入力に使用した資料 底本の書名 讃岐ものしり事典(p111~129) 底本の編集者 香川県図書館協会 底本の発行者 香川県図書館協会 底本の発行日 昭和57年4月1日 入力者名 森下孝男 校正者名 平松伝造 入力に関する注記 文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の 文字番号を付した。 登録日 2003年1月22日
-地 誌- -111- 問 池窪について(三) 答 弥谷寺から海岸寺へ行く峠の少し手前に広い平地がある。ここを池窪と呼んで 昔弥谷寺の東院のあった跡といわれている。 天正時代、天霧城主の最も栄えた頃が、弥谷寺の全盛時代でもあった。その当 時の弥谷寺は3院6坊といって、広い境内と大小幾つもの堂塔伽藍を備えた県下 有数の寺院であった。3院というのは、中尊院、東院、西院のことで、東院は池 窪の池にあった。 池窪は大きな池のあった所で付近は水の豊富な土地でもあった。かつてここを 堀ってみたが、1.5メートルまで堀下げたところが地下から清水がコンコンと湧 き出した。その跡は掘ったままに残してあるが、いつ行ってみても、殆んど水の 涸れていることはない。この水は地下から湧出しているのではなくて、このあた りの地中に含まれている地下水が〔ニジ〕(#「ニジ」は文字番号18081の略字) み出ているものと思われる。 ○ 大見村史 三豊郡史 問 牛屋口の地名について(金) 答 牛尾口は、琴平の谷川町の西南にある峠で、昔は、伊予の土佐から、金毘羅へ 参詣に来る人達が通ったところとして、よく知られている。 ここはまた、江戸時代、金毘羅の社領と、丸亀藩領の佐文村との境目にもなっ ていた。 普通、「牛屋口」は「御使者口」が訛ったものであるといわれている。古い記 録を見ると、幕府の巡見使が、伊予から金毘羅へやってくるようなとき、ここに -112- 俄造の茶屋を拵えて接待するのが決りであったことがわかる。しかし、その際、 この峠のことは、単に「峠」または「西口峠」「西領境峠」などといわれていて、 「御使者口」とか「牛屋口」とかの名は見あたらない。 しかし、安永四年(1775)、伊予出身の幕府の儒官尾藤二洲が金毘羅へ参詣し たとき書き遺した「遊象頭山記」にも「牛屋口」とあり、日柳燕石にも「牛屋口 驟雨」の詩があり、かなり古くから、人々に親しまれていた名であることがわか る。昭和になっても「牛屋口守」という筆名を使った人もあったくらいである。 町の年寄の話では、昭和の初までは、西の観音寺から夜どおし、車で魚を運ん で来て、ここで、宿屋の板前や町の魚屋を相手に、朝市を開いて売り捌き、大変 賑やかであったが、護摩谷越の新道が出来てからは、それも急に寂れたとのこと である。 現在でも、ここには寛政6年伊予国から献納になった石の鳥居をはじめ、明治 初年、土佐の国の人達が奉納した灯籠60数基が並んで、ひっそりしたなかにも、 昔の繁華な面影を伝えている。 ○ 人文地理 昭和34年一金毘羅灯籠の交通地理的意義 ことひら第2巻第10号一讃岐池御料私領巡見史料に就いて 金毘羅宮詞藻史 問 馬の背(香川町)の地名のいわれについて(香) 答 琴電バス塩江線の川東車庫の北あたりに「馬の背」というところがある。 ここには、嘉永6年11月20日銘の馬の墓がある。屋島で行なわれた源平合戦の ときに、平家の落武者の一人がこの地まで逃げのびてきたが、深傷のために遂に 力尽きて自刃した。その時愛馬も道連れとして殺してしまった。ところがそれ以 後、夜になると首のない背だけの馬がでてきて、人々をなやましたという。そこ で森三郎という人が、この亡霊をしずめるために馬の墓をつくったといわれてい る。なお、上池(川東)や浅野船岡にも首切り馬の話がある。 ○ 香川町史 P567 問 大坂峠について(香) 答 引田町坂元から、国道と分岐してのぼって行くと、県境(標高189メートル)に は展望台があり、更に進むと大坂峠(標高270メートル)に達する。大坂は大きな 坂という意味ででもあろう。 この大坂峠は徳島県板野町地内であり、県境はこれより西、道路延長で2,400 メートルの距離をもっている。 これは、その後の道路のうつりかわりによるものであって、往昔の大坂峠は、 これより西約600メートルの山の峰にあり、雑草に蔽われたせまい小径がかすか な名残りをとどめている。 -113- ここからは、讃岐と阿波の山野を一望にすることができる位置にあり、これこ そまことの大坂峠であろう。 元暦2年(1185)、九郎大夫判官源義経は、平家を攻めおとそうとして都を立 ち、摂津国渡辺を出港、2月17日卯の刻、阿波の地に着き、坂西の近藤六親家を 案内人として、総勢200余騎が山道を1里余、夜もすがらよじのぼり、大坂峠を こえて、あくる18月寅の刻、引田に達した。 新平家物語で、吉川英治氏はこの大坂峠を、「降りつづいた大雨のあとだけに、 山道は河床のように、石や土砂を露出している」と書いている。 このみちは、もとより小〔ケイ〕(#「ケイ」は文字番号37747の略字)、急峻、 今はそのみちばたに、西国33番の石地蔵が、 ぽつりと建てられている。 明治初年、この峠は、山腹を縫う新らしい道路に改良された。 その後、昭和10年には国鉄高徳線が開通し、峠の交通は徐々に変化をきたし、 昭和38年には新国道が開通、峠は歴史の散策路、思い出の山道となってしまった 感じである。 県境の展望台に、南原繁元東大総長の碑がある。 引田町相生に生まれた南原さんも、この峠には、数多い若い日の思い出がある に違いない。 碑面には、 幼くて われの越えにし 大坂峠に立ちて見さくる ふるさとの町 と自筆の短歌が刻まれている。 ○ 讃岐の峠 P17 阿讃の峠 讃岐の道 問 大谷山のしし垣について(豊) 答 藩政時代には、農作物を荒す、鹿、猪の類が多かった。それを防ぐためには、 しし垣を築くことと、鹿おどしの鉄砲が必要であった。ことに山近くの畑作地帯 には、その害を受けることがひどいので、領主は鹿、猪等の侵入を防ぐためのし し垣を築かせたり、それらの地方の庄屋などに、鹿おどしの鉄砲を預けて、農作 物の被害を防ぐようにさせたものである。 豊浜町も藩政時代頃、鹿や猪のために農作物の収穫皆無の年もあったという。 そこで、困りはてた百姓を見て、当時直場の人、山内作兵衛は、藩主、庄屋に願 い出て、私財を投じて、万延元年(1860)に築いた。 石垣は西は猪ノ谷のふもとから、東は高尾山のふもとの鳥渡し谷まで長さ約1 .6キロメートル、高さ約1.8メートル、巾約90センチあった。 後年、このしし垣もほとんどこわされ、今はなき南小学校の校庭の周囲の石垣 -114- もこのしし垣の一部だともいわれている。 ○ 豊浜町誌 P482 問 寒露溪について(香) 答 寒霞溪は古くから小豆島を代表する景勝地として知られている。 この地名の起りは第15代応神天皇がこの山へ狩りに来られた時鉤(ルビ かぎ) をかけてのぼ られたので鉤懸(ルビ かぎかけ)山と名づけられ、それが神懸 (ルビ かんかけ)となり、明治になって寒霞溪とよばれるようになった。 寒霞溪は100万年前の火山活動によって生まれ、長い年月の 大気水蝕の作用によって築き上げられた自然の美しさをもつ山として有名である。 大正12年3月7日、名勝に指定されている。 ○ 讃岐めぐり P38 小豆郡統計年鑑 昭和26、 香川県放送郷土新誌 讃岐風土記 P168 小豆島今昔 四国一文化財をたずねて 香川県観光と旅 P49 史跡名勝天然記念物調査報告第1 寒霞溪道しるべ 香川県の歴史 P27 常夏の国小豆島 P26 小豆島 P8 小豆島の史蹟と自然美 問 讃岐の鉱泉場について(香) 答 四国地方は、わが国で最も温泉に恵まれていない地方であり、中でも香川県は 少ない。 1.塩江鉱泉(香川郡塩江町安原上東) 香東川の上流、塩江町かがり山の麓に湧出する。昔は塩ノ井または潮の江と 呼び、聖武天皇の時代天平年間に僧行基の発見と伝えられ、後弘法大師がその 効験を宣伝したと伝えられている。泉質は弱アルカリ泉で、硫化水素臭がある。 慢性皮ふ病、リュウマチ等に効能がある。効能の多いことが近郊へ知れわたっ ていたためか、明治27~28年の日清戦争の傷病者約50名が転地療養にきていた。 また昭和4年11月12日琴平電鉄が仏生山駅から塩江までガソリンカーの営業を はじめ、以後12年間営業が続けられ、塩江温泉の観光開発に大きな役割をはた した。明治44年2月24日に香東川南岸の現在地に工費1600円、建坪132平方メ ートルの村営温泉場がつくられ、明治末期から昭和初期にかけて観光塩江の全 盛時代を迎えた。戦後、昭和37年10月に県衛生研究所の調査によって、塩江鉱 泉は正式に温泉法による温泉であると発表されたが、現在新興温泉群にかくれ てあまり紹介されることがなく、とり残されている。 2.五郷渓温泉(三豊郡大野原町五郷海老済) 雲辺寺山麓、旧五郷村海老済の渓深く柞田川の支流、前田川に臨む砂岩頁岩 層より湧出する鉱泉である。泉質はアルカリ泉で主成分は重炭酸ソーダを含有 し、清澄無色、微かに硫化水素臭を有する。神経痛、リュウマチ、皮ふ病に特 -115- 効がある。古くは源平合戦で、太政入道清盛の孫、平有盛が元暦元年(1843) 3月平家の一門が長門の壇の浦に滅んだ時、のがれてこの地にかくれ、その後 平家の落ち人によって開かれたといわれている。近年、香川県総合開発会社に よって開発されて、近代的設備を誇る五郷渓温泉として再出発した。 3.城山鉱泉(坂出市府中町鴨川) 昭和28年8月に地元の荒井虎夫氏の発見により同29年3月より尾崎又八氏が 温泉経営をしている。明ばん温泉で皮ふ病、ジンマシン等に効能がある。環境 は瀬戸内海国立公園の一環である城山の東北山麓にあって、東に綾川を距てて 五色連峰を、西北は坂出市および海の銀座塩飽諸島を一望におさめ、東南は怪 山鷲の山がそびえ絶佳の光景である。付近には国庁跡、崇徳天皇聖蹟、城山城 跡等史蹟が多く、また城山ゴルフ場もある。 4.その他 川添鉱泉(冷鉱泉)香川郡香川町川東 上佐鉱泉(冷鉱泉)高松市三谷町上佐山 黒川鉱泉(冷鉱泉)大川郡大内町入野山 甘露鉱泉(炭酸鉱泉)小豆郡土庄町肥土山 庵治鉱泉(硫化水素泉)木田郡庵治町江ノ浜 船隠鉱泉(重炭酸泉)木田郡庵治町船隠し ○ 塩江町史 P440 府中村史 P479 月刊香川 昭和39年6月号 香川県郷土地理 P141 五郷山部分林史 P354 香川年鑑 昭42年板 P179 温泉案内 旅と温泉中国・四国 香川県の地理 交通公社全国旅行案内 問 香東川か郷東川か 呼び方について(香) 答 寛政3年に編さんされた「大野録」に「香川(河)郡の郡名は、清和天皇の貞 観元年(859)の冬のこと、綾の松山の青峰に香木があった、そのかおりが東の川 にながれわたったので、香渡(こと)川といゝ、香東川というようになった。こ の川から西を香西郡、東を香東郡といった。香東川は寛永(1624)のころまで香 川郡大野の郷の西より水路がふたまたにわかれていて、その一筋は宝山の東をめ ぐり石清尾のふもとを流れて西浜に流れこんでいた。もう一筋の流れは弦打山の 西にそっていまのように流れていた。のちに東の川筋即ち室山の方は生駒藩主が 堤を築いて畑をひらかせ古河筋新開といった」。「玉藻集」に「(香東川)その川 筋は香川郡安原之内、松尾、別子、樺川、塩江、川東より郷東へ流れる」とある。 「高松地名史話」に「郷東」は『和名抄』にみえている飯田郷の一部である。飯 田郷の東部にあたるところから郷東という地名が起ったものと思われる。飯田郷 は現在の郷東町、鶴市町、飯田町の地域をひっくるめたものをいう」。新修高松 市史1に「香東川(ことがわ・郷東川のこと)」とある。以上のように古くから -116- 香東川といわれている。 ○ 新修高松市史1巻 P20 讃岐のため池 P261 高松地名史話 P82 問 鎌田家の香風園について(香) 答 香風園は、坂出市の実業家鎌田勝太郎氏が明治41年(1909)から同43年にかけ て築庭したものである。築山泉水の日本庭園で雄大な石組の大滝や枯山水の小滝 など泉水池を中心として、西は日本式に造庭、東は西洋式花壇、温室を設け熱帯 性植物などを栽培した。鎌田氏は当時日露戦役後の不景気な世相の中で失業者救 済事業として、この造園を考え出したものである。昭和30年2月7日この園は坂 出市に寄贈され、同11月3日市民公園となった。現在泉水の西に記念公会堂が建 ち、東は児童公園となっている。 ○ 淡翁鎌田勝太郎伝 Pll 郷土に輝く人々 P209 問 五剣山について(香) 答 木田郡牟礼町にある五剣山は、海抜374メートル、のこぎり形の山頂は昔、5 つの連峰がそびえていたが、北端の1峰は永禄11年(1568)5月霖雨により崩れ たので、五剣山といいながら4つの剣がそびえている。山頂近くの絶壁の下に四 国霊場85番札所八栗寺がある。同寺は「八栗のお聖天さん」と呼ばれ、多くの信 者を集めている。山頂から遠くを望むと8か国が見えたので、八国寺といったが、 弘法大師が唐へ渡るとき、栗8粒を植えたのが成育したのをみて八栗寺と改めた という。 五剣山には、昭和4年11月にケーブルカーが設置されたが、戦中にとりはずさ れた。しかし、昭和39年12月に復活した。 八栗寺西門外には八栗城址があり、近くには安徳天皇ゆかりの六万寺や源平合 戦の古戦場がある。 ○ 郷土の顔(四国新聞) 史蹟名勝天然記念物調査報告6 古今讃岐名勝図絵 Pl17 木田郡誌 讃岐の岩石と地層 香川年鑑 昭33年版 P348 問 五色台のいわれについて(香) 答 五色の峰々の呼び名のおこりについて、「香西記」には、 紅の峰 海岸にそびえているので、朝日が峰をてらし、夕日が秋の紅葉を染 めて、それらが海の水にてりはえて紅色にかがやくから。 -117- 黄 峰 秋の霜にあたって黄色くなった樹々の色が、他の峰々よりもあざや かだから。又一説に、この峰にはおみなえしが多く、その花の色で 秋は山全体が黄色くなるから。 青 峰 松や桧がこの峰には多く、冬になっても相変らず青いから。 白 峰 他の峰より山が深いので、雪がなかなか消えないから。 黒 峰 この峰には黒い岩があり、黒岩の峰がつずまって黒峰となった。 以上はどうも文字にひかれたこじつけが多いようで信用はできない。ただ白峰 のみは、事によったらこの説明のようなわけで、早くからそう呼ばれていたとも 考えられる。そして他の4峰は、白峰の白との関連において、それぞれ赤(紅も 赤のうち)黄、青、黒などの色を得たのではないかと想像される。 ところで問題は白・赤・黄・青・黒という定まった五色である事であり、ここ に仏教の信仰との関係を考えざるを得ない。すなわち仏教、特に密教では、五色 糸(ごしきのいと)といって上記の五色に染めた糸をない合せて、それを大切な儀 式のときに使う。しかも密教の教理によると、五色は五方五仏に配され、金剛界 としては中央大日如来・東方阿〔シュク〕(#「シュク」は文字番号41309) (しゆく)如来・ 南方宝生如来・西方阿弥陀如来・北方不空成就如来、胎蔵界とし ては中央大日如来・東方宝幢如来・南方開敷華王如来・西方阿弥陀如来・ 北方天皷雷音如来となっている。そして胎蔵界の大日如来は紫磨金色=黄色で、 それを中央にし、残りの色を四方に配すると、ちょうど黄峰を中央に、他の4峰を 東西南北に配置した五色の峰々の呼び名は密教、特に中世後期に、この山岳地帯で 栄えた真言密教と直接関係があると考えられる。 ○ 観光学術読本・五色台 P8 問 琴弾山の名称のおこりについて(観) 答 琴弾山の名称は琴弾八幡宮からきている。 琴弾八幡宮縁起(権中納言藤原実秋1416)によれば、大宝3年( 703)3日21日 (全讃史では秋8月)、西の空が鳴動し日月を3日間失った。この時当山麓に1 艘の舟が着いて琴の音がきこえ、これを出迎えた麓の神宮寺の僧日証(全讃史で は日澄)に「朕は応神帝で京へ行く途中だが好景なのでここに鎮座したい」といい、 翌日、海を竹林とし干潟を松林としたので、山上に祠をたてたとある。 また、南海流浪記(香川叢書2)には宝治2年10月28日のところに「琴引卜云 宮ニマウデ」「この宮は昔八幡大菩薩筑紫より京へ向かう途中、立寄られた所で、 その船のへさきや琴を宮内につくりこめた(意訳)」とある。 ○ 全讃史 巻6 P38 西讃府誌 P745~ 観音寺市誌 P326~ 三野豊田郡沿革考(2) 香川叢書 巻2 P604 -118- 問 金毘羅の門前町について(金) 答 室町時代には、もう金毘羅の町が賑やかになっていたと書いてある書物もある が、その頃のことは、どうもよく分らない。 確かなことといえば、江戸時代を通じて金毘羅の役人として代々勤めた何軒か の家、また町方で町年寄とか酒造家として栄えた家々の系図によって、その家が 何時から金毘羅へ来たかを見てゆくのがよいと考えられる。(室町時代から幕末 まで金毘羅で続いた家もあったかも知れないが、まだ資料の上では見付からない) まず、金毘羅の別当(いまで言えば金刀比羅宮宮司と琴平町町長を兼ねたよう な役)は、慶長18年(1613)に就任した宥睨以後は、代々山下という家の人が襲 ぐことになるが、この山下家が三豊郡の河内村(当時豊田郡)から金毘羅へ移っ てきたのは、宥睨が別当になった慶長18年の暮頃だろうといわれている。 宥睨のまえには宥盛という人が別当でいたが、宥盛の実家は香川郡川辺村(当 時香西郡)にあり、井上という姓であった。宥盛の実弟で、生駒家に仕えた井上 助兵衛は大阪夏の陣で戦死したので、宥睨は、助兵衛の奥さんや子供たちを金毘 羅へ呼び、高薮というところで屋敷を与えた。この家は金毘羅の町では一番古い 家だと言われている。 金毘羅の役人としても、分家の人達が町で造り酒家としても一族繁栄した菅納 家も、宥睨に招かれて、寛永5年(1628)に、岡山から移ってきた。大分後のこと とで蕪村とも交渉があってよく知られている菅暮牛(左平太)も、この菅納家の 分れである。 元禄の頃、羽屋という造り酒屋でもあり、号を寸木といって俳人としても知ら れている人に木村平右衛門があるが、この木村家も、祖父猪右衛門の代に、宥睨 の招きで、大川郡鶴羽村(当時寒川郡)から金毘羅へ来た。元和2年(1616)の ことである。 このほか、宥睨に招かれて来たことがはっきりしている役人の家には河野家と か小國家とかがある。 また金毘羅の川に橋がはじめて出来たのは寛永元年(1624)のことであり、鳥 居はそれより少し遅れて寛永10年(1633)に出来た。どちらも宥睨が別当でいた 時のことである。 また宥睨の時代は、讃岐の国が生駒家の支配を受けていた時であったが、生駒 家では、金毘羅の町が発展するよう税金など軽くするという方針をとっており、 その証文も遺っている。 正保2年(1645)に宥睨が亡くなって、やはり山下家から来た宥典が住職にな つたが、宥典に招かれて来た役人の家には小川家、竹川家がある。また、後々、 町の年寄役を勤めた荒川家も宥典の招きで移って来たとのことである。 現在でも琴平の町で続いている虎屋旅館は、もと三豊郡丸井村(当時三野郡) でいたが、宥典の供をして金毘羅へ出て来た。 こうして見てくると、金毘羅の町は宥睨・宥典が別当で在職していた慶長から寛 -119- 文頃に町らしくなったと考えていいと思われる。 ○ 山下氏家譜(琴平町 漆原俊三氏蔵) 菅納家系図(琴平町 菅納彰次氏蔵) 多間秘書古老伝(金刀比羅宮蔵金刀比羅宮史料所収) 家密枢鑑(琴平町 漆原俊三氏蔵) 故事匡鑑(金刀比羅宮蔵) 河野家系図(琴平町 河野悦太郎氏蔵) 小川家系図(琴平町 菅納彰次氏蔵) 木村家系図(大阪市 石井ヒサノ氏蔵) 仲多度郡史 香川県俳譖史 問 坂出の山名の由来について(坂) 答 坂出市の出岳は、城山山塊の一群と国分熔岩台地に属する山々で、その数20有 余有り、昔から親しまれてきたこの郷土の山名の由来について次のように考えら れている。 城 山(きやま) 山頂に朝鮮式の山城址がある。我が国においては城(ルビ しろ)のことを「き」 と呼んだのがそのまゝ山の名として残されたものであろう。 金 山(かなやま) 金山権現の守る金の蔓が埋蔵されているとの伝説があるが、この山の斜面の いたる所に、打てば金属音を発する石(カンカン石、カネ石、学名サヌカイト) が累積しているのでこの名があると考えられる。金山長者の伝説がある。 飯ノ山(いいのやま) 讃岐平野の中央に佇立する山で、古事記にある讃岐の別名飯依彦のよりまし し山として、南麓に飯神社がある。これによる名である。 角 山(つのやま) この山の南麓平野は古く入海で、鵜足郡(うたぐん)の津(みなと)として 栄えたところであり、今も津の郷の名があり、その奥には川津の地名もある。 角山は充字で、本来は津の山と呼ばれ港の目標となった山である。 笠 山(かさやま) 玄武岩でできた円錐形の山でその形が笠を伏せるに似るによってこの名があ る。昔行基菩薩その地に魚御堂を建て法を説くに群衆にまじっていた龍女法に 喜悦し、カンザシを残して去る。行基そのカンザシを山頂に埋め日照の時に雨 乞を祈ったにより、カンザシ山と呼び、後世その語がつまってカサ山となった との伝説がある。 雌山(めんやま)雄山(おんやま) 同形同高の山がその裾を連ねて並びこの峠をコイシ越と呼んでいる山で、そ の形で夫婦の山と考えられ、そのなだらかな山を雌山、急な方を雄山と呼んだ ものであろう。大古イザナギノ命は雄山に、イザナミノ命雌山に降臨し給い、 恋越(こいしごえ)で会ったとの伝説がある。 -120- 聖通寺山(しょうつうじやま) 壷を横にしたような山形から、古くは壷平山(つぼひら山)平山と呼ばれて いたようであるが、中世聖通寺が西麓に創設され信仰されるとともに聖通寺山 と呼ばれるようになった。 郷獅山(ごじやま) 山麓より頂上近くまで角礫凝灰岩の層よりなり、中世この層を利用した 岩〔クツ〕(#「クツ」は文字番号 8186) 寺院が多く存在したと考えられる(岩薬師、コーモリ穴など)。こうした宗教 的関係から僧侶を呼ぶ五師(ごし)又は人里離れた孤寺(こじ)などの意が山 名になったのではなかろうか。 五色台(ごしき台) 白峰山塊は平安時代以後密教の道場的霊山として考えられ、多くの僧はこの 山頂を巡って修業した。このため山塊の各方位の峰に密教五仏になぞらえて、 黄を中心、青、赤、白、黒の五色を配して白峰、赤峰、青峰、黄峰、黒峰と呼 んだ。近年この地が観光開発されるにともないその名を五色台と呼ぶようにな ったものである。 〔ウシノコ〕(#「ウシノコ」は文字番号20196の略字) 山(うしのこやま) 小丘頂上にある巨岩にウシの足跡に似た凹があるのでこの名がある。松山館 (国司菅原道具の別館)を守護するため〔ウシノコ〕 (#「ウシノコ」は文字番号 20196の略字)が天から降ったという伝説がある。 天神社が祀られている。横山ほか19の山名省略。 ○ 坂出の山名考 讃州府志 今古讃岐名勝図絵 問 坂出市の町名由来について(坂) 答 坂出市・・慶長(1596~1615)中期、津ノ山(新浜町)ふもとから、東坂に広 がる遠浅海岸に塩浜が設けられ、赤穂などからやってきた浜人が塩づくりを始め た。驚いた宇多津住民が「坂(田尾坂)を出ると、いつの間にかあちらこちらに 家が建ち、寄り州に村ができている」といったことから坂出と名付けられたーー と古文書にある。 御供所町・・明治21年、坂出村が最初に合併したところ。景行天皇のみ代、武 殻(たけかいこ)王が管内を巡視中、聖通寺山ふもとで病気になったが、里人が 差し上げた麦酒で元気を取り戻した。その里人を家来に取り立てたのが由来と伝 えられる。当地には明治時代まで麦酒を作る風習が残っていたという。 富士見町・・明治35年、市の中心部を南北に幹線道路が開通、讃岐富士が一望 できたことから名づけられた。 府中町・・大化元年(645)に国司庁が設けられ、讃岐の政治文化の中心とし て府中の名が生まれた。代表的な国司は菅原道具。その後、讃岐に流された崇徳 上皇が崩御されるまでの6年間、写経生活をしながら京をしのばれたのもここ。 -121- 昭和29年4月に坂出市に合併。 林田町・・鎌倉時代に波以多(はいた)、波夜之院(はやしだ)などと呼ばれ ていたものがなまって林田になったと古文書にある。綾北1万石の名を生んだ穀 倉地で、いまも条里制の跡が当時をしのばせている。昭和17年7月、坂出に統合。 崇徳上皇ゆかりの綾高遠の館(雲井御所)細川清氏と同族細川頼之合戦の地など 史跡に満ちている。 加茂町・・弘仁年間(810~824)弘法大師の伯父・阿刀大足が、京から迎えた 加茂神社の社名をとった。大明神原から出土した銅鐸(たく)や綾川を隔てて国 司庁が設けられたことからも、早くから讃岐文化の中心地だったことが推測され る。昭和26年4月に坂出と合併。 ○ 読売新聞香川版 昭和50年5月~7月 坂出市史 問 讃岐百景について(香) 答 万葉集に「玉藻よし讃岐の国は国柄か、見れども飽かぬ」と歌われているよう に、香川の自然は美しい。高さはないが、美しい山容を誇る飯の山をはじめ、奇 峰型の五剣山、台地状の屋島などが点在し、その間を小流が縫って流れる。また そのほとりには松と竹が茂って讃岐平野の単調さを破り、山間部、平野部をとわ ずいたるところにある大小無数の溜池は、一年中青い水をたたえて讃岐の景観に うるおいを与えている。 このような美しい自然を求めて讃岐を訪れる観光客は年々ふえている。 昭和26年3月8日、香川県観光協合主催の下に県下観光地について審査の結果、 選定されたのがこの「讃岐百景」である。 大川郡からは津田の松原の景観をほこる琴林公園をはじめ15景、木田郡からは 前述の五剣山をはじめ7景、小豆郡からは紅葉と山岳景観の寒霞渓をはじめ18景、 香川都は県下で数少ない温泉をもつ塩江温泉をはじめとして13景、高松市からは 源平の古戦場で名高い屋島、名園栗林公園、それに四国の玄関高松港の3景、坂 出市では内海展望のすばらしい常磐公園と坂出港の2景、丸亀市からは国宝丸亀 城をもつ亀山公園をはじめとして3景、綾歌郡はさぬき富士と呼ばれている飯の 山をはじめ10景、仲多度郡からは海の神様として全国的に知られている金刀比羅 宮はじめ14景、そして三豊郡からは有明浜の景勝をはこる琴弾公園、海岸美のす ばらしい荘内半島、内海に浮かぶ粟島、伊吹島等の小島これらを合わせて15景、 以上の百景が選ばれたのである。但し、市郡は当時のであるから現代とは少しち がっている。 なお、昭和44年1月1日から4月12日にかけて新さぬき百景が四国新聞に連載 され現地に石標が建てられた。これは四国新聞社が一般読者から応募したもので ある。 -122- ○ さぬきの面影を語る 香川年鑑 昭28 讃岐案内 讃岐名勝栞 観光と旅 香川県郷土資料事典 讃岐百景絵巡礼(讃岐公論 昭29.6~11) 問 讃岐富士について(香) 答 飯野山は山の形が富士山に似て美しいので讃岐富士と呼ばれている。飯野山は 丸亀市、坂出市、飯山町にまたがり、ビユート型の代表的なもので、日本の最古 の古典である「古事記」に、大むかしの讃岐のこの地方などを開いた飯依彦(い いよりひこ)という神様をまつってあるので、この神の頭文字の飯(いい)をと り野原の野をとり、この地を飯野といい、この山を飯野山というようになった。 飯野山(431.9メートル)は海抜200メートル以下は花崗閃緑石、その上は讃岐 岩質安山岩で、両者の境界には傾斜の変化が認められる。山腹の斜面は東と西が 非対称で、西側が東側よりやや急になっているが、斜面が形成されてから山体が 西へ傾いたように見える。大麻山の場合と考え合せると、丸亀平野の中央部が沈 降し、この方向へ飯野山と大麻山が傾いた形となっているようである。 「ほんにしおらし讃岐の富士よ 麓桃山蜜柑山」 と讃岐小唄にうたわれている。 ○ さぬきの地名とその伝説 P87 香川の地理 P6 新香川 昭35年7月~11月まで 霊山讃岐富士飯の山の研究、 飯野村史 P7 讃岐の史話民話 P69 郷土資料事典 香川NO.36 P63 香川県新誌 P65 香川県神社誌(下) 飯野神社 P116 問 菅原道具ゆかりの下笠居の牛鼻崎、神在山について(香) 答 下笠居の菅公に関する伝説」によると、むかし、菅公が筑紫太宰府に謫せら れ、難波を発し南海を過ぎるとき、風浪烈しく、この牛鼻崎に両三日宿泊された、 牛鼻崎は憂(うし)が鼻崎である。神在山は菅神のおられた山の意であり、これ は鎮西が崎原とか、深際山とかいったが、後に神在山となった。 ○ 讃岐香川郡志 P898、 P132 新修香川県史 P194 今古讃岐名勝図絵 P348 香西史 P290 讃岐通史 P130 下笠居村史 P465 問 小豆島の大きさは全国の島嶼中何番目か(香) 答 本州、四国、九州、北海道を除き、沖縄島(1,185平方キロ)が一番大きく、淡 路島(593平方キロ)は5番目、小豆島は(152平方キロ)で19番目である。 -123- ○ 少年朝日年鑑社会科統計 P17 問 小豆島のしし垣について(香) 答 小豆島にあるしし垣は田畑を荒す猪鹿を防ぐために築造したものである。徳川 時代寛政の初め(1789)頃草壁郷上村(内海町)の里正の村上丈三郎が、猪鹿の 害を憂え、山林と田圃との境界を区切り輻三尺、高さ一間の石塁又は土塁を島周 囲につくり、防塁として通路には各所に関門を作り、附近の農民が交替をして門 番にあたることを島内40の村落に提議したところ大賛成を得て直ちに工事に取り かかった。そして僅かの期間に竣工したと頌徳碑に記るされている。昭和45年10 月町文化財史跡指定。 ○ 史蹟名勝天然記念物調査報告 上 P752、P781 小豆島の民俗 P106 内海町史 P379 問 白鳥の地名の由来について(香) 答 この地の歴史は2000年の昔にさかのぼる。12代景行天皇の皇子日本武尊ゆかり の地ということである。東征で輝かしい戦果をあげた日本武尊は景行天皇40年の 年、伊勢国(三重県)熊褒野(ルビ のぼの)で没してここに葬られた。 ところがその後、尊の霊が白鳥となって西方へ飛んでいった。白鳥は河内国(大阪府) を経て讃岐国三里の松原まで飛来しこの地に降りたといわれる。 三里の松原とは現在の白鳥町から西の津田町に至る間の海岸をさして称したものらしく、 白鳥飛来の伝説は、今も白鳥、津田両町に残っている。 白鳥の地に降りた白鳥はその後間もなく死んだので、日本武尊の子武鼓王が廟 を建て手厚く葬った。これが現在の白鳥神社だといわれている。後年、高松・松 平藩初代藩主頼重が朱印地200石を寄進し、以後天領となったところである。 ○ 各駅停車・香川県 P88 さぬきの地名とその伝説 問 陶の地名について(香) 答 陶村の陶部 語部、鏡造部、忌部、等々我が上代に於ては、その職業によって各々部族が分 れていた事は、明白の事である。陶部はいうまでもなく、陶器を作る人達の部族 である。讃岐一国の陶部の屯していた処が、即ち今の陶村である。火の山の西麓 の瓶焼谷には窯跡があり、発掘すれば古器物も出て来る。十瓶山、それが陶器製 作地帯の中心であったらしいと讃岐の伝説に書いてある。 さぬきの地名とその伝説によればこの地方は末(ルビ すえ)の方、末という 意味ですえとな -124- り、陶と字をかえて書くようになり真の意味は陶器を作る人々の部落であったの で陶村というようになったと書いてある。 ○ 讃岐の伝説第1集 P96 ○ さぬきの地名とその伝説 P68 問 有明浜の銭型の由来について(観) 答 銭型の歴史は詳かでなく、古くより種々論ぜられている。 1.寛永10年、領主生駒高俊が巡視の折、郷人が領主に興をそえるため一夜にし てこれを作ったという。しかし、これは寛永通宝のはじめて鋳造された寛永13 年以前のことであり、また、領主が琴弾山に来たという事実はどの資料にもな い。 (注)寛永通宝は寛永3年に水戸の商人佐藤新助が幕府の内諾を得て鋳造したが、 全国通用貨となったのは、寛永13年6月で、これから江戸と近江で鋳造さ れ、世に出た。 2.文化11年領主京極高朗が領内巡視の時、領民が領主のために作ったといわれ ているが、これも高朗の巡視日誌である「巡封陽秋」の遊象鼻岡、抵有明浜幕 次第にも「銭型」のことについては、何もふれていない。 3.安政年間に幕府は諸藩に沿岸警備を厳重にするよう命じた。丸亀藩でも諸寺 院より梵鐘を提出させ、鋳物師和田源右衛門に命じて砲銃を鋳造させ、荘内お よび有明浜に築造することになった。このため、藩主朗徹は台場築造の実地視 察のため、琴弾山に来た時、藩主の一興にせんがため、普請奉行が指揮して、 この銭型を掘らしたものであるといわれている。ーー三豊郡史はこの説を掲げ ている。 ○ 観音寺市誌 P714~715 三豊郡史 P590 文化財報会報 21 問 高松市制発足当時の町名について(香) 答 明治23年(1890)県令第82号により、高松市に市制がしかれた。人口33,863人、 戸数6,356世帯である。市制施行当時の町名は、内町、上横町、下横町、北浜材 木町、魚屋町、内磨屋町、鶴屋町、本町、工町、通町、新材木町、井口町、新通 町、新塩屋町、築地町、塩屋町、片原町、兵庫町、百間町、古新町、野方町、桶 屋町、大工町、丸亀町、外磨屋町、今新町、南紺屋町、南鍛冶屋町、御坊町、北 古馬場町、古馬場町、北亀井町、福田町、東瓦町、西瓦町、新瓦町、南新町、田 町、中新町、旅籠町、天神前、一番丁、二番丁、三番丁、四番丁、五番丁、六番 丁、七番丁、八番丁、浜ノ丁、西新町、西通町、木蔵町、西浜町、七十間町、樋 ノ上、瓦焼、十番長屋の以上59か町である。大正3年宮脇村が、大正10年東浜村 -125- と栗林村、中ノ村などが合併された。 ○ 新修高松市史 P605 高松市史年表 P168 問 高松の地名の由来について(高) 答 郷土史上、通説になっている高松の地名の起こりは、高い松の木説である。む かし、この地に松の大木があって、高くそびえて遠くからも目立ち、松の枝や葉 はしげって、木蔭が六町四方にもおよんでいたことから、里人らが高松とよんだ という。 しかし、猪熊信男著高松地名考によると、地名に「高」の字をつけるのは古代、 中国や朝鮮半島から渡ってきて帰化した民族の住んでいたところが多いといって いる。また、漢民族は「松」をめでたい木として、群木の中の王であり、木へん に公と書いて松といい、住んでいた地名を氏名として用いた帰化人も多いという。 高松郷には帰来村がある。これは、波がよせくるところという意味でなく、先 方から此の方へ依りつくこと、参り来る意味で、帰来は帰化の意であって今来、 高来と同じように外人帰化の地であるといっている。 近くには、天智天皇6年に築いた朝鮮式山城屋島や唐僧鑑真ゆかりの屋島寺も あるのも何かつながりがあるものと思われる。 高松郷の地名は古くから記されている、平安、鎌倉、室町、安土桃山時代まで、 高松といえば、屋島近くの現在の高松市高松町一帯をさしていっていた。天正15 年(1587)生駒親正の讃岐入封によって、翌年、篦原(ルビ のはら)(今の高松市街地) に城を築き、東の高松の地名をとって高松城とした。城下町高松が誕生し、いままでの 高松は古高松といわれている。 ○ 高松地名史話 P4~P6 高松地名考 問 地名とその伝説の本について(香) 答 ○ さぬきの地名とその伝説 高松地名史話 高松地名考 讃岐の地名 音韻学より見たる讃岐国名 讃岐国名考一新香川 昭和31.8、昭和38.9 香川県農山漁村の生活 郡毎に紹介したのが讃岐公論-32.7~10 高松、34.5~9大内町、35.11 寒川郡、36.2 阿野郡、36.4 那珂郡、36.5 多度郡、36.6 山田郡 三木郡、36.7 三木郡、36.8 三野郡刈田郡 -126- 問 桃陵公園について(多) 答 桃陵公園は、香川県立多度津桃陵公園といい、昭和5年、御大典記念事業とし て、町立公園として開かれたもので、園地4万坪もの広い公園である。園内には、 遊園地、休憩所、竹田敏彦文学碑、歌碑、ドライブウエーなどあり、桜樹で全山 をおおい、陽春の花見客で賑う。園内展望台に「一太郎や~い」の立像がある。 昭和22年香川県立公園に編入された。 ○ 勝地讃岐と其産業陣営 多度津町史 P961 グラフたどつ P211~P216 問 豊浜町内の地名のおこりについて(豊) 答 現在の豊浜町内の地名と地番は、明治6年(1873)頃に一応調査整理されたと 思われる。 1.社寺のある関係からつけられた地名、箕浦(ルビ みのうら)の宮ノ下、 和田の院内、寺下、和田浜の宮の後、宮の前、宮の隅、姫浜の宮前後などがある。 2.開拓に伴って起った地名、これには開拓者の名前や屋敷からつけられたもの、 集落の地形や景観の状況、池や川の所在の関係から、また、開拓の推移や歴史 的事情からつけられたものが多い。箕浦の荒神、池の内、堀切、弦池、西原、 関谷、弓池、堂の前、和田の大平木、八面、大坪、荒神面、野々池内、新畑、 道溝、和田浜の加護池下、下の川、池下、姫浜の切戸、新屋敷、大屋敷、流川 などがある。 3.歴史的原因に関係あるものに、箕浦の四ノ松、和田の船岡、姥ケ懐、直場、 梶谷がある。 4.一般地理的原因によってつけられた地名に、箕浦の鳥越の山の下、久保ノ川、 大道上、下、中道下、中道西、中道東、東道下、和田の岡、長谷、池奥、和田 浜の北岡、下の川、姫浜の上林、芝原などがある。 5.土質や地形に関連して地名となったものに、箕浦の畑、和田の白浜、赤土、 尾尻、赤坂、中の砂、和田浜の白砂、泉砂、原畑、高須賀、姫浜の須賀中など がある。 6.その他、地名の起因が不明のものがある。 ○ 豊浜町誌 和田村の実相 日本地名事典 問 火上山(ルビ ひあげやま)について(瀬) 答 海抜406メートル、善通寺市、高瀬町、三野町にまたがり三豊仲多度の郡境に もなっており、古代より住民との関係が深い。 -127- 大化改新の新政より漸く世情は不安動揺を生むに及び、国内軍備強化の兆ある 時、西讃に於て白方軍団が設置された。その要城雨霧山を中心とし、その燈火台 として火上山を配したものとの説がある。(荻田元広氏) 現在、頂上附近に昔時の燈火台の跡らしいものはあるが附近古老口碑を以てし ても確証はない。 ○ 三豊郡史 Pl16 上高瀬村史 P32 新大見村史 問 まゆみについて(香) 答 漢字で書くと真弓、檀の二通りの書き方がある。 真弓--古代人はまゆみの木で、素朴な弓をつくり、狩りなどに用いたことから 真弓と書くようになった。 檀 --まゆみの樹皮から紙をつくったことから、檀と書くようになった。高松 市檀紙町には1596~1615年まで、この紙造り業者が住んでいたことから 町名が生まれた。 ○ 高松地名史話 P56 さぬきの地名とその伝説 P67 讃岐の歴史 P63 香川年鑑 昭和27年版 P404 随筆紙遍路 P16 新香川 昭33年9月号 問 丸亀の地名の由来について(丸) 答 丸亀という名をつけたのは、城を築いた亀山の形が亀ににていたからだといわ れている。 ○ 地名からみた丸亀発達史 まるがめ創刊号 P37 同第2号 P6 同第3号 P18 同第4号 P20 「丸亀の今と普」より 問 三野津湾について(三) 答 昭和30年4月1日に、大見村、下高瀬村、吉津村の3村が合併して三野村が誕 生し、昭和36年9月1日町制を実施して、三野町となった。 三野町は瀬戸内海が詫間町の的場、松崎の辺りから南に這入り込んだ三野津湾 の周囲に開けた町で、三野津湾は今は周囲の土砂が流れ込んで立派な三野平野を 形成している。 三野津湾に舟が出入していたのは、そんなに古い昔の事ではない。700年余り 前に西行法師が吉津、津の前に上陸されて、そこから三野津湾の光景を歌に詠ま れている。吉津小学校の運動場の入口に「西行法師歌碑所在地」という石碑が建 てられている。歌碑は運動場の東北隅にあって川田順氏揮毫のものである。 -128- 西行上人歌碑 志きわたす月の氷をうたかひて ひびのてまはる味のむら鳥 月明の夜、法師がこの湾岸に立って三野津湾の光景を詠まれた旅の歌人として有 名な西行法師の面影が目に浮かぶようである。 善通寺市吉原町三井の江の畑の中に西行堂という小さい庵があるが、法師はこ こで居られてから吉津、津の前に来たという説と、津の前から善通寺の方へ行か れたという2説があるがそれはどちらでもよい。法師が津の前で歌を詠まれたと いう事実は真実であろう。 問 牟礼町の地名について(香) 答 牟礼という地名から述べると、「古事記」垂仁の巻に「大中津日子命云々、牟 礼之別等租也」とあって、この氏に関係があるとの説と、ほかに古代朝鮮語で 「山」を意味する「ムレ」に牟礼と漢字であてたとの説があるがいずれも推測の 域を脱しえず、したがって正確な語義は未だ不明のままである。 つぎに同町内の地名で伝説的なものでなく、史実にもとづくものでは塩屋があ る。昔この附近一帯が塩田であったところからこの地名が生まれたもので、現に 塩釜神社があり、その鳥居には天保8年と刻まれている。ここが廃田となったの は江戸末期のことである。 ○ 牟礼町史 P46 P624 問 讃岐の門前町について(香) 答 讃岐の門前町、鳥居前町には一宮、琴平町、善通寺市、白鳥本町、仏生山町な どがある。立派な門前町や鳥居前町となる前には必ずそのあたり一帯の農民の生 活を限った居住圏があった その上交通の道路網もあって便利のいい市場町が中 心となって発展していった。寺院や神社を中心として栄えた門前町が順調に発達 していった。一宮の場合は丁度高松の町から阿波の国へ通じる道路の要点とその 上讃岐一国の一宮として有名な田村神社がそばにあるからである。琴平町は金刀 比羅宮を中心に順調に成長した代表的な門前町である。大門前から一の坂、札の 前の坂道にかけて参拝路の両側に櫛の歯のように並ぶ土産物店、玩具商。坂を下 りるに従って段々旅館や料理、飲食店が多くなっていた。ここに住む町民のため の商店街や住宅地、更に農地となっているのがはっきり判る。善通寺の門前町は、 琴平町によく似ているが弘法大師御誕生地としての一大信仰圏として栄えた。白 鳥本町は日本武尊をまつる白鳥神社を控えて発達した鳥居前町であり交通の要路 でもあるので神社の祭りを中心として発達した。仏生山町は法然寺の門前町とし て発生した寺町で、勿論交通的要素と信仰的要素が複合していてここにも芝居が -129- 許されたので、高松城下からの近郊遊覧地として他の門前町とは異った好条件を 具備していた。どの町にも共通している点は、その町の起りが一定の日に一定の 場所で市が立って物を交換、売買していたという事である。 ○ 新修高松市史 P58~P60、P78~P79 新さぬき風土記 P74~P79 問 屋島檀浦の檀の字は土偏か木偏か〈高) 答 江戸時代や明治時代中期までの文献や地図には木偏の檀の字で記されているが、 大正時代から昭和時代初期に出版された郷土史には土偏の壇の字で記されている。 おそらく長門(山口県)の壇ノ浦を意識して土偏としたものと思われる。また、 屋島壇ノ浦合戦を屋島合戦ならびに壇ノ浦合戦と解釈せずに屋島の壇ノ浦での合 戦と受けとめたことからとも思われる。 現在は木偏の檀を使っている。 参 考 讃岐国名勝図会 (嘉永6年刊) 檀之浦 金毘羅参詣名所図会 (弘化3年刊) 檀ノ浦 東讃郡村免名録 (江戸時代) 檀の浦 屋島と壇の浦 (明治44年刊) 壇の浦 木田郡誌 (昭和15年刊) 壇の浦 屋島史 (昭和16年刊) 壇の浦 問 坂出市の両景橋について(坂) 答 両景橋は坂出市中湛甫(ルビ たんぽ)(坂出市築港町1丁目)に、美しい曲線 をえがいて架かっていたもので、橋下を通り抜ける機帆船のボンボンという響きも のどかな風物詩であったが、時世の移り変りにより今は取り去られた。 (昭和21年5月撤去)やがて古老の人々以外には全く忘れ去られることであろう。 そもそも両景橋の創始は、天保13年(1842)の坂出新開塩田図に描かれている から、東西大浜完成後間もなく架設されたものとみえる。その後安政元年(1854) 11月4日の大地震、明治17年8月20日の海津波と相次ぐ天災で大破損したが、そ の都度修築又は再造がなされて来た。明治11年地元関係者が愛媛県高松支庁に請 願して、新しく木橋が架設された。しかし、この木橋も明治23、4年頃に大破し たので、明治25年(1892)に塩産会社の出資で、石橋の架設に着手、同年8月に 完成し、ここに我々になじみ深い姿の両景橋(俗に太鼓橋と呼ばれた)が出現し たのであった。 ○ 坂出市史 P593 海橋1975No.1 P83~