入力に使用した資料 底本の書名 讃岐ものしり事典(p4~8) 底本の編集者 香川県図書館協会 底本の発行者 香川県図書館協会 底本の発行日 昭和57年4月1日 入力者名 森下孝男 校正者名 平松伝造 入力に関する注記 文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の 文字番号を付した。 登録日 2002年10月9日
- 宗教一般 - ー4ー 問 おじのっさんについて(観) 答 伊吹島の地神信仰に「おじのっさん」(お地主さんの意)といわれるものがあ る。 それは必ず地内の井戸の側に祭る。 又「みなみやさん」といって,かつて畑の隅にあったものが,地内に持ち込ま れたという。 島内に百二十三あり,木,石,セメントでつくられたものや,ただ石ころを積み 重ねたものもある。 いい伝えによると,出雲神社の信者が島を訪れ,死亡し,その人を埋めた墓だ そうで,側に昔は大きなイノミの木があった。 その木の枝を切ると体中にでもの が出来たり,病気になるといわれ,又紛失物があればそこの信者に拝んでもらう と出て来るといわれる。 又,たたり神とか,安産の神さまとか,所によって説がわかれるが,無縁の仏 の墓が多いようである。 ○ 観音寺市誌 PlOO6~PlOO7 四国かんおんじガイドブツク PlO7 問 讃岐で最初のキリシタンと宗門改について(香) 答 聖フランシスコ・サヴイエルが天文19年(1550)鹿児島から山口を経て上洛の 旅についた折,岩国あたりから小舟で2週間かけて堺に安着しているが,当時の 航路からみて塩飽諸島にも寄港したものと察せられる。 天正2年(1574)5月31日の宮島発,準管区長カブラル神父の手紙によると「塩 飽本島で病気のため8日間滞在したが,この間,異教徒に説教し,宿の主人はそ の勇気がなかったが,主婦のみキリシタンとなった」とあり,讃岐最初のキリシ タンと思われる。 1585年以来,小豆島の統治を任されていたアグスライン小西行長は,島に15メ ートルもある十字架を建て,1か月の間に1400人以上を洗礼,聖堂も建てようとし た。 天正15年(1587)7月24日,秀吉は神父全員の日本退去を命じた。高山右近と オルガンティーノ神父は,小西の庇護を受け小豆島(大鐸付近といわれている) にかくれ,翌16年,小西行長の肥後移封に際し,小豆島を去った。 慶長17年(1612)徳川幕府初の禁教令が出され,元和3年(1617)7月16日, アントニオ石原孫右衛門(商人)は殉教し,翌日4歳の息子フランシスコも殉教 した。(讃岐最初の殉教者) 松平家「切支丹人名目録」3冊は 土庄町旧大鐸村役場に伝わる正徳4年(17 -5- 14)より寛政元年(1789)に至る8通の肥土山村諸色差出明細帳の「転切支丹類 族」の数字と一致しており,その他の史料とあわせて2世紀もの間,キリスト教 信者が存在したことを立証している。 ○ 四国キリシタン史 キリシタン研究 1 文化財協会報 8 (キリシタンと 小豆島) 香川県通史 P797と854 文化財協会報 9(坂本村宗門改) 新 修香川県史 P444と547 明治100年香川県の歩み P261 新香川 昭和36年 10月号 35年7~36年2月号 新修高松市史 Ⅱ P312(アントニオ市原孫右 衛門) 近世小豆島社会経済史話1集 P44 詫間の歩み(山陽新聞) 上高瀬村史 P156 問 庚申(ルビ こうしん)信仰について(香) 答 中国の道教に根源し,仏教と習合し,さらに本地垂迹説(ルビ ほんじすいじゃくせつ) により神道と習合した 民間信仰の一種である。道教の天帝説,仏教の青面金剛(ルビ しようめんごんごう),神 道の猿田彦神から三 猿(みざる,きかざる,いわざる)に関係している。 信者の仲間を庚申講といってその集合する場所として庚申堂を建て,庚申(か のえさる)の夜には講中の人がこの堂に集り,青面金剛,猿田彦神,三猿,など の木像,石像,画像を掲げて,燈明をつけ七色の菓子の供物をして庚申を祭る呪 言や般若心経を講中が口を揃えてとなえた。終ると長話や飲食をともにして朝方 になって自分の家に帰り寝につくという風習である。「話があるなら庚申さんの 晩に」といわれるのも,ここから生まれたものである。 いつの時代からかは明らかではないが,平安時代にすでに庚申行事が行われて おり,室町時代には庚申塔の建立がはじまり江戸時代には最盛期となったが,明 治維新以後急に衰退したものである。 ○ 讃岐の史話民話 P83 香川県通史 PlO26 長尾町史 P238 三木町史 P 542 塩江町史 P 429 観音寺市史 PlOlO 日本伝説讃岐の巻 P85 新香川 昭33年5月号 讃岐公論 昭32年9月号と10月号 香川県文化財調査 報告 8 (大川郡の青面金剛) 文化財協会報特別号 7 P57 文化財協会 報 37 問 十三塚について(綾) 答 十三塚は綾南町畑田字十三塚にある。国道32号線に平行して,国道の北側の少 し高い所に十三の列塚になっている。旧金毘羅街道は,この十三塚の更に北側を 東西に伸びているので,国道と十三塚と金毘羅街道は,ちょうど東西に3本の線 を引いたように,ほぼ等間隔に走っている。十三塚は,旧山内村と旧畑田村との 村境にある。築造当時は,街道裏の荒地か山林の端であったらしい。 十三塚の中央の塚を土地の人たちは,「若宮さん」と呼んでいる。これは円墳 -6- 状で直径4メートル,高さ1メートルあり,塚の上には石の祠がある。祠の中に は,丸くみがかれた石がご神体のように祭られている。その丸石には,梵字と思 われる線が刻まれている。いつの頃からか,毎年10月には,氏子が寄って神職を 迎え例祭を行っている。この若宮を中央にして,東に6つ西に6つの塚が,若宮 に従うような形に並び,どれも円墳状の原形をとどめている。祭り方は若宮は神 式,他は仏式である。しかも,若宮は,地域の祭礼として,他は個人的な信仰と して祭っているところがおもしろい。口碑では十三塚は,お姫様と侍女の墓である とか,戦死した大将と12人の家来の墓だとか伝えられている。十三塚は全国では 200余り,県下には9か所に残っているそうだが,原形のまま保存されているのは 数少ないという。これまでに,土地の開発で発掘されたことはあるが,どこの十 三塚からも出土品は発見されなかったという。 十三塚築造には二説がある。一つは,生駒時代以前からあったという通説と, もう一つは,ごく近い時代に他の地から移入したという説である。後の説では, 十三塚は古墳ではなく,行法禁厭(ぎょうほうきんよう=修業やまじないの意) の聖なる土壇であるといい,今日では十三塚解釈の定説になっている。東と北に 村境があり,挿頭丘の突端に近く,昔の疫神越境対策の行法の場所として重要な 聖地であるように思われる。十三塚風習の盛んな時代にこれを信仰したのは土地 の人々であっただろうが,行法の執行者はだれであったか定かでない。 ○ 綾南町誌 問 白峰宮と白峯寺と頓証寺殿について(香) 答 白峰宮 坂出市西庄町字天皇弥蘇場の東方にある。祭神は崇徳天皇一座。上皇 殯〔レン〕(#「レン」は文字番号 16590)(ひんれん=死骸を棺に納めたまましばらく 安置すること)の聖地である。 長寛2年8月26日,上皇は鼓が岡で崩御なさったので,その旨京都へ奏問してその 御返事を待つ間,残暑の折であったので御遺体の腐損を恐れてこの地の野沢井に お浸ししておいた。ほどなく白峯山に葬るべきの宣旨があったので,9月16日御 殯柩は当地を発ち,17日高屋を経て18日白峯山にお着きになった。そこで荼毘に 付し御陵を築いたのである。当地はこのような霊跡ゆえ,二条天皇は宣旨を下し て社殿を建てさせられ,神霊をお鎮めになった。高倉天皇は当国の稲税千束ずつ をお納めになった。源頼朝は旧例により稲税を納め,下乗の立て札を立てた。後 嵯峨天皇は宸筆の御願文にお手形の朱印を押し,荘園を賜わって社殿を再建せら れた。天正年間,戦火に遭い社宝はことごとく焼亡した。元録15年5月朔日,藩 主松平頼常は神領高4石5斗を寄与した。孝明天皇の慶応元年6月,皇位の無窮 と国家の平安を御祈願の際お供物を供えさせられ,明治天皇もまたお供物をお供 えになった。維新の時までは毎年朝廷から祭粢料(さいしりょう)として白銀5 枚を下賜せられた。明治5年県社に列せられ,神徳ますます顕著である。 白峯寺 白峯御陵の南にある。綾松山洞林院又は千手院と号する。真言宗の御 -7- 室派に属し,本尊は千手観世音菩薩,智証大師の作と伝える。白峯寺は弘法大師 の創建といわれ,四国第81番の札所である。当寺は皇室武門の帰依厚く,御寄付 の荘園寺領も少なくない。旧寺領は60石であったが,高松藩主松平頼重は,当寺 が御陵を守護奉仕するによって寺格を上げ,堂宇を修理し,寺領も50石を増し, 更に万治4年には10石を加えて120石としたという。寺中の僧坊は,昔は21あって 常に国内の祈祷を司った。現在の堂宇は観音堂(本堂),大師堂,阿弥陀堂,行 者堂,金堂,護摩堂,不動堂等で,他に宝庫二宇,庫裡,客殿等坊舎数10棟ある。 坊北の2門は,御成門,勅使門である。 観音堂(本堂)は,慶長4年に生駒家が再建したもので,その他は廷宝以来松 平家の造営によるものである。山内に保元元年に創建された一万塔の残存するも のがある。 皇室や武家の寄付による什器・宝物は夥しい数に上ったが,永徳2年火災に罹 り大半は焼亡した。また明治初年,頓証寺が金刀比羅宮の摂社となった際,多く の重宝が同宮に移されたが,なお現存するものに,六字名号の掛軸(崇徳上皇宸 筆)頓証寺勅額(後小松天皇宸筆),紺紙金泥写経一巻(後白河天皇勅納),紺 紙銀泥唐本法華経3巻・千鳥干青磁香炉(共に 後嵯峨天皇勅納),松山百首和 歌,続三十首和歌(飛鳥井宋雅筆),法華経女八品和歌(宋稚以下28人筆),金 襴御袈裟(後水尾天皇勅納),崇徳天皇御念誦仏十一面観音像等がある。これ等 は,おおむね宝物館に展示して一般の拝観に供している。 頓証寺殿 自峯御陵の南にある。白峯寺所属仏堂で崇徳天皇の御廟所である。 上皇が崩御され,御遺詔によって白峯に御陵を造られた時,遠江阿闇梨章実が皷 岡の行宮を請い受けて御陵の南に移し,宸筆の御影を奉安して頓証菩提を弔った ので,この廟を頓証寺と称した。応永21年,後小松天皇は宸筆”頓証寺”の3大 字の扁額を寄進あそばされた。これからのこの御殿を”頓証寺御殿”といい,勅 額を掲げた門を”勅額門”という。 御殿の構造はほぼ紫宸殿になぞらえ,庭前に左近桜,右近橘を植え,勅額門(又 は随神門ともいう)には為義・為朝の立木像を置く。明治元年,勅使が下向して 御影を京都今出川白峯神宮にお遷し申した後は,上皇宸筆の六字名を御霊代(み たましろ)としている。頓証寺の右方は御本地仏十一面観世音で,左方は鎮守白 峯大権現を祀ってある。 明治11年,頓証寺を改めて白峯神社と称し,金刀比羅宮の摂社としたが,明治 31年9月に元に復して長寛以来の仏堂たることを許された。現在の建物は延宝8 年に藩主松平頼重・頼常の造営したものである。 ○ 崇徳上皇御遺跡案内 より P15,35,37 崇徳院とその遺跡 白峯 -8- 問 神社と寺院の数について(香) 答 各系統別明細表 善 観 仲 市 高 丸 坂 通 音 市 大 小 木 香 綾 多 三 郡 合 郡 松 亀 出 寺 寺 川 豆 田 川 歌 度 豊 名 市 市 市 市 市 計 郡 郡 郡 郡 郡 郡 郡 計 計 教(宗) 派区分 神 133 66 41 29 44 313 135 39 25 32 95 134 112 572 885 道 仏 223 85 46 39 32 425 101 48 49 31 85 87 91 492 917 教 キ リス 13 4 4 2 2 25 1 3 1 2 7 32 ト 教 諸 44 12 31 5 10 102 30 31 14 7 10 13 22 127 229 教 計 413 167 122 75 88 865 267 121 89 70 190 236 225 1198 2063 ○香川県宗教法人名簿(昭和55年8月)