入力に使用した資料 底本の書名 讃岐ものしり事典(p65~70) 底本の編集者 香川県図書館協会 底本の発行者 香川県図書館協会 底本の発行日 昭和57年4月1日 入力者名 辻 繁 校正者名 合葉 やよひ 入力に関する注記 文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の 文字番号を付した。 登録日 2003年1月22日
-歴 史 (坂出・綾歌地区)- ― 65 ― 問 雲井御所碑について(坂) 答 坂出市林田町字中川原(綾川の東岸)にある。崇徳上皇は,保元元年(1156)7月10 日に起った保元の乱で後白河天皇の軍に敗れ,やがて讃岐へ遷されることになった。途 中直島に寄られ,8月3日松山の津(坂出市倉敷川の下流)に着かれ,野太夫綾高遠の 館を行在所として住まわれた。上皇はここで3年過ごされ,都を恋い慕われて,「ここ もまたあらぬ雲井となりにけり空ゆく月のかげにまかせて」と御製されたので,人々は この御所を雲井御所と呼ぶようになったといわれる。その間に国司は国庁の傍の鼓岡に 御所を建てられたので,上皇はこの御殿(木丸殿)に移られて6年間過ごされ,遂に長 寛2年(1164)8月26日崩御遊ばされた。雲井御所碑は天保6年(1835)12月高松藩 主松平頼恕公が,上皇の御聖跡であるこの雲井御所址を保存する為に碑を建てて見守人 を置いた。碑文は頼恕公自ら撰して題額を書き,家臣の島村厚に製作させたものである。 天保9年(1838)綾高遠の後裔である綾繁次郎高近が碑の永代見守人を命ぜられた。 ○ 坂出市史 P505 崇徳院と讃岐P1~P29 郷土林田の史蹟 P25~P20 香川県通史 P364~P365 問 坂出地方の遺跡・史跡について(坂) ― 66 ― 答 坂出地方で古い遺跡は縄文中期の土器が出土した沙弥島である。また加茂町明神原か らは弥生時代金石併用頃の銅鐸が出土しており,なお,与島・沙弥島から師楽式土器が 御供所八幡西側には弥生式前期の土器包含層があり,西庄・醍醐・福の宮付近は弥生中 後期の石器散乱地として有名である。その地聖通寺・福江・城山・西庄・加茂地方山麓 一帯に各時代の古墳が50有余も発見されている。以上のごとくこの地方は先史時代の 遺跡・遺物が多く,各文化期ごとの代表的なものを有し,考古学研究にその資料として, また研究課題としても貴重な文化財である。次に史跡についても,城山城跡は古代の山 城で,朝鮮式の規模広大なもので,伝説では城山長者屋敷といわれている。これらをは じめ,室町から天正時代にかけての古城趾が多く,その他讃岐国府・崇徳院の遺跡をは じめ寺院趾など数多くの歴史を語る史跡がある。昭和54年 4月には開法寺塔跡が発掘 され,県の史跡に指定されている。また,瀬戸大橋架橋に伴う島しょ部の発掘調査によ り,櫃石島の祭祀遺跡与島の旧石器時代の遺跡などが発見され,当地方の遺跡地図は大 きく書き変えられようとしている。 ○ 香川県通史 P35~98 城山の観光と史跡 坂出市史 P1~16,P501~506 坂出 市の史跡・遺跡一覧表 讃岐国府遺跡考 讃岐沙弥島の先史時代の遺跡 讃岐通史 讃州府志 崇徳寺と讃岐 崇徳院の御遺跡と御遺物 山陽新聞(45.10.20) 讃岐 公論(33年10月号) 香川県の遺跡 備讃瀬戸の島々Ⅰ,Ⅱ 埋もれた備讃瀬戸 問 坂出の沿革について(坂) 答 坂出地方は約5000年前と推定される縄文時代から弥生時代にかけて,城山山系が中 讃文化の中心であったことが,この地方の古墳・出土品から考察される。加茂・林田地 方の条里の跡から,この地方は奈良時代から農業の盛んな集落地であったと考えられる。 大化の改新の頃,讃岐国府が府中村におかれ,当時の交通路も東讃から西讃に通じてお り,この地が文化の中心であったと思われる。 江戸時代(1600)頃,赤穂から住民が角山付近に移住して半農,半塩業の生活を送り, ここに新浜,内浜の地名が生まれた。 天明7年(1787)林田の宮武清八が御供所沖に塩田を開き,人も増加し,旧坂出の人 口が千人を超えた。その時文政12年(1829)久米氏により東西浜大浜,115町歩釜数75 の塩田が開拓され,塩都としての基礎ができた。他方沖湛浦(ルビ たんぽ)港も築造 され港町としての基も開かれた。 明治23年 4月町村制実施と共に坂出町となり,商工業の発達により大港湾が必要と なり,昭和 3年(1928)工費142万6千円で工事に着手して以来度々改修を加え,昭 和23年開港場に指定された。 昭和17年 7月林田村と合併し,ここに市制を施行,人口 3万 1千を数えるに至る。 更に隣村を次々に合併し,昭和31年人口6万2千人となる。米麦,みかん,桃などの 農産物をもつ農村や,港と工業を中心とした貿易工業都市となり,さらに番の州の大埋 ― 67 ― め立て,府中ダムの建設,人口土地工法による不良住宅改良事業も行われた。 ○ 坂出市史 讃州府志 府中村史 金山村史 坂出商工案内 坂出市の基礎研究 御供 所八幡由来 坂出と共に 香川県郷土地理 香川県案内 坂出町明細地図 坂出市全 図 坂出簡易水道の図 坂出古図 玉藻集 坂出商工名鑑 坂出市勢要覧 坂出港要 覧 問 坂出の古城について(坂) 答 ① 城山城址 標高462メートルの城山山頂にあり,城郭周囲約4キロのこの城は古 代の山城で,朝鮮式山城の規模広大なもので,天智天皇或は,それ以前に百済の築 城師の設計で造られたと思われる。城門,水門,石塁,車道,俎(ルビ まないた) 石などが現存している。 ② 聖通寺城址 坂出と宇多津の境にある聖通寺山頂にあり,室町時代細川勝元の臣 奈良太郎左衛門元安の居城であったが後仙石秀久,尾藤知宣,生駒親正らが,この 城に拠った。天正18年(1590)廃城となる。 ③ 山内城,天皇城址 共に金山東麓又は八十場附近に在ったと思われ同一の城を時 の城主の名によって,別名で呼ばれたとも思われる。 ④ 西庄城址 香西元継の居城であったが,永正4年(1507)香川民部少輔の居城と なる。天正6年羽床伊豆守に攻められ,又同8年十河存保に攻められ落城同10年 再度香川の手に帰り同14年廃城となる。 ⑤ 氏部城址 坂出市加茂町北氏部にあり,入江庄左衛門の居城であった。 ⑥ 古城址 坂出市加茂町氏部にあり,汐入庄兵衛と云う人の持城といわれる。 ⑦ 高居城址 坂出市内の雄山の麓にあり,初め綾の高遠の城址。 正平17年(1361)2月,南朝の将,細川清氏が,ここに立籠ったが,同年7月, 細川頼之と戦い,伊賀頭助に討たれ戦死した。 ○ 城山の観光と史蹟 坂出市史 府中村史 香川県通史 坂出市史 P503~507 香 川県史(明治43年刊)2編 P197 讃州府志 P550~580 讃岐城跡並古屋舗記 綾北問尋鈔 今古讃岐名勝図会 国訳全讃史 日本城郭大系 問 讃留霊王(ルビ さるれおう)の墓について(綾) 答 陶十瓶山の西麓,猿王にある。その墓地の上を強く踏むと音を発する。石室があるよ うに思われる。もと前方後円墳であったらしく,その南方の前方部が削り取られている。 古老の言によると,その東方に多数の陪塚があったらしく,明治初年各種玉類・埴輪・ 人形等が多数出土したという。 ― 68 ― 問 三十六古遺跡について(坂) 答 坂出市林田町雄山の西麓数百メートルの所にある。白峰合戦のとき南朝の将細川清氏 の戦死の地といわれる。細川氏は足利の家臣で早くから四国に勢力を張り足利幕府の創 設とともに,四国総大将として阿波に本拠を置いていた。清氏も足利義詮の執事として 北朝に功績があったが,讒言にあい,若狭に退き,後南朝に降ってその将となった。正 平17年(1362)四国征伐の兵を挙げ,三木郡白山に兵を進め,近郷の讃岐の将兵を多 く降し,やがて白峰山下に陣して宇多津に拠る北朝の将細川頼之に対陣した。頼之は西 長尾の源少将を攻めると見せて清氏の虚を突き,白峰城を襲った。清氏は少兵を率いて これを打ち退けたが,遂に力尽きこの地に散った。 当時清氏に従う兵は36名。清氏とともにこの地で戦死したのでその地の人はこれを 祀り,この地を三十六と称したと云われている。この壮烈な戦死が語りつがれて,細川 将軍戦跡碑が中山城山の筆によって建立され戦跡として残されている。一時取り除かれ ようとしたとき,当時第十一師団長であった乃木大将の意見により,ながく遺蹟として 保存されることとなった。 ○ 郷土林田の史蹟 P32~36 坂出市史 P506 香川県の歴史 P81~84 問 城山長者について(坂) 答 城山は香川県の中央にあって,坂出市の府中・川津・西庄の各町と綾歌郡飯山町の坂 本にまたがり,標高462メートルで山頂は広大な台地であり,この台地一帯が城跡で現 在も色々な遺構が残っている。 この城跡について,次のような伝説がある。 城山長者というのがあって城山の頂上に屋敷を構えていた。 石門はその表門で,石塁や土塁はその囲障の塀構である。 車道はその遊歩路で四方を眺望するため周遊したものである。 長者又はその娘に足の不自由なものがあったため車に乗せてひいたので車道というの である。 俎石は,台所に使った俎であり,ホロソ石は精米精麦の時の米つき杵の支点となった 支柱石である。 水門は屋敷内の排水口である。 門の内の井戸は台所用水の井であり,池の内は用水の池である。明神原はその祖神を 祭った処であり,烏帽子石は元服に使った烏帽子を置いたものであり,鏡石はその化粧 部屋にあった鏡である。 これは,古城址であることが忘れられて後に作り語られたもので今も昔話として語ら れている。 この城跡は,大化の改新以来鎌倉時代までおよそ700年間,政治の中心たる国司庁を はじめ,文化の中心である国学・神社・仏閣等の史跡に富むところである。 ― 69 ― ことに古代朝鮮式山城の遺跡だとされている。 俗称これを城山長者の屋敷跡と呼んでいる。 ○ 讃岐の史話民話 P51 坂出市史 P2・P196 香川のむかし話 P11 城山の観光と史跡 問 鼓が岡の御殿について(香) 答 保元の乱で合戦に敗れた崇徳上皇は,剃髪して弟の覚性法親王のいる御室の仁和寺に はいったが,保元元年(1156年)7月23日,讃岐に流されることになった。途中,直島 に滞在ののち,保元3年上皇は,国司庁(坂出市府中町)の西隣りにある鼓が岡の御殿 にうつられた。 この御殿は,柱がすべて丸木のままなので,人呼んで木丸殿(このまるでん)といっ た。国司庁散位綾高遠の造営したもので,そのさまは,去る大正2年崇徳750年忌記念 事業として,現在この丘の東腹に建てられている擬古堂(ぎこどう,桁10.8メートル 梁行9メートル 54平方メートル)そのままで先ず讃岐の中農の母屋程度のものであ ったといわれる。崇徳上皇は,この木丸殿で約6か年の歳月をおくられ,5部の大乗経 を書写したといわれている。 ○ 崇徳院(農業香川 昭和38年10月号 P92) 真説崇徳院と木の丸殿 P15~17・ P51~57 香川県の歴史 P46~47 崇徳上皇 P67 崇徳院と讃岐 P13・P84~85 崇徳院とその遺跡 悲劇のみかど崇徳上皇 源平盛衰記 玉葉 保元物語 問 研辰の討たれについて(香) 答 文政10年(1827)江州膳所藩(現在の大津市)の平井市郎次を女敵討ち(めがたきう ち・妻と姦通した相手を討つこと)として,郷里阿野南郡羽床村(現在の綾南町羽床) に逃げ帰っていた刀剣研師辰造を市郎次の弟平井外記,九市の二人が7年間探索ののち 兄の仇として討ちとるというものがたり。当時瓦版で評判となり,歌舞伎「研辰の討た れ」などの名狂言として,大正昭和の名優市川猿之助の大当り狂言となる。 ○ 玉藻略史 P73 讃岐人物伝 P815 讃岐歴史散歩 P416 ふるさとの歴史百話 P118 問 羽床城について(綾) 答 羽床城は羽床小学校の東南直線で900メートル,県道脇町線の田井十字路より南方 500メートルの所にあって標高約50メートルの小さな山の上にあった。城山(羽床城) は讃岐守従三位中納言藤原家成の嫡孫,羽床資高が羽床庄司として,菅原,滝宮,小野, ― 70 ― 北村,羽床下,羽床上,牛川,西分,東分の9か村を管領した時の城塞である。この地 は羽床氏の源平時代から,北条氏,南北朝,足利氏,織田氏を経て豊臣氏に至るまで住 居した所なので,時勢相応の兵士の屯所あり,部下の邸宅あり,庭園あり,高楼あり, そこで政務を執行したところであり,地勢においても高所あり低所あり,登城人,馬車 の道路の跡あり,羽床氏の盛時が偲ばれる。 今も羽床地区には,城山,御新送,蓮池,弥蘇田,倉屋敷,顔漬,射場,福禄池など 羽床城にまつわる地名が数多く残っている。 ○ 綾南町史 問 八十場の水の由来について(香) 答 讃留霊記によると,景行天皇23年西海に呑舟の大魚がいた。船の往来するところを うかがって,波濤をおこし,舟をくつがえし,人を食べた。そこで天皇は,小碓尊の子 霊子に勅をくだして,これを討たしめた。25年に霊子は椎門においてこれを討ったが, 戦士は皆大魚の毒気にあたって倒れた。そのとき一童子が瓶水を持って来て,霊子に飲 ましたところ,心身が清明になった。そこで霊子は,さらに童子にお願いして,水を兵 士に飲ましたところ,兵士は皆蘇生した。したがって,この水に名づけて,八十生(や そば)の水,または,八十蘇(やそば)の水といった。この童子が横潮明神であった。 そこで祠を建てて祀った神社が横潮神社である。なお八十蘇の水は,長寛2年8月崇徳 天皇崩御のみぎり,二旬にわたって天皇の尊骸を侵し奉り,宣下の来るのを待ったとこ ろと伝えられ,霊水として名高く,またの名を野沢井の水ともいう。今坂出市西庄町に ある。 ○ 香川県神社誌など 坂出市史 P510