入力に使用した資料 底本の書名 讃岐ものしり事典(p70~76) 底本の編者名 香川県図書館協会 底本の発行者 香川県図書館協会 底本の発行日 昭和57年4月1日 入力者名 辻 繁 校正者名 合葉 やよひ 入力に関する注記 文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の 文字番号を付した。 登録日 2003年1月22日
-歴 史(丸亀・善通寺・仲多度地区)- 問 尼崎里也の女仇討ちについて(丸) 答 丸亀城主京極備中守の家中弓組足軽尼崎幸右衛門の娘里也は幼少のころ父が殺された 事を聞き,長じて江戸に出て武術をきわめ江戸目黒において親の仇討ちをりっぱに果た した。宝永2年(1705)のことであった。女性の仇討ちとしては珍らしいことだったの で当時江戸市中はもとより全国にも知れ渡った。 宝暦5年(1755)79才で死去した。 里也が幼少のころ父母と暮した風袋町の家の跡に「烈女尼崎里也宅跡」の石標が建っ ていたのを現在は図書館の側の空地に建ててある。 ○ 新修丸亀市史 讃州丸亀女仇討記 ― 71 ― 問 天霧山古城について(善) 答 三豊仲多度両郡界に沿って南北に連なる山系の鞍部鳥坂峠は,古代から南海道の官道 が通じて人馬往来の要衝である。その北方海抜382.5メートルの屏風を立てたような天 霧山の要害を利して築城されたのが天霧城である。 峻嶮おかし難い山姿と四時雨雲をはらんで変幻極りない風貌を仰いで里人が畏敬のあ まりいつしかこの呼び名となった。(雨霧とも記されている。) 東の屋島城,城山城と並んで有名でこれを室町初期に香川刑部大輔景則が牙城とし自 からは多度津の本台山に居館を構えて景明元景之景(後に信景と改める)4代200余年 にわたって多度三野豊田三郡の鎮護に当たっていた。阿波の三好豊前守実休が三国の大 軍を率いて攻め来たったが破る事が出来なかった程の守るに易く攻めるは難しい堅城で あった。 天正年間城主信景は土佐の長曽我部元親と結んでその讃岐攻略の拠点とした。豊臣秀 吉の天下統一になった為に天霧城を棄てて土佐に走ったので名城天霧もあわれ廃城とな ってしまった。古城趾として現存するものは本丸跡 二の丸跡 十数の櫓跡 古城井 馬道 大返嶮地 堀切 拝石 獅子之霊巌,馬神等である。 ○ 仲多度郡史 P1066 西讃府史 P757 四箇村史 P171 五岳文化 天霧山古城趾 香川県通史 讃岐天霧城を探る 天霧城跡 日本城郭大系 問 一太郎ヤーイについて(香) 答 仲多度郡多度津町の桃陵公園内展望台にある奉公記念標(一太郎銅像)。明治37・8年, 日露役の際,多度津港から出征するわが子を見送るため,朝暗いうちから起き出し,遠 い三豊郡から母は腰弁当でかけつけたが,その時すでに船は岸を離れていたので,大声 で「一太郎やぁい,判ったら鉄砲をあげろ」と呼んだ。その母性愛に満ちた姿を再現し て,昭和6年6月21日にこの銅像は建立された。戦時中,すべての金属が強制回収と なり,この銅像も供出され,現在のものは,昭和18年10月21日に当町彫刻家の神原 象峰(本名 益太郎)がコンクリートで制作した。台石,奉公記念碑はもとのままで, 碑文は小野高介の撰である。 ○ グラフたどつ P123 多度津町史 多度津郷土史年表 明治百年 P227 問 日本人の手で初めて太平洋を横断した咸臨丸について(香) 答 咸臨丸は万延元年(1860年)正月19日(陽歴2月10日)に浦賀港を出発し,2月26 日(陽歴3月17日)サンフランシスコに到着した。軍艦奉行は木村喜毅・教授方頭取 は勝麟太郎で乗組員は総計96名,うち水夫は50名(このうち塩飽出身は35名) ○ 咸臨丸と讃岐 塩飽の島じま ③ 山陽新聞 昭34. 8 咸臨丸と塩飽の水夫 ― 72 ― 山陽新聞 昭35.5.10~10回連載 咸臨丸渡米日記 郷土の歴史 (四国編) P47~48 墓標が語る咸臨丸の雄図―新香川 昭32.2~32.3 文化財協会報20 塩飽 P26 瀬戸内海における塩飽海賊史 P378 問 清塚(清少納言塚)について(金) 答 宝永7年(1710)いま,金刀比羅宮大門脇にある鼓楼建築の際,そばにあった塚石をあ やまって工夫の者が壊したところ,その夜付近に住んでいた大野孝信という人の夢に宮 女が現われ一首の和歌を詠じたと思ったら夢が醒めた。その歌は「うつつなきあとのし るしを誰にかは問われしなれどありてしもがな」というのであるが,これは清少納言の 霊が来て,塚をこわされた恨みごとをいっているのであろうと,当時の別当職に申し出 たので,別当職はねんごろに塚を修めたと言われている。のち,天保15年(1844)傍 に碑を建て,高松藩士友安三冬の撰,松原義質の標篆,庄野信近の書によって,そのい われが刻されている。それによると,往古,この辺りにあった塚は清少納言塚といい, 清女の墓と伝えられたという。夢を見た大野孝信は他に移転したが,その人の居た家を 「告げ茶屋」と呼ばれていたとのことであり,現に五人百姓,土産物商中条正氏の家の あたりだったらしく中条氏の祖先がここに住みついたころ,傍に井戸があった由で,屋 号を和泉屋と称していた。「つげ茶屋」が「和泉屋」と改称したのかどうかは,現在の 当主にたづねても定かではない。 ○ 金刀比羅宮記 明治40 初版 平安文学研究 昭和36.12 「清少納言の遺跡を尋 ねて」のうち「清少納言塚と夢告げ茶屋」 ことひら 昭和40年新春号 P80 金 刀比羅宮略記 金毘羅参詣名所図会(二) 弘化4 日柳燕石全集 大正12 P272 問 小坂騒動について(香) 答 明治元年正月におこった塩飽本島の小坂騒動は,漁夫の騒動として注目される。慶応 2年の長州征伐に塩飽島は幕府から船及び水夫を出すよう命令が出た。しかし,久しく 大平になれた人名は,その出役をきらうものが多く,小坂浦の毛人(もうと)をだして これにかえた。 毛人は階級的に人名の下位にあり,かねてからこれを不満としていたが,出役の義務 を果たして帰って来た毛人たちは,維新の時を機会に人名に加えてくれるよう要求した が,人名はこれを拒絶したため,遂に明治元年正月18日毛人たちは一揆をおこし,凶 器をさげて大挙勤番所をおそい,暴行をした。年寄たちが出て鎮めようとしたが制止す ることができなかった。人名たちも小坂浦を襲撃して,その虚をつき毛人たちの多くを 惨殺した。時に,土佐藩兵が高松藩征伐出兵の帰途,急を聞き直ちに渡島してこれを鎮 めた。 ― 73 ― 人名とは信長,秀吉の時代に水軍として活躍した島民が,その功績として,田畑1250 石を領知し,朱印状を与えられ永久に免租の特権をもった,一種の領地所有権の後継者 650人のことである。 毛人は,人名以外の島民である。(人名の項参照) ○ 塩飽騒動記 香川県近代史 香川県の歴史 P205 総合郷土研究 P99 新修丸亀市史 P408 問 金毘羅へ来た伊能忠敬のこと(金) 答 幕府の天文方伊能忠敬が金毘羅へ来たのは文化5年(1808)9月21日のことである。 そのときの金毘羅の役所の日記が遺っていて,当時のことがよく分る。 まず8月26日に丸亀領の大庄屋から金毘羅の町年寄宛に,「伊能忠敬様が伊予での測 量を終えられてこの月の終り頃,丸亀領へ入られ,金毘羅へも寄られるとのことです」 という知らせが来た。これと同時に一行16人の姓名,また出迎えの仕方,宿所での接 待のこと,測量のための場所の用意,手伝いの人足のことなど,細々とした注意書も届 いた。 そうして,いよいよ9月21日になって,一行は夕方丸亀を発ち,夜になって金毘羅 へ着いた。旅宿は内町の伊予屋と新町の多田屋が宛てられた。一行のうち何名かは早く 丸亀を発って,与北村から金毘羅まで測量しながらやって来た。 伊能忠敬は,その夜まず御神前に参詣したが,これは内々のことで,役所からは案内 人は出さなかった。翌22日は正式参拝で,かねて準備していた式通りのことが終ると, 供人とともに役所へ立ち寄り,お茶の接待などあって,奥書院を拝見したりした。 旅宿の前には幕を張り,高張提灯を燈し,夜は夜警も廻るという風でかなり物々しい 様子であった。一行の荷物も多く,そのために人足が60人も雇われた。 ○ 〔文化5年 金光院日帳〕 問 塩飽(ルビ しわく)水軍と人名(ルビ にんみょう)について(高) 答 備讃海峡の西部にある群島(本島・与島・広島・佐柳島・高見島・沙弥島・牛島など) に住む者は古代より船を上手にあやつる技術に長じ,のち水軍として幾多の戦に参加し て戦功をたてた。よって織田信長・豊臣秀吉・徳川家康もこの水軍をたより,朱印状を 与えて保護した。 人名と称する650人は一般島民の上位にあって,1250石の領地を与えられた。また 人名より選ばれた年寄によって全島が統治された。 ○ 瀬戸内海における塩飽海賊史 讃岐郷土読本 P274 塩飽 香川県通史 P766 香 川県近代史 P5 文化財協会報特別号 3 史跡名勝天然記念物調査報告 2 文化財 協会報 9,17,48号 ― 74 ― 瀬戸内水軍史 しわく騒動記 塩飽広島めぐり 讃岐国塩飽巡見史料に就て 問 多度津藩家老林邸について(多) 答 所 在 多度津町奥白方 建築年代 慶応3年の建築で江戸中期の様式を継承している。 由 緒 外艦渡来等のことが頻繁におきるので多度津港の万一の危険を慮り,多度 津藩主京極壱岐守高典は万一の場合の避難場として奥白方の奥で南・西・ 北・三方山に囲れ,唯東方一方のみ開かれた要害よきこの地に御殿(別邸) を経営したので,家老としてこれに即応する別邸を構築したのが本邸であ る。 建築様式特に間取りから見て300石の家老格の品格を備えている。 ○ 白方村史 P186~P189 問 呑象楼(ルビ どんぞうろう)について(香) 答 日柳燕石がもっとも愛好した屋号は呑象楼だった。「象を呑む」心意気で呑象楼と名 づけたという。燕石が38歳のときにここへ移ったといわれている。 呑象楼は,瓦葺二階建で階下は東を通り庭としている。これに沿うて四畳半の3室が あったが,今は全部改造された。又,別に粗末な茶所もあったが取り除かれた。2階西 面の6畳の間が「呑象楼」で,天井はヨシズ張りで,東の暗室に通ずるふすまは片樋で, その南隣の小暗室も片樋である。不時の闖入者を防ぐためにあったので,移転にあたっ ては古老の意見を聞いて回転仕掛の密室にした。 木戸孝允や高杉晋作等の明治維新の志士たちは,この楼上で盃中に写る象頭山を呑ん だ。 呑象楼は,仲多度郡榎井にある興泉寺の南隣りにある。現在もなお保存されている。 ○ 文化財協会報18号 P7 日柳燕石研究(其の二)P51 讃岐公論 昭和45年40巻第5号 P17 日柳燕石伝 P106 香川の歴史 P196 問 乃木将軍と妻返しの松について(香) 答 陸軍中将乃木希典は,初代第11師団長として,明治31年10月3日に補任し,在職 期間2年8ヶ月,明治34年5月21日に転出した。東京からは単身で赴任し,いまの善 通寺市にある金倉寺を寓居とした。明治31年12月31日,東京から静子夫人が夫に面 会のため来訪したとき,将軍の拒否にあい,思案の余り疲れた体を,折柄降りしきる雪 をさけて,本堂まえの松の下かげにたたずんだのである。その松がいわゆる,「妻返し ― 75 ― の松」である。将軍が拒否した理由は,第1に,陣中に等しい宿舎に,妻が夫の許しな く面会に来たこと。第2は,金倉寺は女人禁制の天台宗の精舎であること。第3に,夫 の許可なく妻が勝手な行動をとったこと,以上の理由があげられている。 ○ 乃木将軍と四国 P93 問 丸亀城について(丸) 答 慶長2年(1597)に讃岐守生駒親正が西讃の本拠として那珂郡と鵜足郡の境だった亀 山に城をつくり丸亀城と名づけた。内部は東西4町・南北3町,外郭は東西6町・南北 8町で現在の規模と大差はない。 丸亀城は最初の城主生駒親正から一正・正俊・高俊と4代54年間,山崎甲斐守から 俊家・治頼と3代17年間,京極高和から高豊・高或・高矩・高中・高朗・朗徹と7代2 12年間計282年間の大名の城となった。 ○ 丸亀城 丸亀城ものがたり まるがめ1~6号 丸亀の歴史 丸亀の文化財 問 丸亀市の歴史の本について (丸) 答 丸亀繁昌記 丸亀の今と昔 丸亀の歴史 丸亀史料シリーズ 1~7巻 丸亀市史 まるがめ 1~6号 丸亀の文化財 問 丸亀藩での武者修行や御前試合について (丸) 答 古い文書には余りないが,武者修行は間宮藤兵衛という人が嫡子の「武」の「剣道修 行旅行願」というものを,天保12年2月1日に出している。この時は藩の節約令によ って藩士の旅行は禁じられていたが,特別に許可が下ったものと思われる。この時「武」 には,鼻紙代として銀15枚が下賜されている。また,御前試合は,文政10年8月21日 にお触れを出し,同年11月26日に弓術を実施している。 以来その後も,13年頃まで引き続き実施されている。 ○ 諸芸上覧一件帳 間宮藤兵衛覚書 問 丸亀藩は徳川将軍家と親戚関係について (丸) 答 高松藩初代頼重候は,徳川家康の孫に当たる。丸亀藩京極家には,このような関係は ない。戦国時代の末,当時近江(今の滋賀県)の勇者であった,京極高次(丸亀藩初代 高和の祖父)を味方に引き入れようと,織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も考えて,いろ いろと方法をとっていた。その一つとして姻戚関係を見ると,信長の妹「お市」が浅井 長政に嫁して生まれた3人の娘のうち,長女の「茶々」(淀君)は秀吉の側室となり, ― 76 ― 2女の「はつ」(常高院)は京極高次夫人となり,3女の「おごう」(崇源院)は2代 将軍秀忠夫人となっている。また,高次の子で,丸亀初代高和の父,忠高の夫人は秀忠の 娘である。市資料館には,高次の夫人「はつ」に2045石を与えられた秀吉の朱印状が あり,徳川になっても引き継がれている。 ○ 京極高次夫人宛の秀吉の朱印状 渓心院の記 問 三尾谷事件(安政年間における讃岐農民の阿波越境騒動)について(香) 答 安政3年6月17日,鵜足郡中通村(琴南町中通)の農民32人が一団となって,南方 の国境を打越えて阿波領に入国し,多年の間,同村と隣村造田村(琴南町造田)との間 で争っていた三尾谷の山林について,讃岐の代官所や山奉行の裁断の曲直を阿波の役人 の公平な判断により,高松藩の役人の反省を促さんとした事件である。6月30日には 帰村した。 この事件は,日本村落史考の著者(小野武夫)の見解としては,①当時の村の性質を 知る②日本の農村林制史の部分的資料として有益であると高く評価されている。 庄屋と庄屋との間に取り交わされた書簡や阿波の庄屋の聴き取り調査や庄屋の報告な ど珍しい資料が多く含まれている。 ○ 日本村落史考 P78~P138 伝説と名勝旧蹟に富める美合村 P313~346(上記と 同じ内容) 香川県通史 P1053