歴史(観音寺・三豊地区) (17K)

入力に使用した資料
底本の書名    讃岐ものしり事典(p76~81)
 底本の編者名   香川県図書館協会
 底本の発行者   香川県図書館協会
 底本の発行日   昭和57年4月1日
入力者名     辻  繁
校正者名     合葉やよひ
入力に関する注記
    文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
    文字番号を付した。

登録日   2003年1月22日
      

- 歴 史(観音寺・三豊地区)-

問 秋山家文書について (瀬)
答 秋山氏はもと甲斐国八代郡川合郷常葉の住,甲斐源氏の一族で,弘安年中(1278~88)
 幕府の命によって西讃10か所の郷邑を領することとなった。命をうけた秋山光季は,
 子息孫四郎泰長・孫二郎泰忠をともなって来住し,高瀬郷に居を構え,鎌倉時代以降か
 ら戦国時代にかけて存地武士として活躍した。その家伝文書が,現在,高瀬町下勝間の
 矢野章家に所有されており,総数120点ににおよぶ。
  その中には,室町幕府奉行人奉書・管領代奉書や守護代香川氏関係の文書,あるいは
細川澄元の数少ない史料などが含まれており,室町・戦国期政治史研究上貴重な史料とな
っている。
○ 高瀬町所在古文書展目録 新編香川叢書史料編2

問 観音寺城趾(高丸城)について(観)
答 元禄11年の観音寺古地図に「太閤様与力上坂丹波守 古城 今田地也 元和年中御
 亡」と書かれた城趾が,今の殿町に大きく描かれている。この城は戦国時代西讃に強大

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 な勢力をほこった天霧城主香川信景の弟景全が天文年間に築城した居館で観音寺殿とい
 われていた。城趾約74アール約1メートル高いほぼ正方形の地形で,周囲に内堀をめ
 ぐらしていた跡が明治時代までは一部が端の池,城の池として残っていた。今も城趾の
 北と東側は一段低い田地となっており,その他城跡を物語る地名等も多く,上市の一心
 寺にある樓門は城の太鼓門を移したものと伝え又殿町には城神がまつられ,琴弾宮境内
 十王堂には上坂丹波守の小祠がある。
  長曽我部元親が讃岐侵攻の時,景全が兄信景と共に元親に組したためその戦火はまぬ
 がれたが,天正13年秀吉の四国統一により景全は兄信景一門と共に土佐に走ったもの
 と考えられ,西讃府志に「高坂丹波守居れり,豊臣公の与力にて郡内1万石を領せり」
 又別の古文書に「天正の頃生駒雅楽頭様讃岐御拝領の節御服の由」等々より察すると,
 天正13年景全敗走後上坂丹波守が城主として居城しており,天正15年生駒氏が讃岐守
 に封ぜられた時,丹波守は生駒氏に服したが,秀吉はその内1万石を割いて大阪の御蔵
 入の料所にあて,丹波守をその代官とし,観音寺城が代官所にあてられたものと考えら
 れる。その後文禄4年に5千石に減じられ,元和元年大坂落城豊臣氏滅亡により生駒氏
 に没収され,廃城となった。以上観音寺城は天文年間の築城から元和元年廃城まで約70
 年前後の間香川・上坂両氏の居館として健在だった。城の構造・建物については全く不
 明である。上坂氏はその後家老として生駒家につかえたが,生駒家のお家騒動の折不義
 派に組して一家断絶した。
  なお,西讃府志の香川氏の項に「……又観音寺ノ城主,香川景全,此人ノ城跡彼地ニ
 ナシ,思フニ江蒲草山(ツクモ山)ノ城主細川氏ノコトヲ,観音寺殿トシルセリ,景全
 ノコトモ治乱記ニシカイヘリ……」とあり,観音寺城と高丸城を別地のものとして区別
 していることを附記しておく。
○ 観音寺市誌 P468 三豊郡史 P350 観音寺市の文化財第2集 P15 西讃府志  
  P233,P772 今古讃岐名所図絵
  国訳全讃史 南海通記 P400 讃州府志 P720 元禄時代観音寺古図 

問 観音寺町の大火事と寅年の洪水について (観)
答 文化4年(1807年)2月18日,夜10時頃仮屋髪結の家より出火,おりからの大風にあ
 おられ大火となり,翌19日正午時分までに町内の9分通りを焼失して鎮火した。記録
 によれば,河原町丁子屋より茂木町迄は残り,仮屋で百軒ばかり,上市で14.5軒,そ
 の他土蔵がぼつぼつ残っただけと記されている。この大火により町内の文献が多く失な
 われたことは残念である。
  慶応2年(1866年)8月大洪水があった。これを寅年の洪水という。8月1日より
 大雨となり,毎日降り続いて8日夜に大暴雨となった。連日の豪雨で各河川は増水して
 いる上に濁水が四方の山より流れ来たりて,殊に財田川は阿讃山脈に集中豪雨があって
 各所で堤防決潰し,下流一帯の地は海となった。流岡町村黒町では濁水が床上1.5メー

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 トルにもなり,観音寺町では激流が屋上を越える所もあり,家屋・家具を流失し,死体
 がたくさん漂流し,惨状を極めた。
○ 観音寺市誌 P605,P608 新編 香川叢書 史料編(1)P781 三豊郡史 
  P600

問 西讃竹槍騒動について(観)
答 明治維新後,新政府の矢つぎばやに出される各種改革,特に明治5年徴兵令が布告さ
 れるにおよび,農民の生活に対する不安は,その頂点に達した感があり,明治6年6月26
 日「子取りが来た」として下高野村延寿寺の鐘が鳴るのに端を発した西讃竹槍騒動は,
 狼火の如く一日にして西讃全土を覆う勢であった。
  この時,三野・豊田郡の邏卒小島勝封・宮崎滝松は暴徒を説諭しようと赴いたが,逆
 に反感をかい,身の危険を感じて,琴弾宮境内十王堂近くに住む顔役中西金治宅に難を
 さけたが,たちまち発見され宮崎邏卒は室本新田泉屋五郎方納屋,小島邏卒は有明浜沖
 で暴徒に撲殺され,滝宮以西で599戸が焼失するなどの騒動となったが,暴徒は軍隊に
 よって鎮定され,首謀者は斬罪などに処せられた。
  かくして両邏卒の殉死を悼み,室本町新田に明治6年12月石碑を建立明治41年には
 観音寺有志の発起により当地に霊(ルビ れい)神社が祭られ盛大な慰霊祭が行なわれ
 た。以後今日に至るまで毎年6月27日,三豊警友会の人々により慰霊祭が行なわれて
 いる。
○ 竹槍騒動と観音寺の情勢を語る 明治100年香川県の歩み P86 香川県警察史  
 P13 香川県近代史 P425 観音寺市誌 P657 新修香川県史 P657 明治6年西讃 
 暴動について あの事件この事件(四国夕刊) 讃岐から香川へ(読売新聞)

問 赤心報国党について(観)
答 明治3年5月,豊田郡原村野田の片山菅之進が長州の浪人富永儀三郎と赤心報国党を
 結成,明治維新の諸制度の改革に反対し,君国の大義につくことを期して大通寺を本拠
 として一揆を起こそうとした。
  片山菅之進が党首,富永儀三郎が首長で同志を募り,明治4年義兵を挙げようとした
 時,同志の一人の密告により菅之進の家で一網打尽に捕えられ,事は破れ同志たちは高
 松県獄に入牢した。
○ 観音寺市誌 P585

問 尊澄法親王の配所跡について(瀬)
答 尊澄法親王とは後醍醐天皇の皇子宗良親王のことで,幼少より僧籍に入りこの呼び名

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 がある。元弘元年天皇の宿願である北条氏伏滅の挙に出られた時,親王は兄護良親王と
 ともにこの計に参画され,大いに活躍されたが雄図空しく捕えられ,後醍醐天皇隠岐に
 配流のとき讃岐に流されたのである。(正慶元年3月8日)
  今迄は同じ宿りを尋ね来て
      跡なき波と聞くぞかなしき
 土佐に流される一の宮との別れの歌である。兵庫にて兄とわかれ,陸路備前国を経て,
 児島吹上から舟で讃岐詫間に上陸したといわれている。(異説に松山説もある。)宮の
 配所は全讃史によると,「海辺近きところなれば,毒霧御身を侵し,嶂海の気冷しく,
 漁歌牧笛の声,嶺雲海月の秋の色すべて耳にふれ,眼に遮ることあはれを催し,御泪を
 そふる媒ならずと云ふことなし。」とあり,配所としてよい場所ではなかったと思われ
 る。
 一方高瀬町大字下勝間字加茂に皇子宮とよばれるお社がある。町内に残る古文書な
 どによると,詫間の配所にあった皇子は,自ら勝間郷加茂村松林の丘上を好まれ,ここ
 に居所を定め,御帰洛までここですごされたと記されている。皇子御帰洛後,さきの仮
 殿を後世に残さんとして土地の豪族田中某自ら資材を投じて一庵を建立し,里人の崇敬
 を集め今日にいたっているのであるという。
○ 全讃史 P491 高瀬町誌 P239 コンサイス世界年表 P255

問 九十九(ルビ つくも)山城址について(観)
答 観音寺市室本町,三豊富士ともいわれる九十九山頂にあり,一方は海に面し,一方は
 七宝山の嶮に対した高さ153メートル,難攻の城塞であった。
  築城年代は明確でないが,応仁~文明年間(1400年代)細川氏により築城され,天
 正5年(1577)12月細川伊代守氏政の時,長曽我部元親の大軍により落城せしめられた
 という。落城および歴代城主については異説が多く確言できない。現在,城址は井戸に
 石蓋がしてあるのみで昔日をしのぶ影もないが,元禄(1698)領主取調報告には,
 一 大廻 弐拾間 但間数とも 高さ五十一間 内浜の方より百六拾間 但室本よりの
  道の間数弐百四拾間 段数十一段
 一 八畝十三歩 御本丸跡なり………(以下略)とある
   なお古来着藻山,江甫草山とも書いた。
○ 九十九山及城址雑話 九十九の由来その他 西讃府志 P772 観音寺市誌 P461
  日本城郭全集 12 P171

問 爺神(ルビ とがみ)山城跡について(瀬)
答 伊弉再尊(ルビ いざなみのみこと)が母神(ルビ はがみ)山から鈴を振り鳴らし
 て伊弉諾尊(ルビ いざなぎのみこと)の住む爺近山に通い来た時に忘れた鈴が土に埋
 れて鈴石―振れば音のする珍らしい石―になったという伝説がある。

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  爺神山(227メートル)の頂上に詫間弾正の城があったといわれているが,井戸の跡
 ともいわれている「かねほり場」以外にその形跡はないが,山麓には家老堤三矢や一子
 梅丸の墓の外,詫間弾正を乗せた馬が瓜のつるに足を取られて倒れた処を敵に打ち取ら
 れ,そこに弾正を祭った祠がある。命日の旧暦7月6日に詫間一族がここに集まって祭
 をしている。又詫間一族はこの日はつるになったものは一切口にしない。
  又,東の麓には爺神公園があり桜の頃は人出でにぎわう。
○ 高瀬資料集 比地二村誌

問 戸峯山城について(三)
答 戸峯山は三野町大見の北部にあり標高222.8メートルの小さい山だが,その形が富士
 山に似ているところから大見富士とも呼ばれている。
  雨霧城4代の城主,香川信景の臣に藤田四郎入道宗遍という者がいた。宗遍は近江の
 人で,香川氏につかえ,天正2年(1574)に天霧城の牙城として戸峯山の頂上に城を築
 いた。城は天霧城の咽喉をやくし,天嶮を利用した要城であって,その廓は明らかに現
 存している。居館は山の西麓にあり,出身地近江の山王大社の分神を迎えて山王社を建
 立し,天正5年山王権現として祀られ,現在は大見村の氏神と定められている。
  宗遍の死後,地区の人々は山の西麓御墓谷という所に墓地を営み,爾来この墓はみ墓
 さんと称してねんごろに弔われている。なお南麓には総官宮という小祠を建てて祀って
 ある。
  一説(長寛勘文,日本紀略,全讃史)によると,天慶3年8月20日朝廷は石清水八
 幡以下12社に奉幣し,南海の凶賊を討つことを祈らしめ,勅符を近江の国にも下し,
 兵士を徴発して賊を討たしめたので,近江の人藤田四郎入道宗遍純友誅戮に功あり,封
 を大見松崎に受けたという。大見村山王八幡宮は,その宗遍が近江の国から勧請したも
 のであるという。
○ 「西讃府志」 P985 「新大見村誌」 P309 「三豊郡史」 P200 
   全讃史など。

問 豊田郡姫郷内木之郷村御検地帳について(観)
答 この検地帳は香川県下唯一のものである。封建時代に土地の境界・面積・等級を測定
 して石高を定め貢租の基礎と所有者を明らかにした土地調査を検地といい,竿入,縄入
 ともいった。この調査は古代からあったが室町中期以後形成された大名領国では検地が
 きびしく行われ,これらは各領国でまちまちで土地の広狭も石高・貫高・苅高等で示さ
 れた。豊臣秀吉は領国を獲得するごとに,また大名を改易,転封するごとにその地の検

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 地を行い全国に及ぼした。これが太閤検地である。太閤検地によれば,各地まちまちで
 あった土地面積を一定の基準で測り6尺3寸(192cm)を1間とし,1間四方を1歩,30
 歩を1畝,300歩を1反,10反を1町歩とした。また田畑1筆ごとに等級を定め,石盛
 して石高を定め高持百姓を決定した。その結果,各村郷ごとに検地帳が作られ各村郷郡
 国の石高が明らかになった。
  木之郷村のものは12帳の内とあるから姫郷の内の一部であろう。
  本検地帳は慶長4年生駒親正の時のもので,「慶長4年7月,12帳之内,豊田郡姫郷
 内木之郷村御検地帳」とある。
  昭和46年3月26日,観音寺市文化財指定。
○ 観音寺市誌 P479~P480 観音寺市の文化財第2集 1971

問 西長尾城主・長尾大隅守について(香)
答 長尾大隅守元高は,橘公成少将の子孫で,代々三野郡筥の御崎にいて,海崎豊後守元
 村の子である。貞治元年(1362)高屋の役で,細川頼之に組して,抜群の手柄をたて,
 栗隈,岡田,長尾,炭所の4か村を与えられた。応安元年(1368)西長尾に城を築き(現
 在の仲多度郡満濃町),姓を長尾と改め,代々大隅守と称した。元高には8男8女があ
 り,長男虎勝は父のあとをつぎ,2,8男は炭所に,3,5男は岡田に,4,6男は栗隈に,
 それぞれ城を築く。この兄弟を長尾の三家と称した。
○ 日本城郭全集 P174 讃岐人物辞典 P426 西讃府志など

問 藤目城趾について(観)
答 この城は,天正年間斉藤氏が,長曽我部元親と二度にわたって戦い,遂に落ちた城で
 ある。
  この城は,足利時代のはじめ貞治2年斉藤重親が豊田郡(旧名刈田郡)を賜わり,こ
 の地に築城したもので,それより6代当城を守っていたが国重の代にいたり,天正4年
(1576年)長曽我部元親に攻められ,城兵よく戦ったが城主国重は射場(粟井神社の北)
 において敵の矢に当たって討死,弟忠重もまた同所において討死したが,長男重之は武
 勇にすぐれ,ついに敵を撃退した。
  その後重之は城の備えを固めたが,天正年(1578年)再度元親の来襲をうけ,こ
 の時も城兵よく戦ったので敵は攻めあぐねて計を案じ,矢文を城中に射込みいつわって
 和睦を申し入れた。重之この計にかかり,敵を城中に入れたところ火を放たれた。重之
 切歯して奮戦したが及ばず妻子を逃れさせて,自ら奮戦後城中において切腹して果てた。
  次男千代丸は,老臣教守と共に中姫の宗像神社で討死し,今その地に藤目神社として
 祭られている。

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  妻は懐胎の身で福田原まで逃れたとき,ついに敵に追駆けられ,堀に身を投じて自害
 した。今も藤目城姫塚としてここに祭られている。
  長男之丸は逃れて成人した。現在の城趾は本丸跡で,26間に8間の本丸があった。
 東方の神事場は長さ40間,横4間の二の丸跡である。これより北に下ると右手の斜面の
 蜜柑畑の中は兵糧庫跡で,今でも炭化した焼米,焼豆が出るといわれている。
○ 観音寺市の文化財 第2集
  西讃府誌P766 三豊郡誌P345 香川県通史P755 全讃史P390 観音寺市誌P458
  文化財保護協会観音寺支部「藤目城史」