神道 (34K)

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底本の書名    讃岐ものしり事典(p8~21)
 底本の編集者   香川県図書館協会
 底本の発行者   香川県図書館協会
 底本の発行日   昭和57年4月1日
入力者名     森下孝男
校正者名     平松伝造
入力に関する注記
    文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
    文字番号を付した。

登録日   2002年10月9日
      

- 神道 -
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問 石清尾八幡神社の由来について(香)
答 高松市の石清尾山のふもとにある。祭神は応神天皇,仲哀天皇,神功皇后の三
 柱をまつる。例祭は10月14~15日。
  延喜18年(918)香川郡箆原荘亀尾山頂に山城石清水八幡宮の分霊を勧請創祀し,
 石清水と亀尾山の名をあわせて石清尾社といった。貞治年間(1362~67)細川右
 馬頼之は戦勝を祈願して社殿を改築し,武具を寄進した。天正15年(1587)生駒
 親正が讃岐の国主となるや,神域を拡げ社領24石余を寄進してから,高松の鎮守
 の社となった。寛永21年松平初代藩主頼重は社殿を山頂から現在の地にうつし社
 領202石余を寄進した。宝永2年(1705)三代藩主頼豊社殿を改修。明治5年(18
 72)から昭和21年までは県社であった。
○ 新修高松市史2 P 232 香川県神社誌(上) P28 高松市史 P 275 鎮守
 の森
問 讃岐国延喜式内二十四社を知りたい(高)
答 田村神社    城山神社    粟井神社   水主神社
  志太張神社   布勢神社    神前神社   多和神社
  大簑彦神社   和爾賀波神社  鴨 神 社  神谷神社

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  飯 神 社    宇閇神社    櫛梨神社    神野神社
  大麻神社    雲気神社    大水上神社   高屋神社
  山田神社    加麻良神社   於 神 社    黒嶋神社
○ 新修香川県史
 全讃史 P157~170  ̄讃岐の歴史(堀川碧星) P167~187 讃岐二十四社考
 式内社の研究  ̄讃岐史要 P21

問 神谷(ルビ かみたに)神社について(香)
答 坂出市神谷町神谷にある神谷神社は,讃岐の延喜式内社24社の1つで,貞観7
 年10月に従五位上を,同17年5月には正五位下を授けられたことが歴史に見えて
 いる古社である。
  本殿は桧皮葺(ひわだぶき)の三間社(さんげんしゃ)ーー正面の柱間が3つ
 ある社殿ーー流れ造りーー前面の屋根が後方の屋根に比して長く流れて向拝とな
 っている神社建築ーーで,高さ1メートルあまりの乱積(らんづみ)の基壇の上
 に建っている。4.6メートルに4.7メートルの建物である。正面中央の柱間と右側
 面前の柱間に板扉を入れたほかは,全部板璧である。正面には7段の木の階段が
 あり,その両側に昇勾欄(のぼりこうらん)がつき,正面と両横には縁をつけ,
 それに刎勾欄(はねこうらん)がついており,奥の突き当りに脇障子が立てられ
 ている。三方につけられている縁が大変高く1.06メートルもあり,面取の角な縁
 束が柱の通りに立てられているのも古い様式である。
  棟木に「正一位神谷大明神御宝殿,建保7年歳次己卯2月10日丁未日始之,惣
 官散位刑部宿称正長」と墨書銘があって,鎌倉時代初期に建てられたものである
 ことが明らかである。建築様式や技法とよく合致し,わが国に数多い三間社流れ
 造りの神社建築の内,最も古い代表的なものとして国宝に指定(昭和30年2月2
 日)されている。所蔵している什宝も多く,随身立像2体,阿形(あぎょう)像
 ・吽形(うんぎょう)像は重要文化財に指定されている。
  天文9年9月,永禄11年8月,万治3年9月,宝暦9年9月に再典上葺の棟札
 が,年月不明のもの2枚とともに保存されている。なお,近くは大正7年に解体
 修理が施され,昭和26年に屋根の葺替が行われた。
○ 香川県の文化財 P2~3
 「四国」 文化財を訪ねて P96
  郷土の文化財(高知・愛媛・香川・徳島) PlO4~105
  四国文化財散歩 P43~44
  文化財協会報 第2号 P4 第26号 P4 第38号 P6 第39号 P2
         第50号 P2
  香川県神社誌(下)  P22~23

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問 坂出市の塩竃神社について(香)
答 坂出市常磐町にある塩竃神社の祭神は大綿津見神をまつる。文政11年(1828)
 久米通賢が,藩主松平頼怨の命により,坂出墾田の安全繁栄を祈願するため,中
 堪甫西北隅の地におまつりし,天保8年今の地に奉遷した。境内に坂出神社があ
 る。天保年間の創建で,事代主神をまつる。のち,藩主松平頼怨及び久米通賢を
 配祭した。毎年10月25日が祭日である。
○ 香川県神誌(下)P5 坂出市史 P315

問 白峰宮と八十場(ルビ やそば)について(坂)
答 坂出市西庄町にある。崇徳天皇は,保元の乱後(保元元年8月)この地に配流
 され,長寛2年(1164)8月26日,市内府中の鼓が岡木の丸殿で没した。上皇の
 崩御の後,京都からの勅命を待つ間,夏の暑さをさけて玉棺を西庄の野沢井の水
 上に安置し,同年9月18日,遺詔によって綾松山白峯で荼毘に付した。ところで
 野沢井(八十場)には,日本武尊と皇子武鼓王にまつわる悪魚退治の伝説があり,
 悪魚の毒気にあたった多くの兵土が蘇ったので,ここを八十蘇場とよぶようにな
 ったという。八十場は,このように霊跡である故に,二条天皇は同年10月社殿を
 造営し,崇徳天皇の御霊を奉斎したのが,この神社の起りであるといわれる。以
 来,歴代天皇の尊崇も厚く,安元3年(1177)高倉天皇は稲税千束を捧げ,建久
 4年(1193)には,源頼朝も旧例によって稲税を捧げ,社地を安堵した。また後
 嵯峨天皇は,社殿を再建し,御宸筆の御願文に御手形の朱印を加え社領を寄せて
 いる。しかし,戦国争乱の戦火にあい,古記録,古文書等の多くを失い,そのの
 ち再建されたが,旧観には及ばないという。維新まで毎年御料が下賜され,明治
 5年8月県社に列せられた。
○ 全讃史 P214 古今名勝図絵 P381 香川県神社誌 讃州府志

問 田潮八幡神社の由来について(香)
答 丸亀市土器町の青の山の西麓にあるこの神社は,祭神は誉田別命。由緒は室町
 時代の武将細川頼之が青の山に陣して,同神社に武運を祈願したところ,海潮が
 満ち,田畑を没し,敵の追っ手をはばみ大勝したので,それ以後この神社を田潮
 八幡と呼ぶようになったという。毎年10月14,15日が秋の大祭である。御輿をお
 旅所土器川の川原(今は河川敷利用の公園)から川中に舁ぎ込み水中で大あばれ
 をするので有名であり 見物人はいつも蓬莱橋を中心に大群衆となる。
○ 鎮守の森 P67 香川県神社誌(下) PllO 土器村史 P259

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問 田村神社について(高)
答 田村神社は社伝によると和銅2年(709)に勧請したとあるが「田村定水(ルビ さだみず)大明神」
 とよばれているように古代から農耕に必要な定水が得られる出水(ルビ いずみ)
 を神としてあが めていたと考えられる。現在田村神社に神宝として保管されている
 鉄鉾は飛鳥時代以前のもので,神社の創建の古さを示している。
  平安時代中期ごろから大社や由緒ある神社が持別に崇敬された。それが地方の
 一宮・二宮・三宮・総社とよばれる神社である。一宮はその国で社格や神階が一
 番高く,由緒も特別で厚く崇敬されている神社がえらばれた。
  田村神社が讃岐の一宮となり,神にも人と同じように官位が授けられた。田村
 神社は嘉祥2年(849)2月に従五位下,貞観17年(875)5月に従四位上を,その
 後も昇位して鎌倉時代中期には最高位の正一位となった。田村神社に境内を接す
 る大玉院一宮寺は,奈良時代の創建といわれ,田村神社の別当寺であったが,延
 宝7年(1679)二代藩主松平頼常から神仏分離を命ぜられ,現在霊場83番の札所
 となっている。
○ 郷土史事典・香川県P29~P30
 一宮村史 P42~P60 香川郡誌 P347~366 香川県神社誌 P363~365
  新修高松市史 Ⅰ P661 香川叢書 Ⅰ P198 さぬき古寺を訪ねて(四国新聞)

問 津島神社について(三)
答 1 所在地  三野町大字大見字久保谷宮の尾
  2 祭 神  素戔鳴命
  3 祭 日  旧暦6日24日,25日
  4 氏 子  久保谷部落一円は勿論,町内,郡内,県下,県外にわたり約十
   万の氏子がいるという。特に高松中心,伊予東部,岡山児島方面に多く,昔
   は牛馬の守護神として有名であったが,現在は子供の神として尊崇されてい
   る。
  5 津島明神縁起 元禄3年6月の頃より8月までこの浦に女の謡う声があり,
   人々怪みて浜に出てみればその人はなくて歌は洋々として日毎に謡う。人々
   は恐れて戸外に出なかった。その後大見村の一巫女に神託あり,「我は津島
   の明神というて年久しくここを守っている。この頃毎日謡っているのは我な
   り,我を信ずるなればこの島に樹木を植えよ」との霊告によりこの島に樹木
   を植えてから霊験著しいものがあった。例えば往年牛馬の疫流行して大見村
   内で208匹斃れたが久保谷だけは1匹も斃れず24匹健在であったという。この
   事から津島明神は牛馬の神として尊崇厚く6月25日には四周の村から牛を引
   いて参拝するようになったという。現在は子供の神として県内外から氏子と
   なる者が増え年々増加の一途をたどっている。

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  6 沿革 津島の宮は陸地を離れること1町鼠島という小さい島に樹木生い茂
   り瀬戸の内海に浮んだ風光絶佳の島は浮世絵二代安藤廣重に描かれて有名で
   ある。夏の祭りには海路により参拝する船舶数10せきに及ぶ。昭和15年頃当
   時の村長倉田弥治郎発起人となり長い橋を架けてから海路の参拝客は次第に
   少なくなった。大正2年に津島の宮臨時駅が設けられてから参詣者は急増し
   最近はマイカーによるものも多くなり,香川県下の夏祭りで人出の多い事で
   は1、2番といわれている。昭和10年頃棟梁島田芳太郎の手によって本殿が
   再建され神社としての風格が頓に加わった。昭和28年拝殿,社務所,休憩所
   が設立され昭和30年神輿新調と共に社殿完成,同年讃岐百景の一として観光
   地としても頓に有名になった。
○ 西讃府誌 香川叢書 新大見村史 香川県神社誌(下)

問 梛(ルビ なぎ)の宮について(善)
答 善通寺市中村町宮東に郷社木熊野神杜がある。古来梛の宮といわれ境内一帯は
 梛樹の叢林である。梛が熊野の御祭神に因む熊野信仰とは深い開係がある。境内
 には百数十本の梛林でおおわれていることは全国でも珍しい。それで梛の宮とい
 われる。梛は肺病を治すのに効験あるとかで,昔から参詣者が多い。なお梛とは,
 暖地に生える常緑高木でマキ科に属し,葉は広い皮針形,卵形などで多数の平行
 脈があり,縦の方向にはなかなかちぎれない,それで一名ベンケイナカセの名が
 ある。
○ 五岳文化 仲多度史 P23 標準原色図鑑全集

問 二宮さんについて(瀬)
答 三豊郡高瀬町大字羽方にある,大水上神社は通称二宮さんと呼ばれ,土地の人
 々し親しまれている。延喜式内讃岐24社の1社であり,東の一宮(田村神社)に
 対して西の二宮であり,一宮にくらべて県民にはあまり知られていないが由緒あ
 るお宮である。
 社歴は古く,創建は不詳であるが,神代の昔からであるとさえいわれ,戦前県
 社の一つにあげられていた。祭神は大山積命,保牟田別命,宗像大神の三神で,
 秋の祭礼は10月15日である。昔から皇室をはじめ武門武将の信仰が厚く,三代実
 録には,
 貞観7年5月乙己 讃岐国大水上神授 正五位下
 貞観17年5月戊申 授讃岐国正五位下大水上神 正五位上
 など,神位階が授けられており,また源平合戦に際しては,戦勝を祈願した源平
 それぞれの願書や御神納の矢の記録が残されている。さらに,藤原良基の寄進と
 いわれる「しぐれ灯籠」や平氏の祟りを鎮めるために営まれた,教盛,経盛,資

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 盛,有盛を祭るという4社宮もある。
  境内には史跡に指定されている瓦窯跡や竜神伝説を伝える鰻淵がある。
○ 香川叢書巻1 P548
 西讃府志 P723
 高瀬町誌 P448
 鎮守の森 P263

問 水主(ルビ みずし)神社について(香)
答 大川郡大内町誉水にあり,主祭神は倭迹々日百襲姫命(るび やまとととひもも
そひめのみ こと)である。例祭日は10月17日である。
  県内で最も古い神社の一つである。続日本後記巻五に仁明天皇の承和3年(836
 年)同神社に従五位が贈られたことが記されており,位を贈られた神社としては
 県内で国史に初めて出ているという。藤原純友の乱のとき平定祈願の勅使が下さ
 れたという。
  平安時代のすぐれた御神像を蔵することで知られ,男神像2〔ク〕(#「ク」は文字番号
 38137),女神像6〔ク〕(#「ク」は文字番号 38137),
 狛犬1対,大般若経600巻,雷文螺鈿鞍が重要文化財に指定されており,他に宝物
 が多い。
○ さぬきの神々 鎮守の森 香川県神社誌(上)Pl16 香川県の文化財

問 屋島神社について(高)
答 文化11年(1814)8月,高松藩主松平頼儀(8代)のとき,総工費14万両をつ
 いやして 日光廟をまねた社殿を山田郡潟元(現在の地)に造営した。
  文化12年4月遷座式をおげて社号を屋島東照宮とした。明治7年,現在の屋島
 神社に改めた。
○ 木田郡誌 P179と477 香川県神社誌(上) P180 新修高松市史 Ⅱ P261
  高松藩記 P335 さぬきの神々(四国新聞)

問 山ノ北八幡神社の歴史とその伝説について(丸)
答 西讃府志によれば,応保年間崇徳天皇亀山の地に登り遥かに山城国,雄徳山の
 大神を拝し給うた。よってここに小祠を営み,山ノ北八幡宮と称することになっ
 た。山ノ北の村名もこれより起った。本殿・幣殿・拝殿・絵馬殿・神馬舎などが
 ある。祭田高16石,坪数1864坪である。
  八幡神社は城の北麓の縄張内にあり移転を余儀なくされ,その遷座地を物色し
 ていたところ,柞原郷皇子,社地の松の上に何の火ともしれず光を放ち,終夜消
 えることなく照らし続けた火があった。親正は,「これこそ八幡宮のお告げだ」

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 と喜び,その地に宮を移し,社名はそのまま山ノ北八幡と呼ぶこととし,その松
 を「神光松」と名づけ霊樹として厚く保護を加えたという。
○ 西護府志 P381 生駒・山崎・京極史談 P6 仲多度郡史 P565 丸亀の
  いしぶみ P5 全讃史 P233 丸亀市史 P33 香川県神社誌

問 伊勢神宮(詫間町粟島)の船絵馬について(香)
答 粟島の伊勢神宮は廻船問屋として栄えた伊勢屋の氏神で,13面の船絵馬が奉納
 されている。(うち2面は瀬戸内海歴史民俗資料舘保管)これらの絵馬は,伊勢
 屋庄八奉納の外,奥州福山城下伊達千船船頭源歳,奥州箱館松浦嘉七手船船頭久
 右衛門など遠方の船頭からの奉納であるが,そのうちの3面に,廻船の掲げる幟
 に「堺糸荷船」「御用」の字がみえる。これは,オランダから長崎に輸入した絹
 織物等を江戸へ運ぶ幕府の仕事をしていることを示すもので,この廻船は糸荷船
 とよばれた。糸荷船の絵馬はこの外に長崎県に1面あるだけといわれ貴重なもの
 である。
  昭和53年12月26日,県指定有形民俗文化財に指定された。
○ 瀬戸内の海上信仰調査報告(東部地域)

問 木熊野(ルビ きくまの)神社の特殊神事について(香)
答 昭和37年4月14日,香川県の無形文化財に指定され,長い伝承の間に多少の変
 化をとげながらも,非常に古い要素をその中に伝来している注目に値する祭りで
 ある。その特色の第1は,神輿が頭屋から出ることであり,第2は神輿の中にお
 さめられる御神体が米(前年の玄米)である,第3には持物の中に的(ルビ まと)
(薄板を田の字に組んだもの)があり,これによって当神事は農耕の祭りであるといえる。
  日本の祭礼の特色の一つに神幸があり,通例は神輿が本社から出て,御旅所へ
 行き御旅所の神事があって,再び本社にお帰りになるのであるが,木熊野神社の
 場合は,平常,神社に蔵されている神輿は,7日に頭屋へ行き(頭屋では御神屋
 と称する仮の殿舎を建て,その中に安置する)祭りの当日(10月9日),頭屋から
 出た神輿は御旅所へ行き,そこでミタマウツシがあった後,御旅所の神事をし,
 本社へ還幸される。
  善通寺市中村町にある。
○ 香川県文化財調査報告 6 文化財協会報 特別号2  香川県指定の文化財
  とその解説 香川県の文化財

問 金刀比羅宮の絵馬について(香)
答 神社,仏閣などに祈願,または報謝のため,馬,その他のものを描いて奉納す

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 る扁額の一種で,画家の手になる大絵馬(納額 額絵馬)といわれるものから,
 名もない職人の手になる小絵馬にいたるまで,その形状,種類など多様にわたっ
 ている。
  特に香川県では金刀比羅宮の絵馬が代表的であり,数万にものぼるが,そのう
 ちには皇族関係の御書の和歌や,円山応挙,谷文晁,岸駒などが描いた名画もあ
 り,また日清日露戦争以来の戦争に出陣したつわもの達の武運加護を奉謝する絵
 馬も多い。また,海上安全,海難救助の絵馬は特に有名で,昭和54年5月21日他
 の庶民信仰資料とともに重要有形民俗文化財に指定された。
○ 世界大百科事典4 P1 絵馬の国 P54
  金刀比羅宮絵馬鑑 金刀比羅宮 讃岐民俗図誌 1
  金毘羅庶民信仰資料集

問 金刀比羅宮の表菱垣廻船(ルビ おもてひがきかいせん)の模型について(香)
答 表菱垣廻船の模型は,全国的にみても金刀比羅宮のみにあり,寛政8年(1796)
  と文化5年(1808)の2艘がある。表菱垣は,垣立を菱組の格子としたもので,
  一見して,江戸十組問屋の荷物を専門に運送する菱垣廻船問屋所属の船とわかる
  ようにしたものである。したがって,菱垣は単なる外観上の特徽としたもので,
  船の構造や性能に違いがあるわけではない。寛政8年のものについては,全長2.
  72メートル,縮尺10分の1のもので,700石積みのものと思われる。現存する廻船
  模型のうちでは第1級のものといえる。この期の造船技術を伝える確実な模型と
  して極めて高い資料的価値を有する。船名は金比羅丸。奉納者,大坂西横堀,富
  田屋吉左衛門手船,金比羅丸船頭悦蔵。製作者,海部屋市左衛門。
  文化5年のものは,前記と同じ作者の手になる1000石積みの模型で,全長3メー
  トルに近く,全国的にも数少ないものの一つである。昭和54年5月21日,他の庶
  民信仰資料とともに 重要有形民俗文化財に指定された。
 ○ 金毘羅庶民信仰資料集

問 金刀比羅宮の祭事について(香)
答 海の神様,また農業殖産の神様として,むかしから大衆信仰のよりどころであ
 るこんぴらさんは,そこに特殊の神事のあることと,その祭儀が厳粛盛大なこと
 で有名。まず10月9・10・11日の3日間行われる「金刀比羅祭」は世間には「お
 頭人様(とうにんさま)」といわれ,えんえん6・7丁(400メートル以上)し及
 ぶ行列と,数万の参拝者とによって繰り広げられる。この祭典は全国のすみずみ
 までに知られている例大祭でもある。この祭に先だって行われる9月8日の潮川
 の神事,続いて頭屋における諸神事,特殊神事として次に正月5月9月の5~7
 日に本宮において行われる参籠大神事は,一社一同あげて,斉戒,心身を清め,

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 天下の安寧を祈る祭事。次に優雅典麗なお祭りとしては,4月10日の桜花祭,11
 月10日の紅葉祭がある。春は桜花,秋は紅葉を諸祭具,調度品にさし立て,祭員
 舞人は冠にかざし,巫女は手に手に折枝を持ってお練りが行われる。本宮では神
 饌をはじめ太玉グシにも桜(または紅葉)をさし立て,この古典的絵巻は町をあ
 げてにぎわい,神・人ともに平和を称える祭りである。また4月15日神事場にお
 いて行われる五穀豊穣を祈る田植祭の祭典も特殊行事ということができる。当日
 田返し,馬把,地ならしの田植行事,讃岐風俗舞,田楽の奏進などはそれぞれ農
 事にまつわるゆかしい祭事である。また神社自体によって行われている12月13日
 のおすす払いの御年木截(みとしぎきり)の神事などは,世間一般に知られてな
 い古式ゆかしい祭事である。
○ 私の金刀比羅案内 金刀比羅宮記 金刀比羅宮舞曲図会 こんぴらさん
 こんぴら物語 金刀比羅宮

問 金刀比羅宮の倭舞(ルビ やまとまい)について(金)
答 倭舞は,大和国から出た風俗歌舞である。また,外来楽に対して,わが国固有の
 歌舞という意味もある。どちらにしてもその起源は古く,「続日本紀」の宝亀元
 年3日28日の条に見えるのが始めであり,平安時代には宮中・伊勢神宮など諸神
 でも盛んに奏された。室町時代の応仁の乱の頃に一度途絶えていたのを,延享5年
 11月20日,桃園天皇の践祚大嘗祭の午の日に,春日神社社司富田家に伝わってい
 た古譜によって再興し,さらに元治元年,富田氏等の尽力で春日祭にも倭舞が再
 興した。
  金刀比羅宮の倭舞は,この春日社のものに基いたもので,明治元年,社入神崎
 勝海などが京都で,富田光美について倭舞を伝習したこと,また,後には富田光
 美 同静子が長期間琴平に滞在して復習教授したことが記録にみえる。
  現在,神前で奏進される倭舞は,春日社とそれと同じてはなく,歌詞などに多
 少異ったところがある。
○ 金刀比羅宮舞曲図会 やまかつら 藤のしなび やまとまひ歌譜 倭舞伝習之
  式

問 琴平町富士見町の並灯籠について(金)
答 この辺は,丸亀街道が金毘羅へ入って,新町の中央で高松街道と一緒になると
 ころである。丸亀街道の入口には,古くから道の両側に小さい塚があり,その上
 に,東側には松,西側には榎が植わっていたが,天明八年,すぐ北側の銅の鳥居
 が寄進され,「二本樹之鳥居」といって町の人に親しまれていた。並灯籠は,こ
 こから横町(富士見町)口の家並まで道の両側に建てられた。
 「多聞秘書古老伝」という書物によると 嘉永3年 江戸火消四十八組から寄

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 進のことが決まり,金毘羅町内で有力な酒造家であった伊予屋半左衛門が世話を
 引受け,同4年3月4日から石引きが賑やかに始まり,同日16日から地形砂持ち
 に取りかかり,近郷からも町内からも多人数が出て働いた。23日には銅鳥居普請
 小屋の脇へ牡丹30種,数百本が大阪から寄附になり,植え付けて諸人に見せたと
 ある。
  そして,途中,世話役が伊予屋から,当時江戸から金毘羅へ来ていた紅屋鉄五
 郎にかわり,それに町内の多々屋治兵衛,炭屋理右衛門が加わったと追記されて
 いる。
 この嘉永4年前後のものと思われる,浪華牧野宗弥筆「象頭山之図」で見ると
 灯籠は道の西側だけにあって東側にはない。工事に前後があったのだろうか。ま
 た後々の図や写真で見ると灯籠は,幅の広い石垣の上に建っているが,この図で
 は,地面に直接建っていて,背後に玉垣が見える。「古老伝」には,「玉垣井に
 石燈籠数々相建申候儀云々」とあるので,この図が当時の様子を正確に伝えてい
 るのかも知れない。
  これより後,安政5年棟上げが行われた高灯籠も,二本樹のすぐ西側に建てら
 れた。これらの灯籠は,境内の他の灯籠とともに,昭和54年5月21日,他の庶民
 信仰資料とともに重要有形民俗文化財に指定された。
○ 「多聞秘書古老伝」「牧野宗弥筆 象頭山之図」 金毘羅庶民信仰資料集

問 金毘羅樽と流し初穂について(香)
答 金毘羅樽は,遠くの国の人で,こんぴらさんに神酒を奉納するものが,清浄な
 樽に神酒を収め,「奉納金毘羅大権現御宝前」などとかき,河や海に流す。酒樽
 は波のまにまに漂うて(途中でこれを見つけた船人は,手を添えて讃岐の方へ流
 れて行くようにする),丸亀や多度津の海岸に打寄せられる。その地方の人たちは,
 これを拾い上げて こんぴらさんの御前にとどける。
 流し初穂は 御初穂即ち御さい銭を樽に収めて海に流す。
 現今では金毘羅樽と流し初穂が同一のものだと混同して考えられているが,こ
 れは全然別個のもので流し初穂は金毘羅樽に基いて,後年に行われたもののよう
 である。が共に 徳川時代寛政年間以前から行われていた神拝行事である。
○ 金毘羅信仰 こんぴら物語 金刀比羅物語 金刀比羅宮 こんぴらさん(朝日
 新聞44. 5)

問 金毘羅の枝茂川家について(金)
答 枝茂川家は 慶長年間から最近まで金毘羅(琴平町)でつづいた旧家である。
  はじめ金毘羅別当金光院宥盛が高野山へ勉学に行っていての帰りに,麓の下川

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 村の山伏師坊を召連れて帰ったのにはじまる。二代杢左衛門も,はじめは大雲坊
 という修験者で,金毘羅に近い岸上村の不動堂の番をしていたが,還俗して下川
 を姓とし,金光院に出仕する役人になった。杢左衛門の長男は我儘者であったの
 で,二男喜右衛門が後を嗣いだが病弱で若死した。妹に婿養子をしたのが四代常
 右衛門である。薪奉行,台所奉行など勤めた。五代杢左衛門は台所奉行から作事
 奉行にもなった。六代常右衛門は山奉行,玄関詰,御側加役などを勤めた。七代
 伴吾のとき下川の字を枝茂川と改めた。御側加役から買込加役になった。八代覚
 助は書院番などを勤めたが若死にした。養子保太郎が九代となった。十代直一,
 十一代文一まで金刀比羅宮に奉仕したが,その後は名古屋へ移住した。
 住居はそのまま現存し,金光院の役人の住居遺構として,当時の権勢のほどを
 しのばせてくれる。
○ 古老伝旧記 (新編香川叢書史料篇所収)
 進退録 (琴平町 菅納も次氏蔵)

問 金毘羅の本陣について(金)
答 金毘羅の内町南側,町宿森屋喜太郎の家の東隣りに,文久2年5月10日,はじ
 めて本陣が設けられた。その21日,参詣に来合わせた高松藩,御連枝松平大膳が
 本陣開きをした。慶応2年,この本陣は金毘羅当局の手を離れて,それまで見守
 番を勤めた森屋の所有となったが,明治2年,土佐軍に買いあげられ本営となっ
 ていたが 再び森屋の手に戻り 明治4年 百姓の打毀しのため焼失した。
○ 「金光院御用留」「古老伝旧記」(新編香川叢書)
  「金陵会議」(宮地美彦編)

問 金毘羅別当金光院宥山について(金)
答 元禄4年から元文元年まで金毘羅別当金光院住職を勤めた宥山は,寛文9年
 先代宥栄の実弟山下弥右ヱ門盛貞(法名道移)の子として生まれた。はやくから
 高野山に遊学し,当時学僧として知られた補陀落院義剛や,宝性院住職からのち
 一山検校となった信龍とは無二の親友であった。また将軍綱吉の命で江戸湯島に
 霊雲寺を開基した浄厳には事相の伝授を受け,書家としても名高い大通寺の南谷
 とも親しかった。
 金光院の公式日記である「金光院日帳」も,宝永5年宥山の命で書き始められ
 幕末にまで及んだ。国の文化財に指定された象頭山祭礼図屏風も元禄の末年宥山
 の考えで製作されたものであり,のちのち夥しく発行されるようになった金毘羅
 参詣案内図も享保14年,宥山が京都へ注文してできたのが最初である。象頭山十
 二景詩は,先代宥栄の時に林大学頭鵞峰・鳳岡父子によるものが寄せられていた
 が宥山の代には各方面の作者から詠進奉納されるようになった。院内の諸堂・客

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殿または参詣道などもこの時代に多く修理された。
  それまで嵯峨大覚寺や御室仁和寺等を通して与えられていた僧職の官位も,宥
 山からは禁裡から直接に与えられる例となった。また当時の高松藩主三代頼豊の
 室は正親町実豊の娘豊姫てあった縁から,宥山も正親町家の猶子となり,以後代
 々別当は首都の堂上方の猶子となって金光院住職となる決まりとなった。
 在職45年,68才はともに歴代別当のなかで最長である。
○ 古老伝旧記・家密樞鑑(新編香川叢書史料篇所収)
 山下氏家譜(琴平町 漆原磚氏所蔵)

問 金毘羅参詣の-枚刷について(金)
答 江戸末期に印刷された一枚刷のなかには,(1)象頭山と金毘羅の市街の様子を描
 いたもの,(2)金毘羅祭の頭人の行列を描いたもの,(3)丸亀港と金毘羅,善通寺,
 弥谷寺とを一面に描いたもの,(4)大阪から丸亀へ来る船の航路を示したものなど
 が沢山ある。これらはみな金毘羅参りの人達の案内書としてよろこばれたものと
 考えられる。
  象頭山の図のことでは,はやく享保12年(1727)の役所の日記に,「京都へ注
 文してあった象頭山の図の版木が出来てきた」という記事がある。金刀比羅宮社
 務所には,この享保12年の版木で印刷されたのでないかと思われる古い図があり,
 またそれよりやや時代が下るものと思われるものも一,二あるが,その大部分は
 文化・文政以後のものである。
  これらの一枚刷の絵を画いた絵師は,蔀関牛,松川半山,大原東野など有名な
 絵師もあり,今では,どういう人なのか調べようのない人もある。
 出版元は,丸亀と金毘羅が殆どで,海路の図は,金毘羅参りの船を仕立てた大
 阪の船宿が出版元になっているようである。
  このほか,印刷技術の面からも,いろいろ面白い問題があり,このような図が
 沢山遺っていることから,当時金毘羅参りがどんなに盛んであったかが分る。
○ 金毘羅参詣に関する一枚刷について(草薙金四郎)
  日本の市街古図(西日本編)(鹿島出版)
 金刀比羅宮蔵一枚刷(約40枚)
 丸亀市亀井たけ子氏蔵一枚刷(約60枚)
 豊浜町立図書館蔵一枚刷(約40枚)

問 琴平の五人百姓について(香)
答 こんぴらさんの大門をはいると大きな傘をさして飴を売る店が五軒ある珍らし
 い風物にお目にかかれる。この五軒はとくに宮域に許されて古くから商いをして
 いるのである。元来,こんぴらの徳川期から明治,大正,へのみやげは飴と柚ベ

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し(柚をいれた餅菓子),それから豆腐皮(ゆば)などが名産である。
  五人百姓というのはたんに飴を売るだけではない。この五軒の世帯主は現在も
 正月元旦は裃姿で大祭頭人の諸行事は素襖を着し,神事に参加する。正月元旦,
 三月三日,五月五日,九月九日,十月十日の五節会式に奉仕員への供膳への役をし,
 十月十二日にはおハケおろしといって大祭の時に建造された精神部屋等をとり除
 く神事の奉仕も五人百姓である。
  五人百姓の家筋は十二軒あって,そのうち五人づつ神事係をつとめたことが「生
 駒記」などにみられる。そして五人百姓の古老は元禄ごろから境内で飴を売って
 きているというが,「伝えには,古代神事掛りの百姓は五人なり。この山百姓五
 人は本家なり。こ神の供奉して当地へ来りし数千歳を経るは家筋歴々をいうべき
 なり」とある。
  五人百姓の家系は,次郎太夫の子孫は箸方捨三郎,久太夫が箸方清次,五郎太
 夫が池重太郎 善太夫が中条正 伊八郎が箸方正雄となっている。
  安永より前,おそらく二百年ほど前の頃,自分の業,農業のほかは御神事の節
 相勤めることに差し支えも生じますこと,さりとておさしずくださる作業とて存
 じつけもないので大門内で飴商売をおゆるしくだされたが安永四年より神事向き
 諸費の助成のあったことも記されている。
○ 金刀比羅宮 P96~PlO3 讃岐風土記 P16~P26 美しい香川県 P73

問 琴平の高灯籠(金)
答 琴平の高灯籠は,国鉄琴平駅のすぐ近くにあり,高さ約25メートル,敷坪約25
 平方メートルで,金刀比羅宮の所有である。
  この灯籠は,慶応元年(1865)東讃の寒川の人,上野晋四郎が金毘羅へ奉納し
 たものであるが,最初これを発願したのは晋四郎の親上野甚右ヱ門であり,岡田
 達蔵その他多くの人が協力し,その建築のために五カ年を要した。
  献納の願書が出されたのは安政元年(1854)で,同3年には地堅めをし,安政
 5年に棟上の行事があった。そのとき「高灯籠くどき」という歌を唄って,近郷
 の男女が花笠花衣を着て街中を練歩いたといわれている。
  この灯籠は,丸亀からの参詣道が,金毘羅の街へはいる入口にあり,そこしは,
 松と榎を植えた一里塚や,大きい銅の鳥居,また江戸の儒者朝川善庵の撰文にな
 る霊験碑などがあり,この辺りは金毘羅の街での景勝地でもあった。
 高灯籠は建設に金3,000両の大金を要したことが,最近古文書によって知ること
 ができた。
 この高灯籠は,昭和54年5月21日,他の庶民信仰資料とともに重要有形民俗文
 化財に指定された。
○ 「金刀比羅宮記」 P72 「琴平町内史蹟案内標識板」 Pll
 金刀比羅宮略記 金毘羅庶民信仰資料集

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問 讃岐国七宝山八幡琴弾宮縁起について(観)
答 大宝3年(703),宇佐八幡が琴弾の浜に渡来し琴弾八幡宮として祭られたこと
 を漢文体で記した毛筆の縁起書である。この縁起は奈良時代の宇佐八幡の鎮護国
 家,皇室守護の思想に関連するものであると共に,他面,神仏習合の思想を盛り
 込んでいるなど,本邦仏教史の流れの中で本縁起は頗る重要な意義をもつ。筆者
 は権中納言藤原実秋卿で,応永23年(1416)2月下旬之を録し,時の征夷大将軍
 源朝臣(足利義持)の自署と花押がある。天地34センチ,袖奥510センチの和紙一
 巻に「行成流」の書体で記した筆跡は墨のいろと相俟って気品のある一巻である。
○ 観音寺市の文化財第一集(観教委1966)
 観音寺市誌

問 象頭山金毘羅大権現霊験記の碑について(金)
答 江戸の儒者朝川善庵の撰文になる榊原亘奉納の霊験記の碑文については,「こ
 とひら昭和53年号」に,香川大学教授藤川正数氏が詳しい解説を載せておられる。
 ここでは石碑奉納の実際のことを,文政11年,同12年の「日帳書抜」によって追
 ってみる。このことで交渉が始る文政11年の「日帳書抜」は,8月15日以前が欠
 落していて,詳しいことが分らない。
  8月17日には,高松の金毘羅屋敷から,亘が送ってきた石碑の絵図並びに仕方
 書が,寺中の尊勝院まで届けられた。これは芝増上寺の用人であった亘が,高松
 藩を通じて奉納のことを申し込んだためである。その内容は,石碑の寸法,また
 建設の場所についての注文のほか,「百味御供料として金百両寄進し,毎年その
 利潤十両で,10月10日,神前ヘお供物をしたい」といい,さらに石碑は高松藩の
 御船に載せてもらいたく,百味講の連中も参詣する筈だが,その事でお寺へ御厄
 介はかけないつもりだともいっている。
  9月11日,奉納のことが許可になった旨,尊勝院から高松屋敷の宮武安次郎に
 返事を出した。23日には,尊勝院から,直接榊原亘に宛てて,石碑奉納のことは,
 当山としては何も差支えない旨の返事を出した。翌文政12年6月27日夕方,亘は
 丸亀へ到着し,28日午前,金毘羅坂町の旅宿高松屋弥太郎方へ落ち着いた。30日,
 金光院へ参上し,尊勝院と山下弥三郎が出合い,あとで院主にも一寸お目通りし
 た。そのとき亘から院主へ,御進物の代りとして金500疋と包昆布を差しあげた。
 つづいて,代官片岡権右衛門が出会い,建碑の場所として銅鳥居の南,2本樹の
 ところで,西側で,南北1尺,東西7尺の土地を亘に引渡した。
○ 「金光院日帳 文政11年書抜」「同文政12年書抜」