73 陶 芸 家 明 石 聖 一(朴景) 63 漆 芸 家 -131- 50 坂 田 勲 80 植 物 学 者 八代田 貫一郎 74 植 物 学 者 51 大 西 林 次 85 社会文化人 河 西 新太郎 64 詩 人 52 武 田 明 63 民 俗 学 者 鴨 居 ミ チ 74 書 道 家 53 脇 須 美 80 歌 人 高 橋 邦 彦 73 郷 土 史 家 54 近 石 泰 秋 72 浄瑠璃研究家 55 琴 陵 光 重 66 金刀比羅宮々司 谷 口 国 介 84 美術教育者 56 合 田 栄 作 71 人文地理学者 ○ 四国新聞およびその他の各種新聞香川県版毎年11月1日~7日記載 問 香川県出身国会議員の伝記について(香) 答 個人伝 松平頼寿一松平頼寿伝、三木武吉一三木武吉伝・三木武吉太閤記・三木武吉、大 西禎夫一大西禎夫、三土忠造ー三土忠造、都崎秀太郎一梧庵略伝、宮井茂九郎一 宮井茂九郎略伝、中野武営一中野武営翁の70年、大平正芳一私の見た大平正芳、 私の履歴書・大平正芳、大平正芳の人と政治、最後の旅、大平正芳回想録、西尾 末広一風雪の人西尾末広、津島寿一ー津島寿一追想録 列伝 近代四国人物夜話一三土忠造、小西甚之助、三木武吉、鈴木伝五郎、西尾末広、 深川タマエ、戸沢民十郎、前川正一、中野武営、鎌田勝太郎、福家俊一、小西和、 矢野庄太郎 昭和の先賢一河田烈、鎌田勝太郎、津島寿一、松平頼寿、三土忠造、三木武吉、 矢野庄太郎 現代香川県人大観一大平正芳、加藤常太郎、木村武千代、久保等、玉置実、大松 博文、成田知巳、西尾末広、平井太郎、藤井新一、福家俊一、福田繁芳、藤本孝 雄 さぬきの人間もよう一大西禎夫、三好始 新修高松市史Ⅱ一大場長平、小田知周、鈴木伝五郎、田中定吉、戸沢民十郎、中 野武営、林毅陸、前川正一、松平頼寿、三木武吉、三土忠造 問 坂出の人口について(坂) 答 明治23年 1,891戸 10,421人 -132- 明治28年 1,993戸 12,353人 明治38年 2,863戸 16,673人 大正4年 3,403戸 17,721人 大正14年 4,624戸 20,075人 昭和10年 4,695戸 23,620人 昭和20年 6,993戸 40,222人 昭和30年 12,643戸 58,551人 昭和40年 15,281戸 61,347人 昭和50年 19,012戸 67,667人 昭和56年 19,835戸 66,081人 ○ 坂出市史 P49~53 坂出市人口統計など 坂出市政概要 P5~8 (昭和53年版) 問 香川県の自由民権運動の闘士と結社について(香) 答 新政府成立後、薩長の藩閥専制政治に反対するため明治7年土佐の板垣退助、 後藤象二郎、肥前の副島種臣、江藤新平らは民選議院設立の建白書を提出した。 これをきっかけとして憲法を制定し、国民の代表を政治に参加させるため、国会 の開設を要望する声が高まってきた。この具体的なあらわれが自由民権運動であ った。板垣は建白書を提出して土佐にかえり、立志社を創設して運動の先頭にた ったが、土佐についで自由民権を唱道したのが香川県であった。かつて板垣は、 明治元年正月、高松藩追討の大隊司令として高松に進駐したとき、川崎屋で宿泊 したのであった。こうした縁があったためか、川崎屋の息子の川崎舎竹郎が世話 役となり、当時の高松の文化人である中野滝次郎、鈴木伝五郎、佐々木清三、十 河権三郎らとともに自由民権運動に立ちあがった。とくに佐々木清三は札会所の 宰主をつとめた著名な町人の家に生まれ、封建時代の身分圧迫の苦汁をなめた経 験をもっていた。彼はかつての城下の町人たちを集めて、封建思想からめぎめさ せ、民主々義の知識を啓発するために、私財を投じて「博文社」を結成した。明 治8年7月の檄文によると、「博文社」の主旨は「ソレ宇内ノ形勢ヲ知り識見ヲ 明ニスルハ各種ノ新聞紙ヲ読味スルヲ急トス。故二賢哲ノ士卜雖モ之ヲ手ニシテ 措カザルナリ。(中略)更ニ展覧所ヲ兵庫町八十五番地ニ置キ諸誌郡籍ヲ積ミ、 衆人ノ縦覧ニ供ス。(後略)」というもので、民衆への啓蒙運動が中心となって おり、運営には博文社部長川崎舎竹郎ほか5名の同志があたった。新聞ならぴに 購読料は「日新真事誌(8円)、東京日日新聞(5円50銭)、郵便報知新聞(5 円80銭)、朝野新聞(4円80銭)、東京曙新聞(3円75銭)」で、そのほか太政 官日誌、官報などもとりそろえた。これは全国的にみても珍しいことであった。 当時の高松の庶民たちは、日本の新文化を知ろうと知識欲にもえていた。また川 崎舎竹郎は毎年30円ずつ出資し、社を援助した。兵庫町の閲監所では毎日午前9 -133- 時から午後3時までの間、一般の庶民は読むことができた。これらの新聞や雑誌 の閲覧によって庶民の政治思想は育てられ、この時代の自由民権論の流行にむす びつくことによって、県下の人々の間に言論の自由と社会思想が高まり、博文社 の活動の成果は大いに上がった。一方平民だけで組織された純民社が創立された。 純民社では毎月1、2回の定例演説会の開催日を定め、午後7時より演説会を開 き、10時に終った。弁士は約7名で、少ない時は3名ぐらいであった。「他人を そしり他人の名誉をきずつけてはいけない。風俗をみだす説をのべてはいけない」 と政談演説の内容について弁士の心得がしめされていた。こうした言論による理 想的な思想運動も、一般に大きな影響をおよぼした。また「腰抜新聞」が明治14 年8月3日県下ではじめて刊行された。この新聞の名は腰が抜けるまでやりとお そうという意味でつけられたのであった。事務所を西通町におき、発行部数は1 万547枚にもおよんだ。主幹は鈴木伝五郎で、川崎舎竹郎、渡辺克哲、久保財三 郎、漆原文五郎、小西甚之助たちはさかんに活動した同志であった。高松の自由 民権熱が頂点に達したのは、板垣退助が来高した時であった。明治13年高松に鈴 木伝五郎が立志社をつくり、板垣は古馬場町にあった鈴木宅で演説会を開いた。 大勢の人が押しかけ、家の中に入り切れなかったという。この頃来高した知名人 に栗原亮一、木場繁、竹田正志、西山志澄らがおり、なかでも木場や栗原は「腰 抜新聞」に民権に関する文章を執筆し、啓蒙運動につくした。高松立志社の人々 は高知の志士何ものぞとの気概をもって民権思想を鼓吹し、次のような民権数え 歌を流行させた。「1つとせ 人の上には人はなき 権利にかわりがないからは この人じゃもの」「2つとせ 2つとはない我が命 捨てても自由が残るなら このおしみゃせぬ」「3つとせ 民権自由の世の中に まだ目がさめない人があ る このあわれさよ」(後略)そのころ、小西甚之助は密会の開設をさけんで、 高松立志社で演説を行ない、庶民の賛同をえ、15回にわたる国会開設の上願書を 政府に提出した。まだ汽車もない東海道を下駄ばきで往来し、東京では三条実美 をたずね、そのほか多くの高位高官を歴訪して国会開設を熱願した。そのため小 西甚之助は「讃岐の名物男」としてその名を天下に高めた。やがて明治22年に憲 法が発布され、翌23年には国会が開設されるにいたった。鈴木伝五郎は貴族院へ、 小西甚之助、綾井武夫、中野武営、三崎亀之助、伊藤一郎らは衆議院へ、それぞ れ香川県の代表として出席し、ここに長い運動も実をむすんだのであった。 ○ 香川県の歴史 P212~P215 香川県近代史 讃岐人名辞典 長尾町史 問 第11師団の歴史と戦史について(善) 答 明治29年7月13日陸軍平時編制改正のため、既設7師団を13師団に増加するこ とになり、四国を管区とし司令部が善通寺に設置された。歩兵43連隊・騎兵11連 隊・野戦砲11連隊・工兵11大隊・輜重兵11大隊は善通寺に、歩兵10旅団・歩兵12 連隊は丸亀に、歩兵22連隊は松山に設置され、初代師団長は陸軍中将乃木希典で、 -134- 北清事変・日露戦争を初め数多くの武勲をたてた。 ○ 第11師団の歴史 第11師団の歴史的写真帳 騎兵第11聯隊史 日本防衛史と第11師団の歴史 第40師団・第55師団戦史概要 郷土部隊戦記 朝日新聞 昭37 鯨大地を征く 戦場郷土人脈 香川県近代史 PlO84~ 讃岐郷土読本 P386~P396 問 香川県出身の大臣について(香) 答 三土忠造(1871~1949) 大川郡大内町水主出身 田中(義)内閣の文部、大蔵大臣、犬養内閣の逓信大臣、斉藤内閣の鉄道大 臣 河田烈(1883~1963) 祖父の儒者河田迪斎が善通寺市金蔵寺山身、第2次近衛内閣の大蔵大臣。 矢野庄太郎(1886~1949) 三豊郡豊中町出身、片山内閣の大蔵大臣。 津島寿一(1888~1967) 坂出市出身 小磯内閣の大蔵大臣、東久邇内閣の大蔵大臣、岸内閣の防衛庁長官。 綾部健太郎(1890~1972) 高松市出身 池田内閣の運輸大臣 西尾末広(1891~1981) 高松市女木島出身 芦田内閣の副総理 平井太郎(1905~1973) 木田郡三木町田中出身 石橋、岸内閣の郵政大臣 加藤常太郎(1905~現存) 綾歌郡国分寺町出身 第2次田中(角)内閣の労働大臣 大平正芳(1910~1980) 三豊郡豊浜町出身 第2、3次池田内閣の外務大臣、第2次佐藤内閣の通商産業大臣、第1、2 次田中(角)内閣の外務、大蔵大臣、三木内閣の大蔵大臣、昭和53年に総理 大臣 ○ 郷土歴史人物事典香川 讃岐公論5、ほか -135- 問 高松市の空襲の記録について(香) 答 高松空襲は昭和20年7月4日午前1時40分過ぎ米軍B29爆撃機の一群による波 状攻撃で、800トン余の焼夷弾と24トン余の爆弾が投下され、約4時間にわたる 空襲であった。夜明け前東方に飛び去ったが、被害地域は旧市街地の約8割、罹 災家屋全焼15,933戸、その他422戸、罹災者80,000人をこえ、死者930人、重軽 傷者880人となっている。 ○ 高松市史年表 P510 高松の空襲・手記編 たかまつ7月4日 明治百年 P132 昭和50年史(上)P183 30年目の証言 問 高松藩の法令について(高) 答 高松藩の法令は、松平頼重が高松に入封する寛永19年(1642)5月、道中法令 19か条を定めたのが始まりといえる。その後、社寺に対する条目やいろいろな規 則が定められた。 ここでは、元禄9年(1696)の御法令御条目を参考に記している。 法令は21か条からなり、個条書に定書してある。その第1項には、「文武両道 者、土之先務也、専励忠孝不可忘礼義事」と記してあって、武士は、学問・武術 を習い、主君に忠義、親に孝養、礼儀をおもんじることを定めている。そのほか、 武具の用意や手入れ、喧嘩口論の禁止など、又、船の出入は定めの川口5か所に かぎられ、きびしく取締られている。使番の武士などの一夜泊は許可書(切手) を必要とし、町中の者の出入は町年寄の判が必要であった。そのほかにも、嫁と り、家宅等の普請(新築・修理)饗応、身につける衣装などについても一つ一つ とりあげて定書をしている。 条々17項を法令の補足的につけ加えている。これには、親不孝の者には、跡目 (家を継ぐ)を継がさない、又、跡目をついでも、不孝、不行跡がわかれば、知 行(禄)を召しあげると記している。又、領内の道や橋を調べて不通個所がない ように、制札(掲示板)は、つねに無沙汰のないように毎度改めること、武具、 衣装、道具もぜいたくしてはならない。乗物は長衿以上の者〈身分の高い武士)、 50歳以上で願い出たもの、老女、病人など・・・と。 於江戸家中衣類之覚として11項、江戸供之定として何石取の武士は何人の供を 召持つことができるなども定めている。 ○ 高松藩記 PlO8~124 高松藩法令及び松平家系譜 問 多度津藩の倹約令について(多) 答 財政窮迫はいつの世にもあるものか、江戸時代幕府をはじめ、諸藩でも財政ひ っ迫し、倹約令をしばしば布告している。 文久3年正月、多度津藩でも、衣食住をはじめ生活社会行事等にわたった倹約 -136- 令をだしている。藩主の命を受け藩の郡奉行から大庄屋、庄屋、五人組頭に順次 令し、各戸の戸主からその印形を取って指令の徹底を図っている。お達しのうち のいくつかをあげると、 ・衣類は男女ともに木綿に限ること、背いた者は牢番支配申しつける。 ・ひなかざりは在来の分内裏紙びなの内、壱対をかざること。 ・八朔のかざり馬、かざり人形等は今後停止のこと。 ・はま弓、羽子板等かざることも売買も停止のこと。 ・男女とも履物はなるだけ下直の品を用いること。 ・呉服物、小間物類すべて栄耀がましい品物は売買停止のこと。 ・家普請は身分不相応にならないようにすること。 ・吉凶客類のことは親類と組合の外は堅く無用のこと。 ・祭礼、御幸の外は、にぎわいごとすべて無用のこと。 ・盆踊り無用のこと。 ・女髪結停止のこと。髪を結わせたときは双方ともに剃髪させる。 ○ 四箇村史 P292~297 多度津町史 PlO54 問 藩札について(香) 答 江戸時代諸藩の発行した紙幣をいい、高松藩・丸亀藩では金札・銀札・銭札・ 米札の4種類を発行したが、後には銀札のみとなり、100目札・10匁札・1匁札 ・3分札・2分札があり、札と金や銀と両替する所もあった。多度津札は製造し たが発行はしなかったといわれている。 明治2年に政府は太政官札を発行して旧藩札をことごとく交換した。 ○ 高松藩々札 丸亀藩々札1・2 讃岐の藩札 讃岐に流通した貨幣の話一讃岐公論 昭26.10 香川県放送郷土新誌 P24~ 百十四銀行80年誌 P22 物語藩史7 P449 問 百十四銀行の歴史について(香) 答 百十四銀行80年間の発展大要 |----|-----------|-----|---|----|---| | 年月日| 摘 要 |当 時 の|職員数|資 本 金|営業店| | | |代 表 者| | | | |----|-----------|-----|---|----|---| |明治 |第百十四国立銀行開業 |発起人総代| 人| 千円| | |11.10.7|下付 |松本貫四郎| 5| 50| 1| |11.11.1|営業開始第百十四国立 |頭取 | | | | | |銀行紙幣発行高4万円 |宮本 園丸| 5| 50| 1| -137- |31.10.7|営業満期国立銀行処分| | | | | | |法により、株式会社高|頭取 | | | | | |松百十四銀行として新| 鎌田 房次| 50| 600| 3| | |発足 | | | | | |33.7.1|高松貯蓄銀行を合併 |同 上 | 55| 630| 3| |大正 | | | | | | |2.4.26|大川銀行を合併 |同 上 | 115| 1,130| 7| |9.12.15|宇多津銀行を合併 |専務取締役 | 125| 3,150| 15| | | | 井上 耕作| | | | |10.6.1|高松商業銀行を合併 |専務取締役 | 150| 3,500| 17| | | | 井上 耕作| | | | |11.12.17|東讃銀行を合併 |専務取締役 | 165| 3,900| 24| | | | 中村新太郎| | | | |13.3.30|高松百十四銀行と高松| | | | | | |銀行が合併し、株式会| | | | | | |社高松百十四銀行を設|同 上 | 352| 12,620| 32| | |立 | | | | | |昭和 |創業80周年記念式挙 |頭取 | | | | |33.11.1|行 | 綾田 整治| 1,141| 540,000| 57| | | |頭取 | | | | |57.3.1| | 三野 博| 2,892| 1,000,000| 100| |----|----------|------|----|-----|---| ○ 百十四銀行80年誌 百十四銀行百年誌 回顧録 株式会社高松百十四銀行 問 福崎騒動について(坂) 答 那珂郡南村大字柞原(現丸亀市柞原町)の大地主、福崎家の一族の福崎治郎は 財産を蕩尽し生活に困るようになった。そこで治郎は本家福崎へ無心にいくよう になった。 戸主は、時々施していたが限りがなく、相当の財産を贈り、以後要求せぬこと を誓わせた。治郎はこの財産を以て岡山に行き、岡山騒動の惨劇の跡を調査して、 ピストル、弾丸、日本刀などを購入して帰って来た。 これに対して、戸主タケは2人の用心棒を雇入れ、治郎の無心を武力によって 撃退した。 収入の道がない治郎は一大凶行を決意し、自分の弟の本三とその妻トラ、無頼 漢平尾秀松と4人が盟約し、福崎家襲撃の計画をたてた。 タケは危験を感じ、塩飽本島にいたり大阪に住んでいたりしたが、明治29年8 月18日(旧暦7月10日)長屋門の落成式の祝賀に帰宅した。 4人はこれを見て福崎家に殺到し、用心棒の黒木惣太郎、野田鹿之助と梅子、 イソノを斬殺し、土蔵の中に隠れている、タケ、久勝、昇を火をつけて焼き殺し -138- た。凶行を演じた4人は墓場で自殺した。この事件を世に福崎騒動という。 ○ 香川県近代史 P746~749 香川新報 問 女神丸事件について(土) 答 昭和20年8月8日女神丸が百数十名の客を乗せ(当日は香川県内の各町村の郷 土防衛隊の隊員、町村長、助役、兵事係等が本土防衛の会議に出席するため)土 庄港を出帆し、屋島の沖にさしかゝつたとき、敵機グラマン機3機が襲来、低空 飛行で機関銃掃射をあびせた。死者22名と多くの負傷者を出した事件である。 ○ 女神丸事件 問 歴代知事の氏名と在任期間について (香) 答 歴代知事 代 氏 名 在 任 期 間 1 林 薫 明治 21年12月3日~22年12月25日 2 柴 原 和 22年12月26日~24年4月8日 3 谷 森 真 男 24年4月9日~26年4月4日 4 小 畑 美 稲 26年4月5日~28年11月7日 5 深 野 一 三 28年11月8日~29年4月10日 6 徳 久 恒 範 29年4月11日~31年7月27日 7 小 野 隆 助 31年7月28日~31年12月23日 8 吉 原 三 郎 31年12月23日~33年1月18日 9 荒 川 義大郎 33年1月19日~33年10月24日 10 末 弘 直 カ 33年10月25日~35年2月7日 11 小野田 元 〔ヒロ〕(#「ヒロ」は文字番号19292) 35年2月8日~43年6月17日 12 鹿子木 小五郎 43年6月18日~大正3年6月8日 13 川 村 竹 治 大正 3年6月9日~4年1月7日 14 若 林 賓 蔵 4年1月8日~6年1月28日 15 坂 田 幹 太 6年1月29日~8年4月17日 16 佐 竹 義 文 8年4月18日~11年6月16日 17 佐々木 秀 司 11年8月17日~12年10月24日 18 中 村 健 蔵 12年10月25日~13年6月23日 19 浅 利 三 郎 13年6月24日~15年9月27日 20 三 浦 実 生 昭和 1年9月28日~2年5月16日 21 元 田 敏 夫 2年5月17日~4年7月4日 22 坪 井 勘 吉 4年7月5日~6年6月26日 23 高 橋 雄 豺 6年6月27日~6年12月17日 -139- 24 伊 藤 昌 庸 6年12月18日~7年6月27日 25 君 島 清 吉 7年6月28日~8年6月22日 26 木 下 義 介 8年6月23日~10年1月14日 27 藤 野 恵 10年1月15日~11年6月ll日 28 佐 藤 正 俊 11年6月12日~12年12月23日 29 玉 田 昇次郎 12年12月24日~13年2月15日 30 藤 岡 長 敏 13年2月21日~15年4月8日 31 永 安 百 治 15年4月9日~17年1月8日 32 小 菅 芳 次 17年1月9日~20年1月20日 33 泉 守 紀 20年1月12日~20年4月20日 34 木 村 正 義 20年4月21日~20年10月26日 35 田 中 省 吾 20年10月27日~21年1月24日 36 竹 内 徳 治 21年1月25日~21年6月7日 37 増 原 恵 吉 21年6月8日~22年3月7日 38 長 瀬 英 一 22年3月8日~22年4月15日 39 増 原 恵 吉 22年4月16日~25年7月25日 40 金 子 正 則 25年9月11日~29年8月10日 41 金 子 正 則 29年9月5日~32年9月4日 42 金 子 正 則 33年9月5日~37年9月4日 43 金 子 正 則 37年9月5日~41年9月4日 44 金 子 正 則 41年9月5日~45年9月4日 45 金 子 正 則 45年9月5日~49年9月4日 46 前 川 忠 夫 49年9月5日~53年9月4日 47 前 川 忠 夫 53年9月5日~現在 ○ 「香川のもの知り事典」P28 香川県の歩み 問 県下の労働運動の本について(香) 答 組合史・・香川県総評15年史(年表)、香川県教職員組合運動史、香川高教組 史、全逓高松簡保支部20年のあゆみ 争議・・・香川県地方労働委員会の5年史(昭21~25)2年史(昭26~27)3 年史(昭28~30)4年史(昭31~35)5年史(昭36~40) 労働情報・香川の労働情報 昭38~39 組織実態・香川県労働組合便覧 昭24~