遺跡(19K)

入力に使用した資料
底本の書名    讃岐ものしり事典(p45~51)
 底本の編者    香川県図書館協会
 底本の発行所   香川県図書館協会
 底本の発行日   昭和57年4月1日第1版
入力者名     福山 勲
校正者名     柳田 強
入力に関する注記
    文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋徹次著 大修館書店刊)の
    文字番号を付した。

登録日   2003年7月11日
      

 
―遺跡―

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 問 石清尾山古墳群と県内にある他の古墳について(香)
 答 石清尾山(高松市峯山町)にはその遺物からみて,わが国古墳前期(西暦3~
  4世紀)に属する古墳が百数十あったといわれるが,現在名前のわかっているも
  のには猫塚・峯山塚・姫塚・石船積塚・鏡塚・小塚があり,このうち石船積石塚
  はもっともよくその形をとどめており,昭和9年に国の史跡に指定されている。
 〇 讃岐高松石清尾山石塚の研究
   国宝並に史蹟名勝天然記念物調査報告
   この他県内には約540の古墳があり(「全国遺跡地図,香川県」による)そのい
   くつかは次により知ることができる。
   香川県史蹟名勝天然記念物調査報告 香川県指定の文化財とその解説 香川県
   文化財調査報告 各郡市町村史 郷土の文化財(日本文化財シリーズ,香川県)
   四国新聞(45. 8. 1) 山陽新聞(45. 7. 28~45. 9. 15)毎日新聞
   (45. 9. 15) 石清尾山古墳群 さぬきの遺跡


 問 岡古墳群について(善)
 答 善通寺市大麻町字岡夫婦岩の一帯に弥生時代後期後半の古墳群が,階段状の山
  田の間に散在して壮観を呈している。その中の岡五号,六号墳は径9メートル,
  高さ3メートル余,東南に開口して,玄室の奥行3.4メートル,巾2メートル,高
  さ2.3メートル,天井石三枚で巨石を用いた後期後半の立派な古墳である。この頃
  は古墳の内部に最も力を注ぎ,外側の封土は崩壊を防止保護する観点から,直径
  に比して急激に高く盛り上げて目立つようにしたが,頗るボリュームに乏しい。
  以下最終の古墳で高さ1メートルくらいの小古墳を加えて総計16基が狭い所に集
  合している。岡古墳群で古墳の配置は下端が大きく背後に到るに従って時代が降
  り墳形も縮小されている。ここより左右に帯状を呈して大麻山麓の古墳地帯が拡

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  がっているが,約500メートル東方の字山田は階段状の水田が広潤で地域も厚く日
  照りの良い有力な古墳群があったが,既に明治以前の開墾で全滅し,僅かに石崖
  等によってその痕跡を知るばかりになった。
 〇 善通寺市の古代文化 P194~P196


 問 お藤天神古墳について(綾)
 答 綾南町大字北有岡にある。
   大円墳で長径18メートル,短径6メートル,高さ5.8メートル古墳中期のもの。
  その頂上に松恵神社の社殿があり,南方から拝するようになっている。
   この古墳の近くに「菅公袖掛の松」という名樹がある。


 問 快天山古墳について(香)
 答 綾歌郡綾南町東若狭,琴平電鉄線の栗熊と羽床駅とのほぼ中間,線路より約300メ
  ートルの北に位置する。平地から高さ30メートルの丘陵の頂上にあり,ここには
  正徳2年(1712)僧快天の墓があるので快天山という。
   昭和25年発掘調査された,古墳は約65メートルの円墳または東南にのびる尾根
  を前方部とみなす約100メートルぐらいの前方後円墳とする両説がありいまだ判明
  しない。3個のくり抜き石棺があり,男性2,女性1と見られるもので被葬者の
  身分などは不明である。
 〇 さぬきの遺跡 P174
   史跡名勝天然記念物調査報告15(快天山古墳発掘調査報告書)


 問 我拝師山遺跡について(善)
 答 昭和40年末善通寺市吉原町の菅昌彦氏は,我拝師山の中腹でミカン畑を開墾
  中,つり鐘形の青銅器を発見した。銅鐸である。昭和9年にこの銅鐸が発見され
  た150メートルほど西方に広形銅剣が1口発見され,昭和14年には此の地より東300
    メートルはなれた所で広形銅剣4口が発見され,銅剣が2ヶ所から5口も発見さ
  れたということで有名であった。この銅鐸は総高29.6センチ,底の径が長径15.7セ
  ンチ,短径11.7センチで,だ円形をしており,中が空洞でつり鐘のような形をし
  ている。上は鈕と呼ばれるつり手のような偏平なものがつけられ,此の両端が1.
    3センチほどのひれとなってすそまでのびている。厚さ2ミリと薄手で,鋳型に
  よって造られている。両面にほぼ同じ文様がつけられている。上,中,下と三段
  にのこぎりの歯のような鋸歯文がつけられ,その間2段に流水文様がつけられて
  いる。そして,たたくとにぶい音が出る。この銅鐸は,当時の人々にとっては貴
  重品であり,生活用具としてでなく,銅鐸を中心に豊作の為の祈願をしたり,又

―47―

  豊作の感謝祭りをしたのであろうと思われる。
    1. 附近の遺跡
   鷺井神社古墳,県道善通寺,仁尾線の北側,大塚池古墳,銅鐸出土地の下の池
   の中,四つ塚古墳,曼荼羅寺のうら,火上山古墳,火上山の中腹
 〇 さぬきの遺跡 P78~83


 問 〔カン〕子塚(#「カン」は文字番号41064)(ルビ かんすづか)古墳に
   ついて(観)
 答 母神山山麓の三豊総合運動公園内に保存されている。墳丘径48メートル,二段
  築の円墳でひさご塚古墳(前方後円墳)とともに母神山古墳群の盟主的古墳であ
  る。
   和泉砂岩の自然石を用いた石室は副室をもつ両袖式の横穴式石室で,石室全長
  9.82メートル,玄室長さ5.3メートル,玄室高さ3.2メートル,玄室幅2.6メートル
  前室長さ2.9メートル,羨道長さ1.6メートルの規模である。
  おもな出土品としては,単鳳環頭太刀柄頭(ルビ たんほうかんとうたちつかがしら),
  三葉環頭太刀柄頭,銅鈴,トンボ玉,銀製空玉,ビーズ玉,須恵器,鉄利器など
  である。
   古墳の形態,出土品などから推すと,六世紀後半から七世紀頃にかけて築造さ
  れたようで,被葬者は卓越した三豊地方の豪族であろう。
 〇 観音寺市の文化財第二集 昭46 観音寺市の文化財“考古資料シリーズ”昭
      47 讃岐の歴史 倉敷考古館研究集録第9号


 問 極(ルビ ごく)ケ谷(ルビ たに)牛飼場遺跡(内)
 答 内海町安田でバスをおり島四国の14番札所清滝山に向う山道を約50分登ると,
  三五郎池に出る。その池の近くの通称,牛飼場と呼ばれる松林の岩かげから昭和
  4年4月袈裟襷文の小型銅鐸(高さ31センチ)が発掘され,その後同6年に同じ
  場所から広型銅剣(長さ約31センチ)の破片が出土した。また最近45年4月にも
  広型銅剣破片(6センチ)が出土した。
   出土品は町内には所蔵されていないが,その出土地が,弥生式文化時代後期の
  遺跡として昭和48年3月町文化財に指定された.
 〇 内海町史 P381  香川県の歴史散歩 P220


 問 木の葉塚絵画古墳について(香)
 答 坂出市烏帽子山古墳群のなかに,木の葉塚と呼ばれる古墳がある。この古墳内
  部の石の表面に線刻画がある。大部分は木の葉が中心であり,形や大きさは多様
  である。
   その他2か所に舟と思われる図柄がある。図はさほど写実的ではないが,県下

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  では数少ない絵画古墳として貴重である。
 〇 文化財協会報 55年度特別号


 問 瀬戸内の祭祀(ルビ さいし)遺跡について(香)
 答 祭祀遺跡は古代人が神霊を祭った形跡で,古墳時代に始まり奈良,平安時代に
  至る。
   祭祀遺物の発見が祭祀遺跡確認の端緒である場合が殆んどである。祭祀遺物は,
  日常生活に使用されることのない呪具(ルビ じゅぐ)的な遺物,同時代の常民
  の所有物とは考えられない宝器的な性格の遺物,実用具を槙造した木製,土製,
  金属製の小型品、人形,動物形などの形代類,実用器物を故意に破壌したものや
  仮器などがその代表である。
   瀬戸内の祭祀遺跡は,海上交通に関するものと,製塩遺跡に関するものが知ら

  れている。高島遺跡(岡山市宮浦高島),荒神島遺跡(直島町荒神島),大浦
  浜遺跡(坂出市櫃石島),大飛島遺跡(笠岡市大飛島)は前者の類例とされ,田
  井浦遺跡(玉野市田井),大浦浜遺跡(前出),与島大洲浜遺跡(坂出市),粟
  島東風(ルビ こち)浜遺跡(詫間町),船越遺跡(詫間町)は後者の例と考え
  られている。
 〇 瀬戸内の海上信仰調査報告 新版考古学講座 8


 問 瀬戸内の製塩遺跡について(香)
 答 瀬戸内の海浜,島しょに弥生時代中期から奈良・平安時代にかけて営なまれた
  土器製塩遺跡は200か所以上ある。備讃瀬戸地域は最も分布密度の高い地域である
  とともに,その発生地域でもある。古墳時代には山口市沿岸,芸予諸島,備讃瀬
  戸,小豆島,淡路島,大阪湾沿岸,鳴戸,和歌山の各地方,さらに九州,若狭湾,
  東海沿岸にまでその分布域が拡大された。
   海水を土器に注ぎ煮沸煎熬(ルビ せんごう)して塩を得た塩生産の遺跡を製
  塩遺跡というが,塩水の濃度を高める方法,精製方治を含めた一連の作業経過に
  ついては,技術発展の諸段階,地域差などとともに未解明の部分が多い。同形態
  の多量の製塩土器破片包含層,製塩炉,塩水溜,タタキに似た作業面,製塩工程
  で析(ルビ せき)出される化合物(海水中の塩以外の物質),炭灰などが製塩
  遺跡発見の目安である。
   香川県直島町の喜兵衛島遺跡は土器製塩の事実が立証された代表的な製塩遺跡
  で,広い海浜に面する平坦地のほぼ中央部に製塩炉,その周囲に堅くしまった作
  業面,その外周に使用済みの製塩土器,灰,炭などの捨て場で構成されている。
  また,瀬戸大橋架橋の櫃石島の大浦浜遺跡では数個の塩水溜と製塩炉が発見され
  ている。 
   塩水を煮つめる製塩土器は弥生時代中期から古墳時代前期にかけてワイングラ
  ス状の脚台のついた器壁の薄い鉢形,古墳時代の前期末から後期初頭には脚台を

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  取り丸底化したコップ状,後期には丸底大型化した鉢形,7、8世紀には再び小
  型化された尖底の鉢形となり,平安期には器壁が厚い鉢形となり消滅する。土器に
  代わる塩水濾過(ルビ ろか)の鉄釜の使用の開始(9世紀)とともに,しだいに
  土器製塩から塩浜製塩に変化したと考えられている。

 〇 「製塩」『日本の考古学』 V1966


 問 紫雲出山遺跡について(観)
 答 風光絶佳な荘内半島は桃太郎伝説と,それにちなんだ地名をもつ民俗伝承の豊
  かな半島であり,その最高所,352.3メートルに紫雲出山がある。昭和28・29年に
  京大小林行雄教授一行が調査され,弥生人の住居跡を発掘した。ここは古代人の
  山上集落生活地であることが判明したわけだが,多数の出土品は①キビ,②石包
  丁8個,③ヤジリ15個,④クルミ割のクボミ石,⑤「堀リッチ」など多数の石器,

  ⑥無数の弥生式土器破片,⑦6個の鉄片等約1.000点以上を発掘した。調査に
  よって,この地が今から約2,000年前,弥生中期の遺跡であり,この地が集落,
  東西7メートル,南北5メートルの山地住居跡で長経4.5メートル,短経3.5
  メートルの円形横6住居を発見した。地下35センチから50センチの間を掘った
  「キビ」の発見は珍しく,すでに農耕文化が発生していたことを物語っているという。
 〇 詫間町誌
   仁尾町誌 紫雲出


 問 滝宮万塚について(綾)
 答 滝宮北村の御山神社の北方,群集古墳が数百基存していたので万塚といわれて
  いる。ほとんど開墾されて,井上健一所有の山林中に3基だけ残っている。古墳
  は,おおむね長径15.5メートル,短径11.5メートル,高さ1.45メール。
  12号墳・18号墳・23号墳からは,土師器片5個・須恵器6個・鉄器破片若干。
  その他の古墳からは,埴輪円筒片17個・土師器片6個・須恵器3個・刀子1個・
  石器材料4個が出土している。


 問 土庄町における弥生時代までの遺跡,遺物について(土)
 答 昭和40年9月28日土庄町小瀬の戸形丘上の戸形遺跡から,西洋梨形ハンドアッ
  クス(握り槌)と舟底形石器(片刃の小刀に似て獣皮をはいだり骨を削ったりす
  る刃物)と,その製作に伴う石屑が発見された。この遺跡の人類は,紀元前約25
    ,000年頃の旧石器時代人で小豆郡では最も古く,香川県下でも最古の部に入る。
  次いで,土庄町豊島,水ケ浦西遺跡(紀元前約15,000年)から舌状ハンドアック
  ス,ポイント(尖頭器)が出土している。降って縄文期遺跡(今から約8000~30

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  00年以前)町内の約10箇所から土器片,石鏃などの出土をみている。これに続く
  弥生期の遺跡から発見された主な遺物は,石鏃,鹿の骨,角,漁撈用土〔ツイ〕
  (#「ツイ」は文字番号24257),たこ壺形土器,紡織具の紡錘車,刳貫舟(田
  舟),土製の垂飾,高杯,宗教関係の袖珍土器などがある。弥生式文化遺物採集
  地は町内で42箇所にのぼっている。
 〇 土庄町誌 さぬきの遺跡 香川県文化財保護協会協会報


 問 仁尾の小蔦島(ルビ こつたじま)貝塚について(香)
 答 小蔦島は仁尾町の西方約1キロの海中にある小島で,貝塚はこの島の東北部に半
  島状に突出した丘陵の上にある。
   貝層の中には多種類にわたる貝殻のほかに蔦島式土器が石器とともに,その下
  層からは山形連続文土器や殻粒文土器が蔦島式土器や石器とともに出土し,原始
  的性格を示し,縄文式文化時代のしかも早期に営まれた遺跡で,県下に類例を見
  ない特異な貝塚である。昭和33年6月5日県指定史跡に指定。
 〇 香川県の文化財 昭29年 P133 香川県指定の文化財とその解説 仁尾町史
   P9とP431 僕等の考古学 史蹟名勝天然記念物調査報告 4


 問 野田院の遺跡について(善)
 答 野田院の遺跡は,大麻山の標高400メートルの山中にあって,現地は広く縁取ら
  れた円形の中央部に浅い窪地をもった摺鉢形の台地で,噴火口のあとらしい所で
  あり,弥生中期の土器が散乱している。
   天正7年、長曽我部元親は西讃岐,中部讃岐を手中におさめた。その時大麻山
  には野田院,瀧寺,称名寺の3寺があったが,みな長曽我部の乱入後,廃寺とな
  ってしまった。そのわけは,僧侶が山をすてて里へ下ったり直接繋がりの少なか

  った寺は,一度焼失したまま廃滅したのである。次に,野田院台地の直ぐ上の腹
  には墳墓として最も高処を占め,最も古い組合せ石棺が1基ある。山の傾斜その
  ままを床として,仰臥した人骨が2000年間静かに眠りつづけている。学術上重要
  であるばかりでなく、極めて珍しい形式に属して貴重な古墳として有名である。
  また,野田院の住居趾竪穴住居は標高400メートルで、寒冷な西北に面し,おそら
  く四国でも最高所の山上遺跡である。県下でこうした高所にある遺跡の住居趾の
  保存された所は,未だ1か所も無い。ここは学問上貴重遺跡であるばかりでなく,
  優秀な観光資源として,野田院の景観は絶好の場所である。
 〇 善通寺市の古代文化 P39~P44
   香川県の歴史 P97~P98

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 問 母神(ルビ はがみ)山古墳について(観)
 答 西讃府誌,木郷村の項に「塚三,塚穴凡テ四十五母神山ニ散在ス」とあるよう
  に古くからその存在が知られ,古くより乱掘或は開墾等のため大部分が破壊され
  たようだが,存在が確認されているものだけで60余の古墳が,三豊平野のほぼ中
  心に独立した標高92.4メートルの母神山全体にほぼ尾根にそった形で散在してい
  る。そして一つの尾根とその麓を単位として各氏が主長格の墓所としていたと推測
  される。その典型的なものが郵政省関係老人ホーム造成中に発見され緊急発掘さ
  れた黒島林1号古墳群と考えられる。
   様式については,径30メートルの円墳かんす塚・全長41メートル前方後円墳の
  ひようたん塚等と多様だが,観音寺市文化財保護協会より「母神山式古墳」と命
  名された黒島林1号古墳群の大きな特徴をなすものである。
   年代については,前記ひようたん塚等中期古墳に属するかもしれないもの(未
  発掘)もあるが副葬品その他より後期古墳(6~7世紀)のものが主体になって
  いると考えられる。そして郡内他地域の古墳群に比べその規模がはるかに大きい
  ことは,左右に財田川柞田川の流れをいだき,燧灘を一望に,三豊平野を見下す
  ここ母神山周辺台地が6~7世紀にかけ郡内でも最も栄えていた地域であると考
  えられる。
 〇 母神山黒島林1号古墳群  観音寺市の文化財 考古資料シリーズ 観音寺
   市誌 P182~P236  さぬきの遺跡 P36


 問 宮が尾絵画古墳について(善)
 答 善通寺市内西部の瓦谷部落から高瀬町に通じる麻坂越道の途中の御館神社の西
  南100メートル程の果樹園の中で昭和40年12月に発見された後期古墳時代の
  ものである。その周辺には多くの遺跡があり幾多の銅剣(瓦谷8麻坂7)が発見
  された。これは地下式横穴古墳で東南に向った両袖型の石室になっている。安山
  岩の比較的大形のものを基礎とし,その上に小形の石を築き上げ上方に従って両側
  壁,奥壁共に縮約させている。
   玄室は長さ4.5メートル幅2メートル高さ2.1メートルあり,地下羨道式で天井
  石の上に70~30センチ位の盛り土があった。羨門羨道及び玄室には多種多様な線
  刻画が描かれている。特に玄室の奥壁中央からやや西より幅1.4メートル高さ1.7
  メートルの安山岩には最も多くの線刻画が見られる。上方の6体の人物群は略画
  的に簡潔で頭部は円形又は楕円形で?幹は1本の線で表現したのと2,3本の線
  で立体的に表現したのとある。足はズボン様に太く長いのと上方で脚帯している
  ものもある。次に中央部やや西に騎馬人物図が描かれている。人物馬共に側面か
  ら描かれているのに人物は正面を向いた様で馬の足も前後共に2本づつ並べて描
  かれている。
   中央から下半部に9艘の舟があり方向形の表現も多種多様である。

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  形としてはカヌー式,ゴンドラ式,帆を立てたくり舟とあり舟を中心とした海景
  が主体となっている。全体として被葬者の業績を称えた記録で後世の絵物語式の
  展開をみせた珍らしいもので貴重な遺産とされる。昭和43年6月4日,香川県指
  定史跡に指定された。
 〇 市内の文化財めぐり  香川県の文化財